新世界訳
エホバの証人の聖書

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列王第一 7:6-8

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
また,“柱の玄関”を彼は造った。その長さは五十キュビト,幅は三十キュビト。その前には柱のあるもう一つの玄関があり,その前にはひさしがあった。彼が裁きを行なうことにしていた“王座の玄関”については,彼は裁きの玄関を造った。人々はそれを床から垂木に至るまで杉材で覆った。彼が住むことになっていた,ほかの中庭のその家は,“玄関”に属する家から離れていた。それは造りの点でこれと同様であった。また,ソロモンが自分のめとったファラオの娘のために建てた,この“玄関”のような家があった。

◇ 口語訳聖書 ◇ (プロテスタント)
また柱の広間を造った。長さ五十キュビト、幅三十キュビトであった。柱の前に一つの広間があり、その玄関に柱とひさしがあった。またソロモンはみずから審判をするために玉座の広間、すなわち審判の広間を造った。床からたるきまで香柏をもっておおった。ソロモンが住んだ宮殿はその広間のうしろの他の庭にあって、その造作は同じであった。ソロモンはまた彼がめとったパロの娘のために家を建てたが、その広間と同じであった。



 これは、北海道広島会衆元長老の金沢司氏による、通称「金沢文庫」の中の「欠陥翻訳―新世界訳」という本において、新世界訳聖書の欠陥の一つとして指摘されたものです。
 この金沢氏はなかなかお騒がせな人物で、新世界訳聖書の批判においても、彼特有の“わざと勘違い路線”をひたすら邁進しています。
 この聖句に関する彼の批評は、彼が書いたものの中ではわりと信頼できる部類に入るため、エホバの証人の職業的反対者たちによって頻繁に取り上げられてきました。
 では、彼がどのように新世界訳聖書を批判しているかを見てみましょう。



◇ 「欠陥翻訳―新世界訳」, 金沢司

 さて、言うまでもなく「玄関」とは「建物の正面にある入り口」のことである。それで、上の聖句に出てくる玄関をそういうふうに考えてみると、次のようになる。

1.柱の玄関
 このようにいうと「柱だけでできている玄関」という感じになってしまうが、はたしてそのような玄関があったのだろうかという疑問がわく。

2.柱の玄関の前の柱のある玄関
 これはもう意味不明である。まさか二間続きの玄関ということではないであろうし、仮に続いているとしても普通は一つの玄関と言う。

3.王座の玄関あるいは裁きの玄関
 ソロモンの王座は玄関にあったのだろうか、また、ソロモンは玄関に出てきて裁きを行ったのだろうかという疑問が生じる。

4.ソロモンの住む玄関に属する家
 こうはまず言わないのではなかろうか。普通は、家が玄関に属するというのではなく、玄関が「家」に属しているという。それともソロモンの住んでいたのは「途方もなく大きな玄関に付随していた小さな家」・・・ちょっと考えられないことである。

5.ファラオの娘のための玄関のような家
 予算の都合で玄関のような家しかできなかった、それでファラオの娘は仕方なく玄関のような家に住むことを余儀なくされた・・・・栄華を極めたソロモンのことだから、こういうことはありえない。また、ソロモンの不興を被って、玄関のような家に入れられていたというわけでもない。
 ここはソロモンの建てた壮大な建築物について述べているところである。宮殿、広間、玄関と訳し分けると別に問題はないが、新世界訳のように訳語をすべて「玄関」に統一してしまうと不思議な建て物が出現するという結果になってしまう。

 原文のヘブライ語本文を見るとこの“玄関”に当たるところがすべて「ウーラーム」、またはその変化形になっている。新世界訳委員会は英文にする際、それをことごとく「Porch」と訳した。そのため英文に忠実な日本語版も広間や入り口をすべて“玄関”にしたようである。

 ここで用いられている「ウーラーム」は「Porch」以外にも「hall, palace, portico :前廊、柱で支えられた屋根付きの玄関」などの意味がある。この6~8節の中で“玄関”と訳せるところは日本の文化から言えば、一つしかないだろう。



 新世界訳聖書は、「玄関」と訳される同じヘブライ語を引用符で括った『“玄関”』と括らない『玄関』とに訳し分けています。つまり、『“玄関”』と訳されている部分については、「そういう呼び名になっているというだけで、実際には玄関ではありませんよ」と言いたいようです。
 原典で用いられている単語が同じであり、また固有名詞である以上、訳文においてもなるべく原典の特徴を反映したいと新世界訳聖書の翻訳者は考えているようです。

 金沢氏は引用符の有無については考慮しなかったようです。






 新世界訳聖書は、ヘブライ語の固有名詞をなるべくそのままに訳し、その代わり括弧で括るという手法を用いることがあります。これは決して悪いものではありません。

 ネヘミヤ 12:37-39の場合を見てみましょう。



ネヘミヤ 12:37-39

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
そして彼らは,“泉の門”のところで,前方へまっすぐ,城壁の坂道を通って“ダビデの都市”の階段を上って行き,“ダビデの家”の上を通って,東の方の“水の門”にまで[進んだ]。そして,もう一方の感謝式の合唱隊は前方に進んでおり,わたしはその後に従い,また民の半分も従って,城壁の上を[進み],“焼きかまどの塔”の上を通り,“広い城壁”のところに行き,“エフライムの門”の上を通り,“旧[市]の門”に行き,“魚の門”と“ハナヌエルの塔”と“メアの塔”に至り,“羊の門”に行った。そして彼らは“監視の門”で立ち止まった。

◇ 口語訳聖書 ◇ (プロテスタント)
彼らは泉の門を経て、まっすぐに進み、城壁の上り口で、ダビデの町の階段から上り、ダビデの家の上を過ぎて東の方、水の門に至った。他の一組の感謝する者は左に進んだ。わたしは民の半ばと共に彼らのあとに従った。そして城壁の上を行き、炉の望楼の上を過ぎて、城壁の広い所に至り、エフライムの門の上を通り、古い門を過ぎ、魚の門およびハナネルの望楼とハンメアの望楼を過ぎて、羊の門に至り、近衛の門に立ち止まった。



 このような、翻訳者を悩ませる固有名詞は聖書にはいくつもあります。結局、翻訳者はこのような固有名詞全てに意味を補うことができず、妥協するものです。それなら、新世界訳聖書のような訳し方も悪くはないということになります。

 このことをよく理解するなら、金沢氏の着眼点がどのようなものであるかもよく分かります。聖書には、文字の通りに理解してしまうとおかしな意味になる固有名詞が多くあります。邦訳聖書において、こういった表現は意訳されたり字義訳されたりとまちまちの状態ですので、入念に調べをするなら、この列王第一 7:6-8のように、ある聖書はうまく意訳にしているが別の聖書はそのまま字義訳であるという事例がたくさん見つかります。その中から、新世界訳聖書に都合悪そうなものを選り抜いて紹介するなら、簡単に新世界訳聖書の評判を落とせるというわけです。
 こういう批評は悪趣味だと私は思います。ある程度聖書を研究されている方なら、こういう批評には見向きもしないでしょう。

 ちなみに、ネヘミヤ 12:37-39を金沢氏のやり方で批判するなら、こうなるでしょう。



○ “水の門”についての的外れな推論

 水でできた門とはいったいどのようなものであろうか。
 門が水でできているとは通常考えられない。氷にして積み上げたのだろうか。ちょっと考えられないことである。それに、氷でできた門であれば、「水の門」ではなく「氷の門」と呼ばれるはずである。



 こういう、素人を罠にかけるだけのくだらない論調には踊らされないことです。

 こういう問題は聖書に顕著ですが、決して聖書だけの問題ではありません。
 みなさんは「りんごの木」という表現を聞いて、どう思うでしょうか。「りんごでできた木というものがあるのか」とは考えないはずです。それは「りんごの実をつける木」という意味です。日本語では「りんごの木」という言い方は自然な言い方ですが、言語によってはありえない言い方なのかもしれません。しかし、その言語でも探せば同じような言い回しは山ほど見つかるはずです。その同じような言い回しを集めて日本人に聞かせれば、その人は首をかしげることになります。
 私たちは、日本語に類似の表現がたくさんあることを知っており、またその表現を日々用いています。ですから私たちには、その言語的感覚を聞き慣れない表現に適用する能力が備わっているはずです。聖書を読むときにはその感覚に頼ることにしましょう。



○ 課題

 「水の門」とはどういう意味なのかを推察してみましょう。また、「泉の門」についても考えてみましょう。
 これらの門について述べた資料を探して調べてみましょう。



 金沢氏の“わざと勘違い路線”が度を超したものであることについては、ローマ 7:24の項などで取り上げていますのでご覧になってください。






 「“柱の玄関”」という表現に注目したいと思います。
 新共同訳聖書はここを「柱廊」と訳しています。



列王第一 7:6-8

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
彼の建てた柱廊は奥行きが五十アンマ、間口が三十アンマであり、その前にも前廊があり、柱とひさしがあった。また、彼が裁きを行う所として造った「王座の広間」「裁きの広間」には、床全面にレバノン杉の板が張り詰められていた。彼が住居とした建物は、この広間の後方の別の庭にあり、これと同じ造りであった。またソロモンは妻に迎えたファラオの娘のために、この広間と同じ建物を造った。



 「柱の玄関」が柱廊であるという考えは、「聖書に対する洞察」でもある程度支持されているようです。「柱の玄関」は「レバノンの森の家」と「王座の玄関」のつなぎであった可能性があります。



◇ 「聖書に対する洞察」, ものみの塔聖書冊子協会

 “柱の玄関”のことは,“レバノンの森の家”に関する注解と“王座の玄関”に関する注解との間で述べられているので,“柱の玄関”は神殿の南側の,これら他の二つの公の建造物の中間にあったことが十分に考えられます。したがって,南側から来る人は,“レバノンの森の家”の中を,あるいはその周りを通り過ぎてから,次に“柱の玄関”に入り,その中を通って“王座の玄関”へと歩いて行ったのかもしれません。



 「玄関」という表現についてはどうでしょうか。
 一般的な意味でのウーラームとはこのようなものです。



 この語は神殿や宮殿に関係して用いられるようですが、その点を省けば、つまるところ玄関です。ウーラームは日本の家屋にも普通に見られます。古代ローマ建築にもギリシャ建築にも普通に見られたものです。ビルなどの大型施設では、ウーラームはエントランスなどと呼ばれるでしょう。エホバの証人の大会ホールのロビーもウーラームです。
 さらに、ウーラームが広間と呼べるほどに大規模なものであり、その前に敷居やポーチ(入り口のせり出した部分)がついていれば、それもウーラームと呼ばれたようです。ですから、ヘブライ語では「玄関についている玄関」というような、日本人から見れば不自然な言い回しも可能だったようです。

 以前私は、“神権宣教学校”(エホバの証人にはこのような学校があります)で、列王記第一7章の朗読と講話のプログラムを割り当てられました。私の会衆の規模だと、80名ほどの聴衆の前で講話を行うことになります。
 この時、私はエジプトのカルナック神殿を引き合いに出して話を進めました。エジプトの歴代のファラオは、その繁栄を誇ろうとして、競ってカルナック神殿の増改築に励んだと言われています。そして、エジプトにおける神殿の増改築とは、柱をたくさん増やすことを意味していました。
 こういったことは、古代の神殿・宮殿建築に顕著です。そして、ここに一つのルールを見いだせます。
 宮殿建築や神殿建築は豪華なものでなければなりません。それは多くの場合、無駄にお金をかけて無駄な構造物を増やすことを意味しています。たとえば、大げさな門が幾つもあるとか、りっぱな廊下がひたすら続いているとか、柱が大量に据えられているとか、天井が極端に高くなっているとか、階段が幾つもあるとか、さらには、本来廊下であるはずの場所が大広間になっているとか、そういった無駄が多ければ多いほど、その建築は豪華であるということになります。
 たとえば、私がどこかの国の王宮を訪ねて国王に面会することになったとしましょう。王宮の入り口がほかの家の入り口と同じであり、扉を開けるとそこはもう玉座で、目前に王様がお控えになっているとするなら、どうでしょう。まさか、と思うでしょう。そんな王宮はどこにもないと思います。やはり、最初は大きな門をくぐり、いくつもの豪華な広間を通ってようやく玉座にたどり着くようでないと、全くさまになりません。
 イスラエルの場合も同じだったでしょう。ここで記述されているのは、ソロモン王が国民と面会するための施設ですなのですから、仰々しく“玄関”(特に神殿・宮殿建築の玄関)と呼ばれるものが幾つも連なっているとしても、それはむしろ当然のことです。そうでなければソロモン王は諸外国から笑いものにされたことでしょう。

 たとえば、ある門が何かの理由で『ライオンの口』と呼ばれていたとしましょう。翻訳者が「“口”というのは正しい訳語ではない」とか言ってこれを『ライオンの門』と訳してしまったら、どうでしょうか。
 場合によってはこういうことが必要になることがあります。しかし、翻訳により名称のニュアンスは損なわれてしまうことでしょう。
 ここでのウーラームは、構造に注目するなら「玄関」以外の訳語を充てるべきです。「玄関」と訳すのは不適切でしょう。しかし、それはそれで別の問題を生むように思います。
 8節にはこの「ウーラーム」と同じ構造の「家」がソロモンとその妻のためにそれぞれ造られたと書かれています。“玄関のような家”も考えられませんが、“広間のような家”もちょっと考えられないでしょう。“柱廊のような家”もないと思います。混乱は、この語を建物の構造の観点から定義しようとしたときに生じるように思います。

 私見では、この語を「玄関」と訳しても原語のニュアンスを損なっていることにはなりません。これを単に「宮殿建築内における施設の位置づけの問題」とみなせば、『国王が国民に面会する施設は構造の如何にかかわらず“玄関”と呼ぶのがふさわしい』ということで解決します。これは、聖書が用いている表現を逆にすればもっとわかりやすくなります。『繁栄を極めたソロモン王の宮殿施設群では、玄関と呼ばれた部分でさえ、ソロモンやその妻の住む家のようであった(豪華であった)』となります。
 というわけで、私の下した最終的な結論は『“玄関”というのは名前だけ。建物の構造は関係なし。おそらくこれは柱廊でも広間でもなくもっと複雑な建物だった。』というものです。もしも私の結論が正しければ、ソロモン王に会いに来た人々は皆、ソロモン宮殿の“玄関”と呼ばれる部分があまりに壮麗であることに度肝を抜かれたことでしょう。






 新世界訳聖書の2019年改訂版では、訳文は他の翻訳と同様になり、脚注に字義が載せられています。



列王第一 7:6-8

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
また,「柱の広間*」を建てた。長さ22メートル,幅13メートルで,その前には柱と屋根のある玄関があった。さらに,裁きを行う「王座の広間*」(「裁きの広間」)を建てた。床から天井まで杉材が張られた。ソロモンが住む家は,別の庭にあり,「王座の広間」から離れていて,同じような造りだった。また,ソロモンが妻にしたファラオの娘のためにも「王座の広間」と同じような家を建てた。



◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版], 列王第一 7:6, 7, 脚注

または,「玄関」。