新世界訳
エホバの証人の聖書

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出エジプト 20:5

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
それに身をかがめてはならず,さそわれてそれに仕えてもならない。あなたの神であるわたしエホバ全き専心を要求する神であり,わたしを憎む者については父のとがに対する処罰を子にもたらして三代,四代に及ぼし,

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、



 新世界訳聖書で「処罰を及ぼす」となっているところ、新共同訳聖書は誤読を防止したいと考えたようです。

 ある時期、イスラエルには「あろうことか神は親の罪を子に償わせている」という思想が普及していました。



エゼキエル 18:2-20

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
「あなた方はイスラエルの土地についてこの格言的なことばを述べて,『父たちが熟していないぶどうを食べるのに,子らの歯が浮く』と言うが,これはあなた方にとってどういう意味なのか。「『わたしは生きている』と,主権者なる主エホバはお告げになる,『あなた方がこの格言的なことばをイスラエルで述べることはもはやなくなる。見よ,すべての魂―それはわたしのものである。父の魂がそうであるように,子の魂も同様に―それらはわたしのものである。罪を犯している魂―それが死ぬのである。「『そして人については,それが義なる者で,公正と義を行ない,山の上で食べず,その目をイスラエルの家の糞像に上げず,友の妻を汚さず,不浄のときの女に近寄らず,だれをも虐待せず,負債に対して取った質物を返し,何も略取せず,飢えた者に自分のパンを与え,裸の者を衣で覆い,利息を取って与えることはせず,高利を取らず,不正から手を引き戻し,人と人の間に真の公正を行ない,わたしの法令によって歩みつづけ,わたしの司法上の定めを守って真実を行なおうとしたのなら,その人は義なる者である。彼は必ず生きつづける』と,主権者なる主エホバはお告げになる。「『そして,人が父となって,その子が強盗で,血を流す者であり,これらのことの一つに類することを行なった[のであれば](しかし彼自身はこれらのことを何一つ行なわなかった),また,その者が山の上で食べ,友の妻を汚し,苦しんでいる貧しい者を虐待し,物を略取し,質物を返さず,糞像に目を上げたなら,彼は忌むべきことを行なったのである。彼は高利を取って[ものを]与え,利息を取った。それで,彼は決して生きつづけることはない。彼はこれらすべての忌むべきことを行なった。彼は必ず死に処せられる。彼の血はその身に帰する。「『そして,見よ,人が父となったが,その[子]は自分の父の行なったすべての罪を見ているが,見ても,そのようなことを行なわない。山の上で食べず,目をイスラエルの家の糞像に上げず,友の妻を汚さなかった。だれをも虐待せず,質物を奪わず,何も略取せず,飢えた者に自分のパンを与え,裸の者を衣で覆い,苦しむ者から手を引き戻し,高利も利息も取らず,わたしの司法上の定めを実行し,わたしの法令によって歩んだ。彼がその父のとがのゆえに死ぬことはない。彼は必ず生きつづける。一方その父は,紛れもない詐取を行ない,兄弟から物を略取し,すべて良くないことをその民の中で行なったので,見よ,彼はそのとがのために必ず死ぬ。「『そして,あなた方は必ず言うであろう,「父にとががあるのに,子が何も負わなくてもよいのはどうしてか」と。さて,その子については,彼は公正と義を行ない,わたしのすべての法令を守った。彼はそれを行ないつづけている。彼は必ず生きつづける。罪を犯している魂―それが死ぬのである。子が父のとがのゆえに何かを負うことはなく,父が子のとがのゆえに何かを負うこともない。義なる者の義はその人自身に帰し,邪悪な者の邪悪はその人自身に帰する。



 この議論の元となったのが出エジプト 20:5であると言われています。



◇ 「新共同訳旧約聖書略解」 (表記修正)

古代イスラエルにおいては、現在の幸・不幸は先祖の報いという考えが一般にあったが(出エジプト 20:5)、エゼキエルはここで、各人の責任を主張。

補囚の民が言っていたことわざ(出エジプト 20:5)。これは、先祖の因果が子孫に報いられるということ。



 エゼキエル書の中でエホバは、親の罪に対する処罰が子に及ぶことなどないと明言しています。新共同訳聖書はこの記述にあわせて訳文を調整したようです。

 ところが、新共同訳聖書の調整は神学上の難点を生じさせているようです。エゼキエルで示されているような聖句の曲解があらかじめ修正されているため、新共同訳聖書の読者にはその曲解の様相がつかめないということが起こりそうです。これは調整しすぎということなのかもしれません。

 新共同訳聖書の訳文にはもう一つの難点があるようです。エゼキエル書で示された神の公正のルールには例外があるという点が考慮されていない点です。
 聖書はエホバへの帰依が大きくなると祝福も大きくなり、エホバへの反逆が大きくなると処罰も大きくなると述べています。その結果、その報いは子孫の代まで影響を及ぼすことになります。聖書はこれを繰り返し述べています。たとえば、よく見られる表現はこのようなものです。



申命記 29:22-28 (新共同訳聖書では 29:21-27)

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
「そして,後の世代,すなわち後に起こるあなた方の子らは必ず言うであろう。また,遠くの土地からやって来る異国の者も[言うであろう]。その地の災厄を,またエホバがそこに被らせたその疾病を見る[時],硫黄と塩と炎焼,それによってその全土が,種をまかれず,芽が出ず,何の草木も生え出ぬ所となり,エホバがその怒りと憤りのうちに覆されたソドムとゴモラ,アドマとツェボイイムの覆しのようになっているのを[見るその時に]。確かに,すべての国の民は必ず言うであろう,『どうしてエホバはこの地に対してこのようにされたのか。どうしてこれほど激しい怒りを』と。そのとき人々はこう言わねばならない。『それは,彼らが父祖たちの神エホバとの契約を捨てたためだ。それは,彼らをエジプトの地から携え出した時に[神]が結ばれたものであった。それなのに彼らは行って他の神々に仕え,それに身をかがめた。彼らが知らず,彼らに割り当てることもされなかった神々に。それでエホバの怒りがこの地に対して燃え,この書に記される呪いをそっくりそこに臨ませられた。こうしてエホバは,怒りと激怒と大いなる憤りのうちに彼らをその地から引き抜き,今日見るとおり別の土地に追いやられたのだ』。



 ここまで神の裁きが厳しくなると、その影響が子孫にまで及ぶのもやむを得ないという状況になります。

 出エジプト 20:5はこの例外について述べているようです。そのことは文脈となる出エジプト 20:3-6を見れば明らかです。



出エジプト 20:3-6

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。



 代々にわたる処罰のあとに代々にわたる祝福についての記述があり、この両者は連動しています。片方は受けることにしてもう片方を受けないことにすることはできないでしょう。両方とも受けるものと考えるべきです。

 新共同訳聖書の訳文には、祝福のほうは受けることにして、処罰のほうは受けないことにするというご都合主義的な態度が示されているように思います。これはまずいのではないでしょうか……。

 




 続いて、新共同訳聖書で「熱情の神」と訳されている語に注目できます。

 ここで用いられているヘブライ語の字義は「ねたむ神」であり、口語訳聖書や新改訳聖書ではそのように訳されています。
 新世界訳聖書と新共同訳聖書が「ねたむ神」という訳語を用いなかったのは、“神がねたむ”という表現に誤読があるからです。
 聖書は、ガラテア 5:19-21などにおいて「ねたみ」を罪としていますが、一方で、正しい「ねたみ」についても述べています。その最たるものが、崇拝に二心を加えないことを人に求める神のねたみで、これは、文脈となる出エジプト 20:3-6を読めばよく理解できます。
 ほかにも、正しい「ねたみ」には、忠節を求める夫婦間のねたみが挙げられます。この「ねたみ」が正当なものであるゆえに、聖書において姦淫(不倫)は罪とされます。一方、間違った「ねたみ」としては、他人の持ち物や地位をうらやむねたみが挙げられます。
 神が不適切なねたみを抱いているという誤読を防ぐために、新世界訳聖書は「全き専心を要求する神」という辞書的な訳語を採用しました。さらに脚注では、「対抗する者を容認しない神」という訳も示しています。新世界訳聖書はしばしば、辞書を引いたら出てくる定義を訳語とするという手法を用いますが、これはその代表的な事例と言えるでしょう。
 一方、新共同訳聖書は「熱情の神」という訳語を充てています。これは、用いられているヘブライ語のもう一つの意味ですので、新共同訳聖書が字義訳のスタイルを捨てることなく誤読の問題を扱おうとしたことがうかがえます。とはいえ、これでは訳文の意味合いが原典の意図に対して大きくずれてしまったことは否めません。この訳語については、「おかげで意味がさっぱりわからなくなった」という批判もよく聞かれます。

 新共同訳聖書が「エホバ」を「主」と置き換えていることも大きな問題です。これを合わせると、新共同訳聖書のこの訳文は三重に意味が通じにくいということになります。
 神名を明示することに意義がある聖句はほかにもたくさんあります。せめて、このような重要聖句では、新共同訳聖書も「エホバ」なり「ヤーウェ」なりの神名を使ってほしいものだと思います。
 そのためにはまず、「教会で用いる聖書の中に神名が出てくるのは何かと都合が悪い」という、キリスト教世界の“反エホバ主義”を何とかすべきではないかと私は思います。