新世界訳
エホバの証人の聖書

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マタイ 24:3

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
[イエス]がオリーブ山の上で座っておられたところ,弟子たちが自分たちだけで近づいて来て,こう言った。「わたしたちにお話しください。そのようなことはいつあるのでしょうか。そして,あなたの臨在事物の体制の終結のしるしには何がありますか」。

◇ 新改訳聖書 [第三版] ◇ (ファンダメンタル)
イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」



 これは、エホバの証人統一協会対策香川ネットという反対組織の主宰者である自称宗教研究家正木弥氏が製作した「ものみの塔の新世界訳聖書は改ざん聖書」という文書の初版にて最初に挙げられている聖句です。



◇ 「ものみの塔の新世界訳聖書は改ざん聖書」, 正木弥 (表記修正)

 ギリシャ語の"παρουσια"パルーシアは、①"そこにいること""臨在"という「現在の状態」を示す意味と、②"到着"とか"到来"とか”再臨”とかの「将来の行為」の意味とがあります。ピリピ2:12など前者の意味で使う場合もありますが、キリストについての多くの箇所では後者の意味で用いられています。マタイのこの箇所は、"臨在"としたのでは意味が通りません。「再臨」という将来の時点の行為としてとらえるときにのみ、意味が通り、また、ほかの聖句(マタイ24:27、30 、使徒1:11、第一コリント15:23、ピリピ3:20、第一テサロニケ4:1など)の状況説明ともうまく適合します。さらに、マルコやルカの並行箇所では、紛れの余地のないことば"ερχομαι"エルコマイ("来る"の意味)が用いられています。ですから、ここでは"臨在"ではなく"到来"とか"来臨"の意に訳すべきであります。
 ものみの塔の創始者C・T・ラッセルも初めは"臨在"でなく目に見える"再臨"を強調していました。しかし、後継者たちの時代になって、"臨在"と言う言葉と概念へと変更されました。それは実現しない終末預言に逃げ道を用意するためのものでしょう。自分たちの教理のつじつま合わせのために言葉の意味を変えるとは困りものですね。

 またαιωνという単語は、世代とかこの世、現世、長い時、永遠、世界とかを意味します。これを新世界訳(英文)では、the system of things と訳していますが、正しい訳とは思われません。また、新世界訳(日本語)では"事物の体制"と言う甚だ聞き慣れない、固苦しい言葉を当てています。しかし、この訳語は新世界聖書独自のもので、ほかの訳にもありませんし、一般にも使われない新造語です。そもそも原語からそのように訳すのは大変無理があります。〔なお、この訳語は、新世界訳でほかに何度も出てきます。〕



 『ギリシャ語パルーシアの行為が現在である場合の意味は「臨在(居る)」だが未来である場合の意味は「到来(来る)」である』という正木氏の主張は正しい主張でしょうか。これは間違った主張であるようです。

 ここで用いられているギリシャ語は παρουσία (パルーシア)です。この語に付随する時間の概念は、その語法によって決まります。それが現在のこととして述べられているなら、それは現在の行為ですし、未来のこととして述べられているなら、それは未来の行為です。しかし、そういうことによってこの語の語義が変化することはありません。

 「時期という要素によって語義は変わらない」ということを、日本語の場合で考えてみましょう。
 「到来」という語は名詞であり、時間の性質を備えていませんが、「する」という語と結びつくことにより動詞の働きをする名詞となります。誰かが「ついにその日が到来しました」と言うなら、それは現在の行為ということになるでしょう。しかし、「いつかその日が到来するでしょう」と言うなら、それは未来の行為ということになります。
 もし、親切そうな人があなたのところにやってきて、『「到来する」という言葉は、現在のことであれば「居る」ことを、しかし将来のことであれば「来る」ことを意味しているんだよ』と教えてくれたら、どうでしょうか。これはひっかけというものです。「到来する」というステップが続いて「居る」というステップを生じさせるということをうまく利用しているにすぎません。それに対する答えは、『「居る」は「到来する」の結果としてもたらされる状態であり、この二つのステップが重複することはない』というものです。別の言い方をすると、もし現在の状況が「居る」であれば、それに先立って生じる「到来する」のステップは過去(「到来した」)になるということです。

 一方、ギリシャ語の場合、パルーシアは基本的に「臨在(居る)」という意味を持ちますが、「到来(来る)」というニュアンスもあります。つまり、日本語の場合と違って、二つのステップはくっついています。しかしだからといって、時期という要素によって語義が変わるということにはなりません。二つがくっついたまま現在に位置するか、同じくくっついたまま未来に位置するるか、どちらかです。この点については、正木氏の話の進め方がややこしくなっていますので、あとでまとめます。

 正木氏はファンダメンタリスト(キリスト教原理主義者)です。そして、ファンダメンタルの神学や論法は本質的に詐欺です。ファンダメンタルが文法論を唱えた場合には必ず辞書や文法書を確認するように心がけなければなりません。



○ ギリシャ語 παρουσία についてのファンダメンタルな論法

『ギリシャ語パルーシアには現在と未来がある』
『パルーシアが未来である場合は「到来」という訳語を用いるべきであり、現在である「臨在」という訳語を用いることはできない』
『キリストのパルーシアは未来である』

『よって、キリストのパルーシアに「臨在」という訳語を用いることはできない』



 さて、聖書においてパルーシアと深く関連付けられているのが ἔρχομαι (エルコマイ)です。この語には「到来(来る)」の意味があります。
 というわけで、正木氏が指摘している並行記述のほうも見てみましょう。正木氏が指摘する通り、マタイ 24:3の並行記述はマルコとルカに見つかります。



マルコ 13:3-4

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
そして,[イエス]がオリーブ山の上で神殿の見える所に座っておられた時であったが,ペテロ,ヤコブ,ヨハネ,アンデレが自分たちだけでこう尋ねはじめた。「わたしたちにお話しください。そのようなことはいつあるのでしょうか。そして,これらのすべてのものが終結に至るように定まった時のしるしには何がありますか」。

ルカ 21:7

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
そこで彼らは質問して言った,「師よ,そのようなことは実際にはいつあるのでしょうか。また,そのようなことが起きるように定まった時のしるしには何がありますか」。



 訳文を見ても分かると思いますが、どちらにもエルコマイは使われていません。
 繰り返して強調することになりますが、ファンダメンタルが聖書原典の単語について「ある」とか「ない」とか言っている場合には、実際に原典を参照して事実を確認するよう心がけることが必要です。

 ギリシャ語エルコマイはどこに見つかるでしょうか。それぞれの文脈を参照すると、ハルマゲドンに関するところでこの語を発見できます。



マタイ 24:30

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
またその時,人の子のしるしが天に現われます。そしてその時,地のすべての部族は嘆きのあまり身を打ちたたき,彼らは,人の子が力と大いなる栄光を伴い,天の雲に乗って来るのを見るでしょう。

マルコ 13:26

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
またその時,人々は,人の子が大いなる力と栄光を伴い,雲のうちにあって来るのを見るでしょう。

ルカ 21:27

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
そのとき彼らは,人の子が力と大いなる栄光を伴い,雲のうちにあって来るのを見るでしょう。



 見たところ、マルコやルカの記述を持ち出すまでもなく、マタイの記述の文脈中にエルコマイは登場しています。しかも、その内容は他と全く同じです。単にパルーシアとエルコマイの関係を論じたいのであれば、マタイの文脈を引き合いに出せば十分でしょう。正木氏がそうしなかったのはなぜでしょうか。これはキリストのパルーシアとキリストのエルコマイを完全な同義と思わせるための巧妙なトリックであるようです。「文脈では……」と言う代わりに「並行記述では……」と言えば、聞き手はその意味するところを誤解するかもしれません。ですから、この論法もファンダメンタルな論法であると言うことができます。



○ 修正

 問題の記述は指摘を受けて修正されるようです。
 2016年9月に私が正木氏から直接購入した版では、「並行」と印刷されている上に「関連」と書かれた紙が貼りつけられています。



 この記述はハルマゲドンについてのものです。ハルマゲドンについて「到来」という語が用いられるのは当然のように思えます。そこで、キリストのパルーシアとハルマゲドンとの関係について考えることが必要です。もしこの両者が一致しているなら、キリストのパルーシアを到来と同義であると見なしてよいでしょう。
 ではコリント第一 15:22-24を見てみましょう。



コリント第一 15:22-24

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
アダムにあってすべての人が死んでゆくのと同じように,キリストにあってすべての人が生かされるのです。しかし,各々自分の順位にしたがっています。初穂なるキリスト,その後,その臨在の間に,キリストに属する者たちです。次いで終わりとなります。その時,彼は王国を自分の神また父に渡します。その時,彼はあらゆる政府,またあらゆる権威と力を無に帰せしめています。

◇ 新改訳聖書 [第三版] ◇ (ファンダメンタル)
すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。



 この記述において、ハルマゲドンに対応しているのは「終わり」です。この記述から、キリストのパルーシアが時間的に見てハルマゲドンの前に置かれている様子を見ることができます。
 この聖句で論じられている「復活の順番」の教えのモチーフとなっているのは、復活に関するイエスの教えです。



ヨハネ 6:40

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
というのは,子を見てそれに信仰を働かせる者がみな永遠の命を持つこと,これがわたしの父のご意志だからです。わたしはその人を終わりの日に復活させます」。



 両者を比較すると、もともとイエスが「終わりの日」と言っていたものが「パルーシア」と言い替えられている様子を見ることができます。
 ここでもう一度、主要な論点となっているマタイ 24:3を見てみましょう。



マタイ 24:3

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
[イエス]がオリーブ山の上で座っておられたところ,弟子たちが自分たちだけで近づいて来て,こう言った。「わたしたちにお話しください。そのようなことはいつあるのでしょうか。そして,あなたの臨在事物の体制の終結のしるしには何がありますか」。

◇ 新改訳聖書 [第三版] ◇ (ファンダメンタル)
イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」



 この聖句のイエスの弟子の言葉を見てみると、ここでも、パルーシアとハルマゲドンとが分けられていることに気づかされます。その後に続くイエスの答えも同様です。ですから、聖書を全体的に概観して、キリストのパルーシアはおおかた終わりの日を意味していると言うことができるようです。



マタイ 24:4-14

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
[A1] そこでイエスは答えて言われた,「だれにも惑わされないように気を付けなさい。多くの者がわたしの名によってやって来て,『わたしがキリストだ』と言って多くの者を惑わすからです。あなた方は戦争のこと,また戦争の知らせを聞きます。恐れおののかないようにしなさい。これらは必ず起きる事だからです。
[B1] しかし終わりはまだなのです。
[A2] 「というのは,国民は国民に,王国は王国に敵対して立ち上がり,またそこからここへと食糧不足や地震があるからです。
[B2] これらすべては苦しみの劇痛の始まりです。
[A3] 「その時,人々はあなた方を患難に渡し,あなた方を殺すでしょう。またあなた方は,わたしの名のゆえにあらゆる国民の憎しみの的となるでしょう。またその時,多くの者がつまずき,互いに裏切り,互いに憎み合うでしょう。そして多くの偽預言者が起こって,多くの者を惑わすでしょう。また不法が増すために,大半の者の愛が冷えるでしょう。
[B3] しかし,終わりまで耐え忍んだ人が救われる者です。
[A4] そして,王国のこの良いたよりは,あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で宣べ伝えられるでしょう。
[B4] それから終わりが来るのです。



○ 聖書の「終わりの日」

「世の終わり(ハルマゲドン)」に先だつ期間を指し、「世の終わり」とは区別されている。
同義語として παρουσία が用いられる。



 さて、エルコマイについて理解したところで、話を少し戻しましょう。
 先に少し触れたように、ギリシャ語のパルーシアには「臨在(居る)」の意味だけでなく「到来(来る)」の意味もあります。というのも、大抵の場合、「居る」というステップの前には「来る」というステップがあるからです。
 すでに見たように、聖書はキリストの「臨在」と「到来」をかなり厳密に分けていますが、それは「臨在」の後方に位置する「到来」についてです。「臨在」の前方に位置する「到来」は、「臨在」に含まれます。聖書はこれを区別していません。



◇ 「バインの旧新約聖書用語解説辞典」 (「聖書に対する洞察」より引用)

 パルーシアは……到着,およびその結果としての臨在の両方を意味する。……その語は,教会が天に運び去られる時のキリストの再来に関して用いられる場合,単にキリストが聖徒たちのために瞬間的に到来することだけではなく,キリストがその瞬間から,世界に表わし示される顕現の時まで聖徒たちと共に臨在することを意味している。



 パルーシアを「到来」という観点から見るとき、「パルーシアには二つの到来が伴う」と言うことができますが……



○ キリストの παρουσία における二つの到来

臨在の始まりとなる到来(終わりの日の始まり)
臨在の終わりとなる到来(ハルマゲドン)



……このうち、前期のものはパルーシアに含まれるということです。

 正木氏の話がややこしくなる背景には、この二つの到来を混同していることがあるようです。
 そうすると、どういうことが言えるでしょうか。正木氏の主張は、きちんと整理を行うならそれなりに筋が通るものとなりそうです。
 聖書におけるパルーシアにはその前期の「到来」が含まれていますから、もし、パルーシアが今まさに進行中の事象なら、それは「到来した(過去)+臨在する(現在)」となりますので、基本的な語義である「臨在(居る)」に目が留まりやすいと言えるでしょう。しかし、それが未来なら「到来する(未来)+臨在する(未来)」となりますので、より近くにある「到来(来る)」のニュアンスに目が留まりやすいと言えるでしょう。ただし、どちらの場合においても、二つの語義を分離することはできません。もちろん、後期の「到来」はパルーシアに含まれませんので、きちんと分けて考えなければなりません。
 このように整理したうえで、改めて翻訳ということについて考えるとどうでしょうか。
 キリストのパルーシアは「到来を伴う臨在」であると言うことができます。「それは臨在ではなく到来である」と言うことはできません。そして、もし将来のことだから「到来」というニュアンスに注目するのだとしても、聖書がこの語によって示している基本的な意味が「臨在(居る)」であるということには変わりありません。すでに聖書から見たように、キリストのパルーシアには期間があります。つまり、パルーシアのために到来したキリストは、そのまま通り過ぎるのではなく、留まるのです。

 ではここで、マタイ 24:37-39に注目してみましょう。



マタイ 24:37-39

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
人の子の臨在はちょうどノアの日のようだからです。洪水前のそれらの日ノアが箱船に入る日まで,人々は食べたり飲んだり,めとったり嫁いだりしていました。そして,洪水が来て彼らすべてを流し去るまで注意しませんでしたが,人の子の臨在[の時]もそのようになるのです。

◇ 新改訳聖書 [第三版] ◇ (ファンダメンタル)
人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。



 ここからまず、イエス自身もパルーシアという表現を用いていることが分かります。

 訳文に注意してみましょう。新世界訳聖書では、「キリストのパルーシア ≒ ノアの日 = 洪水前の日々」という文意になっており、パルーシアには「臨在」という訳語が充てられています。これは、キリストのパルーシアについての聖書の用法と一致しています。一方の新改訳聖書や新共同訳聖書ではパルーシアに「来る」という訳語が充てられており、さらに訳文は文意が「キリストのパルーシア ≒ ノアの日 = ノアが箱船に入るその日」となっています。
 ここで問題となるのは「日」の用法です。「ノアの日」という表現が「洪水前のそれらの日」と同義であるのかそれとも「ノアが箱船に入るその日」と同義であるのかが問題です。



マタイ 24:37-39 原典

ὥσπερ γὰρ αἱ ἡμέραι τοῦ Νῶε, οὕτως ἔσται ἡ παρουσία τοῦ υἱοῦ τοῦ ἀνθρώπου· ὡς γὰρ ἦσαν ἐν ταῖς ἡμέραις ἐκείναις ταῖς πρὸ τοῦ κατακλυσμοῦ τρώγοντες καὶ πίνοντες, γαμοῦντες καὶ γαμίζοντες, ἄχρι ἧς ἡμέρας εἰσῆλθεν Νῶε εἰς τὴν κιβωτόν, καὶ οὐκ ἔγνωσαν ἕως ἦλθεν ὁ κατακλυσμὸς καὶ ἦρεν ἅπαντας, οὕτως ἔσται ἡ παρουσία τοῦ υἱοῦ τοῦ ἀνθρώπου.



 「(洪水前の)それらの日」は“ἐν ταῖς ἡμέραις ἐκείναις”です。ここでの「日(ἡμέραις)」には定冠詞 (ταῖς) が使用されています。一方、「(ノアが箱舟に入る)その日」は“ἧς ἡμέρας”となり、「その」の訳語に対応する語は「ノアが箱舟に入る日」を「まで」に導く関係代名詞 (ἧς) です。
 また、「ノアの日」の「日」が複数形であるのに対し、「洪水前のそれらの日」は複数形、「ノアが箱舟に入るその日」は単数形です。これは決定的な要素であるようです。
 そこで結論として、『「ノアの日」とは「洪水前のそれらの日」のことである』と言うことができます。

 新改訳聖書と新共同訳聖書の訳文には大きな問題があるようです。新世界訳聖書が「ノアが箱船に入る日まで」と普通に訳出しているところ、わざわざ関係代名詞に「その」の訳語を充て、「ノアが箱舟に入るその日まで」という具合に訳出している点です。このような訳し方をすると、読者は「その」が「ノアの日(ノアの時)」を指していると誤解するのではないでしょうか。ところが、原典を見る限り、そのようにして読者の注意を引くべきなのは「洪水前のそれらの日」のほうなのです。このことは何を意味しているでしょうか。新改訳聖書と新共同訳聖書は、パルーシアを「来る」と訳出しただけでなく、その方針に合わせて読者が文意を見誤るよう訳文を巧みに調整したようです。ですから、新改訳聖書と新共同訳聖書におけるマタイ 24:37-39の訳文はファンダメンタルな訳文であると言うことができます。

 キリスト教諸教会においてしばしば、キリストのパルーシアが「来る」という表現と同一視されるのはなぜでしょうか。これには教会の腐敗が関係しているようです。キリスト教成立後数世紀のうちに、教会は本来のキリスト教から逸脱し、腐敗しました。そのため、解決すべき神学上の論争が生じた場合、正しい主張をしている側が論争に勝利するのではなく、力の強い側が勝利するということが多々生じたようです。現在のキリスト教会の大半は、そのようにして成立した4世紀頃のキリスト教会を「伝統的教会」もしくは「正統的教会」と位置づけて、それより前の原始キリスト教を規範とする教会を異端視しています。
 しかし、現代の進んだ神学は、伝統的教会の神学に多くの間違いがあることを指摘するようになりました。しかし諸教会には、こういった指摘に直面して神学を改めるのではなく、繕う傾向が見られます。
 キリストのパルーシアに関する論争はどのようなものでしょうか。ある人々は、キリストのパルーシアがキリストの到来と同じ意味で用いられていると考えられる特定の聖句だけを根拠にパルーシアを論じ、そう唱えるにあたって不都合な聖句を無視しました。別の人々はその不都合な聖句を取り上げ、彼らの間違いをとがめました。しかし論争に勝利したのは前者のほうでした。現代の諸教会は、この誤謬を保護しようとして聖書にまで手を出しているようです。



○ ギリシャ語 παρουσία についてのファンダメンタルな論法

『聖書はあるところでパルーシアの同義語としてエルコマイという語を用いている』
『よって、キリストのパルーシアの意味するところはキリストのエルコマイである』

『よって、聖書の翻訳の際にはキリストのパルーシアとエルコマイとに同じ訳語を充てるようにしなければならない』



○ マタイ 24:37-39の訳業におけるファンダメンタルな手法

邦訳聖書において関係代名詞を「その」と訳出した場合、読者はそれが指示代名詞であると考える。



 ここで岩波訳聖書(新約聖書翻訳委員会訳聖書)を見てみましょう。



マタイ 24:37-39

◇ 岩波訳聖書 (新約聖書翻訳委員会訳聖書) ◇ (エキュメニカル)
すなわち、ちょうどノアの日々と同じように、<人の子>の来臨〔の時〕もなるであろう。つまり、大洪水の前の[かの]日々に、人々は食らったり呑んだり、娶ったり嫁いだりしていた。そうしているうちにノアが箱船に入った。しかし、大洪水がやって来てすべての者をさらってしまうまで、彼らは何一つ気がつかなかった。そのように、<人の子>の来臨〔の時〕も[また]なるであろう。



 岩波訳聖書ではパルーシアが「来臨」と訳出されています。また、従来の邦訳聖書では「ノアの日」と単数形に訳出されるところを複数形に訳出しています。さらに、「洪水前の日々」に「[かの]」を挿入しています。またさらに、「ノアが箱船に入った」のところで訳文から「日」を省略しています。
 この訳文を新改訳聖書や新共同訳聖書と注意深く比較すると、その意図したところを推察することができます。つまり、「私たちとしては新改訳聖書や新共同訳聖書のような詐欺的な訳文を採用することなど全くできませんので、わざとらしくもその逆をやってみることにしました」ということのようです。ですから、岩波訳聖書におけるマタイ 24:37-39の訳文はファンダメンタルに対して反目的な訳文であると言うことができます。



◇ 「ものみの塔」誌2008年1月1日号, ものみの塔聖書冊子協会

 一部の聖書翻訳は「臨在」という語の代わりに不適切な訳語を用い,「到来」,「再臨」,「再来」などと訳していますが,これらは一時点での出来事を指す言葉です。しかし注目すべき点としてイエスは,自分の臨在をノアの日の洪水という出来事になぞらえたのではなく,歴史に残る「ノアの日」という期間になぞらえました。



◇ 「ものみの塔」誌1993年5月1日号, ものみの塔聖書冊子協会

 1889年の時点で,エホバの油そそがれた人々は19世紀に光を掲げていた者として,すでにキリストの再来の問題に関する理解を修正していました。ものみの塔聖書冊子協会の初代会長チャールズ・T・ラッセルは,「聖書研究」第2巻の158ページから161ページの中でこう書いています。「パルーシアは……臨在もしくは存在という意味であり,一般の英語聖書がしているように到来と訳すべきではない。……新約聖書の大変貴重な翻訳である『エンファティック・ダイアグロット訳』は,パルーシアを臨在と正しく訳出しており,……これは来る途中にある到来ではなく,到着した後の臨在を指す。[イエスは,]『ノアの日のごとく,人の子のパルーシア[臨在]もしかあるべし』と仰せられる。ここで対比されているのは,ノアの到来と主の到来ではないことに注目されたい。……むしろこれは,『洪水の前』の人々の中にノアが存在していた時代と,キリストが『火の前』に世界に臨在し,キリストの再臨の時となる時代との比較である。その火とは主[エホバ]の日の甚だしい苦難であり,その苦難と共にこの時代は終わりを迎えるのである」。―マタイ 24:37。



 「再臨」という表現についてさらに考えましょう。新世界訳参照資料付き聖書の付録は、パルーシアを「再臨」と訳出することの問題点を論じています。



◇ 新世界訳参照資料付き聖書, 付録, 「キリストの臨在(パルーシア)」

 TDNT,第5巻,865ページにはこう記されています。「これらの語[パレイミおよびパルーシア]は肉体を着けたキリストの到来には決して用いられない。また παρουσία には戻って来るという意味合いは全くない。二度以上のパルーシアという概念は後代の教会[西暦2世紀のユスティヌスより以前ではない]において初めて認められる。……原始キリスト教の思想の世界を理解するのに必要な基本条件は,[二度以上のパルーシアという]この観念から完全に離れることである」。

 この語の意味について,神学博士,イスラエル・P・ウォーレンは自著,「パルーシア」(The Parousia,米国,メーン州,ポートランド,1879年,12-15ページ)の中で次のように書きました。「『再臨』,『第二の来臨』などの言葉をしばしば口にするが,聖書は『第二のパルーシア』について一切述べていない。それがどのような性質のものであったにせよ,それは特異なものであり,それ以前に起きたことも,その後再び起きることもないものであった。それは,人間に対するご自分の他のいかなる顕現とも異なり,それより優れた臨在であるはずであった。それゆえ,その名称は,冠詞以外のいかなる限定形容語句をも伴わないThe Presence(臨在)のままの形でよいはずであった。……我々の翻訳が,この“パルーシア”という専門用語を,“バプティスマ”という語と同じように扱っていたなら,つまりこれを変えずにそのまま用いるか,あるいは原語と厳密に同義の『臨在』という語を用いて翻訳していたなら,『再臨』なるものはないということが十分に理解されたであろうし,その場合,この教理全体が現在のものとは全く異なった形を取っていたであろうと思われる。『再臨』や『第二の来臨』という表現が聞かれることは決してなかったはずである。教会はむしろ,“主の臨在”について話すよう教えられたであろう。近い将来のことであれ,ずっと遠い先のことであれ,それによって,教会の希望が実現されること,またそのもとで世界が新たにされ,霊的また肉体的復活が達成され,公正と永遠の審判が施行されるということを語っていたはずである」。



 「再臨」という表現は便利でわかりやすい表現です。それは、キリストの降誕を最初のパルーシアとみなす表現です。また、キリストが昇天した後、再び人の前に現れることを示す表現です。しかし、聖書自身はそのような考え方をしていないことに注意が必要です。聖書は、キリストが人間として現れたことをパルーシアであるとは見なしていません。聖書の概念では、キリストのパルーシアはまだ起こっておらず、将来一度限り起こることになっています。つまり、聖書の示すパルーシアの概念に忠実であろうとするなら、「再び」という意味が加わった「再臨」もしくは「再来」という表現を用いることはできないということです。

 このような神学的理由により、エホバの証人の出版物では原則として「再臨」もしくは「再来」という表現は用いられません。わかりやすく便利な表現であっても、聖書の概念から逸脱するということでその語の採用は退けられています。

 ラッセル氏について正木氏が述べている事柄はどうでしょうか。これは相当に事実からずれているようです。
 彼は再臨派(アドベンティスト派)の人々と深い親交がありましたが、その人々の考え方に賛同できませんでした。そこで、彼の活動の最初期にそのことを示す本を出版しています。



◇ エホバの証人―神の王国をふれ告げる人々, ものみの塔聖書冊子協会

 ラッセル兄弟は後にこう述べました。「我々は,アドベンティスト派の間違いをはなはだ残念に思った。彼らは,肉体を着けたキリストを期待し,アドベンティスト派以外の世界とその中にあるものすべてが1873年か1874年に燃え尽きてしまうと教えていた。キリストの到来の目的とそのありさまにかかわる彼らの年代設定と失望と幼稚な考え全体は,我々に,また来たるべきキリストの王国を待ち望み,ふれ告げていた人々すべてにある程度の非難をもたらした。主の帰還の目的とありさまの両方に関するそのような間違った見解がごく一般的に受け入れられているため,私は『我らの主の帰還の目的とそのありさま』という小冊子を書くことを思い立った」。この小冊子は1877年に出版されました。ラッセル兄弟はこれを約5万冊印刷して配布しました。
 ラッセル兄弟はその小冊子の中でこう書いています。「我々の信じるところによれば,聖書は次のことを教えている。すなわち,主は到来の時,さらには到来後のしばらくの間,目に見えない状態でおられるが,その後,裁きなど様々な形で顕現される,つまりご自分を示されることにより,『すべての目は彼を見ることになる』」。この裏づけとして,彼は使徒 1章11節(『イエスは,空に入って行くのをあなた方が見たのと同じ様で[つまり世に気づかれずに]来られるでしょう』)やヨハネ 14章19節(「あとしばらくすれば,世はもはやわたしを見ないでしょう」)などの聖句について論じました。また,エンファティック・ダイアグロット訳は,ギリシャ語のパルーシアという表現に「臨在」もしくは「いること」という意味があることを示す証拠を挙げており,ラッセル兄弟はその事実も引き合いに出しました。英語の行間逐語訳を載せたその訳が初めて完全な形で出版されたのは1864年のことでした。ラッセルは,パルーシアという語の聖書中の用法を分析し,その小冊子の中でこう説明しました。「再臨を指して一般に使われるギリシャ語―パルーシア,到来と訳されることが多い―は,どんな場合でも,すでに到来あるいは到着した者が現にそこにいることを意味しており,我々が到来という語を使う場合のように,来る途中にあることを決して意味してはいない」。
 ラッセルはキリストの臨在の目的を論じた時,その臨在は,世界を揺るがすようなほんの一瞬のうちに成し遂げられるものではないことをはっきり示しました。「再臨は初臨と同様に一定の期間にわたるもので,一瞬の出来事ではない」と,彼は書いています。その期間に「小さな群れ」は王国の共同の相続人として主と共になるという報いを受け,恐らく幾十億という数に上る他の人々は,エデンの美しさを取り戻した地上で完全な命を得る機会にあずかる,とラッセルは書きました。―ルカ 12:32。



 ラッセル氏は、エホバの証人の創始者としての活動をはじめたころにはすでに目に見えないパルーシアを説いていました。それ以前にはほとんど何も説いていなかったようです。ただ、パルーシアという語を説明するにあたって、「初臨」また「再臨」という語を用いています。

 ここでも、正木氏はファンダメンタルな論法を用いているようです。



○ エホバの証人と再臨をテーマにした間違った論法

『「再臨」は目に見ることができるが「臨在」は目に見ることができない。』
『エホバの証人の創始者であるラッセルはパルーシアが「再臨」であることを認めていた。』

『つまり、ラッセルはキリストのパルーシアが目に見えると認めていたのである。』

『しかし、ラッセルの後継者は「再臨」という用語の使用は間違っているとして「臨在」という用語を用いるようになった。』
『こうして、キリストのパルーシアが目に見えるということは否定された。』



 正木氏の言う「実現しない終末預言の逃げ道」という点については、何の関連性も見つからないように思います。ラッセルの書いた記述を見る限り、それは他教派の話です。職業的反対者である正木氏としてはこれを関連させたいということのようです。困りものなのは正木氏のほうでしょう。

 ではここで、エホバの証人の考えるキリストのパルーシアがどのようなものであるかを見てみましょう。
 キリストのパルーシアは天において戦争が起こるところあたりから始まります。



啓示(黙示録) 12:7-12

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
また,天で戦争が起こった。ミカエルとその使いたちが龍と戦った。龍とその使いたちも戦ったが,優勢になれず,彼らのための場所ももはや天に見いだされなかった。こうして,大いなる龍,すなわち,初めからの蛇で,悪魔またサタンと呼ばれ,人の住む全地を惑わしている者は投げ落とされた。彼は地に投げ落とされ,その使いたちも共に投げ落とされた。そして,わたしは大きな声が天でこう言うのを聞いた。「今や,救いと力とわたしたちの神の王国とそのキリストの権威とが実現した! わたしたちの兄弟を訴える者,日夜彼らをわたしたちの神の前で訴える者は投げ落とされたからである。そして彼らは,子羊の血のゆえに,また自分たちの証しの言葉のゆえに彼を征服し,死に面してさえ自分の魂を愛さなかった。このゆえに,天と[天]に住む者よ,喜べ! 地と海にとっては災いである。悪魔が,自分の時の短いことを知り,大きな怒りを抱いてあなた方のところに下ったからである」。



 天から追放された悪魔が地に降りてきた結果どのようなことが生じるでしょうか。



マタイ 24:6-7

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
あなた方は戦争のこと,また戦争の知らせを聞きます。恐れおののかないようにしなさい。これらは必ず起きる事だからです。しかし終わりはまだなのです。「というのは,国民は国民に,王国は王国に敵対して立ち上がり,またそこからここへと食糧不足や地震があるからです。



テモテ第二 3:1-5

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
しかし,このことを知っておきなさい。すなわち,終わりの日には,対処しにくい危機の時代が来ます。というのは,人々は自分を愛する者,金を愛する者,うぬぼれる者,ごう慢な者,冒とくする者,親に不従順な者,感謝しない者,忠節でない者,自然の情愛を持たない者,容易に合意しない者,中傷する者,自制心のない者,粗暴な者,善良さを愛さない者,裏切る者,片意地な者,[誇りのために]思い上がる者,神を愛するより快楽を愛する者,敬虔な専心という形を取りながらその力において実質のない者となるからです。こうした人々からは離れなさい。



 悪魔の追放された天では復活が始まります。



コリント第一 15:22-23

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
アダムにあってすべての人が死んでゆくのと同じように,キリストにあってすべての人が生かされるのです。しかし,各々自分の順位にしたがっています。初穂なるキリスト,その後,その臨在の間に,キリストに属する者たちです。

テサロニケ第一 4:16

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
主ご自身が号令とみ使いの頭の声また神のラッパと共に天から下られると,キリストと結ばれて死んでいる者たちが最初によみがえるからです。



 やがてハルマゲドンが来ます。



マタイ 24:21-22

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
その時,世の初めから今に至るまで起きたことがなく,いいえ,二度と起きないような大患難があるからです。実際,その日が短くされないとすれば,肉なる者はだれも救われないでしょう。しかし,選ばれた者たちのゆえに,その日は短くされるのです。



 キリストのパルーシアはハルマゲドンの時にはじめて人の目に見えるようになるため、多くの人が不意を突かれて死にます。しかし、クリスチャンは聖書の訓戒によく従ってキリストのパルーシアを見分け、こうして救われる者となります。



マタイ 24:29-33

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
「それらの日の患難のすぐ後に,太陽は暗くなり,月はその光を放たず,星は天から落ち,天のもろもろの力は揺り動かされるでしょう。またその時,人の子のしるしが天に現われます。そしてその時,地のすべての部族は嘆きのあまり身を打ちたたき,彼らは,人の子が力と大いなる栄光を伴い,天の雲に乗って来るのを見るでしょう。そして彼は,大きなラッパの音とともに自分の使いたちを遣わし,彼らは,四方の風から,天の一つの果てから他の果てにまで,その選ばれた者たちを集めるでしょう。「では,いちじくの木から例えとしてこの点を学びなさい。その若枝が柔らかくなり,それが葉を出すと,あなた方はすぐに,夏の近いことを知ります。同じようにあなた方は,これらのすべてのことを見たなら,彼が近づいて戸口にいることを知りなさい。

啓示(黙示録) 7:13-17

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
すると,長老の一人がこれに応じてわたしに言った,「白くて長い衣を着たこれらの者,これはだれか,またどこから来たのか」。それでわたしはすぐ彼に言った,「わたしの主よ,あなたが知っておられます」。すると彼はわたしに言った,「これは大患難から出て来る者たちで,彼らは自分の長い衣を子羊の血で洗って白くした。それゆえに神のみ座の前にいるのである。そして,その神殿で昼も夜も[神]に神聖な奉仕をささげている。また,み座に座っておられる方は彼らの上にご自分の天幕を広げられるであろう。彼らはもはや飢えることも渇くこともなく,太陽が彼らの上に照りつけることも,どんな炎熱に[冒されること]もない。み座の真ん中におられる子羊が,彼らを牧し,命の水の泉に彼らを導かれるからである。そして神は彼らの目からすべての涙をぬぐい去られるであろう」。






◆ 臨在は人の目には見えるのかという問題

 エホバの証人は、キリストのパルーシアとは“終わりの日における目に見えない臨在”であるとし、これを目に見える臨在であるハルマゲドンと分けて理解しています。これまで見てきたように、この神学はパルーシアに関する伝統的諸教会の神学と合わないため、キリスト教世界より多くの反論が行われてきました。キリストの臨在は目に見えない臨在なのでしょうか。
 これについて、「ものみの塔」誌に面白い主張が載せられています。



◇ 「ものみの塔」誌2008年1月1日号, ものみの塔聖書冊子協会 (表記修正)

 キリストの臨在は人間の目には見えません。イエスは自分の臨在のしるしについて語りました。(マタイ 24:3) もしその臨在が人間の目に見えるのであれば,標識となるしるしが必要でしょうか。例えで考えましょう。海を見に出かけたとします。途中で案内標識を見かけるかもしれません。しかし,海岸に着いて,水平線まで広がる広大な海の波打ち際に立っている時に,「海」と派手に書かれた,大きな矢印付きの標識を見かけるでしょうか。もちろん,そのようなことはありません。目で見ればすぐに分かるものをわざわざ指し示す標識など必要ないでしょう。イエスが臨在のしるしについて話したのは,人間が自分の目で見ることのできるものを指し示すためではありませんでした。



 これに対してよくある反論はこのようなものです。「イエスはここで自分の到来(パルーシア)の前兆について語っているのだ。キリストの到来に先立ってしるしが生じるのだから、その時にキリストが目に見えないのは当然のことである。エホバの証人はマタイ 24:3の文意を読み間違えている。」
 このような反論は一つの方針を示しているように思います。それはこのような方針です。聖書の記述の中に終わりの日がパルーシアの一部であると見なせるような記述が見つかるとしても、それは、パルーシアの前段階として終わりの日があることについて述べているにすぎないので、読者は文意を修正してこれを読むべきである。つまり、パルーシアについての聖書の記述には広範な読み替えが必要だ。聖書の翻訳もこの考え方に合わせて書き換えられるべきだ。

 私はこのような対立と議論を見て、これは用語の問題ではないだろうか、と思うことがあります。



○ 終わりの日における、変えることのできない2つのステップ

A. 終わりの日の到来。しるしや復活があるが、キリストは人の目には見えない。
B. ハルマゲドンの到来。地上の人間に対する裁きであり、キリストは人の目に見える。



 この二つのステップがあることについては、キリスト教全教派にとっての共通の理解であると思います。
 するとどうでしょうか。エホバの証人はAからBまでの期間すべてがパルーシアであると主張しますが、キリスト教世界はBのステップのみがパルーシアであると述べます。これは主に用語の問題ではないでしょうか。基本的には同じことを信じていて、そのうえでどの部分をパルーシアと呼ぶかが違うだけです。相違点はあっても細かい部分にすぎないように思えます。

 その由来を知ることも大切ではないかと私は思います。エホバの証人の歴史が始まったころ、キリスト教世界の人々は「空中再臨」ということを真剣に考えていました。空中再臨という考えのもととなったのは聖書のこのような表現です。



テサロニケ第一 4:15-18

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
主の臨在[の時]まで生き残るわたしたち生きている者は[死んで]眠っている者たちに決して先んじないということ,これが,エホバの言葉によってわたしたちがあなた方に伝えるところなのです。主ご自身が号令とみ使いの頭の声また神のラッパと共に天から下られると,キリストと結ばれて死んでいる者たちが最初によみがえるからです。その後,生き残っているわたしたち生きている者が,彼らと共に,雲のうちに取り去られて空中で主に会い,こうしてわたしたちは,常に主と共にいることになるのです。それで,この言葉をもって互いに慰め合ってゆきなさい。



 空中で、雲の中でキリストとの出会いがあるというのですから、これは人の目には見えません。さらに聖書にはこのような表現があります。



コリント第一 15:23-24

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
しかし,各々自分の順位にしたがっています。初穂なるキリスト,その後,その臨在の間に,キリストに属する者たちです。次いで終わりとなります。その時,彼は王国を自分の神また父に渡します。その時,彼はあらゆる政府,またあらゆる権威と力を無に帰せしめています。



 「終わり」とはハルマゲドン、つまり戦争と人類の大量絶滅のことですから、目に見えます。これは、先の空中再臨に対して「地上再臨」と呼ばれました。
 そしてこれらの聖書の記述は、イエスの述べたこのような言葉が土台となって生まれたものです。



ヨハネ 6:40

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
というのは,子を見てそれに信仰を働かせる者がみな永遠の命を持つこと,これがわたしの父のご意志だからです。わたしはその人を終わりの日に復活させます」。



 聖書の中で、もともとイエスが「終わりの日」と言っていたものが「パルーシア」に変化し、さらに、そのパルーシアが見える段階と見えない段階とに区分けされたというふうに考えることができます。そうするとどうでしょうか。エホバの証人はこの考えをもとにして「キリストの目に見えない臨在」を説き、それに対してキリスト教世界が盛んに反論を述べていますが、両者の間にそうやって対立するほどの違いなどないように思えます。正しいのがいずれであるにせよ、キリストの臨在に目に見えない段階があるには違いないのですから。

 エホバの証人が「キリストの目に見えない臨在」の教理を採用したころ、パルーシアについてのキリスト教諸教会の考え方は空中再臨の神学によって改められつつありました。ところが、キリスト教の諸教会はエホバの証人をとても嫌っていますので、エホバの証人が自分たちの議論を先取りしたところで態度を変え、これまで自分たちが真剣に論じていたことをすっかり忘れてやみくもに反論の言葉を述べるようになりました。

 しかし1935年になると、これは用語の違い程度ではすまない大きな問題へと発展します。エホバの証人がパルーシアの進んだ教理に合わせるかたちで『大群衆』の教理を改訂したのです。



啓示(黙示録) 7:4, 9

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
そしてわたしは,証印を押された者たちの数を聞いたが,それは十四万四千であり,イスラエルの子らのすべての部族の者たちが証印を押された。
これらのことの後,わたしが見ると,見よ,すべての国民と部族と民と国語の中から来た,だれも数えつくすことのできない大群衆が,白くて長い衣を着て,み座の前と子羊の前に立っていた。彼らの手には,やしの枝があった。



 エホバの証人は、啓示の書における“14万4千人”と“大群衆”についての記述がパルーシアの概念と一致しているということに気づきました。空中再臨によって救われる者は「14万4千人」そして地上再臨によって救われる者は「大群衆」である、と啓示の書は述べているようです。

 これは、このことを発見したエホバの証人にとっても、そしてキリスト教の諸教派にとっても、きわめて斬新で衝撃的な発見であると思えました。しかし実際には、キリスト教成立期にもともとあった解釈がエホバの証人によって発掘されたということにすぎないようです。
 啓示の書(黙示録)は黙示表現によって書かれています。その記述は、一見して目新しく思えたとしても、過去にある聖書の記述やその解釈を黙示表現の手法によって言い換えたものであるにすぎなかったりします。たとえばここで触れている“十四万四千”という表現にしても、聖書の次のような記述がモチーフとなっているようです。



ローマ 11:25-26

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
兄弟たち,あなた方が[ただ]自分の目から見て思慮深い者とならないために,わたしはあなた方がこの神聖な奥義について無知でいることがないようにと願うのです。すなわち,諸国の人たちが入って来て[その人たちの]数がそろうまで,感覚の鈍りがイスラエルに部分的に生じ,こうして全イスラエルが救われることです。まさに書かれているとおりです。「救出者がシオンから出て,不敬虔な習わしをヤコブから遠ざける。



 聖書が救われる人を「全イスラエル」と呼び、そのうえ「数がそろう」と述べていますから、当時のキリスト教はその「数」とは何かということを考えなければなりませんでした。黙示録はその数を具体的に示した点では斬新ですが、他の点ではそうではありません。つまるところこれは当時のキリスト教によるパルーシアの解釈がどのようであったかを黙示しているということのようです。
 啓示の書の記述は、成立期のキリスト教がパルーシアをこのように解釈した可能性を暗示しています。空中再臨によって救われる者にはその定員が決められており、その数は14万4千であろう、しかしそのあと地上再臨によって救われる者にまで定員があるというのは救いの公平性に照らして考えられないことだから、これは無制限であるはずだ。

 この発見とそれに続く多くの発見は、キリスト教世界にとって極めて深刻な問題をもたらしました。空中再臨と地上再臨の神学は、その最初から、救いには二つの段階があるということを示していました。つまり、救われる人は二つのグループに分けられるということです。しかも天にいくのは最初のグループだけだとされています。そして、エホバの証人による啓示の書の詳細な研究は、キリスト教成立期におけるパルーシアの神学の全体像を白日の下にさらすことになりました。この研究によると、救われて天に行く人はわずか14万4千人で、彼らは千年王国の期間中キリストと共に王また祭司として働き、千年かけて人類の罪を癒す事業を行います。一方、千年王国によって救われる人類はハルマゲドン後天に行くことなく地上で人間として暮らし、キリストと14万4千人による手厚い保護のもと病気にかからず老化もしないという恵まれた生活を送ります。
 何が問題でしょうか。救われる人すべてが天に行くわけではない、天に行くのは14万4千人だけである、というところが大問題です。しかもこれは、キリスト教において最初に信じられていたことらしいというのです。
 キリスト教諸教会はこれまで、神を信じる人や善い人はみな天に行く、と教えてきました。これが間違っているということです。今になってこのようなことを認めなければならないとなると、諸教会は大打撃を被ることになりそうです。

 大群衆についてのエホバの証人の発見は、諸教会にぞっとするような展望を見せつけるものでした。もしエホバの証人がこの発見をどんどん宣伝するようになったら、どういうことが起こるでしょうか。教会信徒たちはエホバの証人の宣伝を聞き、その内容を自分で調べるに違いありません。するとまず、「聖書は復活が終わりの日に生じると教えている」ということに気づかされます。その人はどんな気持ちになるでしょうか。話が違う、教会は嘘を教えて信徒たちをうまくてなずけていたんだ、自分たちは騙されていたんだ、と思うかもしれません。さらに、「救いには天に召される救いと地上に留まる救いとがある」ということを教わります。そんな話は全く聞いたことがない、どうしてなんだ、と彼らは思うでしょう。そのうち、教会信徒たちは口をそろえて「エホバの証人の教えることは正しい、教会の教えることは間違っている」と言い始めるかもしれません。一部の信徒たちはエホバの証人に転向するでしょうし、また一部の信徒たちは自分の教会に対して教理の改訂を迫るでしょう。そうすると諸教会は窮地に立たされることになります。あるいは、エホバの証人はこの発見を携えてキリスト教神学の分野に進出してくるかもしれません。神学者の中には教派の事情など全く気にしない人がいたりしますから、彼らはためらうことなく「救いについてエホバの証人の言うことは正しい」と言うかもしれません。そうするとエホバの証人はキリスト教神学の権威として高く評価されるかもしれません。やがて21世紀にもなると、「20世紀のキリスト教神学における最大の功績はエホバの証人による救いの再発見である」ということが言われるようになるかもしれません。黙示録から重要な再発見をしたことでエホバの証人はノーベル文学賞などを受けるかもしれません。そうすると、諸教会はすっかり死に体となってしまうのではないでしょうか。
 こういった展望は諸教会にとって受け入れられないものです。諸教会としては、救いについてエホバの証人が教えていることを断固として否定し、エホバの証人を異端呼ばわりして自分たちを守る以外に選択肢はありませんでした。その結果どうなったでしょうか。諸教会はパルーシアについての古くて間違った主張に戻っていきました。彼らとしてはそうするよりほかなかったのです。



○ パルーシアは目に見えるのかということについてのファンダメンタルな論法

『聖書はあるところで「再臨(パルーシア)」の同義語として「来る」という表現を用いている』
『聖書はキリストの来ることが人の目に見えると述べている』

『よって、キリストの再臨は目に見えるものである』



◇ 「新キリスト教辞典」, 『再臨』の項, いのちのことば社 (表記修正)

 エホバの証人(ものみの塔)に至っては、イエスは人々の目に見える形においてではないが、1914年にすでに天的王国に来られた、と主張している。
 しかし、聖書の教えを総合的に判断するなら、イエスの再臨は、御自身が、からだをもっておいでになるのであり、従って見ることができるし、見誤ることもないものである。マタイ 24:46の警告や、「地上のあらゆる種族は…人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです」(マタイ 24:30) といった描写は、そのことを明確に裏付けている。



 パルーシアについてのエホバの証人と諸教会の対立は、諸教会にとってみれば本丸を目前にした外堀での攻防です。ここが突破されれば本丸が落とされます。パルーシアの教理についてのエホバの証人と諸教会の神学上の相違はたいしたものでないのに、両者がここまで激しく対立することにはそういう事情があるようです。

 そこで私としては、これは主に用語の問題ではないだろうか、と思います。



○ 課題

 啓示(黙示録) 6:1-8を読んでください。この記述はマタイ 24:7の黙示表現です。この記述に出てくる“白い馬に乗る者”がキリストであることを説明してください。さらに、なぜこの記述の冒頭にキリストが出てくるのかを考えてください。そのうえで、この記述から成立初期のキリスト教がパルーシアをどのように解釈していたことが判明するか説明しましょう。






 続いて、ギリシャ語 αἰών (アイオーン)について考えましょう。この語にはどのような意味があるでしょうか。



◇ 「聖書に対する洞察」, 『事物の体制』の項, ものみの塔聖書冊子協会

 アイオーンの意味について,R・C・トレンチはこう述べています。「[コスモス,世]と同様,それ[アイオーン]にも主要な文字通りの意味と,それに付け加えるべき副次的で倫理的な意味がある。この語は主要な[意味]において,長短を問わず切れ目なく続いている時を意味する。……しかし本質的には,創造された万物が存在する状態としての時,およびそれら創造物の存在の尺度としての時を意味する。この語はこのように時を意味することから,現在では,時間という状態の下で世界に存在するすべてのもの,……そして,より倫理的には,この世界の物事の動きと流れを意味するようになっている」。トレンチはこの後者の意味を裏付けるものとして,ドイツの学者C・L・W・グリムが述べた,「時の流れにおいて,外面に現われる物事の全体」という定義を引用しています。―「新約聖書の同義語」,ロンドン,1961年,202,203ページ。
 ですからアイオーンの基本的な意味は,「時代」もしくは「存在の期間」であって,聖書中では多くの場合,終わりのない期間,つまり永久,永遠(マル 3:29; 11:14; ヘブ 13:8)を含む長い時間を表わします。(使徒 3:21; 15:18)これらの意味については,「年齢,時代」を参照してください。しかしここでは,前節で引用した定義の後半の部分で扱われた語の意味を考慮します。



 αἰών の語義についての正木氏の指摘が間違っているということはないようです。しかし、ここで注意を払わなければならないのは聖書におけるアイオーンの用法です。聖書は宗教書ですので、ある特定の語を本来の意味とは違った意味合いの専門用語として用いることがあります。これにより、辞書に載っているような一般的な語義が退けられることもあります。
 聖書におけるギリシャ語アイオーンにはそのような要素があるようです。つまり、聖書はあるところでアイオーンをその基本的な意味で用いていますが、別のあるところでは意味合いの異なる宗教用語として用いています。
 そこで新世界訳聖書は、聖書におけるこの語の用法を分析し、これが特定の用語として用いられている場合にはそれに合わせたやや複雑な訳語を充てています。



◇ 「聖書に対する洞察」, 『事物の体制』の項, ものみの塔聖書冊子協会

 このような理由で,特定の本文の中で,時そのものよりも,ある期間を他と区別する特色のほうが考えとして際立っている場合,アイオーンを「事物の体制」もしくは「状態」と訳すのは適切かもしれません。そうするのが当を得ていることは,ガラテア 1章4節で例証されています。その箇所で使徒パウロはこう書いています。「キリストはわたしたちの罪のためにご自身を与えてくださいましたが,それは,わたしたちの神また父のご意志にしたがってわたしたちを現在の邪悪な事物の体制[アイオーンの変化形]から救い出すためでした」。多くの翻訳はここでアイオーンを「時代」と訳していますが,キリストの贖いの犠牲が,ある時代もしくは期間からクリスチャンを救い出すのに寄与したわけでないことは明らかです。クリスチャンは引き続き,自分たち以外の人々と同じ時代に生活していたからです。しかし彼らは,その時期に存在していた,またその時期の特徴となっていた状態もしくは事物の体制から救い出されました。―テト 2:11-14と比較。
 同使徒はローマのクリスチャンにあてて,「この事物の体制に合わせて形作られるのをやめなさい。むしろ,思いを作り直すことによって自分を変革しなさい」と書きました。(ロマ 12:2)その時の人々のための流儀,型,模範などを定めたのは,その時期そのものではなく,その時期の特徴となっていた規準,慣行,作法,習慣,方法,見解,様式その他の特色でした。エフェソス 2章1,2節で同使徒は,自分が手紙を書き送る相手について,「自分の罪過と罪にあって死んでいましたが……あなた方は,この世の事物の体制にしたがい[「道に従い」,エルサレム; 「歩みに従い」,改標],……一時はそうした罪のうちを歩んでいました」と言っています。「解説者のギリシャ語新約聖書」(第3巻,283ページ)はこの聖句について注解し,時は,ここでアイオーンという語によって表現されている唯一の,あるいは主要な要素ではないことを示しています。同書はアイオーンを「歩み」と訳す方法を支持し,次のように述べています。「その語は,継続する活動,進展,限られた範囲内での持続という三つの考えを伝えている。悪い世のこの歩みはそれ自体が悪いものであり,それにしたがって生きることは,罪過と罪のうちに生きることである」―W・ニコル編,1967年。



 それに対し正木氏は、ギリシャ語アイオーンの基本的な意味を強調して聖書におけるその意味合いを半ば否定してしまっています。



○ ギリシャ語 αἰών についてのファンダメンタルな論法

『辞書を引くと αἰών の意味は「世や世代」あるいは「時代や永遠の時」などであると載っている』

『よって、聖書における αἰών に「時代や世代の特色」という意味合いはない』



 この語を「世」と訳出することについてはどうでしょうか。聖書のギリシャ語には、「世」を示す語が幾つもあります。基本的な語はコスモスで、ほかに、ゲー、アイオーン、オイクーメネーなどがあります。また、それに近い表現として、「世代」を意味するゲネアなどがあります。それぞれは微妙に意味合いが異なっており、神学的には同義語として扱うことができません。新共同訳聖書などの一般的な邦訳聖書はアイオーンをコスモスと同様に「世」と訳しています。訳し方が間違っているとは言えませんが、神学的には手抜きだと言えるでしょう。

 ある人は『「事物の体制」という訳語は日本語としては変だ』と言います。これについてはどうでしょうか。英語にせよ日本語にせよ、その言語に存在しないニュアンスを持つ語を訳そうとするなら、妥協して従来からある語を用いるか、これまでにない新しい語を作るか、どちらかを選択するしかないものです。そして、新しい語を作る場合、それまでの日本語に全く存在しない言葉を作るよりは、すでに日本語として存在する言葉を組み合わせて熟語にする方が無難でしょう。
 必要に迫られて作られた語は、最初は不自然に思えることがあっても、そのうち専門語としてその分野に定着するものです。宗教も専門分野の一つですから。