新世界訳
エホバの証人の聖書

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創世記 1:2

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
さて,地は形がなく,荒漠としていて,闇が水の深みの表にあった。そして,神の活動する力が水の表を行きめぐっていた。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神のが水の面を動いていた。



 ここは、新共同訳聖書の「神の霊」という訳が字義通りの訳です。しかし、エホバの証人の新世界訳参照資料付き聖書はこれを「神の活動する力」と訳出しました。

 ヘブライ語の「霊」という語には「風」という意味もあります。そのため、ここは両方の意味に読むことができます。ですから、いくつかの訳はここのところをこのように訳出しています。



創世記 1:2

◇ 関根正雄訳聖書 ◇ (考古学)
地は混沌としていた。暗黒(やみ)が原始の海の表面にあり、神の霊風が大水の表面に吹きまくっていた。

◇ 中沢洽樹訳聖書 ◇ (プロテスタント)
地は荒涼混沌として闇が淵をおおい暴風が水面を吹き荒れていた。



 しかし新世界訳参照資料付き聖書は、これをあえてどちらかに読もうとはせず、中立的な「活動する力」という訳語を充てています。

 また、「新しい聖書」はここのところをこのように訳出しています。



創世記 1:1-5

◇ 新しい聖書 ◇ (エホバの証人)
神が初めに天と地を創造され始めた時、地にはまだ、姿あるものも形あるものもなく、ただ暗闇が底知れぬよどみの上にあって、神の霊がその中を吹き荒れていましたが、神が「光が生じるように」とおっしゃられると、光が生じるようになりました。神は光をご覧になって、それが素晴らしいことをお知りになり、[それによって]光と闇とに区別が[生じる]ようにされました。そして、神は光を「昼」とお呼びになり、続いて、闇を「夜」とお呼びになりました。やがて、夕方となり、朝となりました。一日目です。



 新しい聖書は「霊が吹き荒れる」という訳し方をすることにより、「霊」という語に「風」の意味を持たせています。

 ヘブライ語の「霊」が「風」という意味で用いられている聖句はほかにもあります。一例として、創世記 3:8を挙げたいと思います。



創世記 3:8

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
後に、日のそよ風のころに園の中を歩かれるエホバ神の声が聞こえ、人とその妻はエホバ神の顔を避けて園の木々の間に隠れようとした。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
その日、の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、



 「霊」という語にはほかにも様々な意味合いがあり、様々な訳語が用いられます。

 新世界訳参照資料付き聖書がこの語に「活動する力」という語を充てているところをすべて挙げます。



創世記 6:17

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
そして、わたしはいま、地に大洪水をもたらして、その内に命の力が活動しているすべての肉なるものを天の下から滅ぼし去ろうとしている。地にあるものはすべて息絶えるであろう。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
見よ、わたしは地上に洪水をもたらし、命のをもつ、すべて肉なるものを天の下から滅ぼす。地上のすべてのものは息絶える。

◇ 口語訳聖書 ◇ (プロテスタント)
わたしは地の上に洪水を送って、命ののある肉なるものを、みな天の下から滅ぼし去る。地にあるものは、みな死に絶えるであろう。



創世記 7:15

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
こうして、その内に命の力が活動しているあらゆる肉なるものの中から二匹ずつがノアのところへ、箱船の中へ入って行った。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
命のをもつ肉なるものは、二つずつノアのもとに来て箱舟に入った。

◇ 口語訳聖書 ◇ (プロテスタント)
すなわち命ののあるすべての肉なるものが、二つずつノアのもとにきて、箱舟にはいった。



創世記 7:22

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
その鼻孔に命のの息が活動していたすべてのもの、すなわち乾いた地面にいたすべてのものが死んだ。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
乾いた地のすべてのもののうち、その鼻に命の息とのあるものはことごとく死んだ。

◇ 口語訳聖書 ◇ (プロテスタント)
すなわち鼻に命ののあるすべてのもの、陸にいたすべてのものは死んだ。



エフェソス 4:23

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
そして、あなた方の思いを活動させる力において新たにされ、

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
心のから新たにされて、

◇ 口語訳聖書 ◇ (プロテスタント)
心の深みまで新たにされて、






 聖書の翻訳には、相反するさまざまな要素があります。



○ 訳業において直面する相反する法則

『完全な字義訳は完全な誤訳である』

『過剰な意訳は原典を否定するものである』



 聖書の「霊」という語についてもこのことは言えます。非常に重要な語ですので、これは慎重に考慮しなければなりません。

 「霊」という語は一般にどう理解されているでしょうか。「肉体を別にした命」くらいに思われているのではないでしょうか。多くの人は死者の亡霊ということを考えるでしょうし、キリスト教徒なら神の聖霊や天使のこともこれに含めるでしょう。しかし、聖書は「霊」という語をそれよりはるかに広い意味で用いています。それはただの風であったり、人の息であったり、人の動機であったりします。ですから、もし、聖書の翻訳の際に「霊」という語に一律「霊」の訳語を充てると、一般の読者にとって意味の通らない表現がたくさん出現することになるでしょう。そこで翻訳者は、聖書原典についての知識のない一般の読者を想定しつつ、そのまま訳出したのでは意味が通らない句についてはいろいろと工夫した訳文を考えることとなります。

 しかし、聖書の「霊」という語のニュアンスがとても複雑であるため、こういう努力がかえって問題の原因となることもあるようです。このような調整の行われた聖書を読む読者は、聖書の「霊」という語には特定の意味合いがあると思いこんでしまい、その語に異なる意味合いがあることに気づきません。そのため、「霊」という語から微妙なニュアンスを読み取らなければならない場面で、意訳を積極的に採用した翻訳者はジレンマに陥ることになるようです。



格言(箴言) 11:13

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
中傷する者として歩き回る人は内密の話をあらわにし,霊の忠実な者は事を覆い隠している。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
悪口を言い歩く者は秘密をもらす。誠実な人は事を秘めておく。



マタイ 5:3

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
「自分の霊的な必要を自覚している人たちは幸いです。天の王国はその人たちのものだからです。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
心の貧しい人々は、幸いである、 天の国はその人たちのものである。



コロサイ 1:8

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
また霊的な面でのあなた方の愛をわたしたちに聞かせてもくれました。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
また、“霊”に基づくあなたがたの愛を知らせてくれた人です。



啓示(黙示録) 11:8

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
そして,彼らの遺体は,霊的な意味でソドムまたエジプトと呼ばれる大いなる都市の大通りに[置かれるで]あろう。彼らの主もそこで杭につけられたのである。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
彼らの死体は、たとえてソドムとかエジプトとか呼ばれる大きな都の大通りに取り残される。この二人の証人の主も、その都で十字架につけられたのである。



啓示(黙示録) 19:10

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
そこでわたしは,彼の足もとにひれ伏して彼を崇拝しようとした。しかし彼はわたしに言う,「気をつけなさい! そうしてはなりません! わたしは,あなた,また,イエスについての証しの業を持つあなたの兄弟たちの仲間の奴隷にすぎません。神を崇拝しなさい。イエスについて証しすることが預言に霊感を与えるものなのです」。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
わたしは天使を拝もうとしてその足もとにひれ伏した。すると、天使はわたしにこう言った。「やめよ。わたしは、あなたやイエスの証しを守っているあなたの兄弟たちと共に、仕える者である。神を礼拝せよ。イエスの証しは預言の霊なのだ。」



 こういった聖句は、字義訳にすると読者にとって理解が困難ですし、だからといって意訳にしても正確なニュアンスでの訳出は困難です。訳文を見るといろいろと努力した跡が見られますが、あまりうまくいっていないように見えるものもあります。
 こういった問題を克服するには、読者にある程度の痛みを経験してもらわなければならないのかもしれません。たとえば、聖書原典で「霊」という語が用いられているところでは一律「霊」の訳語を充てるという具合です。読者はそのような訳本特有の読みにくさにさらされることにより、やがてその語の持つ微妙なニュアンスも理解できるようになるでしょう。
 ただ、邦訳の聖書でそのような翻訳の方針を立てることは難しいようです。一般の翻訳にしても、“Spirit of Sport”という語を「スポーツの精神」と訳すということがまかり通っているわけですから。






 「フリーマインドジャーナル」1994年5-6月号に掲載された「新世界訳聖書における改竄」は最初にこの聖句の問題を取り上げています。
 この文書は、新世界訳参照資料付き聖書の「活動する力」という訳語についてこのように指摘しています。



◇ 'Misleading Revisions in the New World Translation' Andy Bjorklund, Free Minds Journal May/Jun 1994

 聖霊の人格に関する正統的キリスト教の信条を否定するエホバの証人の都合により原典の語句が書き替えられている。



 この引用に見るように、この聖句については、『エホバの証人は三位一体論を否定し、聖霊の人格性も否定するため、この聖句で「神の霊」という訳語を使うのは不都合だと考え、訳語を変えて聖書を改竄したのだ』という指摘があります。
 しかし、新世界訳聖書が「霊」という語に「活動する力」という訳語を充てている5つの聖句はいずれも三位一体論とは関係がない聖句であるようです。神の霊の人格性とも関連がないようです。逆に、「霊」という語が用いられ、かつ三位一体論と関係のあるどの句でも、新世界訳聖書はこの訳語を用いていません。

 エホバの証人は三位一体の教理を否定し、聖霊が人格者であることも否定します。



○ 三位一体論の論理

『神の聖霊は人格者である』

○ エホバの証人の反論

『神の聖霊に人格などない』



 ここで神学上の争点となる聖霊の人格性について、「新カトリック百科事典」はこのように述べています。



◇ 'New Catholic Encyclopedia' (「ものみの塔」誌1974年10月15日号, 「ものみの塔」誌1988年6月1日号より引用)

 旧約聖書が,神の霊を厳密に哲学的な意味においても,セム語族の意味においても,人格的存在として考えていないことは明らかである。神の霊は神の力にほかならない。もし神とは別個のものとして表現されることがあるとしたら,それはヤーウェの息が対外的に活動するからである。
 新約聖書の聖句の大部分は,神の霊が,人格的なものではなく非人格的なものであることを示している。これは特に霊と神の力が平行して述べられている所に見られる。人格を持つものがする行動,つまり語ったり,妨げたり,望んだり,宿ったり(使徒 8:29; 16:7。ローマ 8:9)することが神の霊について述べられているからといって,そうした節で神の霊が人格的なものとされていると早急に結論づけることは正当でない。同様の表現は,修辞的に擬人化された事柄や抽象的な考えに関連しても使われているからである。(ローマ 8:6; 7:17を見よ)



 では、聖霊には人格性が全くないのかというと、そうでもないようです。
 聖霊の働きについて「目ざめよ!」誌1999年1月8日号はこのように述べています。



◇ 「目ざめよ!」誌1999年1月8日号

 聖霊が神の力であると言うのは,あまり正確ではないでしょう。……聖書は,神の霊を,作用しているものとして述べています。……したがって,神の聖霊とは,神の送り出されたエネルギー,神からの活動している力のことです。



 エホバの証人は、神の霊には「作用」があるということに注目し、神の霊を説明するときに「神の活動する(つまり作用する)力」という表現を用います。
 この作用にはときおり人格的な特性が伴います。しかし、聖霊そのものに人格があるわけではないというのがエホバの証人の見解です。