新世界訳
エホバの証人の聖書

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マタイ 2:11

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
そして,家の中に入った彼らは,その母マリアと共にいる幼子を見,ひれ伏して敬意をささげた。彼らはまた,自分たちの宝物を開き,[幼子]に贈り物を,金・乳香・没薬を差し出した。

◇ 新改訳聖書 [第三版] ◇ (ファンダメンタル)
そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。



 ここで、「敬意をささげる」また「拝む」と訳されているギリシャ語は προσκυνέω (プロスキュネオー)です。この語は、その行為が向けられる対象が何であるかによって意味合いが変わってくるそうです。
 その対象が人である場合を見てみましょう。



啓示(黙示録) 3:9

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
見よ,わたしは,ユダヤ人であると言いながら[実は]そうではなく,偽りを語る,サタンの会堂の者たちを与える―見よ,わたしは彼らを来させてあなたの足もとに敬意をささげさせ,わたしがあなたを愛したことを悟らせる。

◇ 新改訳聖書 [第三版] ◇ (ファンダメンタル)
見よ。サタンの会衆に属する者、すなわち、ユダヤ人だと自称しながら実はそうでなくて、うそを言っている者たちに、わたしはこうする。見よ。彼らをあなたの足もとに来てひれ伏させ、わたしがあなたを愛していることを知らせる。



 今度は、対象が神である場合を見てみましょう。



啓示(黙示録) 4:10

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
二十四人の長老は,み座に座っておられる方の前にひれ伏し,限りなく永久に生きておられる方を崇拝する。そして自分たちの冠をみ座の前に投げ出して,こう言う。

◇ 新改訳聖書 [第三版] ◇ (ファンダメンタル)
二十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み、自分の冠を御座の前に投げ出して言った。



 このように、ギリシャ語プロスキュネオーは、その対象がだれであるかによって意味が変わります。



○ ギリシャ語 προσκυνέω の一般則

対象が神である場合は崇拝の行為
対象が神以外である場合は儀礼の行為

○ ギリシャ語 προσκυνέω に対する聖書のスタンス

崇拝的なプロスキュネオーの行為は神にのみ捧げるべき
非崇拝的なプロスキュネオーの行為は誰に対してしてもよい



 崇拝的なプロスキュネオーが許されないという聖書の記述を見てみましょう。



啓示(黙示録) 9:20

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
しかし,これらの災厄によって殺されなかった残りの人々は自分の手の業を悔い改めず,悪霊たち,また金・銀・銅・石・木でできた,見ることも聞くことも歩くこともできない偶像に対する崇拝をやめようとはしなかった。

◇ 新改訳聖書 [第三版] ◇ (ファンダメンタル)
これらの災害によって殺されずに残った人々は、その手のわざを悔い改めないで、悪霊どもや、金、銀、銅、石、木で造られた、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像を拝み続け、



啓示(黙示録) 19:10

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
そこでわたしは,彼の足もとにひれ伏して彼を崇拝しようとした。しかし彼はわたしに言う,「気をつけなさい! そうしてはなりません! わたしは,あなた,また,イエスについての証しの業を持つあなたの兄弟たちの仲間の奴隷にすぎません。神を崇拝しなさい。イエスについて証しすることが預言に霊感を与えるものなのです」。

◇ 新改訳聖書 [第三版] ◇ (ファンダメンタル)
そこで、私は彼を拝もうとして、その足もとにひれ伏した。すると、彼は私に言った。「いけません。私は、あなたや、イエスのあかしを堅く保っているあなたの兄弟たちと同じしもべです。神を拝みなさい。イエスのあかしは預言の霊です。」



 翻訳された聖書を読むと非常に分かりにくい点ですが、聖書には一見して矛盾と思えるプロスキュネオーの用法があります。啓示の書をギリシャ語で読むと、神に対するプロスキュネオーの行為は正しい行為であるということ、他の神や天使に対するプロスキュネオーの行為は間違った行為であるということ、しかし人に対するプロスキュネオーの行為は正しい行為であるということが示されていることに気づかされます。
 なぜ、このような用法の混乱があるのでしょうか。これには、当時の儀礼の行為と崇拝の行為とが非常に似通っていたという事情が関係しているようです。二つの場面を想像してみましょう。王宮に王がいてその前で臣民たちが平伏しています。神殿に神の像があってその前で信徒たちが平伏しています。これはどちらも同じように見えるのではないでしょうか。プロスキュネオーで示されている行為に違いがあっても、どちらも見かけが同じであるため、同じ語が用いられるようです。

 聖書における崇拝的なプロスキュネオーと非崇拝的なプロスキュネオーとを確実に見分ける方法はあるでしょうか。これは少し難しい課題であるようです。



◇ 「聖書に対する洞察」, 『敬意をささげる』の項, ものみの塔聖書冊子協会

プロスキュネオーがただ深い尊敬の念という形の敬意をささげる行為のことなのか,それとも宗教的な崇拝という形の敬意をささげる行為のことなのかは,……文脈を考慮に入れて決定しなければなりません。その語が直接神に(ヨハ 4:20‐24; コリ一 14:25; 啓 4:10),あるいは偽りの神々やその偶像に言及している場合(使徒 7:43; 啓 9:20),敬意をささげるその行為が,許容できるものとして,あるいは習慣として人にささげられるべき敬意の範囲を越えて,崇拝の領域に入っていることは明らかです。また,敬意のささげられる対象が明記されていなくても,敬意が神に向けられていることが理解されている場合も同様です。(ヨハ 12:20; 使徒 8:27; 24:11; ヘブ 11:21; 啓 11:1)一方,「サタンの会堂の者たち」はクリスチャンの足もとに『来て,敬意をささげ』させられますが,それは明らかに崇拝行為ではありません。―啓 3:9。



 ここで神学上の問題となるのが神の子であるイエスに対するプロスキュネオーの扱いです。イエスに対するプロスキュネオーの行為は崇拝になるのか、それとも違うのかということを考えなければなりません。
 イエスに対するプロスキュネオーの行為をどのように見なすかは、三位一体論の神学を支持するかどうかによって左右されるようです。



○ 三位一体論に対する新世界訳聖書の立場

イエスは神の子であって、神ご自身ではない



 三位一体論を否定する立場に立つ新世界訳聖書としては、イエスに対するプロスキュネオーを崇拝的なものと読むことは難しいことであるようです。一方の新改訳聖書は三位一体論を支持する立場に立ってこれを崇拝の意味に読んでいます。

 さて、ここで三位一体論に関わるひとつの論点を考えてみましょう。生前のイエス・キリストは神として民衆から崇拝されていたのでしょうか。キリスト教諸教会には三位一体論が広く普及していますので、そのように考えている教会信徒は多くおられるようです。しかし、この頃にはまだ三位一体という概念がなかったことを念頭に置かなければなりません。イエスを神とする三位一体論の神学は、イエスが死んだ後に唱えられたものです。



マタイ 14:33

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
その時,舟にいた者たちは,「確かにあなたは神の子です」と言って,敬意をささげた

◇ 新改訳聖書 [第三版] ◇ (ファンダメンタル)
そこで、舟の中にいた者たちは、イエスを拝んで、「確かにあなたは神の子です。」と言った。



 当時、イエスは神の子であると考えられていました。まだ三位一体論が唱えられていませんでしたから、イエスのことを神であると考えた人はいなかったようです。マタイ 14:33に見るように、イエスの弟子たちもイエスのことを神の子であると考えていました。ですから、イエスに対するプロスキュネオーの行為は、イエスが神の子であるという認識のもとに示されたプロスキュネオーの行為であると言うことができます。



○ 新約聖書におけるイエスに対する προσκυνέω の行為

イエスが神の子であることに対して示された崇敬の行為



◇ 「聖書に対する洞察」, 『敬意をささげる』の項, ものみの塔聖書冊子協会

マタイ 18章26節のイエスの例えには,人間の王に敬意をささげる行為のことが述べられています。明らかに,占星術者たちが「ユダヤ人の王としてお生まれになった」幼子イエスにささげた敬意や,ヘロデがささげることに関心があると公言した敬意,また杭につけられる前のイエスをあざけりながら兵士たちがイエスにささげた敬意は,この種のものでした。彼らがイエスを,神とも神とされている者ともみなさなかったのは明らかです。(マタ 2:2,8; マル 15:19)翻訳者たちの中には,プロスキュネオーがイエスに対して示される人の行為を描写している場合,その大半に「崇拝する」という言葉を当てる人もいますが,証拠からすれば,そのような訳に余りにも多くの意味を読み取ろうとするのは正しいことではありません。むしろ,イエスに対して敬意がささげられた状況は,それよりも前の時代に預言者や王に対して敬意がささげられた状況と非常によく似ています。(マタ 8:2; 9:18; 15:25; 20:20をサム一 25:23,24; サム二 14:4‐7; 王一 1:16; 王二 4:36,37と比較。)関係した人たちはイエスが神の代表者であることをはっきり認めており,イエスを神や神とされている者としてではなく,「神の子」,予告されていた「人の子」,神の権威を帯びたメシアとして敬意をささげました。そのことは,彼らがその時に語った言葉そのものから明らかである場合が少なくありません。多くの場合,敬意をささげる彼らの行為は,昔の時代に表明されたものと同様,神の啓示や恵みの証拠に対する感謝を表明するものでした。―マタ 14:32,33; 28:5‐10,16‐18; ルカ 24:50‐52; ヨハ 9:35,38。



 さて、新改訳聖書の訳文に見るような、イエスが人々から崇拝されたというニュアンスの訳文は、イエスが神であることの証明として使えるでしょうか。使えないようです。なぜなら、それは三位一体論の神学に合わせて調整された訳文だからです。このような訳文を用いて三位一体論を説明することはできても、三位一体論を証明することはできません。この点には気をつける必要があるようです。



○ 三位一体論における循環論法の問題

三位一体論の論理で三位一体論を説明することは三位一体論の証明にはならない

 




 「フリーマインドジャーナル」1994年5-6月号に掲載された「新世界訳聖書における改竄」は、ファンダメンタルな立場から、この聖句における新世界訳聖書の問題をこのように指摘しています。



◇ 'Misleading Revisions in the New World Translation' Andy Bjorklund, Free Minds Journal May/Jun 1994

「ひれ伏して崇拝した」が「(ひれ伏して)敬意をささげた」に替えられている。エホバの証人は、イエスが聖なる神としての崇拝に値すると理解することを回避しようとして、イエスが人々や天使たちから栄誉を受けていたとする訳文への差し替えを行った。しかし、ここで用いられているギリシャ語単語プロスキュネオーは正確には「崇拝」を意味する語であり、「敬意をささげる」という訳は新世界訳聖書による脚色なのである。(同様の改竄は、マタイ 8:2, 9:18, 14:33, 15:25, 28:9,17, マルコ 5:6, 15:19, ルカ 24:52, ヨハネ 9:38, ヘブライ 1:6にも見いだせる)



 ギリシャ語プロスキュネオーのファンダメンタルな定義にしたがって新世界訳聖書を論評している様子がうかがえます。



○ ギリシャ語 προσκυνέω についてのファンダメンタルな主張

『ギリシャ語プロスキュネオーは「崇拝」という意味である』
『よって、聖書中のプロスキュネオーは「崇拝」と訳さなければならない』

『聖書には、人々や天使がイエスを「崇拝」したことが記されている』
『よって、イエスは神である』



 ファンダメンタルは“はじめに結論ありき”という論法を唱えることが多いですので、それが文法論である場合は辞書を実際に調べてみることが賢明です。ファンダメンタルの神学と論法が本質的に詐欺であることは覚えておく必要があるでしょう。



◇ 「新約聖書ギリシア語辞典」, προσκυνέω の項, 玉川直重, キリスト新聞社

1) (目上の人に対して平伏して)敬意を表する
2) (神に対して)礼拝を捧げる