新世界訳
エホバの証人の聖書

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マルコ 1:4

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
バプテスマを施す人ヨハネが荒野に現われて,罪の許しのための悔い改めの[象徴としての]バプテスマを宣べ伝えた。

◇ 新改訳聖書 [第三版] ◇ (ファンダメンタル)
バプテスマのヨハネが荒野に現れて、罪の赦しのための悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。



 新世界訳聖書に「[象徴としての]」という挿入があるのが気になるところです。

 「フリーマインドジャーナル」1994年5-6月号に掲載された「新世界訳聖書における改竄」は、ファンダメンタルな立場から新世界訳聖書におけるこの聖句の問題を取り上げてこのように指摘しています。



◇ 'Misleading Revisions in the New World Translation' Andy Bjorklund, Free Minds Journal May/Jun 1994

「悔い改めのバプテスマ」が「悔い改めの[象徴としての]バプテスマ」に替えられている。ギリシャ語原典に「象徴としての」という語句を挿入する根拠はない。これはヨハネによるバプテストの奉仕の意義を損なう改竄である。ユダヤ人の行うバプテスマとクリスチャンが秘蹟として受けるバプテスマは、エホバの証人が厳密に規定したバプテスマの資格とは全く縁のないものである。



 ここでは、ヨハネのバプテスマを秘蹟と理解するかどうかが神学上の争点となっているようです。
 「秘蹟(秘跡)」とは何でしょうか。これは“神からの奇跡が伴う儀式”あるいは“神からの奇跡をもたらす儀式”あるいは“神からの奇跡を受けるための儀式”であると言うことができるでしょう。
 バプテスマとは何でしょうか。バプテスマとは人や物を水に浸す儀式のことです。聖書にはいくつかのバプテスマが記録されていますが、その主なものはヨハネのバプテスマとキリストのバプテスマです。キリストのバプテスマは、現在のキリスト教における「洗礼」の由来となりました。

 聖書は、「人は救われるためにバプテスマを受けなければならない」と教えています。そこで、このような問いが生じます。バプテスマは救いをもたらす手段つまり秘蹟なのでしょうか。それとも、バプテスマは救いを表す象徴的な儀式なのでしょうか。
 この問いについて「新キリスト教辞典」はこのように述べています。



◇「新キリスト教辞典」, 『バプテスマ』の項, いのちのことば社 (表記修正)

(ある教派は)水のバプテスマはそれを受ける者に対して神の救いの恵みを運ぶ手段である、すなわち更正を与え、霊的生命を与える効力を持つものである、と考える。バプテスマを秘跡として考えるローマ・カトリック、信仰を前提としてのバプテスマを考えるルーテル派、バプテスマを新生の手段と考える教派は、この立場に属する。
(またある教派は)水のバプテスマは恵みの契約のしるし、または証印である、と考える。改革派や長老派の伝統的考え方である。彼らは、バプテスマの儀式そのものには効力はないが、神の恵みの契約の締結の印であり確証であると言う。(彼らにとって)バプテスマは契約に入る手段であり、救いのしるしである。
(またある教派は)水のバプテスマは救いの証明を象徴する、と考える。バプテスマは信者の中に起こった内的霊的変化の外的なしるし、シンボルあるいは外的表示である。それはイエス・キリストを信じる者の公的あかしである。バプテスマ自体は、救いの効力や霊的力をもたらすものではないが、それによって救いの事実を確証し、他の人々が受浸者の救いを確認するのである。大部分のバプテスト派は、この立場をとる。また、福音的な諸教会の中にもこの立場に立つ人がいる。



 エホバの証人はバプテスマをどのように考えているでしょうか。
 エホバの証人は、バプテスマを悔い改めと献身の象徴と考えています。バプテスマ自体が救いをもたらすことはないと考えますが、バプテスマによってクリスチャンは聖霊を受けると信じます。またバプテスマは神のみ前での清い生き方を人が約束するものと考えます。それは人から神への誓いもしくは契約であり、神から人への永遠の命という報いが伴う双務契約であると考えます。また、バプテスマは神と信者個人とのきわめてプライベートな関係を表すものであり、この関係にエホバの証人組織を含む他者は何者も介入できないとされています。また、このきわめて個人的な関係のもと、バプテスマを受けた者は、神聖な神の奉仕者として神からの直接の叙任を受けるとされます。バプテスマはその者に、神から叙任された奉仕者としての種々の義務を課すゆえに、その義務の遂行努力によってのみ受浸者は救われる、つまりバプテスマそのものを救いの保証と見なすことはできない、と信じます。

 では、新世界訳聖書のマルコ 1:4における「[象徴としての]」の挿入は、このような神学的見解に基づいて行われているのでしょうか。そうではないようです。というのも、新世界訳聖書はヨハネのバプテスマに関する聖書の記述に限って「[象徴としての]」という語句を挿入しているからです。



ルカ 3:3

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
それで彼はヨルダン周辺の全地方に来て,罪の許しのための悔い改めの[象徴としての]バプテスマを宣べ伝えた。

使徒 13:24

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
それは,ヨハネが,その方の登場に先立ち,悔い改めの[象徴としての]バプテスマをイスラエルの民のすべてに公に宣べ伝えた後のことでした。

使徒 19:4

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
パウロは言った,「ヨハネは,悔い改めの[象徴としての]バプテスマを施して,自分の後に来る方,つまりイエスを信じるよう民に告げました」。



 イエスのバプテスマに関する記述にはそのような挿入を行っていません。ですから、新世界訳聖書はイエスのバプテスマが秘蹟であるかどうかという問いに対して中立的な立場を保ち、その一方で、ヨハネのバプテスマについてはこれを秘蹟とは見なさないという立場を示しているようです。

 ヨハネのバプテスマとイエスのバプテスマの違いは何でしょうか。聖書によると救われるにはバプテスマを受けることが、そしてバプテスマを受けるためには悔い改めることが必要ですが、ヨハネのバプテスマは悔い改めの要素に、イエスのバプテスマは救いの要素に重点が置かれています。そして、悔い改めは当人の行為、救いは神の行為とされます。そこで、基本的に悔い改めを意味するヨハネのバプテスマを秘蹟と見なせる可能性はイエスのそれの場合よりもはるかに少ないようです。
 これを別の視点から考察してみましょう。これまで一度も自分の罪を悔いたことのない人がヨハネのもとに来てバプテスマを受けたとします。もしヨハネによるバプテスマが悔い改めの秘蹟であるとするなら、その人はバプテスマの瞬間、神の奇跡の力により自動的に悔い改めた者となるはずです。一方、ヨハネによるバプテスマが悔い改めの秘蹟でないなら、その者は何ら変化しないはずです。もしヨハネのバプテスマが秘蹟であるとしたら、聖書にはその効果のほどが記述されていることでしょう。しかし、そのようなことは聖書に全く書かれていませんので、ヨハネのバプテスマを秘蹟と見なす聖書的根拠は乏しいようです。

 「聖書思想事典」はイエスのバプテスマを秘蹟としつつも、こう述べています。



◇「聖書思想事典」(新版), 『洗礼』の項, 三省堂 (表記修正)

(ヨハネのバプテスマの)儀式を受けるためには、罪を告白し決定的な悔い改めをおこなわねばならない。……(イエスのバプテスマの)洗礼は、受洗者が福音の宣教を聞いて、イエス キリストへの信仰を告白することを前提としている。……ところで、キリストを信ずるとは、単に福音の教えに共鳴することだけでなく、まったき悔い改めをおこない、生活全体を変えて彼に全面的に献身することでもある。それゆえキリストを信ずれば、けっきょくは洗礼を要望するようになり、この秘跡を受けることによって真正のキリスト者となる。……言うまでもなく、洗礼の秘跡は魔術的に働くものではない。洗礼はあますところのない悔い改めを要求するものであり、受洗者はこれを出発点として、神への不屈の誠実のうちに新しい生活を始める。



 しかし、ファンダメンタリストの中にはイエスのバプテスマだけでなくヨハネのバプテスマも秘蹟であると考える人がいます。そのような立場から見れば新世界訳聖書の訳文は改竄されていると言えるでしょう。フリーマインドジャーナルがこのことについてどのように考えているかは定かでありませんが、「[象徴としての]」という語の挿入に反対していることから、これと同じか似た立場を取っているものと思われます。

 




◆ バプテスマの表記

 邦訳聖書においては、聖書のバプテスマをそのまま「バプテスマ」と翻訳する伝統があります。これは、文語訳聖書の訳業の際に生じた対立の所産であるようです。



◇「日本の聖書」, 海老澤有道 (表記修正)

N・ブラウンは1874年6月に発足した各派共同の翻訳委員社中に加わった。委員会ではまずヘボン訳の『路加(ルカ)伝』草稿の検討が始められたが、7月に至り彼は「バプテスマ」の訳語をヘボンのように「洗礼」とすることに反対、「浸礼(しづめ)」と訳すべきことを主張し、激しい論争の末、「洗礼」と訳すか、折衷案として「バプテスマ」とするかを、宣教師の一般投票に問うことになった。その結果は「バプテスマ」が多数を占め、1875年ようやく『路加伝』の刊行を見たのであった。



 聖書のバプテスマとは、水に沈めること、つまり浸礼を意味します。しかし、多くのキリスト教会は浸礼に代わるものとして洗礼、つまり水を振りかけることを行ってきました。そのため、多くの言語の聖書翻訳においてバプテスマは「洗礼」と訳出されています。
 ブラウンはそれが気に入らなかったため、たとえ諸教会にとって不都合であってもバプテスマを「浸礼」と訳出することを求めました。当然ながらこれには翻訳委員からの強い抵抗があり、妥協策として「バプテスマ」が採用される結果となりました。
 これはバプテスマを「洗礼」と訳出することに比べれば大幅な改善ですが、しかし同時に、この妥協策は新たな問題を持ち込んでもいるようです。



○ 聖書におけるバプテスマ

浸礼の意味。洗礼ではない。

○ 邦訳聖書におけるバプテスマ

洗礼と浸礼の意味。どちらでもいい。



 妥協策として「バプテスマ」という訳語が採用された結果、その語の持つ意味が変容するということが起こっているようです。

 新共同訳聖書は邦訳聖書におけるバプテスマについて新たな動向を示しています。新共同訳聖書はバプテスマを「洗礼」と訳出し、それに「〔バプテスマ〕」のルビをふりました。これはファンダメンタルな意図があってのことと思われます。最近になってさらに変化が見られていますのでこれを少し見てみましょう。



ヨハネ 4:1-2 (ルビつき)

◇ 新共同訳聖書 [普通版 1987年] ◇ (カトリックとプロテスタント)
さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼〔バプテスマ〕を授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、――洗礼〔バプテスマ〕を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである――

◇ 新共同訳聖書 [スタディ版 2006年] ◇ (カトリックとプロテスタント)
さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼〔バプテスマ〕を授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、――洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである――



 見たところ、スタディ版からはところどころルビが削除されているようです。そのうち「バプテスマ」は「洗礼」と完全に置き換わってしまうということなのかもしれません。

 




◆ エホバの証人のバプテスマ

 エホバの証人は、バプテスマを受ける者にはその資格が求められると考えています。



○ バプテスマの資格を巡る神学上の命題

バプテスマに資格は必要か。
必要だとすれば、それはどのようなものか。



 聖書は人が悔い改めてからバプテスマを受けるべきことを教えていますので、バプテスマに資格が必要であることをあからさまに否定する人はあまりいないように思います。
 聖書を見る限り、バプテスマ受けるための資格とは悔い改めと信仰の二点であるようです。それ以上のことも求められていますが、バプテスマとは直接に関連づけられていません。エホバの証人はこの直接的でない要素を聖書から収集し、さらには聖書の基礎的な理解を求めたり同意事項を設けたりして、バプテスマの資格を大幅に拡張しています。



○ バプテスマの資格についてのエホバの証人のスタンス

バプテスマを受けた者は信者として聖書の教えを守る義務を負う。
そうであれば、聖書の教えはバプテスマの前に承知されなければならない。



 このような考え方は、最近になって、インフォームド・コンセントや製造物責任といった概念として広く知られるようになっています。あなたが物を買ったりサービスを受けたりする時、それに伴って被る、あるいは被るかもしれない重大な損失についての事前の説明がなかったとしたら、それをどう思うでしょうか。病院で薬をもらう時、副作用についての重大な情報が知らされなかったとしたら、どう思うでしょうか。こういったことがこの社会においてきちんと言われるようになったのは20世紀の末ごろからです。エホバの証人はそれよりずっと前からそのようなことを唱え、それを自分の宗教に適用してきました。
 エホバの証人となりたい人は、まず十分に聖書の勉強を行わなければなりません。聖書についての知識を身につけたら、今度はそれを実践しなければなりません。その後、信者としての知識と能力を会衆の長老が吟味して「これで大丈夫だろう」と判断されるとバプテスマを受けることが認められます。日本の場合ですが、バプテスマ前の聖書研究の期間は平均して4年ほどであるようです。



◇「ものみの塔」誌1988年6月15日号

バプテスマはキリスト教の音信をわずかしか知らない人の受けるものではありません。聖書は使徒 8章12節で,1世紀当時の人々が「信じた」後にバプテスマを受けたことを示しています。マタイ 28章19節も,人はバプテスマを受ける前に「弟子」にならなければならないことを示しています。では,人はどのようにして『信じる者』あるいは「弟子」(『教えられた者』)になるのでしょうか。それは,聖書を注意深く研究することによってです。そのようにして,イエスとエホバ神に関する正確な知識を得るのです。(ヨハネ 17:3)そのような知識を得て初めて,研究生はバプテスマを考慮できるようになります。1世紀当時,新たに改宗した人たちにそのような教えを与えたのは,定評のあるクリスチャンたちでした。―使徒 8:31,35,36。
今日のエホバの証人の諸会衆でも,関心を抱く人たちのために同じように無償の家庭聖書研究を行なう取り決めがあります。心が敏感な人は,自分が学んでいる事柄を徐々に認識するようになります。その人は自分が新たに確信した事柄を他の人に話したくなります。(ローマ 10:8‐10)その人はクリスチャンの集会に定期的に出席するようになり,そこでさらに多くの聖書の教えを取り入れます。(ヘブライ 10:24,25)そして,こうして数週間か数か月経過した後,新たに信仰を抱いたその人は,「そのようなわけで,兄弟たち,わたしは神の情けによってあなた方に懇願します。あなた方の体を,神に受け入れられる,生きた,聖なる犠牲として差し出しなさい。これがあなた方の理性による神聖な奉仕です」という,ローマ 12章1節の聖書の助言に従いたいと願うようになります。
しかし,知識だけで,この献身をする資格が得られるわけではありません。悔い改めて『身を転じる』ことも必要です。(使徒 3:19)それはなぜでしょうか。率直に言って,神の規準を学ぶ前から不道徳な生き方をしてきた人もいれば,利己的な活動に深くかかわってきた人もいるからです。しかし,そういう人たちは,『受け入れられる,聖なるもの』として自分を神に差し出すために,そのような過去の行ないを後悔する気持ちを示さなければなりません。自分の命や活力や能力を非聖書的な活動に用いてきたことを深く悔やんでいなければなりません。そのような後悔の念には,本当に『身を転じる』,すなわち,生き方を変えるためのふさわしい行動も伴っていなければなりません。
新たに信仰を抱いた人をさらに助けるために,会衆の長老たちは,その人と会って聖書の基本的な教えを復習するために時間を費やす取り決めを設けます。まず第一に,そうすることによって長老たちは,クリスチャンとなる見込みのあるその人が神の目的に関する正確な知識を得ていることを確信できるわけです。そして言うまでもなく,その復習は研究生にとってたいへん助けになります。必要に応じて,正しく理解されていなかった特定の問題が明確にされます。



 この「復習」の時に用いる「聖書の基本的な教え」のテキストは「エホバのご意志を行なうための組織」という本に載せられています。フリーマインドジャーナルが「厳密な規定」と言って批判しているのは具体的にこれのことであるようです。聖書自身が述べているバプテスマに比べてエホバの証人のバプテスマの手順が大幅に複雑になっていることが問題なのでしょう。

 すこし余談となりますが、知能障害がある人やお年寄の方などは、努力にもかかわらずバプテスマを受けることが認められないことがあったりします。このような場合についてエホバの証人はこう言います。「信者となって果たすべき責任を果たす能力が十分でない人を誤って信者にしたりすると、結局その人は神の裁きを受ける結果になるかもしれない。」
 実際にこのような失敗例はよく知られていて、私も幾つか知っています。ある方は、精神面で問題を抱えていたためバプテスマを受けたあと不安定な状態になり、聖書が禁止していることを行ってしまいました。バプテスマを受けた者は聖書の罰則に従う義務も負っているわけですから、その方は聖書の規定にしたがって除名排斥の処分を受けてしまいました。もしその方がバプテスマを受けていなかったなら、排斥になることもなかったはずです。このような時、「彼にバプテスマを認めたことは果たして愛のあることだと言えるのだろうか」という問いが提起されます。たとえそれが神の命令であるとしても、その人の負えない荷を背負わせるのは正しくないというのが聖書の教えですから。



ルカ 11:46

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
すると[イエス]は言われた,「律法に通じたあなた方も災いです! あなた方は,背負いにくい荷を人に負わせますが,自分ではその荷に指一本触れないからです。



 「これは聖書の教えです」、「あなたにはそれを守る責任があります」とか言いながら当人の能力を超えた要求を行うことは、全く愛がないということですので聖書では禁じられています。すると教会はこの荷の問題をどうすべきでしょうか。エホバの証人は実践主義の教派ですから、多くの教会がしているように「とりあえず責任の件は脇に置いておいてまずはバプテスマを受けておきましょう」と言うことによってこの問題を解決したいとは思わなかったようです。むしろ、信者各自がその能力に応じて適切な荷を確実に負うことを彼らは求めています。それは、ある人の能力があまりに低い場合は全く荷を負わせないということもあり得るということです。



○ エホバの証人に特徴的な思想

合理主義
現実主義
実践主義
実証主義

 




◆ バプテスマとハルマゲドン

 現在の一般的なキリスト教において、洗礼は純粋に救いを意味するものとされています。しかし、聖書のバプテスマはそれほど単純なものではないということをここに簡単に示しておきたいと思います。



マタイ 3:11-12

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
わたしは,あなた方の悔い改めのゆえに水でバプテスマを施します。しかし,わたしの後に来る方はわたしより強く,わたしはその方のサンダルを外してさしあげるにも値しません。その方は聖霊と火であなた方にバプテスマを施すでしょう。[穀物を]あおり分けるシャベルがその手にあり,その方は自分の脱穀場をすっかりきれいにし,自分の小麦を倉の中に集め,もみがらのほうは,消すことのできない火で焼き払うのです」。



 この表現からもわかるように、聖書におけるイエスのバプテスマの本来の意味はハルマゲドンであるようです。このバプテスマには救いの要素も滅びの要素もあります。しかし、聖書はバプテスマの救いの要素を特に強調しました。それが信者にとっては救いを意味しているからです。
 聖書はバプテスマについて語るとき、救いの要素を強調しつつも、その基礎となったハルマゲドンの概念を棄てるようなことはしませんでした。しかし、後世のキリスト教は、洗礼とハルマゲドンとを完全に切り離してしまいました。
 このような逸脱が起こったのはなぜでしょうか。その背景には、イエス自身もヨハネと同様に水のバプテスマを施したということが関係しているようです。聖書にはイエスによる複数のバプテスマが記されいますが、キリスト教会はそのうち現在のバプテスマに注意を奪われ、将来のバプテスマを忘却してしまったようです。



○ 聖書におけるイエスのバプテスマ

水のバプテスマ (現在)
火のバプテスマ (将来)



 現在のバプテスマは将来のバプテスマの予表であるようです。聖書はこのことを間接的な言い回しでこのように語っています。



ペテロ第一 3:18-21

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
キリストでさえ罪に関して一度かぎり死なれました。義なる方が不義の者たちのためにです。それはあなた方を神に導くためでした。彼は肉において死に渡され,霊において生かされたのです。この[状態]でまた,彼は獄にある霊たちのもとに行って宣べ伝えました。それは,かつてノアの日に神が辛抱して待っておられた時に不従順であった者たちであり,その間に箱船が建造され,その中にあって少数の人々,つまり八つの魂が無事に水を切り抜けました。これに相当するもの,すなわちバプテスマ(肉の汚れを除くことではなく,神に対して正しい良心を願い求めること)がまた,イエス・キリストの復活を通して今あなた方を救っているのです。



コリント第一 3:10-15

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
わたしは,自分に与えられた神の過分のご親切のもとに,賢い作業監督として土台を据えましたが,ほかの人がその上に建てています。しかし各人は,自分がその上にどのように建てているかをいつも見守っているべきです。据えられているもの,それはイエス・キリストですが,それ以外の土台を据えることはだれもできないからです。さて,この土台の上に,金,銀,宝石,木材,干し草,刈りわらで建てるなら,各人の業は明らかになります。その日がそれを示すのです。それは火によって表わし示されるからです。まさにその火が,各人の業がどんなものかを証明するのです。その上に建てただれかの業が残るなら,その人は報いを受けます。だれかの業が燃え尽きるなら,その人は損失を被ることになりますが,その人自身は救われます。しかし,そうであるとしても,火をくぐるようにしてでしょう。



 聖書は、安易なバプテスマがむしろ死を意味していることを示しているようです。現代のキリスト教諸教会はそのようなことを教えませんので注意が必要でしょう。



○ 危険な教会を見分ける

ここで言う「危険な教会」とは、信者獲得に際して教育を怠っている教会です。その教会は洗礼を施して信者の救いを保証するかもしれませんが、火のバプテスマであるハルマゲドンが来た時にその信者は燃え尽きてしまいます。
これを見分けるにはどうすればよいでしょうか。

『聖書は神の言葉ですが、だからといって一生懸命聖書の勉強をする必要はありません。』
『ただ、心からイエスを信じ、洗礼を受ければよいのです。』

こういった甘い言葉を新参者に述べている教会は危険な教会である可能性が高いと言えるでしょう。

 




 マルコ 1:4では「罪の許しのための」の部分でギリシャ語 εις (エイス)が用いられています。ここは救いに関連してギリシャ語エイスが用いられているところですので、その厳密な意味合いが問題となります。



○ 救いを示唆するギリシャ語 εις の問題

目的を示すのか結果を示すのか

現在の行為なのか将来の行為なのか



◇ 回復訳聖書, マルコ 1:4, 脚注

悔い改めとバプテスマは、罪の赦しのためであり、また罪の赦しという結果になります。

 




 エホバの証人に反対する人は、バプテスマについて述べたマタイ 28:19を引き合いに出しながら強烈な反対論を唱えることがあります。



マタイ 28:19

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
それゆえ,行って,すべての国の人々を弟子とし,父と子と聖霊との名において彼らにバプテスマを施し,



 ある人たちは、この聖句は三位一体論の神学を証明する聖句であると論じます。なぜなら、ここではエホバ(父)とイエス(子)と聖霊が同列に語られているからです。そこで彼らは、これはこの三者が全く同等であることの証拠となっていると述べます。
 一方である人たちは、キリスト教徒は主にキリストの名によってバプテスマを受けるべきだと論じます。バプテスマを受ける時にこの聖句を根拠に三者を同等と見なすのは間違っているというのがその主張です。

 一人で両方の主張を行う方もおられます。そうすると、父と子と聖霊は全く同等であるがバプテスマの時だけは例外であるということになります。このような主張を唱える人は異端であると見なして構わないでしょう。