新世界訳
エホバの証人の聖書

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マタイ 24:34

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
あなた方に真実に言いますが,これらのすべての事が起こるまで,この世代は決して過ぎ去りません。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。



 新世界訳聖書で「世代」と訳されているギリシャ語は γενεὰ (ゲネア) ですが、新共同訳聖書では「時代」と訳されています。これは、マルコ 13:30やルカ 21:32でも同様です。また、口語訳聖書や新改訳聖書も新共同訳聖書と同様です。

 ある人は、この語の語源に注目し、これが「種族」を意味していると主張しました。しかし、この主張にはやや難があるようです。新約聖書の書かれた時代には、この語は世代を表す γενεὰ (ゲネア) と種族を表す γένος (ゲノス) とに分離していたからです。
 では、どのような意味が妥当と見なされているでしょうか。



◇ 「ものみの塔」誌1999年5月1日号, ものみの塔聖書冊子協会

 英国の学者G・R・ビーズリ-マリはこう述べています。「『この世代』という語句は,解説者にとって問題とはならないはずである。確かに,古い時代のギリシャ語の場合,ゲネアは誕生,子孫,したがって……種族を意味したが,[ギリシャ語セプトゥアギンタ訳]では,時代,人類の代,あるいは同時代の人々という意味での世代を意味する,ヘブライ語ドールの訳として最も頻繁に用いられている。……イエスの言葉とされるものの中で,その語には二重の意味合いがあるように思われる。一方では常にイエスと同時代の人々を指し,他方では常に批判的な意味を帯びている」。



◇ 「ものみの塔」誌1995年11月1日号, ものみの塔聖書冊子協会

 オリーブ山でイエスと共に腰を下ろしていた4人の使徒たちは,「事物の体制の終結」についてのイエスの預言を聞いた時,「この世代」という表現をどのように理解したのでしょうか。福音書の中の「世代」という言葉は,ギリシャ語のゲネアという言葉を翻訳したものです。現代の種々の辞書はゲネアを次のように定義しています。「字義的には,共通の先祖から出た人たち」。(ウォルター・バウアー編「新約聖書希英辞典」)「生み出されたもの,一族; ……一つの系図上の代々の人々,……または……一種族の人々,……または同じ時に生きている人々の集団全体,マタイ 24:34; マルコ 13:30; ルカ 1:48; 21:32; フィリピ 2:15,とりわけ同一の期間に生きているユダヤ民族の人々」。(W・E・バイン編「新約聖書用語解説辞典」)「生み出されたもの,同じ系統の人々,一族; ……同じ時に生きている人々の集団全体:マタイ 24:34; マルコ 13:30; ルカ 1:48; ……とりわけ同一の期間に生きているユダヤ民族について用いられる」―J・H・セア編「新約聖書希英辞典」。
 このように,バインとセアはどちらもマタイ 24章34節を引き合いに出し,「この世代」(ヘー・ゲネア・ハウテー)を「同じ時に生きている人々の集団全体」と定義しています。「新約聖書神学辞典」(1964年)はこの定義を支持し,「イエスが『世代』という言葉を使ったことには,包括的に言おうという意図が表われている。イエスは民全体を対象とし,罪における彼らの連帯責任を意識しているのである」と述べています。確かに,イエスが地上におられた時のユダヤ国民に『罪における連帯責任』があったことは明らかでした。今日の世の体制もそれを特徴としています。
 もちろん,この点を研究するクリスチャンは,霊感を受けた福音書筆者たちが,イエスの言葉を記録する際に,ギリシャ語のヘー・ゲネア・ハウテーすなわち「この世代」という表現をどのように用いたかを自分の考えのおもな導きとします。その表現は,終始一貫して否定的な意味で使われました。例えば,イエスはユダヤ人の宗教指導者たちを「蛇よ,まむしらの子孫よ」と呼び,続けて「この世代」にゲヘナの裁きが執行されるであろうと言われました。(マタイ 23:33,36)しかし,その裁きは偽善的な僧職者だけに限定されていたのでしょうか。決してそうではありません。イエスの弟子たちは,いろいろな機会に,イエスが「この世代」に言及し,その表現をはるかに広い意味で一律に適用されるのを聞きました。それは何のことだったのでしょうか。

 西暦31年,イエスの大々的なガリラヤでの宣教期間中,過ぎ越しのすぐ後に,弟子たちはイエスが「群衆」に向かって次のように言われるのを聞きました。「わたしはこの世代をだれになぞらえましょうか。それは,幼子たちが市の立つ広場に座って,自分の遊び仲間に叫ぶのに似ています。こう言うのです。『あなたたちのためにフルートを吹いたのに,あなたたちは踊らなかった。わたしたちが泣き叫んだのに,あなたたちは身をたたいて悲しまなかった』。これと同じように,ヨハネが来て食べたり飲んだりしないと,『彼には悪霊がいる』と人々は言い,人の子が来て食べたり飲んだりすると,『見よ,食い意地の張った,ぶどう酒にふける男,収税人や罪人たちの友』と言います」。何をしても,それら無節操な「群衆」を喜ばせることはできなかったのです。―マタイ 11:7,16-19。
 西暦31年の後期に,イエスと弟子たちがガリラヤでの二度目の伝道旅行を始めた時,「書士とパリサイ人の幾人かが」イエスにしるしを求めました。イエスは,彼らとその場に居合わせた「群衆」に,こうお告げになりました。「邪悪な姦淫の世代はしきりにしるしを求めますが,預言者ヨナのしるし以外には何のしるしも与えられないでしょう。ヨナが巨大な魚の腹の中に三日三晩いたように,人の子もまた地の心に三日三晩いるのです。……この邪悪な世代もそのようになるでしょう」。(マタイ 12:38-46)明らかに,「この邪悪な世代」には宗教指導者たちと「群衆」の両方が含まれていました。彼らは,イエスの死と復活という形で成就するしるしを決して認識するようにならなかったのです。
 西暦32年の過ぎ越しの後,イエスと弟子たちがガリラヤのマガダン地方にやって来た時,サドカイ人とパリサイ人たちがまたもイエスにしるしを求めました。イエスは彼らに対して同じ言葉でこう言われました。「邪悪な姦淫の世代はしきりにしるしを求めます。しかしヨナのしるし以外には何のしるしも与えられないでしょう」。(マタイ 16:1-4)それら宗教上の偽善者たちは,確かに,イエスが「この邪悪な世代」と呼んで非難した不忠実な「群衆」の中の指導者として特に責められるべき存在でした。
 イエスは,ガリラヤでの宣教の終わりごろ,群衆と弟子たちを自分のもとに呼んで,「だれでも,この罪深い姦淫の世代にあってわたしとわたしの言葉を恥じるようになる者は,人の子も……その者を恥じるのです」と言われました。(マルコ 8:34,38)ですから,「この罪深い姦淫の世代」を成していたのは,明らかに,当時の悔い改めないユダヤ人の民衆でした。それから幾日かたって,イエスの変ぼうの後,イエスと弟子たちが「群衆のほうに来ると」,一人の男の人がイエスに,自分の息子をいやしてくれるよう求めました。それに対してイエスはこう言われました。「ああ,不信仰でねじけた世代よ,いつまでわたしはあなた方と共にいなければならないのでしょう。いつまであなた方のことを忍ばねばならないのでしょう」。―マタイ 17:14-17。ルカ 9:37-41。
 西暦32年の仮小屋の祭りの後,ユダヤでのことと思われますが,イエスの周りに「群衆が寄り集まって来た時」,イエスは彼らに対する非難の言葉を繰り返し,「この世代は邪悪な世代です。それはしるしを求めています。しかし,ヨナのしるし以外には,何のしるしも与えられないでしょう」と言われました。(ルカ 11:29)最後に,宗教指導者たちがイエスを裁判にかけた時,ピラトはイエスを釈放してもいいと言いました。記録にはこう述べられています。「祭司長と年長者たちは,群衆がバラバを求め,イエスのほうを滅ぼさせるように説きつけた。……ピラトは言った,『では,キリストと言われるイエスはどうするのか』。彼らは皆,『杭につけろ!』と言った。ピラトは言った,『彼がどんな悪事をしたというのか』。それでも彼らは,『杭につけろ!』と,いよいよ叫びつづけた」。その「邪悪な世代」はイエスの血を要求していたのです。―マタイ 27:20-25。
 そのようにして,「不信仰でねじけた世代」は宗教指導者たちにそそのかされ,主イエス・キリストの死をもたらす点で重要な役割を演じました。それから50日後,西暦33年のペンテコステの日に,弟子たちは聖霊を受け,様々な言語で話し始めました。その物音を聞きつけて「大勢の人が共にやって来(る)」と,使徒ペテロは彼らに対して,「ユダヤの皆さん,そしてエルサレムの住民のすべての方たち」と呼びかけ,「あなた方はこの人[イエス]……を,不法な人々の手により杭に打ち付けて除き去りました」と言いました。それら聴衆の一部はどのように反応したでしょうか。「彼らは心を刺され」ました。そこで,ペテロは彼らに,悔い改めるようにと言いました。そして,『徹底的な証しをし,しきりに説き勧めて,「この曲がった世代から救われなさい」と言いました』。それにこたえて,約3,000人が「彼の言葉を心から受け入れ[て]バプテスマを受け」ました。―使徒 2:6,14,23,37,40,41。

 では,イエスが弟子たちの居合わせるところで頻繁に言及された「世代」とは何のことでしょうか。弟子たちは,「これらのすべての事が起こるまで,この世代は決して過ぎ去りません」というイエスの言葉を,どのように理解したでしょうか。イエスが「この世代」という表現をいつもとは違った意味で使っておられたのでないことは確かです。イエスは終始一貫してその表現を,共にユダヤ国民を構成していた同時代の民衆と彼らの「盲目の案内人」を指して用いられたのです。(マタイ 15:14)「この世代」は,イエスの予告した苦難をすべて経験したあと,エルサレムを襲った空前の「大患難」に見舞われて過ぎ去りました。―マタイ 24:21,34。

 ……今から100年ほど前に,ものみの塔協会の初代会長であったチャールズ・T・ラッセルはその点を明確にし,こう書きました。「『世代』という語と『種族』という語は,一つの共通の語根もしくは出発点から出たと言われているにしても,同じものではない。聖書的な用法では,この二つの語の違いはかなりはっきりしている。……この預言に関する三つの異なった記録の中で,わたしたちの主は,全く異なったギリシャ語(ゲネア)を用いたとされている。この語は種族を意味しないが,わたしたちの英語で言う世代と同じ意味を持っている。このギリシャ語(ゲネア)の他の用例は,この語が種族の意味でではなく,同じ時代に生きている人々を指して用いられていることを証明している」―「復しゅうの日」(英文),602,603ページ。
 もっと最近では,聖書翻訳者のために書かれた「マタイ福音書に関する手引き」(1988年)の中で,こう述べられています。「[新国際訳は]字義どおりにこの世代と翻訳しているが,脚注では,『または,種族』としている。また,ある新約聖書学者は,『マタイは,単にイエス以後の最初の世代だけのことではなく,イエスを退けるユダヤ教のすべての世代のことを言っている』と考えている。しかし,こうした結論のいずれも,確証に足る言語学的な証拠はないので,明確な意味づけを避けるための試みとして退けなければならない。元の場面においてその言葉は,専ら,イエスが生きていたのと同じ時代の人々のことを指していた」。



 では、この聖句における「世代」は“イエスと同じ時代に生きている人たち”に限定されるということなのでしょうか。そうではないようです。なぜなら、イエスはここで、ローマ軍によってエルサレムが攻略されること(西暦70年の出来事)と、ハルマゲドン(さらに将来の出来事)との両方について述べていたからです。



◇ 「ものみの塔」誌1995年11月1日号, ものみの塔聖書冊子協会

 本誌はこれまでにしばしば,イエスが同じこの講話の中で予告された多くの事柄(例えば,戦争,地震,飢きんなど)が,その預言をイエスが語った時から西暦70年のエルサレムの滅びまでの間に成就した,ということの証拠を公表してきました。当時,預言の多くは成就しましたが,すべてが成就したわけではありません。例えば,ローマ人がエルサレムを攻撃した(西暦66-70年)後に「人の子のしるし」が現われて「地のすべての部族」が身を打ちたたいた,という証拠は一つもありません。(マタイ 24:30)ですから,西暦33年から70年までのその成就は,単なる最初の成就にすぎなかったに違いありません。イエスが同時に指摘しておられた完全な,もしくは大規模な成就ではなかったのです。
 G・A・ウィリアムソンは,自分の翻訳したヨセフスの「ユダヤ戦記」のはしがきの中で,こう書いています。「マタイの記述によれば,弟子たちは[イエスに]二重の質問をしていた。つまり,神殿の滅びとイエスご自身の最終的な到来について尋ねたのである。イエスは彼らに二重の答えを述べた。その最初の部分では,ヨセフスがかくも十分に詳しく描写するよう定められていた数々の出来事が極めて生き生きと予告されていた」。
 そうです,最初の成就における「この世代」とは,ほかの時にそれが意味したのと同じもの―不信仰なユダヤ人から成る当時の世代―を意味していたと思われます。その「世代」は,イエスの予告した事柄を経験せずには過ぎ去らないことになっていました。ウィリアムソンも述べているとおり,この預言は,目撃証人である歴史家,ヨセフスが描写したように,エルサレムの滅びに至るまでの数十年の間に,真実であることが明らかになりました。
 二度目の,もしくはより大きな成就における「この世代」も,当然,同じ時代に生きている人々であるはずです。16ページから始まる記事がはっきり説明しているように,イエスが一「世代」を成す一定の年数のことを述べておられた,と結論する必要はありません。
 別の見方からすると,「世代」という言葉に含まれる時の概念については,かぎとなる二つのことが言えます。(1)人々の世代というものは,一定の年数(十年,あるいは世紀)を意味する,時に関する呼称の場合のような,一定の年数から成る期間とみなすことはできません。(2)一世代の人々の存続期間は比較的短いものであり,長大なものではありません。



 新世界訳聖書などの翻訳された聖書はギリシャ語 γενεὰ に辞書的な訳語を充てるにとどまっていますが、その厳密な意味合いは訳語の持つニュアンスと異なっていますので注意が必要であるようです。






 この聖句は、ハルマゲドンの時期を知るうえでの重要な手がかりであるとされる聖句です。
 聖書によると、ハルマゲドンの時期を厳密に知っているのはエホバだけです。神の子であるイエスでさえその時期を知りません。



マタイ 24:36-44

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
「その日と時刻についてはだれも知りません。天のみ使いたちも子も[知らず],ただ父だけが[知っておられます]。人の子の臨在はちょうどノアの日のようだからです。洪水前のそれらの日,ノアが箱船に入る日まで,人々は食べたり飲んだり,めとったり嫁いだりしていました。そして,洪水が来て彼らすべてを流し去るまで注意しませんでしたが,人の子の臨在[の時]もそのようになるのです。その時二人の男が野にいるでしょう。一方は連れて行かれ,他方は捨てられるのです。二人の女が手臼をひいているでしょう。一方は連れて行かれ,他方は捨てられるのです。それゆえ,ずっと見張っていなさい。あなた方は,自分たちの主がどの日に来るかを知らないからです。「しかし,一つのことを知っておきなさい。家あるじは,盗人がどの見張り時に来るかを知っていたなら,目を覚ましていて,自分の家に押し入られるようなことを許さなかったでしょう。このゆえに,あなた方も用意のできていることを示しなさい。あなた方の思わぬ時刻に人の子は来るからです。



 これは、ハルマゲドンの時期は全く想定できないということなのでしょうか。そうではないようです。イエスがこの言葉の前にこう述べているからです。



マタイ 24:32-34

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
「では,いちじくの木から例えとしてこの点を学びなさい。その若枝が柔らかくなり,それが葉を出すと,あなた方はすぐに,夏の近いことを知ります。 同じようにあなた方は,これらのすべてのことを見たなら,彼が近づいて戸口にいることを知りなさい。あなた方に真実に言いますが,これらのすべての事が起こるまで,この世代は決して過ぎ去りません。



 「ハルマゲドンの厳密な日時は誰にも分からないが、だいたいの時期は判別できる」、ということのようです。「世代」というのはそれほど長い期間でありませんから、ある人たちは、聖書の厳密な研究により年単位の精度でこれを算定できるのではないかと考えるようになりました。



○ エホバの証人の立場

 エホバの証人もかつてはこの考え方を支持していましたが、現在では完全に否定しています。



 こういった人たちへの反論としてしばしば「ハルマゲドンの時期は特定できない」ということが言われ、その根拠としてマタイ 24:36が引用されています。この聖句は反論として使えるでしょうか。使えないようです。というのも、すでに見たように、この聖句はこの神学の根拠の一部となっているからです。

 別の反論として、「ハルマゲドンの年を算出しようとすることは信仰の観点から見れば不純な行為ではないか」ということも言われています。しかし、この反論も成立が難しいようです。



ペテロ第一 1:10-12

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
ほかならぬこの救いに関して,勤勉な探究と注意深い調査が,あなた方に向けられた過分のご親切について預言した預言者たちによって行なわれました。彼らは,自分のうちにある霊が,キリストに臨む苦しみとそれに続く栄光についてあらかじめ証しをしていた時,それがキリストに関して特にどの時期あるいはどんな[時節]を示しているかを絶えず調べました。彼らは,天から送られた聖霊をもってあなた方に良いたよりを宣明した人々を通して今あなた方に発表されている事柄に奉仕しましたが,それが,自分自身のためではなく,あなた方のためであることを啓示されました。み使いたちは,実にこうした事柄を熟視したいと思っているのです。



 聖書によると、聖書を書いた預言者や天使たちにより「時期」に関する研究が行われていたようです。それは「どんな時期か」また「どの時期か」という二つの観点から進められていました。聖書はこれを信仰を肯定する行為であると考えているようです。

 別の反論として、このような努力を「偽預言」と考える見方も提出されています。このような時によく引用されるのは、偽預言者について述べた申命記 18:20-22や偽預言について注意を述べたテサロニケ第二 2:1-2です。



申命記 18:20-22

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
「『しかし,話すようにとわたしが命じたのではない言葉をあえてわたしの名において話し,あるいは他の神々の名において話す預言者,その預言者は死ななければならない。そして,あなたが心の中で,「エホバが話されたのではない言葉をどのようにして知るのか」と言う場合であるが,もし預言者がエホバの名において話しても,その言葉が実現せず,そのとおりにならなければ,それはエホバが話されなかった言葉である。その預言者はせん越にそれを話したのである。あなたはその者に恐れ驚いてはならない』。



 しかし、預言の解釈を行って時期の予測を立てることと預言を行って時期を予告することとは似て非なる行為ですので、これを全く同じにすることは難しいようです。



テサロニケ第二 2:1-2

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
しかし,兄弟たち,わたしたちの主イエス・キリストの臨在,またわたしたちがそのもとに集められることに関して,あなた方にお願いします。エホバの日が来ているという趣旨の霊感の表現や口伝えの音信によって,またわたしたちから出たかのような手紙によって,すぐに動揺して理性を失ったり,興奮したりすることのないようにしてください。



 この通告は、この種の情報を慎重に扱うよう求めるにとどまっていますので、これを禁止令と見なすことはできないようです。

 キリスト教諸教会はこの神学をどう扱っているでしょうか。エホバの証人を含めた現代の諸教会のほとんどはこのような神学に対して否定的な立場を取っています。この傾向の背後には、このような神学がこれまでにもたらしてきた数々の茶番劇のトラウマがあるようです。最近では、この神学を支持する教派を異端であるとかカルトであるとか言う意見も多く見られます。






 ここで、この聖句についての私見を述べておきたいと思います。(*この記述は2008年8月(ごろ)に公表されました。)

 イエスはこの聖句のあとさらにもう一言を述べていますが、その内容が聖書預言についての一般論であるということで、しばしば軽視されてきたように私は思います。しかし、私は聖書を構造の観点から理解するというスタンスを重んじていますので、異なる印象を受けます。



マタイ 24:34-35 (構造1)

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
あなた方に真実に言いますが,[A1]これらのすべての事が起こるまで,[B1]この世代は決して過ぎ去りません。[B2]天と地は過ぎ去るでしょう。[A2]しかしわたしの言葉は決して過ぎ去らないのです。

マタイ 24:34-35 (構造2)

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
あなた方に真実に言いますが,[A1]これらのすべての事が起こるまで,[B1]この世代は決して過ぎ去りません。[A2]天と地は過ぎ去るでしょう。[B2]しかしわたしの言葉は決して過ぎ去らないのです。



 構造の観点から見たとき、この聖句は二通りの解釈が可能であるように思います。
 1の場合、「世代」という表現は「天と地」の言い替え表現であると見なせます。聖書における「天と地」という表現は「世」の言い替え表現ですので、ここでは二重の言い替えが適用され、「世代」の意味は「世」であるという結論が導かれます。そうすると、この文において重要なのはA1とA2であり、イエスは「[A1]神の言葉(イエスの預言)は必ず成就し、[A2]無効にならない」ということを詩的に表現したかったということになるでしょう。構造を元に文をを組み直すと、『[A1]預言がすべて成就する[B1]のを待ってから[B2]世は過ぎ去るが[A2]神の言葉は永久に存続する。』となります。



ペテロ第二 3:6-7

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
そして,それによってその時の世は,大洪水に覆われた時に滅びを被ったのです。しかし,その同じみ言葉によって,今ある天と地は火のために蓄え置かれており,不敬虔な人々の裁きと滅びの日まで留め置かれているのです。



マタイ 24:34

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
あなた方に真実に言いますが,これらのすべての事が起こるまで,この世代は決して過ぎ去り ( παρέλθῃ ) ません。

マタイ 5:18

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
あなた方に真実に言いますが,律法から最も小さな文字一つまたは文字の一画が消え去って,[記された]すべてのことが起きないよりは,むしろ天地消え去る ( παρέλθῃ ) ほうが先なのです。



 ここでの「世代」は、歴史区分としての「世」の言い替えにすぎないということでかまわないのではないかと私は思います。世が過ぎ去るものであるゆえに聖書の預言の言葉は常に時限付きであるということです。
 期間についてはどうでしょうか。広く取るなら、それはノアの大洪水からハルマゲドンまでということになるでしょう。狭く取るなら、終わりの日の期間ということになるでしょう。



○ 課題

 ペテロ第二 3:10を読み、そこで用いられている「過ぎ去る」という表現が何を意味しているかを考えてみましょう。続いてペテロ第二 3:11-14を読み、「過ぎ去る」という表現が世界の滅びを指している訳ではないことを説明しましょう。そのうえで、マタイ 24:34-35についても「過ぎ去る」という表現が世界の滅びを指している訳ではないことを説明しましょう。






 最後に、この聖句のもう一つの解釈について触れたいと思います。先の構造の2の場合です。(*この記述は2014年8月(ごろ)に公表されました。)
 これは構造を元に文を組み直すと、『[A1]預言がすべて成就して[A2]世はなくなってしまうが[B1]世代は存続するし[B2]神の言葉も決してなくならない。』となります。
 そうすると、世と世代を分けて解釈することも可能になってくるようです。

 エホバの証人の文書には、同じではないようですが、これに近い考え方が示されたことがあります。



◇ 「ものみの塔」誌2008年2月15日号, ものみの塔聖書冊子協会 (表記修正)

 イエスは,「これらのすべての事が起こるまで,この世代は決して過ぎ去りません」と述べた時,(当時の)弟子たちのことを言っていたに違いありません。
……(同様に)現代の忠実な油そそがれた兄弟たちは,「これらのすべての事が起こるまで」過ぎ去らない,現代の「世代」を構成しています。



 しかし、このような解釈をしてしまうと、たいへんな問題が生じてしまいます。この点について少し考えてみましょう。

 私がこのようなことを述べたとします。「今日私はこの仕事を終えるまで帰宅しないつもりです」。このように述べた場合、私は永遠に帰宅しないということを私は言っているのでしょうか。そうではないはずです。この表現の中には“……まで”という語があります。このような前置きがあると、「帰宅しない」という言葉は「帰宅する」の意味を帯びます。つまり私は、「今日私はこの仕事を終えてから帰宅します」ということを述べているのです。
 では、あらためてマタイ 24:34を見てみましょう。



マタイ 24:34

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
あなた方に真実に言いますが,これらのすべての事が起こるまで,この世代は決して過ぎ去りません。



 この表現は「世代が過ぎ去る」ということを述べているとしか理解できません。世代が過ぎ去るにあたっては順序というものがある、ということを述べているはずです。
 これをあえて、文字通り「世代が過ぎ去らない」の意味に読むことは可能なのでしょうか。



マタイ 24:34-35

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
あなた方に真実に言いますが,これらのすべての事が起こるまで,この世代は決して過ぎ去りません。天と地は過ぎ去るでしょう。しかしわたしの言葉は決して過ぎ去らないのです

イザヤ 51:6-8

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
「あなた方の目を天に上げよ。下の地を見よ。その天も煙のように必ず散り散りになり,地も衣のように古び,その住民もただのぶよのように死んでゆく。しかしわたしの救いは,定めのない時に至るまで存続し,わたしの義が打ち砕かれることはない。「義を知る者たち,心にわたしの律法を保つ民よ,わたしに聴け。死すべき人間のそしりを恐れてはならない。彼らの単なるののしりの言葉のために恐怖に襲われてはならない。蛾が彼らを衣のように食い尽くし,衣蛾が彼らを羊毛のように食い尽くすからである。しかしわたしの義は,定めのない時に至るまで存続し,わたしの救いは数えきれない代々に至る」。

イザヤ 40:8

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
青草は干からび,花は枯れた。しかしわたしたちの神の言葉は,定めのない時に至るまで保つのである」。



 マタイ 24:34の表現には、続いてマタイ 24:35節の言葉が続いています。そして、旧約聖書にはこれに対応する表現があるようです。
 イザヤ書に記されたメシア預言の中で、51:6-8と40:8の記述は双子の関係にありますが、位置は離れています。もしイエスが、マタイ 24:34でイザヤ51:6-8を引用し、マタイ 24:35でイザヤ40:8を引用し、この二つの記述を統合したのであれば、これは神学的に見事な表現だと言うことができます。
 イエスの言葉をそのように解釈した場合、イエスの述べた「過ぎ去らない」は文字通り過ぎ去らないという意味になるようです。

 さらに、マタイ 5:18にも注目できます。



マタイ 24:34

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
あなた方に真実に言いますが,[A]これらのすべての事が起こるまで,[B]この世代は決して過ぎ去り ( παρέλθῃ ) ません。

マタイ 5:18

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
あなた方に真実に言いますが,[B]律法から最も小さな文字一つまたは文字の一画消え去って ( παρέλθῃ ) ,[記された]すべてのことが起きないよりは,むしろ[A]天地の消え去るほうが先なのです。



 マタイ 5:18の「消え去って」は「消え去らない」の意味で用いられています。もし、イエスの述べた「過ぎ去りません」が「消え去って」に対応するとすれば、イエスの述べた「過ぎ去らない」は文字通りに読まなければならなくなるようです。

 しかし、これで問題が解決したわけではありません。
 今度は次のような場面を考えてみましょう。私は職人で、あなたはバイヤーです。私は一枚の皿を手にしてあなたに説明します。「この食器はこの工房で私が制作したものです。さて、この皿についてですが……。」 このように話しながら、私は話の途中でお皿を入れ替えてしまいます。あなたはどう思うでしょうか。こいつはあやしいやつだ、信用できない、と思うのではないでしょうか。このような時、“この”という表現は先に述べた事柄を指していなければなりません。そうでないなら、訳の分からないことになります。



マタイ 24:4-35

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
そこでイエスは答えて言われた,「だれにも惑わされないように気を付けなさい。多くの者がわたしの名によってやって来て,『わたしがキリストだ』と言って多くの者を惑わすからです。あなた方は戦争のこと,また戦争の知らせを聞きます。恐れおののかないようにしなさい。これらは必ず起きる事だからです。しかし終わりはまだなのです。
「というのは,国民は国民に,王国は王国に敵対して立ち上がり,またそこからここへと食糧不足や地震があるからです。これらすべては苦しみの劇痛の始まりです。
「その時,人々はあなた方を患難に渡し,あなた方を殺すでしょう。またあなた方は,わたしの名のゆえにあらゆる国民の憎しみの的となるでしょう。またその時,多くの者がつまずき,互いに裏切り,互いに憎み合うでしょう。そして多くの偽預言者が起こって,多くの者を惑わすでしょう。また不法が増すために,大半の者の愛が冷えるでしょう。しかし,終わりまで耐え忍んだ人が救われる者です。そして,王国のこの良いたよりは,あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で宣べ伝えられるでしょう。それから終わりが来るのです。
「それゆえ,荒廃をもたらす嫌悪すべきものが,預言者ダニエルを通して語られたとおり,聖なる場所に立っているのを見かけるなら,(読者は識別力を働かせなさい,)その時,ユダヤにいる者は山に逃げはじめなさい。屋上にいる人は,家から物を取り出そうとして下りてはならず,野にいる人は,外衣を拾おうとして家に帰ってはなりません。その日,妊娠している女と赤子に乳を飲ませている者にとっては災いになります! あなた方の逃げるのが冬期または安息日にならないように祈っていなさい。その時,世の初めから今に至るまで起きたことがなく,いいえ,二度と起きないような大患難があるからです。実際,その日が短くされないとすれば,肉なる者はだれも救われないでしょう。しかし,選ばれた者たちのゆえに,その日は短くされるのです。
「その時,『見よ,ここにキリストがいる』とか,『あそこに!』とか言う者がいても,それを信じてはなりません。偽キリストや偽預言者が起こり,できれば選ばれた者たちをさえ惑わそうとして,大きなしるしや不思議を行なうからです。ご覧なさい,わたしはあなた方にあらかじめ警告しました。それゆえ,人々が,『見よ,彼は荒野にいる』と言っても,出て行ってはなりません。『見よ,奥の間にいる』[と言っても],それを信じてはなりません。稲妻が東の方から出て西の方に輝き渡るように,人の子の臨在もそのようだからです。どこでも死がいのある所,そこには鷲が集まっているでしょう。
「それらの日の患難のすぐ後に,太陽は暗くなり,月はその光を放たず,星は天から落ち,天のもろもろの力は揺り動かされるでしょう。またその時,人の子のしるしが天に現われます。そしてその時,地のすべての部族は嘆きのあまり身を打ちたたき,彼らは,人の子が力と大いなる栄光を伴い,天の雲に乗って来るのを見るでしょう。そして彼は,大きなラッパの音とともに自分の使いたちを遣わし,彼らは,四方の風から,天の一つの果てから他の果てにまで,その選ばれた者たちを集めるでしょう。
「では,いちじくの木から例えとしてこの点を学びなさい。その若枝が柔らかくなり,それが葉を出すと,あなた方はすぐに,夏の近いことを知ります。同じようにあなた方は,これらのすべてのことを見たなら,彼が近づいて戸口にいることを知りなさい。あなた方に真実に言いますが,これらのすべての事が起こるまで,この世代は決して過ぎ去りません。天と地は過ぎ去るでしょう。しかしわたしの言葉は決して過ぎ去らないのです。



 文脈を見ると、イエスは終わりの日の世代についていろいろなことを述べています。ですから、そのあと「この世代は」と言ったとすると、普通の感覚では、それは終わりの日の世代を指しているはずです。それは救われる弟子たちの世代ではないはずです。

 しかし、もしイエスが、普通の感覚で言葉を語るような人ではなかったとすれば、どうでしょうか。たとえば、あなたの前に「走る」という言葉を「歩く」という意味で用いる人が現れたとします。その人が「走る」という表現を用いている限り、その意味は「歩く」ではないでしょうか。このような時に、聴く側の人が常識的で正しい言語感覚というものを持ち出すなら、その人の言うことが正しく理解できない事態に陥ります。では、イエスの言語感覚はどうなのでしょうか。



ヨハネ 2:13-22

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
さて,ユダヤ人の過ぎ越しが近かったので,イエスはエルサレムに上って行かれた。そして,神殿で,牛や羊やはとを売る者たちと,席に着いている両替人たちをご覧になった。それで,縄でむちを作ると,それらの者をみな羊や牛もろとも神殿から追い出し,両替屋の硬貨をまき散らし,彼らの台を倒された。そして,はとを売っている者たちに言われた,「これらの物をここから持って行きなさい! わたしの父の家を売り買いの家とするのはやめなさい!」弟子たちは,「あなたの家に対する熱心がわたしを食い尽くすであろう」と書いてあるのを思い出した。
そのため,これに答えてユダヤ人たちは彼に言った,「こうした事をするからには,わたしたちにどんなしるしを見せるというのか」。イエスは答えて彼らに言われた,「この神殿を壊してみなさい。そうしたら,わたしは三日でそれを立てます」。それで,ユダヤ人たちは言った,「この神殿は四十六年もかけて建てられたのに,それを三日で立てるというのか」。しかし,[イエス]はご自分の体の神殿について語っておられたのであった。だが,彼が死人の中からよみがえらされた時になって,弟子たちは,彼が常々こう言っておられたのを思い出した。そして,聖書と,イエスの言われたことばとを信じたのである。



 これは滅茶苦茶な話というものです。ふつう、イエスがエルサレムの神殿に来て「この神殿は」と言えば、それはエルサレムの神殿であるはずです。ところがそうではなかったのです。
 しかも、このような話はさらにあります。



マタイ 16:18

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
また,あなたに言いますが,あなたはペテロであり,この岩塊の上にわたしは自分の会衆を建てます。ハデスの門はそれに打ち勝たないでしょう。



 ふつう、このような言い方をすれば、「この岩塊」はペテロのことを指しているのではないでしょうか。ところが、そうではないらしいのです。



マタイ 21:42-44

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
イエスは彼らに言われた,「あなた方は聖書の中で読んだことがないのですか。『建築者たちの退けたその石が主要な隅石となった。これはエホバから生じたのであり,わたしたちの目には驚嘆すべきものである』とあるのです。このゆえにあなた方に言いますが,神の王国はあなた方から取られ,その実を生み出す国民に与えられるのです。また,この石の上に落ちる人は粉々になるでしょう。これがその上に落ちる人は,みじんに砕かれるでしょう」。

ペテロ第一 2:4-8

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
確かに彼は人には退けられましたが,神にとっては選ばれた貴重な[石]であり,あなた方は,生ける石に対するように彼のもとに来て,自らもまた生ける石となって聖なる祭司職のための霊的な家に築き上げられてゆくのです。それは,神に受け入れられる霊的な犠牲をイエス・キリストを通してささげるためのものです。というのは,聖書にこうあるからです。「見よ,わたしはシオンにひとつの石を据える。選ばれた[石],土台の隅石,貴重な[石]である。これに信仰を働かせる者は決して失望に至ることがない」。
したがって,彼が貴重なのはあなた方にとってであり,それはあなた方が信じる者となっているからです。しかし,信じていない者たちにとっては,「建築者たちの退けたその石が隅の頭となった」,また「つまずきの石,とがのもととなる岩塊」です。こうした人々はみ言葉に不従順なためにつまずいているのです。彼らはまさにそうした結末に定められてもいました。



 通常、このような文脈のもとで「この石」と言えば、それは「その実を生み出す国民」を指すはずです。しかし、ペテロが述べたように「この石」はイエスのことでした。ペテロはついでに「岩塊」という言葉もイエスに当てはめています。
 ペテロはイエスの12人の弟子のひとりであり、普段からイエスと接し、イエスの話し方を理解していました。それで、イエスから「この岩塊に」と言われた時、それは自分のことだとは思わなかったようです。実際、聖書の記録では、ペテロは自分のことを「岩塊」であると自称したり、そのようなことをほのめかしたりはしていません。後代になってキリスト教はペテロが教会を設立し初代教皇の座に就いたという話をでっち上げましたが、その伝説は一部の点を除いて嘘です。
 ペテロにすれば、自分が名実ともにほんとうの意味でイエスの弟子であるか問われているという気分だったのではないでしょうか。ほんとうにイエスの弟子なら、イエスの話し方を知っており、こんな罠にひっかけられたりはしないはずです。

 そのようなわけで、イエスの述べた「この世代」という表現も、普通の言語感覚で聞いたりすべきではないということのようです。



マタイ 24:21-22

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
その時,世の初めから今に至るまで起きたことがなく,いいえ,二度と起きないような大患難があるからです。実際,その日が短くされないとすれば,肉なる者はだれも救われないでしょう。しかし,選ばれた者たちのゆえに,その日は短くされるのです。



 このように考えた場合、イエスがマタイ 24:34で述べた「この世代」とは、マタイ 24:22で述べられた「選ばれた者たち」のことであるという結論になるようです。



○ 課題

 イエスによるこのような特殊な表現の事例がほかにも見つかるということはないでしょうか。
 では、マタイ 24:22を読み、「その日」という表現に注目してください。もし、ここで述べられている「その日」が、文脈のマタイ 24:19における「その日」と同じだとすれば、その意味がどう変わるか、考えてください。
 答えを得るために、ハルマゲドンが遅れることについて述べた、ハバクク 2:3と啓示(黙示録) 8:1-6を読みましょう。
 さらに、エホバの証人の公式サイトに行き、『見えるところによってではなく,信仰によって歩む』のドラマを見、その中で語られる「エホバは辛抱強い神だ」という言葉に注目しましょう。






 追記となります。(*この記述は2015年10月に公表されました。)
 エホバの証人の立場にある方々の中には、最近になって自分たちの出版物にこのような見解が示されていることについて不思議に思う方がおられるかもしれません。



◇ 「ものみの塔」誌2008年2月15日号, ものみの塔聖書冊子協会

 「世代」という語は普通,ある特定の時期に生きている,もしくはある特定の出来事を経験する,様々な年齢層の人々を指して用いられます。例えば,出エジプト記 1章6節には,「ついにヨセフは死に,また彼のすべての兄弟とその世代のすべての者たちも死んだ」と記されています。ヨセフとその兄弟たちは,年齢がそれぞれ異なりましたが,同じ時期に共通の経験をしました。「その世代」には,ヨセフより前に生まれた兄の幾人かも含まれていました。その中には,ヨセフより長生きした人たちもいます。(創 50:24)また,「その世代」の人々の中にはベニヤミンのように,ヨセフの誕生後に生まれてヨセフの死んだ後も生きていたと思われる人々もいます。
 ですから,「世代」とは,ある特定の時代に生きている人々に関して用いられる場合,終わりのあるもので,極端に長く続くものではない,と言えるだけで,厳密な長さを述べることはできません。それゆえ,マタイ 24章34節に記されているように,イエスは「この世代」という表現を用いることによって,「終わりの日」がいつ終わるかを算定するための手がかりを与えたわけではありません。それどころかイエスは,「その日と時刻」を弟子たちは知り得ないということを強調したのです。―テモ二 3:1。マタ 24:36。



◇ 「ものみの塔」誌2014年1月15日号, ものみの塔聖書冊子協会

 わたしたちの理解によれば,イエスが言及した「この世代」には,油そそがれたクリスチャンの2つのグループが含まれています。第一のグループは1914年に生存していた人たちで,その年におけるキリストの臨在のしるしをすぐに識別しました。このグループを構成している人たちは,1914年に生きていたというだけでなく,その年に,あるいはそれより前に神の子として霊によって油そそがれていました。―ロマ 8:14-17。
 「この世代」に含まれる第二のグループを構成する人たちは皆,第一のグループに属する人たちの一部がまだ地上にいる間に生きていて,その期間中に聖霊によって油そそがれた人たちです。ですから,今日の油そそがれた人たちすべてが,イエスの述べた「この世代」に含まれるわけではありません。今日,この第二のグループを構成する人たち自身も高齢になっています。それでも,マタイ 24章34節のイエスの言葉は,「この世代」の少なくとも一部が,大患難の始まりを見るまでは「決して過ぎ去(らない)」ことを確証しています。このことから,神の王国が邪悪な者たちを滅ぼして義の宿る新しい世をもたらすまでには,あまり時間がないということも,いっそう確信できるはずです。―ペテ二 3:13。



 イエスが述べた「世代」を終わりの日に適用する場合、その世代は2つのグループに分けられ、実質的に1世代ではなく2世代になるという説明です。その根拠となっているのが、出エジプト 1:6に見られるヨセフの世代に関する記述です。



創世記 50:23,24

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
そしてヨセフはエフライムの三代目の子らを見,またマナセの子マキルの子らを[見た]。それらはヨセフのひざに生まれたのである。ついにヨセフは兄弟たちに言った,「わたしは死のうとしています。しかし神は必ずあなた方に注意を向け,この地からきっと携え出して,アブラハム,イサク,ヤコブに誓われた地に至らせてくださるでしょう」。

出エジプト 1:6

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
ついにヨセフは死に,また彼のすべての兄弟とその世代のすべての者たちも[死んだ]。



 見たところ確かに、ヨセフの世代は実質2世代となるようです。
 しかし、ここでの問題は、終わりの日の「世代」の長さを決めるにあたってどうしてヨセフの世代が引き合いに出されるのか、ということでしょう。終わりの日の世代とヨセフの世代とにはあまり関係がないように見えます。そうだとすると、これはこじつけだということにはならないでしょうか。
 今のところ、この疑問についてエホバの証人の公式の答えは公表されていないようです。それで、この教理について詳細な解説を述べたいと思います。

 エホバの証人の教理において終わりの日の世代がヨセフの世代と関連付けられる背景には、次の2つの聖句の関連があると考えられます。



マタイ 24:45-47

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
「主人が,時に応じてその召使いたちに食物を与えさせるため,彼らの上に任命した,忠実で思慮深い奴隷はいったいだれでしょうか。主人が到着して,そうしているところを見るならば,その奴隷は幸いです。あなた方に真実に言いますが,[主人]は彼を任命して自分のすべての持ち物をつかさどらせるでしょう。

創世記 41:29-43

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
「これから,エジプトの全土には非常に豊作の七年が来ます。しかし,飢きんの七年が必ずその後に起こります。エジプトの地のすべての豊作はきっと忘れられ,飢きんがこの地をまさになめつくすことになります。そして,この地のかつての豊作は後に来るその飢きんのために知られなくなります。それは必ず非常に厳しいものとなるからです。そして,この夢がファラオに二度繰り返されたということは,それが[まことの]神の側において堅く定められたという意味であり,[まことの]神は速やかにそれを行なわれるのです。
「それで今,ファラオは思慮深くて知恵のある人を見つけ,その人をエジプトの地の上にお立てになりますように。ファラオは行動され,この地に監督たちを任命されますように。そして,豊作の七年の間エジプトの地の五分の一をお取りにならなければなりません。そして,それらの人にこれから来る良い年のすべての食料を集めさせ,ファラオの手の下に穀物を食料としてそれぞれの都市に蓄えさせられますように。そして彼らはそれを安全に守らなければなりません。こうして,エジプトの地に広がる七年の飢きんの間,その食料がこの地のための備えとなり,この地が飢きんによって断たれることのないようにするのです」。
さて,これはファラオおよびそのすべての僕たちの目に良いことに見えた。それでファラオはその僕たちに言った,「神の霊が宿るこのような人をほかに見いだすことができようか」。その後ファラオはヨセフに言った,「神があなたにこのすべてを知らせられたのであるから,あなたのように思慮深くて知恵のある人はいない。あなた自身がわたしの家をつかさどり,わたしの民すべてはあなたに全面的に従うことになる。ただ王座に関してのみわたしがあなたより大いなる者となる」。そしてファラオはさらにヨセフに言った,「見なさい,わたしはあなたを確かに据えてエジプトの全土をつかさどらせる」。そうしてファラオは認印指輪を自分の手から外してヨセフの手にはめ,上等の亜麻布の衣を彼に着せ,金の首飾りをその首に掛けさせた。さらに,自分の持つ第二位の兵車に彼を乗らせて,その前に「アブレーク!」と呼ばわらせ,こうして彼をエジプトの全土の上に据えた。



 聖書の預言の特徴の一つは予型論です。そして、ヨセフに関する聖書の記述は、イエスの述べた「忠実で思慮深い奴隷」に関する記述とよく似ています。
 この共通性は、詳細な要素を検討するとさらに強化されます。ヨセフの時代の場合、エジプトに飢饉が生じることが神によって予告され、神が「思慮深くて知恵のある」人であるヨセフを用意して、食物の配給を行いました。しかも、ヨセフはエジプトに奴隷として売られた人です。一方、終わりの日について述べたメシア預言では、「エホバの言葉を聞くことの飢きん」が生じることが予告されています。



アモス 8:11

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
「『見よ,[その]日が来る』と,主権者なる主エホバはお告げになる。『そしてわたしはその地に飢きんを送り込む。パンの飢きんではない。水の渇きでもない。エホバの言葉を聞くことの[飢きん]である。



 しかしエホバの僕たちには食糧が供給されます。



イザヤ 65:13

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
それゆえ,主権者なる主エホバはこのように言われた。「見よ,わたしの僕たちは食べるが,あなた方は飢える。見よ,わたしの僕たちは飲むが,あなた方は渇く。見よ,わたしの僕たちは歓ぶが,あなた方は恥をかく。



 メシア預言がこのようなことを予告しているのであれば、その実現のために何かの仕組みが必要ではないでしょうか。具体的には、エホバの言葉という食糧を提供する人材が必要です。そのようなわけで、イエスは「忠実で思慮深い奴隷」について述べた時、メシア預言で述べられている食糧の供給が実現する時にはヨセフのような人材が現れて神から任命されるだろう、ということを言いたかったものと思われます。
 さらに、イエスの述べた「世代」がこの「忠実で思慮深い奴隷」のことであるという仮定を導入すると、必然的に、「世代」についてのイエスの言葉もヨセフの記述を参考にして述べられたのだろうということになります。

 今のところ、このような解説はエホバの証人の公式の教理としては示されていませんが、まだ公表されていないだけで、エホバの証人組織の中枢ではすでにこれが既定の路線になっているものと思われます。
 とはいえ、2015年10月には新世界訳聖書のスタディー版が刊行され、そのマタイ 24:45の注釈がこのように述べています。



◇ 新世界訳聖書英語スタディー版, マタイ 24:45の注釈

セプトゥアギンタ訳は創世記 41:33, 39にてこの語をヨセフに適用している。



 今後はこのような資料を土台にして上記のような教理の説明が行われるものと思われます。

 しかしもしかすると、説明はされないかもしれません。というのも、最近になって、エホバの証人組織は新しい教理について詳しい解説をすることが少なくなってきているからです。これは、信者の立場にある人たちにとっては面白くないでしょうし、信仰の試みにもなると思います。