新世界訳
エホバの証人の聖書

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イザヤ 43:10

◇ 新世界訳参照資料付き聖書英語版 (NW/Reference Bible) ◇ (エホバの証人)
"YOU are my witnesses," is the utterance of Jehovah, "even my servant whom I have chosen, in order that YOU may know and have faith in me, and that YOU may understand that I am the same One. Before me there was no God formed, and after me there continued to be none.

◇ 新世界訳参照資料付き聖書日本語版 ◇ (エホバの証人)
「あなた方はわたしの証人である」と,エホバはお告げになる,「すなわち,わたしが選んだわたしの僕である。それはあなた方が知って,わたしに信仰を抱くためであり,わたしが同じ者であることを理解するためである。わたしの前に形造られた神はなく,わたしの後にもやはりいなかった。



 「フリーマインドジャーナル」1994年5-6月号に掲載された「新世界訳聖書における改竄」は英文新世界訳聖書におけるこの聖句の問題を取り上げてこのように指摘しています。



◇ 'Misleading Revisions in the New World Translation' Andy Bjorklund, Free Minds Journal May/Jun 1994

『わたしのあとにはいないだろう(“Nor will there be one after me”)』が『わたしのあとにはずっといないだろう(“after me there continued to be none.”)』にすり替えられている。原典におけるこの動詞の未来時制は、何者も神の神性にあずかる代わりの存在になり得ないことを示唆している。改竄された時制は、イエスが“力ある神”であるとしてもなお本質においてエホバではあり得ないとするというエホバの証人の教理の信頼性を演出している。



 ここのところ、原典を見てみますと、「わたしの前に形造られた神はなく」の部分ではヘブライ語の完了態動詞が使われており、続く「わたしのあとにもいないだろう」の部分ではヘブライ語の未完了態動詞が使われています。
 この未完了態動詞をフリーマインドジャーナルは「未来時制」と表現していますが、これは誤りです。



○ 聖書ヘブライ語と現代ヘブライ語の違い

聖書ヘブライ語における完了態動詞と現代ヘブライ語における過去形動詞は同じ綴り
聖書ヘブライ語における未完了態動詞と現代ヘブライ語における未来形動詞は同じ綴り

聖書ヘブライ語の時制は「完了か未完了か」であり、「過去か未来か」ではない
現代ヘブライ語には聖書ヘブライ語のような完了態動詞と未完了態動詞の概念がない



◇ 新世界訳参照資料付き聖書, 付録, 3ハ, 「継続的行為もしくは進行的行為を表わすヘブライ語動詞」

ヘブライ語の動詞には二つの態,つまり完了態と未完了態があります。完了態は完結した行為を表わします。未完了態は完結していない行為や継続的行為,もしくは進行中の行為を表わします。……ですからヘブライ語では,過去に起きた行為でも,その行為が完結していないとみなされるなら,未完了態の動詞で表わすことがあります。一方,将来の行為でもそれが完結しているとみなされるなら,完了態の動詞で表わすことができます。日本語では,ヘブライ語動詞の未完了態を「次いで……した」,「……していった」,「……し続けた」などの補助語を用いて訳出することもできます。
ヘブライ語の未完了態の基本的特徴について,ジェームズ・ワシントン・ワッツは,自分の著作,「創世記の明示的翻訳」(A Distinctive Translation of Genesis,米国,ミシガン州,グランドラピッズ,1963年,129,130ページ)にこう書きました。「すべての未完了態の基本的特徴は[行為が]完結していないことにある。……直接法の場合,これら未完了態の行為が完結していないことは進行形もしくは反復形のいずれかに表われる。そのどちらであるかは文脈に依存する。というのは,動詞句の構造はいずれの場合も同じだからである。
「文脈が単一の行動もしくは状態を示しているなら,それに伴う力は進行段階にある。その行為は進展途上のものとして描かれている。このような場合,英語の動詞の主要概念だけでは,その意味を完全に伝えるには不十分である。翻訳者がその箇所でその持つ力を十分に表わす必要があると感じるなら,‘proceed’(『次いで……していった』)などの補助動詞的に用いられる語や‘gradually’(『しだいに』)などの副詞を加える必要がある。話が急速に展開していて,単にある特定の出来事の進行状態を生き生きと描写することよりも,幾つかの出来事の推移が重要である時には,翻訳者は,‘afterward’(『そののち』)など,進行と推移の両方を示す接続副詞に専ら頼ることになるであろう。この場合における進行状態は十分には表わされない。ごくわずかな間に一つの行為もしくは状態から別の行為もしくは状態へ移行する動きがあるにすぎず,進行状態の明確な描写はなされない。この限定された翻訳が用いられることは,翻訳者が,その時点における進行的概念をより十分に表わす特別の理由はないと見ていることを意味している。そのような場合,英語の文章は冗長なものになるであろう。一方,動詞の持つ力を十分に表現して,記述を表現豊かなものにしたいと考えるなら,翻訳者は自由にそうすることができる。
「文脈が幾度かの行為や二つ以上の状態を表わしているなら,反復状態に力が置かれている。ここでも,英語の動詞の持つ主要概念だけでは,その意味を完全に伝えるには不十分である。繰り返しや習慣的出来事の意味を十分に表わすには,‘continued’(『……し続けた』)などの補助動詞的に用いられる語や‘frequently’(『しきりに』)などの副詞を加えることが必要である」。



 完了態と未完了態を組み合わせた表現は、「これまでがそうであったように、これからもずっとそうであろう」というニュアンスを示していると新世界訳聖書の翻訳者は考えたようです。そこで、英文新世界訳は“continued (ずっと)”という語を訳文に挿入し、原典のニュアンスの反映に努めました。
 この聖句において用いられている、「わたしの前」という表現はその意味合いを強化するものとなっているようです。というのも、エホバが永遠者である以上、そもそも「エホバの前」なる期間は存在しないからです。この聖句は、このような反神学的な表現をあえて用いることにより、永久に神に取って代わる者はいないことを強く示そうとしています。興味深い表現法です。

 この訳文の意図するところについてのフリーマインドジャーナルの指摘は的はずれであるようです。私にはその趣旨が理解できませんでした。

 ところで、お気づきになられた方もおられると思いますが、この聖句は「エホバの証人」の名称の由来となったものです。この名称の意味する事柄について詳しいことを知りたいという方のために「“エホバの証人”とは」という記事を用意しましたのでご覧ください。