新世界訳
エホバの証人の聖書

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マタイ 25:46

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
そして,これらの者は去って永遠の切断に入り,義なる者たちは永遠の命に入ります」。

◇ 新改訳聖書 [第三版] ◇ (ファンダメンタル)
こうして、この人たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」



 新改訳聖書において「永遠の刑罰」と訳出されているところ、新世界訳聖書では「永遠の切断」と訳出されています。これはどうしてでしょうか。聖書のこの表現が伝統的に地獄の概念と結びつけられてきたからです。

 この聖句は、文脈のマタイ 25:41と連動しています。また、関連する聖句にマタイ 13:40-42があります。



マタイ 25:41

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
「ついで彼は自分の左にいる者たちにこう言います。『のろわれた者たちよ,わたしから離れ,悪魔とその使いたちのために備えられた永遠の火に入りなさい。

マタイ 13:40-42

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
人の子は自分の使いたちを遣わし,彼らは,すべてつまずきのもとになるものや不法を行なっている者を自分の王国から集め出し,それを火の燃える炉の中に投げ込みます。そこで[彼らは]泣き悲しんだり歯ぎしりしたりするでしょう



 こういった表現は、聖書が書かれてからしばらく後に“地獄における永遠の火の裁き”という概念を生み出しました。しかし、聖書が「永遠の火」という表現を用いたとしても、それは地獄の炎を指しているのではないと考えるべき十分な証拠があります。

 イエスはその寓話の中で度々「火」という表現を用いました。今問題となっている聖句もイエスの寓話のひとつです。その基礎的な用法を見てみましょう。



マタイ 3:10,12

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
すでに斧は木の根もとに置かれています。それで,りっぱな実を生み出さない木はみな切り倒されて火に投げ込まれるのです。
[穀物を]あおり分けるシャベルがその手にあり,その方は自分の脱穀場をすっかりきれいにし,自分の小麦を倉の中に集め,もみがらのほうは,消すことのできない火で焼き払うのです」。



 ここには「消すことのできない火」という表現が出てきますが、そのような表現があるからといって、切り倒された木やもみがらがそこで永遠に焼かれるというわけではありません。火そのものは消えなくても、木はそのうち燃え尽きるものです。
 このことと調和しているのがテサロニケ第二 1:9の記述です。



テサロニケ第二 1:9

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
実にこれらの者たちは,主のみ前から,またその力の栄光から[離れて]永遠の滅びという司法上の処罰を受けます。



 ここでは、マタイ 25:46の「永遠の刑罰」という表現が「永遠の滅びの刑罰」と言い替えられている様子を見ることができます。
 さらにローマ 6:23を見てみましょう。



ローマ 6:23

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
罪の報いは死ですが,神の賜物は,わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命だからです。



 ここから、「永遠の刑罰」や「永遠の滅び」という表現が、「死」の言い替え表現である様子を見ることができます。

 聖書は死ということについて何と述べているでしょうか。



伝道(コヘレト) 9:4-11

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
すべての生きている者と結び合わされている者にはだれであれ確信がある。生きている犬は死んだライオンよりもましだからである。生きている者は自分が死ぬことを知っている。しかし,死んだ者には何の意識もなく,彼らはもはや報いを受けることもない。なぜなら,彼らの記憶は忘れ去られたからである。また,その愛も憎しみもねたみも既に滅びうせ,彼らは日の下で行なわれるどんなことにも,定めのない時に至るまでもはや何の分も持たない。
行って,歓びをもってあなたの食物を食べ,良い心をもってあなたのぶどう酒を飲め。[まことの]神は既にあなたの業に楽しみを見いだされたからである。どんな時にもあなたの衣は白くあるべきであり,あなたの頭に油を絶やしてはならない。日の下で[神]があなたにお与えになったあなたのむなしい命の日の限り,そのむなしい日の限り,自分の愛する妻と共に命を見よ。それが,命と,あなたが日の下で骨折って働いているその骨折りとにおける,あなたの分だからである。あなたの手のなし得るすべてのことを力の限りを尽くして行なえ。シェオル,すなわちあなたの行こうとしている場所には,業も企ても知識も知恵もないからである。



 なぜ「もはや報いを受けない」と述べられているのでしょうか。いまローマ 6:23で見たように、罪の報いは死であるからです。死ぬことによって罪を償ったのであれば、もう罪を償う必要はありません。
 この聖句はさらに「死んだ者には何の意識もない」、シェオル(死後の世界)*には「業も企ても知識も知恵もない」とも述べています。この記述からは、死んだ人が火にあぶられ苦しんでいるというような地獄の概念は読み取れません。(*シェオルはハルマゲドンと同様、架空の地所です。実在するわけではありません。)

 では、永遠の火についてのイエスの言葉やその関連聖句はどのように理解すべきなのでしょうか。ここで問題となるのは、聖書には死者についての二つの概念が示されていることです。



○ 聖書における死者に関する二つの矛盾した記述

死んだ者には意識がない ≠ 死んだ者には意識がある

死んだ者は報いを受けない ≠ 死んだ者はさらに報いを受ける



 この矛盾を解決するにはどのような考え方が必要でしょうか。聖書の表現を事実表現と寓話表現とに分ける考え方が必要です。

 聖書における“火による裁き”は、イエスのたとえ話、あるいは幻、あるいは預言的表現といった形で、すべて寓話表現として出てきます。“寓話表現”とは何でしょうか。簡単に言うと作り話のことです。クリスチャンは、その信仰のゆえに聖書そのものを寓話とみなすことはありませんが、聖書自身が寓話として取り扱う話については、それが寓話であることを認めます。



○ 聖書における二つの表現

事実表現
寓話表現



○ ウサギとカメ

 よく知られた寓話に「ウサギとカメ」あるいは「アリとキリギリス」があります。どちらの話でも動物が会話を交わしますが、私たちはこれらの動物がほんとうに言葉をしゃべるわけではないことを知っています。



 ではここで、聖書の寓話表現の典型例を見てみましょう。



裁き人(士師記) 9:8-15

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
「昔,木々が自分たちを治める王に油をそそぐために出かけて行った。そうして彼らはオリーブの木にこう言った。『是非ともわたしたちを治める王になってください』。しかしオリーブの木は彼らに言った,『わたしは神と人との栄光となるわたしの肥えたものを捨てて,他の木々の上に揺れ動くために出かけて行かなければならないのか』。そこで木々はいちじくの木に言った,『あなたが来て,わたしたちの上に女王となってください』。ところがいちじくの木は言った,『わたしは自分の甘みと良い産物とを捨てて,他の木々の上に揺れ動くために出かけて行かなければならないのでしょうか』。次に木々はぶどうの木に言った,『あなたが来て,わたしたちの上に女王となってください』。それに対してぶどうの木は言った,『わたしは神と人とを歓ばせるわたしの新しいぶどう酒を捨てて,他の木々の上に揺れ動くために出かけて行かなければならないでしょうか』。最後に他のすべての木は野いばらに言った,『あなたが来て,わたしたちの上に王となってください』。これに対し野いばらは木々に言った,『あなた方がわたしに油をそそいであなた方の王にするというのが真実であるなら,来てわたしの影の下に避難したらよいだろう。だが,もしそうでないのなら,火がこの野いばらから出て,レバノンの杉をも焼き尽くすように』。



 これは実際にあった出来事でしょうか。そのようなことはないはずです。

 ところが、キリスト教世界には聖書の寓話表現を事実表現と見なすファンダメンタルな見方が広まっているというのが実情です。するとどのようなことが生じるでしょうか。このような見方の極致ともいえる事例を見てみましょう。



◇ 「新キリスト教辞典」, 『死後の状態』の項, いのちのことば社

 確かに旧約聖書は、死が眠りである(詩篇13:3等)と述べている。しかし、眠りは比喩的表現であって、文字通りにとるべきではない。旧約聖書は、死後人間が存在することを明確に教えている。
 新約聖書においても、死は眠りであると言われている(マタイ9:24,Ⅰコリント15:18,20,51等)が、人間の生理的な状態を指しているわけではない。「眠り」は死の比喩的な表現である。また、いずれの言及も、眠りは魂ではなく、からだの眠りを指している。人間が死後、その魂が意識的に存在することについて、新約聖書は明確に教えている(ルカ16:19-31)。死後、魂が眠るという説も、全く聖書的根拠はない。この説は、教理的逸脱である。



 引き合いに出されている聖句を見てみましょう。
 まず、新キリスト教辞典がこれは比喩的表現だから寓話表現だと見なしている聖句です。



詩編 13:3 (共同訳系聖書では 13:4)

◇ 新改訳聖書 [第三版] ◇ (ファンダメンタル)
私に目を注ぎ、私に答えてください。 私の神、主よ。私の目を輝かせてください。 私が死の眠りにつかないように。

マタイ 9:24

◇ 新改訳聖書 [第三版] ◇ (ファンダメンタル)
言われた。「あちらに行きなさい。その子は死んだのではない。眠っているのです。」すると、彼らはイエスをあざ笑った。

コリント第一 15:18,20,51

◇ 新改訳聖書 [第三版] ◇ (ファンダメンタル)
そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。
しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。



 いくらか解説が必要なところはありますが、これらの聖句は基本的に事実表現であり、聖書における他の事実表現と調和しています。
 今度は、新キリスト教辞典が事実表現と見なしている聖句を見てみましょう。



ルカ 16:19-31

◇ 新改訳聖書 [第三版] ◇ (ファンダメンタル)
ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。ところが、その門前にラザロという全身おできの貧しい人が寝ていて、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。さて、この貧しい人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』彼は言った。『いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。』アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」



 こちらは明らかに寓話表現です。
 新キリスト教辞典は、聖書の寓話表現を事実表現と見なすファンダメンタルな見方にこだわった結果、発想が転回し、事実表現の方が寓話表現であると結論するに至ったようです。



○ キリスト教神学における転回

 キリスト教神学にはこのような転回がいくつも見られます。なぜそのようなことが生じるのでしょうか。
 多くの場合その原因となっているのは、聖書の基本的真理に対して例外である表現が聖書自身にあることです。たとえば、聖書は運命論を支持していませんが、その聖書の中に運命論を支持しているように読める表現があります。聖書は占星術を罪としていますが、占星術を認めているように読める記述があります。イエスは神の子ですが、イエスが神であると読める表現が聖書にはあります。聖書は復活が終わりの日に生じることを示していますが、それより前に復活が始まっていると読めるところがあります。これにより聖書の真理に対する疑念が生じます。その疑念を振り払おうと神学的努力を重ねた結果、このような転回が生じることがあるようです。



 さて、聖書の寓話表現の中にいわゆる地獄の概念が出てくるのはなぜでしょうか。それは単に寓話を成立させるためであるようです。
 聖書の事実表現は「死んだ者には意識がない」そして「死んだ者は報いを受けない」ということを示しています。しかし、先に引用したラザロのたとえ話の場合、話の途中でこれらの真理を持ち出すと、どういうことになるでしょう。そこで話はストップしてしまい、話の目的は果たされないのではないでしょうか。それでは話にならないので、たとえ話や幻といった寓話表現の中でだけ、死んだ人に生きていてもらう必要がでてくるということのようです。
 聖書の寓話表現の主要な目的が「教訓を提示する」ことにあるということを考えるなら、寓話表現において死者に意識を持たせることはたいへん有益です。



○ 聖書における地獄の表現

寓話表現として語られている
死者の状態は訓話を語るという目的に最適化されている



◇ 「今ある命がすべてですか」, ものみの塔聖書冊子協会

 ハデスが死んだ人類の共通の墓にすぎないものであるとすれば,なぜ聖書は,ある富んだ人がハデスの火の中で責め苦に遭うことについて述べているのですか。これは,ハデスが,あるいは少なくともその一部が,火の燃える責め苦の場所であることを示しているのでしょうか。
 地獄の火について教える人々は,この記述こそ,悪人の前途に責め苦の場所の地獄が控えている明確な証拠である,としきりに指摘します。しかし,そのようにしつつも,そうした人々は,「罪を犯している魂 ― それが死ぬ」と聖書が繰り返しはっきり述べている点を無視します。(エゼキエル 18:4,20)そしてまた,「死者は,なんの意識も全くない」と述べられているのです。(伝道 9:5)「失われた魂」が火の燃える地獄で責め苦を受けるという考えを,これらの言葉が支持していないことは明白です。
 それゆえ,死者の状態に関する聖書の教えは,キリスト教世界の多くの牧師を苦しい立場に立たせています。彼らがその教えの基であるとする聖書そのものが,彼らの教理と相入れないからです。それでも彼らは,意識的にも無意識的にも,自分たちの論点を証明する何かを聖書の中に読み取らねばならないと考え,こうして自らと他の人々を真理に対して盲目にならせています。これが故意になされる場合さえ少なくありません。

 キリスト教世界の牧師がイエスのたとえ話に関するこの理解に通じていないというのは十分に理由のあることではありません。プロテスタントの指導的な注解書である「解釈者のための聖書」は,同様の説明に注意を促しています。同書は,イエスの言葉を「寓意的な付加物」と見る解釈者の多いことを指摘し,さらにこう述べています。「それは,初期キリスト教と伝統的ユダヤ教との衝突を想定したものであると見られている。富んだ人とその兄弟たちは不信仰なユダヤ人を指す。彼らは,聖書にある,イエスに関する明瞭な証言にもかかわらず,かたくなな態度で悔い改めを拒んだ,それゆえイエスの復活によっても心を動かされないであろう,というのが,この記述中でのイエスの主張である。ルカ自身およびその記述の読者たちがこれらの句にそうした解釈を施したのは考えうることである」。また,カトリックの「エルサレム聖書」は,ルカ 16章に関する脚注の中で,これは「特定の実在人物を持たない寓話的な物語である」と認めています。
 こうした点から考えるとき,わたしたちは当然次のことを尋ねます。キリスト教世界の牧師はこれが寓話であるということをなぜ自分の教会員に対して認めていないのでしょうか。聖書は人間の魂の不滅を教えていないということを知っている人々が,明らかな寓話をなおも字義どおりに当てはめようとするのはなぜですか。それは正直さの欠けたことではありませんか。それは,事実を意識的に覆い隠して,神の言葉を無視することではありませんか。



◇ “THE NIV THEOLOGICAL DICTIONARY OF NEW TESTAMENT WORDS”, “κόλασις”の項

 “永遠の刑罰”もしくは“永遠の火”という表現に必ず、繰り返し継続的に裁かれるとかいつまでも焼き続けられるというような意味があるわけではない。火の隠喩の適用においては、それは単に司法の火が生じ続けていることを意味している。だが、それによってひとたび焼かれた者はいつまでも焼かれた者である。



◇ “THE NIV THEOLOGICAL DICTIONARY OF NEW TESTAMENT WORDS”, “γέεννα”の項

 後代にキリスト教徒が書いたり考えたりしたこととは対照的に、新約聖書は地獄での責め苦について描写していない。



 本題となっている翻訳の話に戻りましょう。

 新世界訳聖書が「永遠の切断」という訳を採用したのはなぜでしょうか。これは、たとえば「懲役刑」などと言う時のように、この刑罰に生存の要素、また時間的な要素を持たせないためであるようです。「切断」という訳語はここで用いられているギリシャ語のもう一つの意味ですので、この訳語を採用することにより、聖書のニュアンスを損なうことなく誤読の問題を回避できます。
 ただ、この訳語の採用には問題点が一つあります。ここで用いられているギリシャ語は κόλασις (コラシス)ですが、「切断」という語義は必ずしもその語に対して直接的でないという点です。そのため、新世界訳聖書のこの訳し方に反対する人もいます。



◇ 「ものみの塔の新世界訳聖書は改ざん聖書」, 正木弥 (表記修正)

 ギリシャ語本文の単語κολασινコラシンは「懲らしめ」「懲罰」「刑罰」を意味します。どんな辞書にも「切断」と言う意味はありません。ものみの塔協会が発行する冊子で引用しているギリシャ語学者ジュリアス・マンティは、これに抗議して「コラシスの唯一の意味は”刑罰”である」と述べています。ですから一般のInterlinearであるネストレ版では"punishment"と訳しているのです。しかし、ものみの塔・エホバの証人たちは、その創始者ラッセル以来、神が永遠の刑罰を与えるということを信じたくないので、聖書を変えた(改ざん)したのです。



 ここで用いられているギリシャ語単語 κόλασις (コラシス)を辞書で引いても「切断」という意味が載っていないというのはほんとうでしょうか。多くの辞書において、その通りです。これには少し事情があります。



◇ 「聖書から論じる」, 『地獄』の項, ものみの塔聖書冊子協会

 エンファティック・ダイアグロット訳は「刑罰」とする代わりに,「切断」としています。その脚注はこう述べています。「コラシンは……コラゾーに由来しており,この語には次のような意味がある。1. 切り断つ; 木の枝を切り取るように,刈り込む。2. 抑制する,抑圧する。……3. 打ち懲らす,罰する。個人を命から,あるいは社会から切り断つこと,あるいは抑制することでさえ,刑罰とみなされる; ―ゆえに,この言葉のこのような第3の隠喩的な用法が生じたのである。第1の語義が採用されてきたのは,それがこの文の第二節とよく合致するからであり,こうしてこの対照法の効力と魅力を保持しているのである。正しい者は生命に向かい,悪しき者は生命から切り断たれること,つまり死に向かうのである。テサロニケ第二 1:9参照。」



 ギリシャ語 κόλασις における「切断」の意味は、語義であるというより細かいニュアンスであるということのようです。つまり、この語の基本的意味は「刑罰」ですが、そこには「社会から切り離される」もしくは「命を断たれる」というニュアンスが含まれています。

 このことは辞書を使って確認できるでしょうか。



◇ 「増補改訂新約ギリシヤ語辞典」, 岩隈直, “κόλασις”の項 (表記修正)

【<κολάζω】懲らしめ,懲罰,刑罰;(神の)マタイ 25:46.



 「切断」という意味は示されていません。しかし、その冒頭に「【<κολάζω】」という表記があります。これは、この語の語源(由来)が κολάζω (コラゾー)であるということを示しています。これを確認するには κολάζω の項を引かなければなりません。



◇ 「増補改訂新約ギリシヤ語辞典」, 岩隈直, “κολάζω”の項 (表記修正)

【<κόλος 短く切った】【(本来)切って短くする,切断する?;抑制する】懲らしめる,懲罰を加える,罰する;



 ここではじめて「切断する」のニュアンスが示されました。

 以上の内容から、新世界訳聖書の「永遠の切断」という訳が間違っているということはないようです。しかし、この訳はどれほど適切なのでしょうか。この答えを得るために、関連している聖句を並べて見てみましょう。



マタイ 3:10

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
すでに斧は木の根もとに置かれています。それで,りっぱな実を生み出さない木はみな切り倒されて火に投げ込まれるのです。

マタイ 3:12

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
[穀物を]あおり分けるシャベルがその手にあり,その方は自分の脱穀場をすっかりきれいにし,自分の小麦を倉の中に集め,もみがらのほうは,消すことのできない火で焼き払うのです」。

マタイ 13:40-42

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
それゆえ,雑草が集められて火で焼かれるのと同じように,事物の体制の終結のときにもそのようになります。人の子は自分の使いたちを遣わし,彼らは,すべてつまずきのもとになるものや不法を行なっている者を自分の王国から集め出し,それを火の燃える炉の中に投げ込みます。そこで[彼らは]泣き悲しんだり歯ぎしりしたりするでしょう。

ヨハネ 15:6

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
わたしと結びついたままでいないなら,その人は枝のようにほうり出されて枯れてしまいます。そして人々はそうした枝を寄せ集めて火の中に投げ込み,それは焼かれてしまいます。



 火による裁きに関するイエスの言葉を調べると、様々な言い替えがなされているとはいえ、基本的に二つのステップが示されていることがわかります。それは、まず切断、次いで滅びです。たとえば穀類の場合、脱穀の作業のあと、不要な籾殻が焼却されます。このことからすると、 κόλασις における「切断」のニュアンスは聖書において失われていないと言うことができるようです。



○ 糸電話

 「電話」という言葉には“電”の文字が使われており、この文字には「電気の仕組みを利用した」というニュアンスがあります。しかし、「電話」から派生した「糸電話」という言葉の場合、このニュアンスはもはや意味を持たなくなります。一方、「携帯電話」と言う時にはこのニュアンスは保たれています。



 しかし、ここで再びマタイ 25:46に注目してください。



マタイ 25:46

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
そして,これらの者は去って永遠の切断に入り,義なる者たちは永遠の命に入ります」。



 ここには、火による裁きの切断のステップに対応する表現である「去って」という言葉があります。ですから、「永遠の刑罰」という表現を「永遠の切断」と訳出すると、表現が二重となってしまうことになるようです。
 ここを訳し変えるというのなら「永遠の滅び」とするべきではないでしょうか。神学的に見ればそれは妥当な訳です。しかしこれは意訳となるでしょう。字義訳の範囲内で訳語を決定し、かつ聖書の誤読を防止しようとするのであれば、「永遠の切断」という訳語の選択はやむを得ないのかもしれません。火による裁きの概念は二重の切断を意味してもいるのですから、この訳にもある程度の妥当性を認めることができるでしょう。私見となりますが、テサロニケ第二 1:9との調和を図った「永遠[の滅び]の刑罰」の訳がもっとも優れているように思います。

 この聖句については新改訳聖書の訳文に別の難点があるようです。



マタイ 25:46

◇ 新改訳聖書 ◇ (ファンダメンタル)
こうして、この人たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」



 新改訳聖書には、新世界訳聖書にはある「去って」という語がありません。口語訳聖書や新共同訳聖書も同様です。これはなぜでしょうか。これについて知るには少し原典を見る必要があります。



マタイ 25:46 原典

καὶ ἀπελεύσονται οὗτοι εἰς κόλασιν αἰώνιον, οἱ δὲ δίκαιοι εἰς ζωὴν αἰώνιον.



 ここは「去って永遠の刑罰に[至る]」とも「永遠の刑罰へと去る」とも訳せるようです。一般的な邦訳聖書は後者を選択したうえで、訳文が自然になるよう「……へ去る」を「……に入る」もしくは「……を受ける」と訳し変えているようです。
 しかし、この聖句は火による裁きに特徴的な二つのステップについて述べているように思われますので、新世界訳聖書の選択した訳文のほうがよいようです。

 テサロニケ第二 1:9に再び注目してみましょう。



テサロニケ第二 1:9

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
実にこれらの者たちは,主のみ前から,またその力の栄光から[離れて]永遠の滅びという司法上の処罰を受けます。

◇ 新改訳聖書 ◇ (ファンダメンタル)
そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
彼らは、主の面前から退けられ、その栄光に輝く力から切り離されて、永遠の破滅という刑罰を受けるでしょう。



 ここでは火による裁きの特徴となる二つのステップが明瞭になる訳文が採用されています。興味深いのは、新共同訳聖書がここで「切り離されて」という語の挿入を選択していることです。これは適切な訳文だと言えるようです。というのも、すでに見てきたことからわかるように、火による裁きについての二つのステップは、ギリシャ語 κολασις の持つ二つのニュアンスを示すものであるようだからです。その二つのニュアンスとは「切断」と「刑罰」ですから、新共同訳聖書の訳文には言語的また神学的な配慮が十分に示されていると言えるでしょう。



○ 課題

 聖書の啓示の書(黙示録)には、火による裁きについて述べたイエスの言葉を極端に発展させた言い回しがあります。啓示(黙示録) 20:10を読み、そこで述べられている「責め苦」が何であるかを説明してみましょう。続いて啓示(黙示録) 20:14を読み、「死」が「火の湖に投げ込まれる」という表現に注目してください。これがそのモチーフとなっているイエスの寓話表現とどのように一致しているか説明しましょう。






◆ 死者とエホバの証人

 エホバの証人は、火の裁きに関する聖書の寓話表現を事実表現と見る神学についてどのような態度を取っているでしょうか。エホバの証人はこれがきわめて危険なものであると考えています。なぜでしょうか。そのような神学はそれを信じる人から平安を奪い、さらには金品や生活まで奪ってしまうからです。



◇ 「聖書は実際に何を教えていますか」, ものみの塔聖書冊子協会

 聖書が死者の状態について教えていることを知ると,慰められます。これまで学んできたように,死者は体の痛みも心の痛みも経験しません。死者を怖がる必要はありません。わたしたちに危害を加えることはできないからです。死者はわたしたちの助けを必要としていません。死者がわたしたちを助けることもできません。生きている人が死者と話すことはできず,その逆も不可能です。多くの宗教指導者は,死者を助けることができるという偽りを唱え,信者はお金を寄付します。しかしわたしたちが本当のことを知るなら,そういう偽りを教える人たちに欺かれないよう保護されます。
 死者に関する聖書の教えと,あなたの宗教の教えは一致していますか。ほとんどの宗教の教えは聖書と一致していません。なぜでしょうか。その教えがサタンの影響を受けているからです。サタンは偽りの宗教を利用して,人は体が死んでも霊の世界で生き続けると信じ込ませています。サタンはこの偽りと他の偽りを結び付け,人々をエホバ神から引き離しています。どのようにそうしているでしょうか。
 すでに学んだように,ある宗教では,悪いことばかりした人は死んで火の燃える責め苦の場所に行き,永久に苦しめられると教えます。しかし,この教えは神を辱めるものです。エホバは愛の神であり,そのように人を苦しめることは決してないからです。(ヨハネ第一 4:8)親に従わない子どもを罰するため,その両手を火の中に入れて押さえつける人がいるとしたら,どう思われますか。その人を尊敬できるでしょうか。まして,その人についてよく知りたいと思うでしょうか。そのようなことはとても考えられません。何と残酷な人だ,と思うでしょう。しかしわたしたちが,エホバは人間を火の中で永久に責めさいなむと考えてしまうなら,それこそサタンの思うつぼなのです。
 さらにサタンは様々な宗教を通して,人間は死んで霊になり,生きている人はその霊を敬い,祭るべきであると教えます。その教えによると,死者の霊は強力な味方にもなれば恐ろしい敵にもなります。この偽りを信じる人は少なくありません。死者を恐れ,祭り,崇拝します。しかし聖書の教えは対照的です。死者は眠っているということや,ただひとり真の神であるエホバを,つまりわたしたちの創造者,供給者である方を崇拝すべきであると教えているからです。―啓示 4:11。
 死者について本当のことを知れば,宗教上の偽りに欺かれないよう保護されます。



 エホバの証人は、正統なキリスト教は地獄の教えを説かないと信じています。死者にはもう報いは必要ないとも信じていますので、亡くなった人の葬式を豪華なものにしたり、供養の儀式を行ったりしません。死者に対する哀悼の意を表することは推奨されていますが、死者の冥福を祈る追悼の儀式を行うことは認められません。



○ 死者に対するエホバの証人のスタンス

哀悼の意は示さなければならない

しかし追悼することはしてはならない



テサロニケ第一 4:13

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
また,兄弟たち,[死んで]眠っている者たちについてあなた方が知らないでいることを望みません。希望を持たないほかの人々のように悲しむことのないためです。



◇ 「ものみの塔」誌1978年9月1日号, ものみの塔聖書冊子協会

 愛する人を亡くして深い苦悩や悲しみを感じるのは人間にとって当然のことです。神のしもべたちは,涙を流し,じみな衣服をまとうことによって,そうした悲しみを表わし,苦悩を示しました。(創世 23:2。申命 34:8。ヨハネ 11:33,35,38)キリスト教時代以前には,神のしもべたちは粗布をまとい,ある場合には,死とは別に,災いに関連した悲しみのために,喪に服する期間を定めました。(サムエル後 14:2。エステル 4:1)哀悼の意を表わすことは死者をなだめることとは何の関係もありませんでした。それは,個人的な,あるいは社会的な災いによってもたらされた悲しみの表明でした。
 同様に,エホバを崇拝するクリスチャンたちは,……すでに死んでいる仲間が復活という希望を持って,無意識の状態で「眠っている」ものと考え,死者をなだめたり贖ったりするための儀式は必要ではないと考えています。―ヨハネ 11:11-14。



 このような神学的理由により、エホバの証人は死者の扱いについてはほとんど金も労力もかけないのが普通です。

 これは、エホバの証人に先祖を敬う気持ちがないということでしょうか。エホバの証人が供養の儀式に参加しないのを見てそのように考える人も多くいます。しかしそれは軽率な推論であるようです。エホバの証人は、先祖に対する感謝の行為は先祖が生きているうちに行ってこそ意味があると考えています。そこで、エホバの証人はお年寄りを敬うことにとても熱心です。また、先祖に対する感謝の気持ちは先祖が死んだあとも変わらないと言います。ただ、そのような思いを行動に示すに当たっては、自分たちの信条に反する形式を避けます。ですから、エホバの証人にとってできかねる特定の行動を基準に証人たちの人格を判断するようなことは是非とも避けていただきたいと私は思います。






◆ 教会に対する火の裁き

 ここでは聖書における火の裁きの表現をいろいろと見てきましたが、聖書がこれをキリスト教の教会に対するものとして述べているということを示しておきたいと思います。というのも、最近の諸教会にはただ救いと平安を説いて信者を過剰に安心させる傾向が見られるからです。キリストを信じ、教会に通っていながら、聖書が教会に対する裁きについて教えていることに気づいていない人は少なくないようです。



マタイ 13:40-42

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
それゆえ,雑草が集められて火で焼かれるのと同じように,事物の体制の終結のときにもそのようになります。人の子は自分の使いたちを遣わし,彼らは,すべてつまずきのもとになるものや不法を行なっている者を自分の王国から集め出し,それを火の燃える炉の中に投げ込みます。そこで[彼らは]泣き悲しんだり歯ぎしりしたりするでしょう。



 ここで述べられている「イエスの王国」とは何でしょうか。これはキリスト教の諸教会のことであるようです。また、「事物の体制の終結の時」という表現はハルマゲドンを指しています。ハルマゲドンの時、キリスト教という畑にはたくさんの雑草つまり偽のクリスチャンが生えています。イエスは彼らを救うのではなく処刑すると述べています。ですから、救われるためには教会信徒となる以上のことが必要です。
 するとどうでしょうか。最近の諸教会は信者たちをうまくだましているように私は思います。たいした努力を払ったわけでもないのに自分はもう救われているという気分にさせているのです。しかしそれはある人にとっては危険なことなのかもしれません。



ローマ 11:22

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
それゆえ,神のご親切と厳しさとを見なさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあります。一方あなたに対しては神のご親切があります。ただし,あなたがそのご親切のうちにとどまっていればのことです。そうでないと,あなたも切り落とされることになります。

ヘブライ 12:28-29

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
それゆえ,わたしたちは,揺り動かされることのない王国を受けることになっているのですから,過分のご親切のうちにとどまろうではありませんか。それによってわたしたちは,敬虔な恐れと畏敬とをもって,受け入れられる仕方で神に神聖な奉仕をささげることができます。わたしたちの神は焼き尽くす火でもあるのです。

ペテロ第一 4:17

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
[今]は,裁きが神の家から始まる定めの時だからです。さて,それがまずわたしたちから始まるのであれば,神の良いたよりに従順でない者たちの終わりはどうなるでしょうか。

テモテ第一 6:14

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
わたしたちの主イエス・キリストの顕現の時まで,汚点のない,またとがめられるところのない仕方でおきてを守り行ないなさい。



 聖書は裁きが教会から始まると述べています。これは当然のことと言えるでしょう。もし教会が汚れているとするなら、その教会を汚れたまま救うということなど神にはできないでしょうから。もしあなたが教会の信徒で、その裁きから逃れたいと思っているのでしたら、「聖書のおきてをとがめられるところのない仕方で守る」よう努力する必要があるでしょう。



○ 危険な教会を見分ける

 ここで言う「危険な教会」とは、過剰に救いを説いて裁きを無視してしまう教会です。その教会の信者たちは催眠術にかかったような状態にあり、とても幸福な気分を味わっています。
 これを見分けるにはどうすればよいでしょうか。

『イエス様は優しい方ですから、信じる者を無条件に救ってくださいます。』
『ですから、救われるために一生懸命努力をする必要はありません。』

『イエス様は優しい方ですから、ありのままのあなたを受け入れてくださいます。』
『ですから、救われるために自分を変える努力をする必要はありません。』

 こういった甘い言葉を信者たちに述べている教会は危険な教会である可能性が高いと言えるでしょう。



○ 課題

 ハルマゲドンにおける教会の裁きについて述べたマタイ 13:40-42やペテロ第一 4:17などの聖句は旧約聖書のメシア預言のエゼキエル 9章をモチーフとしています。
 メシア預言における「イスラエル」もしくは「エルサレム」という表現は「神の王国(ここではキリスト教会)」と読み替えなければならないことに注意しながらエゼキエル 9章を読み、4節の「忌むべきこと」とは何のことであるかを具体的に考えてみましょう。さらに、エゼキエル 9:4とテモテ第一 6:14の言葉がどのように関連しているかを説明してみましょう。また、ペテロ第一 4:17の「神の家(教会)」という表現がエゼキエル 9:6の「家(神殿)」を指していることを説明してみましょう。