新世界訳
エホバの証人の聖書

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伝道(コヘレト) 9:5

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
生きている者は自分が死ぬことを知っている。しかし,死んだ者には何の意識もなく,彼らはもはや報いを受けることもない。なぜなら,彼らの記憶は忘れ去られたからである。

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
生きている人は自分が死ぬことを知っている。しかし,死んだ人は何も知らない。何かを得ることもない。思い出されず,忘れ去られる

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
生きている者は死ぬことを知っている。けれども、死者は何一つ知らず もはや報いを受けることもない。彼らにまつわる記憶も失われる

◇ 新改訳聖書 [2017年版] ◇ (ファンダメンタル)
生きている者は自分が死ぬことを知っているが、死んだ者は何も知らない。彼らには、もはや何の報いもなく、まことに呼び名さえも忘れられる



 聖書原典の「何も知らない」という表現を、参照資料付き聖書は「何の意識もなく」と訳しています。これはどうしてでしょうか。
 一つには、その直前に「生きている者は自分が死ぬことを知っている」という言葉があるからです。これにより、この表現は『自分が死んでしまったことにすら気づかない』という意味合いになります。つまり、意識がないということです。
 さらに、前後の文脈があります。



伝道(コヘレト) 9:4-10

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
すべての生きている者と結び合わされている者にはだれであれ確信がある。生きている犬は死んだライオンよりもましだからである。生きている者は自分が死ぬことを知っている。しかし,死んだ者には何の意識もなく,彼らはもはや報いを受けることもない。なぜなら,彼らの記憶は忘れ去られたからである。また,その愛も憎しみもねたみも既に滅びうせ,彼らは日の下で行なわれるどんなことにも,定めのない時に至るまでもはや何の分も持たない。
行って,歓びをもってあなたの食物を食べ,良い心をもってあなたのぶどう酒を飲め。[まことの]神は既にあなたの業に楽しみを見いだされたからである。どんな時にもあなたの衣は白くあるべきであり,あなたの頭に油を絶やしてはならない。日の下で[神]があなたにお与えになったあなたのむなしい命の日の限り,そのむなしい日の限り,自分の愛する妻と共に命を見よ。それが,命と,あなたが日の下で骨折って働いているその骨折りとにおける,あなたの分だからである。あなたの手のなし得るすべてのことを力の限りを尽くして行なえ。シェオル,すなわちあなたの行こうとしている場所には,業も企ても知識も知恵もないからである。


◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
生きているなら希望が持てる。生きている犬は死んだライオンよりはましだからだ。生きている人は自分が死ぬことを知っている。しかし,死んだ人は何も知らない。何かを得ることもない。思い出されず,忘れ去られる。また,彼らには愛も憎しみも嫉妬もすでになく,太陽の下で行われることに何の関わりも持たない。
さあ,喜びながら食物を食べ,上機嫌でぶどう酒を飲みなさい。真の神はあなたの行いをすでに喜んでくださった。白い服をいつも着て,頭には油を付けておかなければならない。神があなたに与えてくださった,地上での短い生涯の間,愛する妻と一緒に人生を楽しみなさい。それが,地上で一生懸命に働くあなたに対する分け前だからである。あなたにできることは何でも,力を尽くして行いなさい。あなたの行く場所,つまり墓では,働くことも考えることも学ぶことも理解することもできないからだ。


◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
確かに、すべて生きる者として選ばれていれば 誰にも希望がある。生きている犬のほうが死んだ獅子より幸せである。生きている者は死ぬことを知っている。けれども、死者は何一つ知らず もはや報いを受けることもない。彼らにまつわる記憶も失われる。彼らの愛も憎しみも 妬みすらもすでに消え去っている。太陽の下で行われるすべてのうちで 彼らにはとこしえに受ける分はない。
さあ、あなたのパンを喜んで食べよ。あなたのぶどう酒を心楽しく飲むがよい。神はあなたの業をすでに受け入れてくださった。いつでも衣を純白に 頭には香油を絶やさないように。愛する妻と共に人生を見つめよ 空である人生のすべての日々を。それは、太陽の下、空であるすべての日々に 神があなたに与えたものである。それは、太陽の下でなされる労苦によって あなたが人生で受ける分である。手の及ぶことはどのようなことでも 力を尽くして行うがよい。あなたが行くことになる陰府〔よみ〕には 業も道理も知識も知恵もない。


◇ 新改訳聖書 [2017年版] ◇ (ファンダメンタル)
しかし、人には拠り所がある。生ける者すべてのうちに数えられている者には。生きている犬は死んだ獅子にまさるのだ。生きている者は自分が死ぬことを知っているが、死んだ者は何も知らない。彼らには、もはや何の報いもなく、まことに呼び名さえも忘れられる。彼らの愛も憎しみも、ねたみもすでに消え失せ、日の下で行われることすべてにおいて、彼らには、もはや永遠に受ける分はない。
さあ、あなたのパンを楽しんで食べ、陽気にあなたのぶどう酒を飲め。神はすでに、あなたのわざを喜んでおられる。いつもあなたは白い衣を着よ。頭には油を絶やしてはならない。あなたの空しい人生の間、あなたの愛する妻と生活を楽しむがよい。彼女は、あなたの空しい日々の間、日の下であなたに与えられた者だ。それが、生きている間に、日の下でする労苦から受けるあなたの分なのだ。あなたの手がなし得ると分かったことはすべて、自分の力でそれをせよ。あなたが行こうとしているよみには、わざも道理も知識も知恵もないからだ。



 特に最後の部分が、死んだ人について「業も企ても知識も知恵もない」と述べていますので、ここから、死んだ人の無意識また無活動の状態が述べられているということが理解できます。

 参照資料付き聖書の「彼らの記憶は忘れ去られた」は適切でないようです。「彼らについての記憶」に述べているのか、「彼らの持つ記憶」について述べているのか判然としません。
 この表現がどちらの意味であるかは、少し離れた文脈の、伝道 2:16から特定することができます。



伝道(コヘレト) 2:16

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
賢い者も愚鈍な者と同じく,定めのない時に至るまで記憶されることはないからである。既にやって来る日々のうちに,すべての者は必ず忘れ去られる。そして賢い者はどのようにして死ぬのか。愚鈍な者と共にである。

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
賢い人も愚かな人も,人の記憶にいつまでも残ることはない。月日がたつと誰もが忘れ去られる。賢い人はどのようにして死ぬのか。愚かな人と同じようにである。

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
知恵ある者も愚かな者と同様に とこしえに思い起こされることはない。やがて来る日にはすべてのことが忘れ去られる。知恵ある者も愚かな者も等しく死ぬとは 何ということか。

◇ 新改訳聖書 [2017年版] ◇ (ファンダメンタル)
事実、知恵のある者も愚かな者も、いつまでも記憶されることはない。日がたつと、一切は忘れられてしまう。なぜ、知恵のある者は愚かな者とともに死ぬのか。



 参照資料付き聖書の「記憶」が新改訳聖書2017年版で「呼び名」となっているのは、原典で使われている単語に両方の意味があるからです。聖書のヘブライ語には、「その人についての記憶」→「名声」→「名」という連想があります。

 ちなみに、文脈はさらにこのようにも述べています。



伝道(コヘレト) 7:1

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
名は良い油に,死ぬ日は生まれる日に勝る。

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
良い名は良い油よりも価値がある。死ぬ日は生まれる日よりも価値がある。

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
名声は良質の香油にまさる。死ぬ日は生まれる日にまさる。

◇ 新改訳聖書 [2017年版] ◇ (ファンダメンタル)
名声は良い香油にまさり、死ぬ日は生まれる日にまさる。



 原典を見ると「名」のところで違う単語が使われていますが、同じように考えることができます。
 人は死ぬと「名」を忘れ去られるものですが、まれに歴史に「名」を残す人もいます。そこまでいかなくても、何らかの仕方で「名」を残せるなら、それは「生まれる日」つまりまだ何の「名」のない状態よりも、価値があるのではないでしょうか。






 ウエブサイト「エホバの証人への福音」に掲載された「霊魂不滅・地獄は聖書の教えですか?」という文書は、ファンダメンタルな視点に立ち、この聖句についてこのように指摘しています。



◇ 「霊魂不滅・地獄は聖書の教えですか?」, 「エホバの証人への福音」 (表記修正)

 この聖句は、エホバの証人が霊魂不滅の教えを批判する際に、実によく用いる聖句です。JWの新世界訳聖書では「何の『意識』もなく」となっており、死者に「意識が無い状態」、つまり霊魂不滅が誤りであることを示す訳となっています。それに対し、新改訳では「何も知らない」となっていますが、「知らない」という表現であれば、単に死者が地上の出来事を知らない、というニュアンスとなり、霊魂不滅を否定する意味とはなりません。では、どちらの訳が正しいのでしょうか?

 ……「意識・知る」と訳される原語のヘブライ語は、「ヤダー」ですが、この語の基本的な意味は「知る」であり、他の表現で訳される場合も、常に知るという行為に関連して訳されます。事実、この語は、同じ伝道の書だけで30回使われていますが、エホバの証人の新世界訳では、その内の29回が全て知ることと関係した表現で訳されており「知る」「気付く」「賢い」となっています。
 そして唯一、原語の意味を改変し、別の意味に置換えているのが、9章5節の「意識もなく」という箇所なのです。

 ……結論として、伝道の書9:5は、単に死者が地上の出来事を何も知らない、という意味であり、霊魂不滅の教えとは何の関係もありません。そして、ものみの塔は、自分たちの主張する教理を正当化するために、意図的に聖書を改ざんしているのです。



 この文書は、ヘブライ語の「知る」には「知ることと関係した(多様な)表現」の意味があると指摘し、具体的に「知る」、「気付く」、「賢い」の訳語を挙げたのに、「意識がある」のほうはそのカテゴリに含めないというあやしい主張を展開しています。そのうえで、「原語の意味を改変し、別の意味に置換えている」と言うのですが、私はこれを読んで、この場合の「意識がある」は「気付く」とか「知る」とかと大差ないと感じました。
 この聖句は、知るとか理解するとかいうことが“可能な状態”を指してこの語を使用しているのですから、「知って理解することができる状態」=「意識がある」ということが言えます。これは、ヨハネ 17:3において「知ること」=「知識を取り入れること」というのと変わりません。

 また、文脈を無視し、「知らない」は『死者が地上の出来事を知らない』の意味に読めると主張しています。
 文脈がある以上、ここの「知らない」は『死者が自分のことを意識できない』の意味になります。訳し方が違うから文意が違うということにはなりません。

 さらに、文書は霊魂不滅の教理を擁護してこのようにも主張しています。



◇ 「霊魂不滅・地獄は聖書の教えですか?」, 「エホバの証人への福音」

 もしも9章の聖句を引き合いに出し、人が死んだら無になるということを普遍的な真理として主張するなら、死んだら無になり、もはや何の希望も無い ― つまり死後の裁きも復活の希望も無い、ということも、普遍的な真理として主張しなければなりません。



 聖書がその歴史の中で「復活」の教えを生み出すに至った経緯とは逆のことを述べています。人が死んだら無になるという概念があったからこそ、復活の教えが出現したのです。霊魂不滅の教えでは死んだ人は転生しますから、霊魂不滅の教えは復活を必要としません。
 そもそも、死と復活はキリスト教の基本教理です。人が死の束縛に囚われているからこそ神はキリストを地上に遣わして贖いの死を遂げさせ、人に復活の希望を与えたのです。



コリント第一 15:3-8, 12-23

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
というのは,わたしは,最初の事柄の中で,[次の]ことをあなた方に伝えたからです。それは自分もまた受けたことなのですが,キリストが聖書にしたがってわたしたちの罪のために死んでくださった,ということです。そして,葬られたこと,そうです,聖書にしたがって三日目によみがえらされたこと,さらに,ケファに現われ,次いで十二人に[現われた]ことです。そののち彼は一度に五百人以上の兄弟に現われました。その多くは現在なおとどまっていますが,[死の]眠りについた人たちもいます。そののち彼はヤコブに,次いですべての使徒たちに現われました。しかし,すべての者の最後として,あたかも月足らずで生まれた者に対するかのように,わたしにも現われてくださいました。
ところが,キリストは死人の中からよみがえらされたと宣べ伝えられているのに,あなた方のうちのある人たちが,死人の復活などはないと言っているのはどうしてですか。実際,もし死人の復活ということがないのであれば,キリストもよみがえらされなかったことになります。そして,もしキリストがよみがえらされなかったとすれば,わたしたちの宣べ伝える業はほんとうに無駄であり,わたしたちの信仰も無駄になります。その上,わたしたちは神の偽りの証人ともなります。[神]はキリストをよみがえらせたと,神に逆らって証しをしてきたことになるからであり,死人が実際にはよみがえらされないのであれば,彼をよみがえらせることもされなかったからです。死人がよみがえらされないのであれば,キリストもよみがえらされなかったのです。さらに,キリストがよみがえらされなかったのであれば,あなた方の信仰は無駄になります。あなた方はまだ自分の罪のうちにあることになります。また,キリストと結ばれて[死の]眠りについた者たちは,実際には滅びてしまったことになります。今の命でキリストに望みをかけてきたことがすべてであれば,わたしたちはあらゆる人の中で最も哀れむべき者となります。しかしながら,今やキリストは死人の中からよみがえらされ,[死の]眠りについている者たちの初穂となられたのです。死がひとりの人を通して来たので,死人の復活もまたひとりの人を通して来るのです。アダムにあってすべての人が死んでゆくのと同じように,キリストにあってすべての人が生かされるのです。しかし,各々自分の順位にしたがっています。初穂なるキリスト,その後,その臨在の間に,キリストに属する者たちです。



 ここでは、クリスチャンの中には死んで「眠りについた」者がいることが語られています。彼らが復活するのはキリストの「臨在」の時です。まだ復活の時ではないので、今のところ死んだ者は死んだ状態のままです。そして、もし復活がなければ、それらの人たちは「滅びてしまった」ままになります。これがキリスト教の復活の信仰です。

 さらに聖書は、復活の時が到来すると、人は霊魂不滅に似た経験をすると教えます。



コリント第一 15:51-55

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
ご覧なさい,わたしはあなた方に神聖な奥義を告げます。わたしたちはみな[死の]眠りにつくのではありませんが,わたしたちはみな変えられるのです。一瞬に,またたくまに,最後のラッパの間にです。ラッパが鳴ると,死人は朽ちないものによみがえらされ,わたしたちは変えられるからです。朽ちるものは不朽を着け,死すべきものは不滅性を着けねばならないのです。しかし,[朽ちるものが不朽を着け,また]死すべきものが不滅性を着けたその時,「死は永久に呑み込まれる」と書かれていることばがそのとおりになります。「死よ,お前の勝利はどこにあるのか。死よ,お前のとげはどこにあるのか」。

テサロニケ第一 4:15-17

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
主の臨在[の時]まで生き残るわたしたち生きている者は[死んで]眠っている者たちに決して先んじないということ,これが,エホバの言葉によってわたしたちがあなた方に伝えるところなのです。主ご自身が号令とみ使いの頭の声また神のラッパと共に天から下られると,キリストと結ばれて死んでいる者たちが最初によみがえるからです。その後,生き残っているわたしたち生きている者が,彼らと共に,雲のうちに取り去られて空中で主に会い,こうしてわたしたちは,常に主と共にいることになるのです。



○ 死と復活についての聖書の概念

人間は原罪を抱えており、死ななければならない。
人は死ぬと「眠り」に入る。意識はなく、活動もなく、希望はない。
神はキリストを用いて人類に「復活」の希望を差し伸べた。
しかし復活は将来のことである。復活があるまで死んだ人は眠り続ける。
もし復活がないなら、死んだ人は消滅してしまったことになる。
復活が始まると、死の「眠り」はなくなり、人は転生する。



 死後の裁きについてもだいたい同じです。死後の裁きがあるという概念があったからこそ、復活の教えが出現したのです。死んだ人は、復活し、裁きを受け、そこで有罪とされると二度目の死に直面することになります。そこで、死後の裁きを受けるためには復活が必要です。



ダニエル 12:2

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
また,塵の地に眠る者のうち目を覚ます者が多くいる。この者は定めなく続く命に,かの者は恥辱に,[また]定めなく続く憎悪に[至る]。

使徒 24:15

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
そしてわたしは神に対して希望を持っておりますが,その希望はこれらの[人たち]自身もやはり抱いているものであり,義者と不義者との復活があるということです。

啓示(黙示録) 20:12-15

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
そしてわたしは,死んだ者たちが,大なる者も小なる者も,そのみ座の前に立っているのを見た。そして,[数々の]巻き物が開かれた。しかし,別の巻き物が開かれた。それは命の巻き物である。そして,死んだ者たちはそれらの巻き物に書かれている事柄により,その行ないにしたがって裁かれた。そして,海はその中の死者を出し,死とハデスもその中の死者を出し,彼らはそれぞれ自分の行ないにしたがって裁かれた。そして,死とハデスは火の湖に投げ込まれた。火の湖,これは第二の死を表わしている。また,だれでも,命の書に書かれていない者は,火の湖に投げ込まれた。



○ 死後の裁きについての聖書の概念

死んでいる人は無意識であり無活動であるので報いを受けることができない。
死後の裁きを受けるためには復活が必要である。
死後の裁きにおいて無罪とされた者は永遠の命を得、有罪とされた者は二度目の死を経験する。



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