新世界訳
エホバの証人の聖書

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マタイ 5:5

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
「温和な気質の人たちは幸いです。その人たちはを受け継ぐからです。

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
温和な人たちは幸福です。地球を与えられるからです。



 新世界訳聖書には2つの版があります。一つは参照資料付き聖書(1985年版)で、聖書の原典に対して厳密な翻訳がなされています。もう一つは改訂版(2019年版)で、聖書に全くなじみのない読者に配慮した翻訳がなされています。

 この聖句は、エホバの証人にとっては扱いが難しい聖句となってきました。エホバの証人は聖書伝道を行い、家々を巡って、出会った人に聖書の教えを紹介します。この聖句はそのような場面でよく使われます。
 ここでイエスが説いているのは、世界が平和になる日がいつか訪れる、という希望の教えです。そこで証人は人々に対し、そのような世界が実現したらすばらしいとは思われませんか、と問いかけるのですが、これがなかなか難しかったりします。
 日本では、ほとんどの人は聖書の表現についての予備知識など持ち合わせていません。そのような人が「地を受け継ぐ」という聖書の言葉を読んでイメージするのは、親が死んでその土地を子供が相続するということです。家の人は口先で「そうですね」と言いながら、内心では、土地を相続することと世界が平和になることとに何の関係があるのだろうとか、聖書に記されているイエスの教えはこんなものだっただろうかとか思います。
 やがて、証人は深刻な問題に気づかされることになります。せっかく聖書を読みながら話をしたのに、相手はその意味を全く理解していなかったのです。

 しかし、新世界訳聖書に改訂版が登場したことにより、この問題は大幅に改善しました。改訂版では、“地”は“地球”に、“受け継ぐ”は“与えられる”に修正されています。この言葉を読んだ人たちは、心のやさしい人たちが地球を管理する時代が来る様子を心に描くことができるようになりました。

 この問題が生じる背景には、聖書の書かれたヘブライ語やギリシャ語における“地”という言葉の用法が日本語と対応していないという要因があります。

 聖書には、“地”という語の地球を表す用法や、“天”という語の宇宙を表す用法があります。
 そのような用法は聖書のどこにあるのだろうか、とあなたは思うかもしれません。聖書の冒頭にそれはあります。



創世記 1:1

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
初めに神は天と地を創造された。

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
初めに,神は天と地を創造した。



 この聖句は、改訂版でも原典通りに訳出されています。“地球”という訳にはなっていません。それは、この言い方だと日本人の読者にもその意味合いが伝わるからです。
 日本人の読者がこの聖句の意味を正しくつかめるのは、日本語には“地”の地球を表す用法はないものの、“天”の宇宙を表す用法があるからです。読者は、まず“天”という語が宇宙を指していることを推察した後、その対比としての“地”を考えることができます。
 しかし、このような場面は例外です。マタイ 5:5のように、聖句が単に“地”について語っているところでは、日本人の読者はなかなかその意味をつかむことができません。
 この問題を解決するには訳語を調整する必要があります。こうして“地球”という訳語が用いられることになります。

 これは、単語の意味ではなくその対象を訳語とするという手法で、一般の翻訳の世界では広く行われていることです。
 英語の“Earth”には“地”という意味がありますが、その語が地球を指している場合、日本語ではほぼ間違いなく“地球”と訳されます。別に珍しいことではありません。

 とはいえ、“地球”という訳語は聖書の世界観に合わないのではないか、という指摘をされる方がいます。「地球」という語には「球体である」というニュアンスがあるからです。これはどうなのでしょうか。
 これは日本語の問題であるようです。日本語には、地球を指す語が“地球”ひとつしかありません。たとえば、この世の中には「地球平面説」と呼ばれる主張があります。平面だと主張しますがそれでも「地球」と呼びます。そう呼ぶしかないからです。

 聖書自身は“地球”をどのようにみなしているでしょうか。
 聖書は、天と地は神が創ったと説く本ですから、“地”に対する神の視点ということを意識しています。



イザヤ 40:22

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
地の円の上に住む方がおられ,[地]に住む者たちは,ばったのようである。その方は天を目の細かい薄織りのように張り伸ばしておられ,それをその中に住むための天幕のように広げ,

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
丸い地の上に住む方がいる。地に住む者たちはバッタのようだ。その方は天を薄織りの布のように広げ,天幕のように張って住まいとする。

ヨブ 26:7-10

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
[神]は北をむなしい所の上に張り伸ばし,地を無の上に掛けておられる。水をその雲に包んでおられるので,雲塊はその下にあって裂けない。王座の面を囲い,その上に雲を広げておられる。[神]は水の面に円を描かれた。そこまでで光は闇で終わる。

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
神は北の空を何もない所に広げ,地球を空間に浮かせている。神は水を雲の中に包んでいる。雲が水の重みで破裂することはない。神はご自分の王座が見えないようにしている。雲を広げて王座を覆っている。神は水の上に水平線を引き,光と闇の境界を定める。



 聖書には「地は円である」という言い回しが出てきます。この“円”には“球”という意味もあります。もしこの語がそのような意味で用いられていれば、聖書は“地”が球であることを認識していたことになります。
 答えは関連聖句から得ることができます。そこには水平線に関する記述があります。人が空を飛ぶ乗り物を持たなかった時代、地が球形であることを知る唯一の方法は水平線をよく観察することであったと言われます。もし地球が平らであれば、海面も平らになりますから、非常に遠い距離まで見通せて対岸が見えてしまい、水平線は生じないはずです。このことを検証するために人は山に登ったでしょう。高い位置から海を観察すれば水平線はなくなるかもしれないからです。そして、高い位置から水平線を見て、水平線がわずかに曲がっていることに気づきます。そしてこう考えます。神は山よりももっと高い位置から地を見ている、すると地はどういうふうに見えるだろうか……。
 聖書は宇宙から見た地球の姿を正確に描写しています。「そこまでで光は闇で終わる」のです。
 さらに文脈は、「地は無の上に掛かっている」とも言います。もし地が球体であれば、それは宇宙のどこかに浮いていなければなりません。ですから、聖書は“円”という語を“球”の意味で用いています。
 そこで、“地球”という訳語は聖書の世界観と合うということになります。

 さて、イエスはここで、旧約聖書のメシア預言から引用して教えを説いています。
 というわけで、今度は引用元に注目しましょう。



詩編 37:11

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
しかし柔和な者たちはを所有し,豊かな平和にまさに無上の喜びを見いだすであろう。

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
しかし,温厚な人は地上に住み続け,豊かな平和をこの上なく喜ぶ。



 ここで改訂版の聖書は、“地球”という訳は採用せず、“地上”と訳しています。これはどうしてでしょうか。
 これには二つの要因があります。一つは、聖書には“地”という語の「地」、「国」、「地球」を意味する3つの用法があるということです。もう一つは、旧約聖書のメシア預言は発展的であるということです。この詩編の句の場合、“地”という語にはこの3つ意味すべてがあります。
 そこで改訂版では、これらの3つの意味をなるべく表す訳語が採用されたようです。

 一方、イエスによる引用では、メシア預言の発展性が意識されていて、その意味は「地球」になります。
 この、メシア預言の発展性ということについては、「“エホバの証人”とは」の文書が詳しく説明しています。この文書では、「メシア預言には読み替えのルールがある」という簡易な説明から始め、基礎を据えてから本格的な解説へと移行するスタイルが採られていますので、どなたにも解りやすいと思います。この文書が示しているように、新約聖書が旧約聖書のメシア預言を引用するとき、その句が初期の意味で引用されるということはありません。

 新世界訳聖書の改訂版に近いものに、リビングバイブルがあります。リビングバイブルも、メシア預言の発展性を考慮した訳を採用しています。



マタイ 5:5

◇ リビングバイブル [改訂新版] ◇ (ファンダメンタル)
柔和で高ぶらない人は幸いです。 全世界はそういう人のものだからです。






◆ ハルマゲドンと至福の教え

 マタイ 5:5のイエスの言葉を正しく理解するには、ハルマゲドンの概念をよく理解していることが必要であるようです。
 イエスはここで幸福に関する教えを説いており、それは「至福」、「天福」、「八福」などと呼ばれています。それがなぜハルマゲドンと関係しているのでしょうか。ではここでもう一度、マタイ 5:5の引用元である詩編の聖句を見てみましょう。



詩編 37:9-11,22,29,34

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
悪を行なう者たちは断ち滅ぼされるが,エホバを待ち望む者たちは,地を所有する者となるからである。そして,ほんのもう少しすれば,邪悪な者はいなくなる。あなたは必ずその場所に注意を向けるが,彼はいない。しかし柔和な者たちは地を所有し,豊かな平和にまさに無上の喜びを見いだすであろう。
その祝福を受ける者たちは地を所有するが,[神]に災いを呼び求められる者たちは断ち滅ぼされるからである。
義なる者たちは地を所有し,そこに永久に住むであろう。
エホバを待ち望み,その道を守れ。そうすれば,[神]はあなたを高めて地を所有させてくださる。邪悪な者たちが断ち滅ぼされるとき,あなたは[それを]見るであろう。



 繰り返しになりますが、引用元の聖句はメシア預言です。
 ここでは、救いに関することより先に裁きに関することが述べられ、救いが裁きと同時に、そして裁きの結果として生じるという概念が示されています。
 イエスがこれを引用したのは、メシア預言の発展性にしたがい、その概念を神の王国の概念と結びつけようとしてのことでした。このイエスの言葉は、やがてハルマゲドンの教えへとなって結実することになります。



ヨハネ第一 2:17

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
さらに,世は過ぎ去りつつあり,その欲望も同じです。しかし,神のご意志を行なう者は永久にとどまります。



マタイ 24:21-22

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
その時,世の初めから今に至るまで起きたことがなく,いいえ,二度と起きないような大患難があるからです。実際,その日が短くされないとすれば,肉なる者はだれも救われないでしょう。しかし,選ばれた者たちのゆえに,その日は短くされるのです。



 関連している聖句をよく調べるとき、イエスの至福の教えには全く至福とは呼べない側面があることに気づかされます。この至福が訪れる時、人類は神の王国によるハルマゲドンの裁きを受け、ほとんどが死にます。とはいえ、イエスはその滅びについては一言も触れず、ただ「温和な気質の人たちは地を受け継ぐ」とだけ述べました。

 現在のキリスト教諸教会はハルマゲドンの教えを拒絶するようになっています。ハルマゲドンの教えを守る教派を異端視して否定するといったことも多々見られます。
 なぜこのような現象が見られているのでしょうか。ハルマゲドンの教えがあまりにも残酷であるため、これを自分たちにとって不都合なものと見なすキリスト教会は少なくありません。ハルマゲドンの教えについてはっきりとしたことを言うエホバの証人は外部の人から「あなたたちはわたしたちの救いを説いているのか滅びを説いているのかどちらなんだ」と問いつめられたりすることがありますが、現代キリスト教会のほとんどは、世からのこのような反応を自らに招きたくはありません。また、教会信徒となる人のほとんどは単純に救いを求めており、幸福な気分になることを追求する現代教会の風潮をよしとしていますので、裁きに関する聖書の教えに耐えられない精神状態にあるようです。結果的に、ハルマゲドンの教えを肯定する教会は衰え、否定する教会は栄えることとなります。



テモテ第二 4:3-4

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
人々が健全な教えに堪えられなくなり,自分たちの欲望にしたがって,耳をくすぐるような話をしてもらうため,自分たちのために教え手を寄せ集める時期が来るからです。彼らは耳を真理から背け,一方では作り話にそれて行くでしょう。



○ 現代キリスト教におけるハルマゲドンの教えからの逃避

「神は愛ある方なのでハルマゲドンのような残酷なことはされない」
「神は善良な者だけでなく邪悪な者も救ってくださるに違いない」

「ハルマゲドンは精神異常者の教理である」
「ハルマゲドンの教えは危険なので避けなければならない」



 これがひどくなるとどうなるでしょうか。たとえば、「神はやさしい方だからハルマゲドンのような残酷なことを教えるはずがない」などということを真顔で言う教会信徒がいますが、これでは聖書に何が書いてあるかという基本的なことを否定していることになります。また、聖書の記述が頭の中で童話と化している信徒の場合、その人はノアの箱船やモーセのエジプト脱出のような話をとても喜びますが、それなのにハルマゲドンの教えは激しく拒絶したりして、その矛盾に気づいていないという状態も観察されます。

 さて、そのような風潮が主流となっている現代キリスト教会の信徒たちにとって、イエスのこの言葉はどうでしょうか。
 イエスのこの言葉は、ハルマゲドンの教えから逃避している信徒たちを幸福な気分にする点で見事な働きをしています。彼らはイエスのこの言葉を読んで感激し、イエスに感謝するようになりますが、その意味を正しく理解しているわけではないようです。



テサロニケ第一 5:3,6,9

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
人々が,「平和だ,安全だ」と言っているその時,突然の滅びが,ちょうど妊娠している女に苦しみの劇痛が臨むように,彼らに突如として臨みます。彼らは決して逃れられません。
ですからわたしたちは,ほかの人々のように眠ったままでいないようにしましょう。むしろ目ざめていて,冷静さを保ちましょう。
神はわたしたちを,憤りにではなく,わたしたちの主イエス・キリストを通して救いを得られるように定めてくださったからです。



○ 「目ざめよ!」誌

 ものみの塔聖書冊子協会の発行する「目ざめよ!」誌の名称はこのような聖書の教えがモチーフになっています。



 聖書は、ハルマゲドンが来る時には自分がハルマゲドンで救われるのか滅ぼされるのか全く分かっていないという人がたくさんいて命を失うことになるだろうということを教えています。しかし、イエスはそのような話をダイレクトには語りませんでした。イエスはこういった教えを繰り返し説いていますが、そういった記述を調べると、その都度、死という要素について直接的な言い方を回避している様子がうかがえます。



マタイ 13:10-16

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
そこで弟子たちが寄って来て,彼に言った,「例えを使って彼らにお話しになるのはどうしてですか」。[イエス]は答えて言われた,「あなた方は,天の王国の神聖な奥義を理解することを聞き入れられていますが,あの人々は聞き入れられていません。だれでも持っている人,その人はさらに与えられて満ちあふれるほどにされます。しかし,だれでも持っていない人,その人は持っているものさえ取り去られるのです。わたしが例えを使って彼らに話すのはこのためです。すなわち,彼らは見ていてもむだに見,聞いていてもむだに聞き,その意味を悟ることもないからです。イザヤの預言は彼らに成就しています。それはこう述べています。『あなた方は聞くには聞くが,決してその意味を悟らず,見るには見るが,決して見えないであろう。この民の心は受け入れる力がなくなり,彼らは耳で聞いたが反応がなく,その目を閉じてしまったからである。これは,彼らが自分の目で見,自分の耳で聞き,自分の心でその意味を悟って立ち返り,わたしが彼らをいやす,ということが決してないためである』。「しかし,あなた方の目は見るゆえに,またあなた方の耳は聞くゆえに幸いです。



 するとどうでしょうか。この世界にはキリスト教徒が20億人いると言われますが、聖書をふさわしく読んで神の裁きを正しく理解するのでなければ、彼らの救いは危ういのかもしれません。

 そのようなわけで、マタイ 5:5のイエスの言葉を正しく理解するには、メシア預言の発展性と、ハルマゲドンの概念をよく理解していることが必要であるようです。



○ 課題

 死についての明言を避ける姿勢は、福音書だけでなく新約聖書全体においても支配的です。
 次の3つの聖句を読んでください。マタイ 23:15, コリント第一 3:12-15, テモテ第一 4:16。まず、これらの聖句が共に二つの立場について論じていることを理解してください。それぞれについて、死という要素がどのように扱われているか、また、このことから、確実に救われるために人はどの立場を取らなければならないということが理解できたか、説明してください。その後、ヘブライ 5:12を読み、その表現には含まれていない隠された意味を説明してみましょう。