新世界訳
エホバの証人の聖書

ホーム >> NEW TESTAMENT >> ヨハネ 1:1



ヨハネ 1:1

◇ 英文新世界訳聖書 (NW/NWT) ◇ (エホバの証人)
In [the] begining the Word was, and the Word was with God, and the Word was a god.

◇ 新改訂標準訳聖書 (NewRSV/NRSV) ◇ (プロテスタント)
In the begining was the Word, and the Word was with God, and the Word was God.



 新改訂標準訳聖書で“the Word was God”となっているところが、新世界訳聖書では“the Word was a god”となっています。
 ここでは、三位一体に対する考え方の違いが訳文に反映されています。「言葉」つまりイエスが「神であった」とされるこの聖句において、「神であった」という表現にどのような意味合いを読み取るべきかが課題です。



○ 三位一体の論理

『イエスは神の性質を持っており、神ご自身である』

○ エホバの証人の反論

『イエスは神の性質を持っているが、神ご自身ではない』



 「言葉は神であった」という部分で用いられているギリシャ語の表現は、文法的には性質を暗示するものであるようです。そのことからすると、この句は「言葉は神の性質を備えていた」とも訳せるそうです。
 また、この文法は「述語(ここでは「神」)に限定詞的意味を持たせる」とも言われています。そのことからすると、「言葉は神であった」の「神」がエホバであると文法的には断定できないとのことです。



◇ 参照資料付き新世界訳聖書, 付録

ギリシャ語θεος(テオス)は単数形の叙述名詞で,動詞の前に置かれており,しかも定冠詞を伴っていないため,上記の翻訳では,「神」(a god),『神性を備えている』,「神のような者」といった表現が用いられています。これは無冠詞のテオスです。「言葉」であるロゴスが共にいる神(the God)は,原文においてο θεοςというギリシャ語の表現を取っており,テオスの前に定冠詞「ホ」の付いた形で示されています。これは冠詞の付いたテオスです。冠詞を伴う名詞の構造は実体や人物を指し示すのに対し,動詞に先行する単数形の無冠詞の叙述名詞はあるものの特質を示します。ですから,「言葉」もしくはロゴスが「神」(a god)であった,または「神性を備えていた」,または「神のような者」であったというヨハネの表現は,「言葉」もしくは「ロゴス」が,これと共にいた神(the God)と同じであったことを意味するものではありません。それは単に,「言葉」つまりロゴスのある特質を表わしているに過ぎず,その方が神と全く同一であることを示すものではありません。

フィリップ・B・ハーナーは,「聖書文献ジャーナル」(Journal of Biblical Literature,第92巻,フィラデルフィア,1973年,85ページ)に掲載された,「限定詞としての無冠詞叙述名詞: マルコ 15章39節およびヨハネ 1章1節」と題する自分の論文の中で次のように述べています。ヨハネ 1:1にあるような,「無冠詞の述語が動詞に先行している[文節]は主として限定詞的意味を持つ。これは,ロゴスがテオスの特質を有していることを示しているのである。述語であるテオスについて,これを特定されたものと取る根拠はどこにもない」。ハーナーは結論として,その論文の87ページでこう述べています。「ヨハネ 1:1の場合,述語の持つ限定詞的働きは極めて顕著であるゆえに,その名詞を特定されたものとみなすことはできない」。



  「叙述名詞」とは何でしょうか。ここで、学校で教えられた英語の授業を思い起こしてみましょう。英語の授業では、基本文型が S+V+C (主語+動詞+補語) であることを学びました。この場合、C は名詞であることがあります。この名詞はしばしば「述語名詞」と呼ばれます。これを難しく表現したのが「叙述名詞」です。その名詞が動詞の前に置かれているのですから、その文型は C+V+S ということになります。

 ギリシャ語でのこのような言い方にはどういう意味合いがあるのでしょうか。わかりやすく言うと、この「言葉は神であった」という言い回しは、叙述名詞である「神」が誰かを断定する言い回しではないということのようです。
 このことがよくわかるように例えを用いましょう。あなたはある日、砂糖ではないものの砂糖のように甘い食べ物を食しました。そこであなたはこのように言います。「これは砂糖ではないけど、まるで砂糖のようだ」。聖書時代のギリシャ語の場合、このような時は語順を入れ替えた言い方で「これは砂糖だ」と言えば済むようです。



ヨハネ 6:70

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
すると、イエスは言われた。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」

◇ 新改訂標準訳聖書 (NewRSV/NRSV) ◇ (プロテスタント)
Jesus answered them, "Did I not choose you, the twelve? Yet one of you is a devil."



 翻訳された聖書では分からないことですが、聖書原典を見るとここのギリシャ語表現はヨハネ 1:1の場合と同じだそうです。ギリシャ語のこのような言い回しでは、「彼は悪魔だ」と言っても、実際にそうだと考えているとは限らないそうです。ここではユダが悪魔呼ばわりされていますが、ユダが悪魔自身であったということではありません。

 もう一つ例えを用いてやや異なる用法を見てみましょう。あなたはある日、和菓子を食べました。そこであなたは「私は和菓子を食べました」と言います。あなたがこのように述べたので、あなたの友人はあなたが和菓子を食べたことを知りましたが、それがどのような菓子であったかはよくわかりませんでした。このような場合、その「和菓子」という表現は特定が難しい「和菓子」です。



マルコ 6:49-50

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
[イエス]が海の上を歩いておられるのを見かけると,彼らは,「これは幻影だ!」と考え,大きな叫び声を上げた。彼らは皆[イエス]を見て騒ぎ立ったのである。しかし,[イエス]はすぐに彼らと話をし,「勇気を出しなさい,わたしです。恐れることはありません」と言われた。

◇ 新改訂標準訳聖書 (NewRSV/NRSV) ◇ (プロテスタント)
But when they saw him walking on the sea, they thought it was a ghost and cried out; for they all saw him and were terrified. But immediately he spoke to them and said , "Take heart, it is I; do not be afraid.



 ここは、イエスが幽霊に見えたという記述です。ここでの「幽霊」は具体的な実体を伴わない「幽霊」であり、その正体が特定されたものではありません。

 ここで再び例えを考えてみましょう。今私は動物学の話をしており、ある動物の「オス」の特徴について語っています。「オス」という語は性を特定する語ですが、それがどの動物であるかを特定する語ではありません。それはイヌかもしれませんし、サルかもしれません。これを特定するには、私がどの動物について語っているか、話の文脈をたどらなければならないでしょう。
 動物の「オス」という表現は限定的な要素とそうでない要素を持っている語ですが、「神」とか「悪魔」という表現となると話はだいぶ変わります。このような表現はそれ自体が断定的であり、あまり曖昧さがありません。聖書は神には種類があるとしているものの、基本的に「神」と言えばエホバと考えます。「悪魔」といえばサタンです。しかし、もしだれかが、「神」とか「悪魔」というような極めて断定的な意味合いを持つ語を非断定的にして用いたいと考えるようなときに、ギリシャ語には便利な表現法があるということのようです。
 このような叙述名詞はたとえ固有名詞であっても形容詞的になるということのようです。ですから、この場合、固有名詞である叙述名詞から定冠詞は省かれなければなりません。つまり、英語に当てはめて説明すると、“the God”は“God”にならなければなりません。

 ヨハネ 1:1の場合、この「言葉は神」という表現をどう読むかということが問題になります。「神のようだが神ではない」というニュアンスなのか、「神であるがどの神であるかは特定されていない」というニュアンスなのかが問題です。
 後者の読みを選択した場合、するとイエスはどの神なのか、という問いが生じます。
 聖書はいろいろなものを「神」と呼んでおり、「神には種類がある」という概念を示しています。そこで、イエスは聖書が述べるところのどの神であるのか、ということを考えなければなりません。



コリント第二 4:4

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
その人たちの間にあって,この事物の体制の神が不信者の思いをくらまし,神の像であるキリストについての栄光ある良いたよりの光明が輝きわたらないようにしているのです。

詩編 82:6

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
「わたし自ら言った,『あなた方は神であり,あなた方は皆,至高者の子らである。

コリント第一 8:5

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
多くの「神」や多くの「主」がいるとおり,天にであれ地にであれ「神」と呼ばれる者たちがいるとしても,



 この問題についてはヨハネ自身が説明しています。



ヨハネ 1:18

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。



 ここでは、ヨハネ 1:1で言う不断定の「神」について、イエスがどのような神であるかが断定されているようです。「言葉は神であった」と言いつつも、ヨハネがイエスという「神」を「父なる神」と区別している様子がここからうかがえます。

 このようなわけで、ヨハネ 1:1のギリシャ語表現は1:18の補足を受けつつイエスとエホバとを区別しているようです。ですから、これを三位一体論の論理に当てはめるにはギリシャ語文法論の枠を越えた神学上の論証が必要です。
 神学上の論証は必要でしょうか。必要だと言えます。日本語の場合でも、「これはこうである」という断定的な言い回しをしたものの、実際にその言葉の意味するところは断定でなかったという場面があります。あるいは逆に、遠回しな言い方をしてはいますが、その内容は断定されたものであることもあります。これは今考えているギリシャ語表現についても同様ですので、単に文法論だけで結論を導くことはできません。
 もっとも、神学論を用いるときには注意も必要です。しばしば神学論には「反証不能な論理は証明不能な論理である」という循環論法の問題が伴います。これをわかりやすく説明すると以下のようになります。



○ 三位一体論における循環論法の問題

三位一体論の論理で三位一体論を説明することは三位一体論の証明にはならない



 つまり、人々は三位一体論についての長くて詳しい説明を聞いて納得したところで、「それで実のところはどうなんだろうか」と思うことになります。必要とされるのは、その「実のところはどうか」という問いに答える神学です。

 




◆ ヨハネ福音書の証言

 ヨハネによる福音書はイエスと神との関係について何を示しているでしょうか。

 これから、ヨハネ福音書より、イエスとエホバの関係が示されている聖句をすべて挙げていきたいと思います。イエスが単に「神の子」と呼ばれたり、イエスが神に「父よ」と呼びかけるような単純なものは省きますが、それ以外はすべて挙げます。
 さらに、イエスと神との同質性が示されている表現には赤、神に対するイエスの従属性が示されている表現には青の色づけを行います。この色分けについては、ところにより、原典の読み方や解釈の仕方によって結果が変わるものがありますので、あらかじめご了承ください。



ヨハネ 1:1

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
初めに言葉がおり,言葉は神と共におり,言葉は神であった

ヨハネ 1:18

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
いまだ神を見た人はいない。父に対してその懐[の位置]にいる独り子の神こそ,彼について説明したのである。

ヨハネ 3:2

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
この人が夜に彼のところに来て,こう言った。「ラビ,わたしたちは,あなたが教師として神のもとから来られたことを知っております。神が共におられない限り,あなたがなさるこうしたしるしを行なえる者はいないからです」。

ヨハネ 3:16-17

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
「というのは,神は世を深く愛してご自分の独り子を与え,だれでも彼に信仰を働かせる者が滅ぼされないで,永遠の命を持てるようにされたからです。神はご自分の子を世に遣わされましたが,それは,彼が世を裁くためではなく,世が彼を通して救われるためなのです。

ヨハネ 3:34-35

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
神が遣わした者神の言われたことを話すからであり,[神]は霊を量って与えたりはされないのである。父はみ子を愛しておられ,すべてのものをその手にお与えになったのである。

ヨハネ 4:34

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
イエスは彼らに言われた,「わたしの食物とは,わたしを遣わした方のご意志を行ない,そのみ業をなし終えることです。

ヨハネ 5:17-24

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
しかし[イエス]は彼らにこう答えられた。「わたしの父はずっと今まで働いてこられました。ですからわたしも働きつづけるのです」。まさにこれがもとで,ユダヤ人たちはいよいよ彼を殺そうとするようになった。彼が安息日を破っているだけでなく,神を自分の父と呼んで,自分を神に等しい者としているという理由であった。それゆえ,それに答えてイエスは彼らにさらにこう言われた。「きわめて真実にあなた方に言いますが,子は,自分からは何一つ行なうことができず,ただ父がしておられて,自分が目にする事柄を[行なえる]にすぎません何であれその方のなさること,それを子もまた同じように行なうのです。父は子に愛情を持っておられ,ご自身のなさる事をみな[子]に示されるからです。また,これらよりさらに偉大な業を[子]に示して,あなた方が驚嘆するようにされるでしょう。というのは,父が死人をよみがえらせて生かされるのと同じように,子もまた自分の望む者を生かすからです。父はだれひとり裁かず,裁くことをすべて子にゆだねておられるのです。それは,すべての者が,父を尊ぶと同じように子をも尊ぶためです。子を尊ばない者は,それを遣わされた父を尊んでいません。きわめて真実にあなた方に言いますが,わたしの言葉を聞いてわたしを遣わした方を信じる者は永遠の命を持ち,その者は裁きに至らず,死から命へ移ったのです。

ヨハネ 5:26-27

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
父は,ご自身のうちに命を持っておられると同じように,子にもまた,自らのうちに命を持つことをお許しになったからです。そして,裁きを行なう権威を彼にお与えになりました。彼が,人の子であるからです。

ヨハネ 5:30

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
わたしは,自分からは何一つ行なえません。自分が聞くとおりに裁くのです。そして,わたしが行なう裁きは義にかなっています。わたしは,自分の意志ではなく,わたしを遣わした方のご意志を求めるからです

ヨハネ 5:36-38

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
しかし,わたしにはヨハネがしたものより偉大な証しがあるのです。父がわたしに割り当てて成し遂げさせる業そのもの,わたしのしている業それ自体が,わたしについて,すなわち父がわたしを派遣されたことを証しするからです。また,わたしを遣わした父みずからわたしについて証ししてくださったのです。あなた方はいまだ[父]の声を聞いたことがなく,またその姿を見たこともありません。そして,あなた方のうちにはそのみ言葉がとどまっていません。[父]が派遣されたその者をあなた方は信じないからです。

ヨハネ 5:43

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
わたしが父の名において来ているのに,あなた方はわたしを迎えません。だれかほかの者が自らの名において到来すれば,あなた方はその者を迎えるでしょう。

ヨハネ 6:27

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
滅びる食物のためではなく,永遠の命へとながく保つ食物のために働きなさい。それは人の子があなた方に与えるものです。父,すなわち神は,この者の上に[是認の]証印を押されたからです」。

ヨハネ 6:29

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
それに答えてイエスは彼らに言われた,「あなた方が,その方の遣わした者に信仰を働かせること,これが神の業です」。

ヨハネ 6:37-39

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
父がわたしにお与えになるものは皆わたしのもとに来ます。そして,わたしのもとに来る者を,わたしは決して追いやったりはしません。わたしは,自分の意志ではなく,わたしを遣わした方のご意志を行なうために天から下って来たからですわたしにお与えになったすべてのもののうちわたしがその一つをも失わず,終わりの日にそれを復活させること,これがわたしを遣わした方のご意志なのです。

ヨハネ 6:44

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
わたしを遣わした方である父が引き寄せてくださらない限り,だれもわたしのもとに来ることはできません。そしてわたしは,終わりの日にその人を復活させるのです。

ヨハネ 6:46

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
神から出た者のほかに,だれかが父を見たというのではありません。[神から出た]者は父を見ました。

ヨハネ 6:57

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
生ける父がわたしをお遣わしになり,わたしが父によって生きているのと同じように,わたしを食する者,その者もまたわたしによって生きるのです。

ヨハネ 6:65

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
それでさらにこう言われた。「このゆえにわたしは,父にそれを許していただいたのでない限り,だれもわたしのもとに来ることはできない,とあなた方に言ったのです」。

ヨハネ 6:69

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
そしてわたしたちは,あなたが神の聖なる方であることを信じ,また知るようになったのです」。

ヨハネ 7:16

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
それに対し,イエスは彼らに答えて言われた,「わたしの教えはわたしのものではなく,わたしを遣わした方に属するものです

ヨハネ 7:18

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
独自の考えで話す者は自分の栄光を求めています。しかし,自分を遣わした方の栄光を求める者,これは真実な者であり,そのうちに不義はありません。

ヨハネ 7:28-29

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
それゆえイエスは,神殿で教えていた際に,叫んでこう言われた。「あなた方はわたしを知っており,わたしがどこから来たのかも知っています。また,わたしは自分の考えで来たのではありませんわたしを遣わした方が実在しておられるのですが,あなた方はその方を知りません。わたしはその方を知っています。わたしはその方の代理者であり,その方がわたしを遣わされたからです」。

ヨハネ 7:33

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
それでイエスはこう言われた。「わたしは,自分を遣わした方のもとに行くまでに,もう少しの間あなた方と共にいます。

ヨハネ 8:16

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
ですが,もしわたしが裁くとすれば,わたしの裁きは真実です。わたしは独りではなく,わたしを遣わした父が共におられるからです。

ヨハネ 8:18-19

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
わたしは,自分について証しする者であり,わたしを遣わした父もわたしについて証しされるのです」。それゆえ彼らはさらに言った,「あなたの父とはどこにいるのですか」。イエスは答えられた,「あなた方はわたしも,わたしの父も知りませんもしあなた方がわたしを知っているとすれば,わたしの父をも知っているはずです」。

ヨハネ 8:26

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
わたしには,あなた方について話すべきこと,また裁きを下すべきことがたくさんあります。実際のところ,わたしを遣わした方は真実な方であり,その方から聞いたこと,それをわたしは世で話しているのです」。

ヨハネ 8:28-29

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
それゆえイエスは言われた,「ひとたび人の子を挙げてしまうと,そのときあなた方は,わたしが[その者]であり,わたしが何事も自分の考えで行なっているのではないことを知るでしょう。わたしはこれらのことを,ちょうど父が教えてくださったとおりに話しているのです。そして,わたしを遣わした方は共にいてくださいます。わたしを独りだけにして見捨てたりはされませんでしたわたしは常に,その方の喜ばれることを行なうからです」。

ヨハネ 8:38

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
わたしは,自分の父のもとで見た事柄を話します。それであなた方は,[自分たちの]父から聞いた事柄を行なうのです」。

ヨハネ 8:40

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
しかし今,あなた方は,わたしを,神から聞いた真理をあなた方に告げた者を殺そうとしています。アブラハムはそのようなことを行ないませんでした。

ヨハネ 8:42

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
イエスは彼らに言われた,「もし神があなた方の父であるならば,あなた方はわたしを愛するはずです。わたしは神のもとから出てここにいるからです。そしてわたしは決して自分の考えで来ているのではありません。その方がわたしを遣わされたのです。

ヨハネ 8:49-50

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
イエスは答えられた,「わたしは悪霊につかれてはいません。わたしの父を尊んでいるのであり,あなた方はそのわたしを辱めています。といっても,わたしは自分のために栄光を求めているのではありません。求め,かつ裁いておられる方がいます

ヨハネ 8:54-55

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
イエスは答えられた,「わたしが自分に栄光を付すのであれば,わたしの栄光はむなしいものです。わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父,あなた方が自分たちの神であると言うその方です。それでいて,あなた方はその方を知っていません。しかし,わたしはその方を知っています。そして,その方を知らないと言えば,わたしはあなた方のように,つまり偽り者になります。しかしわたしは確かにその方を知っており,その方の言葉を守り行なっています

ヨハネ 9:4

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
わたしたちは,わたしを遣わした方の業を昼のうちに行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ようとしています。

ヨハネ 10:15

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
ちょうど父がわたしを知っておられ,わたしが父を知っているのと同じです。そしてわたしは羊のために自分の魂をなげうちます。

ヨハネ 10:17-18

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
このゆえに父はわたしを愛してくださいます。すなわち,わたしが自分の魂をなげうつからです。それは,わたしがそれを再び受けるようになるためです。だれもわたしからそれを取り去ったわけではなく,わたしはそれを自分からなげうつのです。わたしはそれをなげうつ権限があり,またそれを再び受ける権限があります。このことに関するおきてをわたしは自分の父から受けました」。

ヨハネ 10:25

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
イエスは彼らに答えられた,「わたしはあなた方に言いましたが,あなた方は信じません。わたしが自分の父の名において行なっている業,これがわたしについて証しします。

ヨハネ 10:29-30

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
父がわたしに与えてくださったのは,ほかのすべてのものより偉大なものであり,だれもそれを父の手から奪い取ることはできません。わたしと父とは一つです」。

ヨハネ 10:33

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
ユダヤ人たちは彼に答えた,「りっぱな業のためではなく,冒とくのために,つまり,あなたが人間でありながら自分を神とするからこそ,わたしたちは石打ちにするのだ」。

ヨハネ 10:36-38

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
あなた方は,父が神聖なものとして世に派遣されたわたしが,自分は神の子だと言ったからといって,『[神を]冒とくしている』とわたしに言うのですか。もしわたしが父の業を行なっていないのであれば,わたしを信じてはなりません。しかしそれを行なっているのであれば,たとえわたしを信じないとしても,その業を信じなさい。それは,父がわたしと結びついておられ,わたしが父と結びついていることを,あなた方が知るようになり,常に知っているためです」。

ヨハネ 11:4

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
しかしそれを聞いて,イエスはこう言われた。「この病気は死のためのものではなく,神の栄光のため,神の子がそれによって栄光を受けるためのものです」。

ヨハネ 11:22

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
でも,わたしは今,あなたが神にお求めになることは,神がみなお与えになることを知っております」。

ヨハネ 11:41-42

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
そこで彼らは石を取りのけた。それからイエスは目を天のほうに向けて,こう言われた。「父よ,わたし[の願い]を聞いてくださったことを感謝いたします。もっとも,常に聞いてくださることを知っておりました。しかし,まわりに立つ群衆のためにわたしは言いました。あなたがわたしをお遣わしになったことを彼らが信じるためです」。

ヨハネ 12:13

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
やしの木の枝を取って彼を迎えに出て行った。そして,大声でこう叫びはじめた。「救いたまえ! エホバのみ名によって来たる者,イスラエルの王こそ祝福された者!」

ヨハネ 12:27

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
今わたしの魂は騒ぎます。何と言えばよいのでしょう。父よ,わたしをこの時から救い出してください。しかしやはり,わたしはこのゆえにこの時に至ったのです。

ヨハネ 12:44-45

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
しかしながら,イエスは叫んで言われた,「わたしに信仰を持つ者は,わたし[だけ]でなく,わたしを遣わした方に[も]信仰を持つのです。また,わたしを見る者は,わたしを遣わした方を[も]見るのです

ヨハネ 12:49-50

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
わたしは自分の衝動で話したのではなく,わたしを遣わした父ご自身が,何を告げ何を話すべきかについて,わたしにおきてをお与えになったからです。またわたしは,[父]のおきてが永遠の命を意味していることを知っています。それゆえ,わたしの話すこと,[それは,]父がわたしにお告げになったとおりに話している[事柄]なのです」。

ヨハネ 13:3

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
[イエス]は,父がすべてのものを[自分の]手中にお与えになったこと,そして自分が神のもとから来て,神のもとに行こうとしていることを知って,

ヨハネ 13:20

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
きわめて真実にあなた方に言いますが,わたしが遣わした者を迎える人はわたしを[も]迎えるのです。また,わたしを迎える人はわたしを遣わした方を[も]迎えるのです」。

ヨハネ 13:31-32

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
こうして彼が出て行ってから,イエスは言われた,「今や人の子は栄光を受け,神は彼に関連して栄光を受けておられます。また神は自ら彼に栄光をお与えになり,しかもすぐに栄光をお与えになるのです。

ヨハネ 14:1

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
「あなた方の心を騒がせてはなりません。神に信仰を働かせ,またわたしにも信仰を働かせなさい

ヨハネ 14:6-7

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
イエスは彼に言われた,「わたしは道であり,真理であり,命です。わたしを通してでなければ,だれひとり父のもとに来ることはありません。あなた方がわたしを知っていたなら,わたしの父をも知っていたでしょう。今この時から,あなた方は[父]を知っており,また見たのです」。

ヨハネ 14:9-11

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
イエスは彼に言われた,「わたしはこれほど長い間あなた方と過ごしてきたのに,フィリポ,あなたはまだわたしを知らないのですか。わたしを見た者は,父を[も]見たのです。どうしてあなたは,『わたしたちに父を示してください』と言うのですか。わたしが父と結びついており,父がわたしと結びついておられることを,あなたは信じていないのですか。わたしがあなた方に言う事柄は,独自の考えで話しているのではありません。わたしとずっと結びついておられる父が,ご自分の業を行なっておられるのですわたしは父と結びついており,父はわたしと結びついておられると[言う]わたしを信じなさい。そうでなければ,業そのもののゆえに信じなさい。

ヨハネ 14:13

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
また,あなた方がわたしの名によって求めることが何であっても,わたしはそれを行ないます。父が子との関連において栄光をお受けになるためです。

ヨハネ 14:16

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
そしてわたしは父にお願いし,[父]は別の助け手を与えて,それがあなた方のもとに永久にあるようにしてくださいます

ヨハネ 14:20

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
その日にあなた方は,わたしが父と結びついており,あなた方がわたしと結びついており,わたしがあなた方と結びついていることを知るでしょう。

ヨハネ 14:24

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
わたしを愛さない者はわたしの言葉を守り行ないません。そして,あなた方が聞いている言葉はわたしの[言葉]ではなく,わたしを遣わされた父に属するものなのです。

ヨハネ 14:28

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
わたしは去って行き,そしてまたあなた方のもとに[戻って]来る,とわたしが言ったのを,あなた方は聞きました。もしわたしを愛するなら,わたしが父のもとに行こうとしていることを歓ぶはずです。父はわたしより偉大な方だからです。

ヨハネ 14:31

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
しかし,わたしが父を愛していることを世が知るために,わたしは,父がおきてを与えてくださったとおりに行なっているのです。立ちなさい。ここから行きましょう。

ヨハネ 15:1-2

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
わたしは真のぶどうの木,わたしの父は耕作者です。[父]は,わたしにあって実を結んでいない枝をみな取り去り,実を結んでいるものをみな清めて,さらに実を結ぶようにされます

ヨハネ 15:9-10

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
父がわたしを愛され,わたしがあなた方を愛したとおり,わたしの愛のうちにとどまっていなさい。わたしのおきてを守り行なうなら,あなた方はわたしの愛のうちにとどまることになります。わたしが父のおきてを守り行なってその愛のうちにとどまっているのと同じです

ヨハネ 15:15

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
わたしはもはやあなた方を奴隷とは呼びません。奴隷は自分の主人の行なうことを知らないからです。しかしわたしはあなた方を友と呼びました。自分の父から聞いた事柄をみなあなた方に知らせたからです。

ヨハネ 15:21

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
しかし彼らは,わたしの名のゆえにこれらすべてのことをあなた方に敵して行なうでしょう。わたしを遣わした方を知らないからです。

ヨハネ 15:23-24

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
わたしを憎む者は,わたしの父をも憎むのです。もしわたしが,ほかのだれも行なわなかった業を彼らの間で行なっていなかったなら,彼らには何の罪もなかったことでしょう。しかし今,彼らはわたしもわたしの父をも見,そのうえ憎んだのです

ヨハネ 15:26

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
わたしが父のもとからあなた方に遣わす助け手,すなわち父から出る真理の霊が到来するとき,その者がわたしについて証しするでしょう。

ヨハネ 16:3

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
しかし彼らは,父をもわたしをも知っていないので,そうした事をするのです。

ヨハネ 16:5

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
しかし今,わたしは自分を遣わした方のもとに行こうとしています。それでも,あなた方のうち一人も,『どこに行くのですか』とは尋ねません。

ヨハネ 16:15

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
父が持っておられるものは皆わたしのものです。そのためわたしは,彼はわたしのものから受けて,[それ]をあなた方に告げ知らせると言ったのです。

ヨハネ 16:27-28

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
父ご自身があなた方に愛情を持っておられるからです。それは,あなた方がわたしに愛情を持ち,わたしが父の代理者として来たことを信じているからです。わたしは父のもとから出て世に来ました。そしてまた,世を去って父のもとに行こうとしています」。

ヨハネ 16:30

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
今こそわたしたちは,あなたがすべてのことを知っておられ,だれからも質問される必要のないことが分かりました。これによってわたしたちは,あなたが神のもとから来られたことを信じます」。

ヨハネ 16:32

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
見よ,あなた方がそれぞれ自分の家に散らされてわたしを独りだけにする時が来ます。そうです,現に来ているのです。それでも,わたしは独りではありません。父が共にいてくださるからです。

ヨハネ 17:1-13

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
イエスはこれらのことを話し,それから目を天に向けて,こう言われた。「父よ,時は来ました。あなたの子の栄光を表わしてください。子があなたの栄光を表わすためです。それは,あなたがすべての肉なるものに対する権威を[子]に与え,そのお与えになった者すべてについて,[子]がそれらの者に永遠の命を与えるようにされたことに応じてです。彼らが,唯一まことの神であるあなたと,あなたがお遣わしになったイエス・キリストについての知識を取り入れること,これが永遠の命を意味していますわたしは,わたしにさせるために与えてくださった業をなし終えて,地上であなたの栄光を表わしました。それで,父よ,世がある前にわたしがみそばで持っていた栄光で,わたしを今ご自身の傍らにあって栄光ある者としてください。「わたしは,あなたが世から与えてくださった人々にみ名を明らかにしました彼らはあなたのものでしたが,わたしに与えてくださったのであり,彼らはあなたのみ言葉を守り行ないました。彼らは今,あなたがわたしに与えてくださったものが皆あなたからのものであることを知るようになりました。わたしに与えてくださったことばをわたしは彼らに与えたからです。彼らはそれを受け入れて,わたしがあなたの代理者として来たことを確かに知り,あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたのです。わたしは彼らに関してお願いいたします。世に関してではなく,わたしに与えてくださった者たちに関してお願いするのです。彼らはあなたのものだからであり,わたしのものはみなあなたのもの,あなたのものはわたしのものなのです。そしてわたしは彼らの間で栄光を受けたのです。「そしてまた,わたしはもう世におりませんが,彼らは世におり,わたしはみもとに参ります。聖なる父よ,わたしに与えてくださったご自身のみ名のために彼らを見守ってください。わたしたちと同じように,彼らも一つとなるためです。わたしは,彼らと共におりました時,わたしに与えてくださったあなたご自身のみ名のために,いつも彼らを見守りました。そしてわたしは彼らを守り,滅びの子のほかには,そのうちだれも滅びていません。それは聖句が成就するためでした。しかし今,わたしはみもとに参ります。そして,彼らがわたしの喜びを自分のうちに存分に持つために,わたしは世にあってこれらのことを話しています。

ヨハネ 17:18

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
あなたがわたしを世にお遣わしになったと同じように,わたしも彼らを世に遣わしました

ヨハネ 17:20-26

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
「わたしは,これらの者だけでなく,彼らの言葉によってわたしに信仰を持つ者たちについてもお願いいたします。それは,彼らがみな一つになり,父よ,あなたがわたしと結びついておられ,わたしがあなたと結びついているように,彼らもまたわたしたちと結びついていて,あなたがわたしをお遣わしになったことを世が信じるためです。またわたしは,わたしに与えてくださった栄光を彼らに与えました。わたしたちが一つであるように,彼らも一つになるためです。わたしは彼らと結びついており,あなたはわたしと結びついておられます。それは,彼らが完全にされて一つになり,あなたがわたしを遣わされたこと,そして,わたしを愛してくださったと同じように彼らを愛されたことを世が知るためです。父よ,わたしに与えてくださったものについては,わたしのいる所に彼らも共にいて,わたしに与えてくださった栄光を見るようにと願います。あなたは世の基の置かれる前にわたしを愛してくださったからです。義なる父よ,確かに世はあなたを知っていませんが,わたしはあなたを知っており,これらの者たちも,あなたがわたしをお遣わしになったことを知っております。そしてわたしはみ名を彼らに知らせました。また[これからも]知らせます。それは,わたしを愛してくださった愛が彼らのうちにあり,わたしが彼らと結びついているためです」。

ヨハネ 18:11

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
しかしイエスはペテロに言われた,「剣をさやに納めなさい。父がわたしにお与えになった杯,わたしはそれをぜひとも飲むべきではありませんか」。

ヨハネ 20:21

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
それでイエスは彼らに再び言われた,「あなた方に平安があるように。父がわたしをお遣わしになったと同じように,わたしもあなた方を遣わします」。

ヨハネ 20:28

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
それに答えてトマスは彼に言った,「わたしの主,そしてわたしの神!」



 こうしてヨハネ福音書のすべての記述をたどってみると、ヨハネ福音書が基本的にはエホバに対するイエスの従属性について述べていることが分かります。イエスとエホバの同質性についても多くを述べていますが、それはイエスの徹底した従属性の結果であるとされています。
 エホバに対するイエスの従属性を示す点でヨハネ福音書は他の福音書と比べて際立っています。たとえば、ヨハネ福音書におけるイエスは「わたしは自分の意志ではなく父の意志を行います」という趣旨の言葉を繰り返し語っていますが、このようなイエスの言葉はほかの福音書には全く見られないものです。また、「父がわたしを遣わした」という表現もヨハネ福音書特有のもので、ほかの福音書にこのような言葉はほとんど見られません。ヨハネの福音書にはほかにもいろいろと違ったところがあり、その多くは従属性に関する表現です。

 ヨハネの福音書が他の福音書とこれほど違っているのはなぜでしょうか。

 他の福音書におけるイエスは、自分が神の子であることを公表することを嫌った人物として描写されています。イエスはそのことをごく限られた場面でごく限られた人たちに示しました。これらの福音書において、イエスが自分の正体や自分と神との関係を語っている場面は限られています。一方、ヨハネ福音書におけるイエスはいつも自分と神との関係について語っています。ほかのことはたいして重要ではないと言わんばかりです。どうしてこのような違いが生じるのかについては、ヨハネ福音書自身が説明しています。



ヨハネ 20:31

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
しかし,これらのことは,イエスが神の子キリストであることをあなた方が信じるため,そして,信じるゆえにその名によって命を持つために記されたのである。



 ヨハネ福音書は、他の福音書の不満点を穴埋めするために書かれたようです。これら他の福音書ではイエスが神の子であるという重要な真理があいまいになりがちなので、そこのところをはっきりさせるためにヨハネ福音書が書かれたようです。ヨハネ福音書はあからさまに脚色のほどこされた福音書であり、その意図ゆえに、他の福音書とは大きな隔たりがあります。

 ここで再びヨハネ 1:1の表現を考えたいと思います。
 ヨハネは、イエスが確かに神の子であるということを証明する福音書を書きたいと思いました。その福音書には、エホバに対するイエスの従属性、そして従属性の結果としての同質性が繰り返し描写されます。そのような福音書を書くにあたり、ヨハネはその内容にふさわしい冒頭の言葉を述べようとしたのではないでしょうか。
 そうすると、ヨハネ 1:1の言葉はどう理解されるべきでしょうか。まずはじめに「初めに言葉がおり」とあります。ここで言う「言葉」は「(イエスの言葉ではなく)神の言葉」であると解釈されなければならないようです。ヨハネ福音書のイエスは自分の言葉を語らなかったのですから。つまり、ヨハネはここで「イエスは神の言葉であった」と述べています。ここでは神に対するイエスの従属性が示されているようです。続いて、「言葉は神と共におり」とあります。ここでは、エホバとイエスの一致、つまりイエスの従属性のゆえに生じる一致が示されているようです。あるいは、イエスの従属性の基準が神であることが示されているのかもしれません。そして最後に「言葉は神であった」とあります。この言葉は、神に対するイエスの優れた従属性ゆえに、イエスが神と等しいと言える存在になったことを示しているのかもしれません。こうして、神とイエスとの同質性が導かれます。

 ヨハネ福音書で示されたこの概念は聖書の他の箇所で応用されていますが、ヨハネ福音書の証言も、ヨハネ福音書に由来する聖書中の証言も、イエスをその性質において神と同一視するにとどまっているようです。



ヨハネ 1:1

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
初めに言葉がおり,言葉は神と共におり,言葉は神であった。

ヨハネ 1:18

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
いまだ神を見た人はいない。父に対してその懐[の位置]にいる独り子の神こそ,彼について説明したのである。

コリント第一 2:16

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
「だれがエホバの思いを知って,彼を教え諭すようになったであろうか」とあるのです。それでもわたしたちは,キリストの思いを持っているのです。



◇ 「あなたは三位一体を信ずるべきですか」, ものみの塔聖書冊子協会

アメリカ標準訳の仕事に参加した学者であった神学者ジョセフ・ヘンリー・セアは,「ロゴスは神性を備えていたが,神ご自身ではなかった」と簡潔に述べました。また,「聖書辞典」の編者であるイエズス会士ジョン・L・マッケンジーは,同辞典の中でこう書いています。「ヨハネ 1章1節は厳密に訳せば……『言葉は神性を備えた存在であった』となるであろう」。

 




◆ 冠詞は省略されているか

 ヨハネ 1:1について唱えられている文法論は『コルウェルの法則(コーウェルの法則)』と呼ばれることがあります。この法則はしばしば三位一体論者によって拡張されて用いられてきました。
 コルウェルの法則は、叙述名詞のところで定冠詞が省略されている可能性を示しています。そのことは決定的ではないとされていますが、決定的なものであると主張する人もいます。
 拡張されたコルウェルの法則を支持する人はこのように主張します。『ヨハネ 1:1の「言葉は神であった」となっているところは、「もともと定冠詞があるのに、それが省略されなければならない構文」が用いられているので、翻訳の際にはここに定冠詞を復元し“the Word was the God”と訳出しなければなならない』。彼らの主張では、ヨハネ 1:1の構文は性質ではなく実体を示すもの、その正体を断定しないものではなく断定するものです。つまり、イエスは神そのものであるということです。
 拡張されたコルウェルの法則を支持する日本の方々は、日本語には定冠詞がありませんから、ここを「言葉は神ご自身であられた」とか「言葉はまことの神であった」などという具合に工夫して訳しています。



ヨハネ 1:1

◇ 詳訳聖書 ◇ (ファンダメンタル)
初めに〔天地の初めに、すでに〕ことば〔キリスト〕がおられた。ことばは神とともにおられた。ことばは神ご自身であられた

◇ 現代訳聖書 (尾山令仁訳聖書) ◇ (ファンダメンタル)
まだ、この世界も何も無かった時、すでにキリストは存在しておられた。キリストは神と一緒におられ、また神ご自身であられた



 拡張されたコルウェルの法則についての議論は否定の方向で終結しているようで、詳訳聖書のような訳文を見ることはまれです。しかし、この法則を熱心に唱える方はまだまだたくさんおられます。



◇ 「あなたは三位一体を信ずるべきですか」, ものみの塔聖書冊子協会

中には,そのような訳し方は,1933年にギリシャ語学者E・C・コルウェルが発表したコイネー・ギリシャ語の文法の規則に反すると主張する人がいます。ギリシャ語では,叙述名詞は「動詞の後に続く場合,[定]冠詞を取るが,動詞に先行する場合,[定]冠詞を取らない」と,コルウェルは主張しました。そのように主張することにより,動詞に先行する叙述名詞の前には定冠詞(英語なら,“the”)があるものと解すべきだと言っていたわけです。ヨハネ 1章1節では二番目の名詞(テオス),つまり述語が動詞に先行しています。

しかし,ヨハネ 8章44節にある,ほんの二つの例を考慮してみてください。その箇所で,イエスは悪魔について,「その者は……人殺しであり」,『彼は偽り者である』と言われました。ヨハネ 1章1節の場合と同様,ギリシャ語では叙述名詞(「人殺し」と「偽り者」)が動詞(『である』)に先行しています。そして,そのいずれの名詞の前にも不定冠詞はありません。……ところが,大抵の英語の翻訳者は,英語の“a”という語を挿入しています。なぜなら,それはギリシャ語の文法上,また文脈上必要だからです。



◇ 「キリストの神性と三位一体―「ものみの塔」の教えと聖書の教え」, 内田和彦, いのちのことば社

1933年にE・C・コーウェルは、Be動詞の前にくる述語名詞は、一般的に冠詞を欠く、という法則があると発表しました。ところで、ヨハネの福音書1章1節において、冠詞のついていない「神」は動詞の前にきています。そこで、コーウェルの法則が正しいとするなら、この「神」という名詞は、動詞の前にきたために冠詞を失ったのであって、本来は冠詞が付けられて限定された名詞であるということが可能になります。もちろん、「可能」だからといって、もともと冠詞のついていた名詞であるとしなければならない必然性はありません。もともと冠詞はなかったかもしれないのです。コーウェルの法則は、ヨハネの福音書1章1節の問題の「神」が、その神 the God であったと証明しているわけではありません。



 上記の記述についてはどのようなことが言えるでしょうか。これらはコルウェルの法則について一般的な内容を述べていますが、そこにはいろいろと見当違いなところが見られるようです。
 まず、コルウェルの法則で語られる叙述名詞が必ず固有名詞であるということはありません。ですから、この法則に従う形で語られる叙述名詞にもともと定冠詞がついていたとする説明は強引です。さらに、コルウェルの法則における叙述名詞の用法は形容詞的ですので、仮にその叙述名詞が固有名詞であり、本来定冠詞が付くべきものであったとしても、翻訳の際にそれを復元すべきというのは見当はずれというものです。
 これを例えで説明してみましょう。英語の過去形動詞はもともとは現在形動詞であるものが過去形になったものです。そのことに気づいた翻訳者が翻訳の際に英語の過去形を全部現在形に直してしまうとすると、どういうことになるでしょうか。コルウェルの法則の趣旨は、本来形容詞でないものを形容詞的に使いたい場合は、1. 定冠詞を省略し、2. 語順を入れ替える、というものです。これを翻訳の際に元に戻してしまったらもはやそれは翻訳ではなくなってしまいます。
 そこで私としては、コルウェルの法則はキリスト教ファンダメンタリスト(原理主義者)がこれまで考案してきたあまたの詐欺的文法論の最高傑作なのではないか、と思ったりします。



○ コルウェルの法則についてのファンダメンタルな論法

『これは必ず定冠詞が省略される構文である。』
『そこで、翻訳の際には省略された定冠詞を復元しなければならない。』



 ヨハネ 1:1の場合、元の名詞に定冠詞は存在していたのでしょうか。これは間違いなく存在していたと言うことができます。これは、純粋に文法を論じた場合は確かに不明な点ですが、神学的にははっきりしています。神学的に、「イエスは神の性質を帯びていた」と言う時の神はエホバしかいません。聖書には様々な神のいることが示されていますが、イエスがそれらの神の性質を帯びているなどということはありません。もともと「神」という語は固有名詞ですし、特にエホバを指しているのですから、これは定冠詞を必ず伴う「神」つまり“the God”であると断言しなければなりません。

 コルウェルの法則をここにどう適用するかについては、ヨハネ 1:1文中の「共におり」という言い回しが決定的な要素であるようです。



◇ 「あなたは三位一体を信ずるべきですか」, ものみの塔聖書冊子協会

文脈が正確な理解を得る土台となります。ジェームズ王欽定訳でさえ,「言葉は神と共におり」となっています。だれかがほかの人「と共に」いるなら,その人はそのほかの人と同一人物ではあり得ません。このことと一致して,イエズス会士ジョセフ・A・フィッツメイヤー編,「聖書文献ジャーナル」は,もしヨハネ 1章1節の終わりの「神」のことをこの節の前半に出てくる神を意味すると解釈するなら,「先行する節と矛盾することになる」と述べています。その節には,言葉が神と共にあった,とあるからです。



◇ 「キリストの神性と三位一体―「ものみの塔」の教えと聖書の教え」, 内田和彦, いのちのことば社

冠詞のつかない「神」から二つのことがわかります。「ことばは神とともにあった」のですから、イエス・キリストは、「神」と区別される存在であること。しかも、「ことばは神であった」のですから、イエス・キリストは、この「神」と等しい神性をもっているということです。



 つまり、ヨハネ 1:1の場合、コルウェルの法則は二つの神が実体において別個であることを示しており、文脈もそのことを支持しているようです。

 コルウェルの法則は一部の人々によってさらに拡張されてきました。それらの人々は、ここで用いられているギリシャ語の構文は、三位一体論が示しているまさにそのこと、つまり「イエスは神の性質を持っており、神ご自身である」という概念を示すものであると唱えます。
 このような主張を唱えることが困難であるということを、すこし例を挙げながら説明したいと思います。

 ヨハネ 1:1と1:18で用いられている表現を太陽と月とに適用してみましょう。



○ 三位一体論的なコルウェルの法則に合致しない言い回し

初めに月があり、月は太陽と共にあり、月は太陽であった。
月は夜の太陽であった。



 私がギリシャ語でこのような言葉を述べたとしましょう。これは、月が太陽自身であることを示しているのでしょうか。もちろんそのようなことはありません。しかし、月が太陽の性質を備えていることや、場合によって太陽の代わりになることは確かです。
 ここで求められるのは、三位一体論と全く同じ形態を持つ事例です。つまり、月が太陽の性質を備えており、かつ太陽自身である、というような事例がなければなりません。太陽と月の事例ではそういうことにはなりません。
 なぜそのような事例が必要なのでしょうか。文法というものは既成の事象や概念を説明しようとすることによって発展するからです。これまでに存在したことのない特殊な事象や思想を説明する特殊な文法というものがすでに存在しているということはあり得ません。コルウェルの法則が三位一体論の完全な証明となるには、三位一体論と同じか極めて類似の事象や概念があらかじめ多数あって、それらを言葉で説明する過程においてそれに適した文法表現が発達していくということが説明できなければなりません。
 説明できるでしょうか。これは無理であるようです。まず説明の土台となる事象や概念を挙げなければなりませんし、さらに、それがギリシャ語の発展にどのような影響を与えたか仮説を立てなければなりません。しかも、その仮説は実証されなければなりません。私の知る限り、そのようなことを唱えた方は一人もおられないようです。

 




◆ 英訳聖書における訳文の違いの意味

 ここで、幾つかの英訳聖書の訳文を見てみましょう。



ヨハネ 1:1

◇ 新改訂標準訳聖書 (NewRSV/NRSV) ◇ (プロテスタント)
In the begining was the Word, and the Word was with God, and the Word was God.

◇ ジェームズ王欽定訳聖書 (KJV/AV) ◇ (プロテスタント)
In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God.

◇ 新エルサレム聖書 (NJB) ◇ (カトリック)
In the beginning was the Word: the Word was with God and the Word was God.

◇ 英語標準訳聖書 (ESV) ◇ (プロテスタント)
In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God.

◇ 現代英語訳聖書 / 今日の英語訳聖書 (TEV) ◇ (プロテスタント)
In the beginning the Word already existed; the Word was with God, and the Word was God.

◇ 新国際訳聖書 (NIV) ◇ (ファンダメンタル)
In the begining was the Word, and the Word was with God, and the Word was God.

◇ 新世界訳聖書 (NW/NWT) ◇ (エホバの証人)
In [the] begining the Word was, and the Word was with God, and the Word was a god.



 英訳聖書のほとんどが一律“the Word was God”という訳文を採用していることが見て取れます。ほかの訳文はまれです。英訳聖書において“the Word was God”の訳文が選ばれるのはなぜでしょうか。
 これについてよく理解するには、まず、ギリシャ語本文において同様の構文が用いられている聖書中のほかの箇所を確認する必要があります。すでに挙げられている、ヨハネ 6:70と8:44をもう一度見てみましょう。



ヨハネ 6:70

◇ 新改訂標準訳聖書 (NewRSV/NRSV) ◇ (プロテスタント)
Jesus answered them, "Did I not choose you, the twelve? Yet one of you is a devil."

ヨハネ 8:44

◇ 新改訂標準訳聖書 (NewRSV/NRSV) ◇ (プロテスタント)
You are from your father the devil, and you choose to do your father's desires. He was a murderer from the beginning and does not stand in the truth, because there is no truth in him. When he lies, he speaks according to his own nature, for he is a liar and the father of lies.



 名詞の前に不定冠詞“a”をつけるのがこの構文の一般的な訳し方であり、ヨハネ 1:1のような訳し方は例外であることが理解できます。
 不定冠詞をつけるのが一般的であるのはなぜでしょうか。何か複雑な理由があるからではありません。英語には、定冠詞を使わないときには不定冠詞を使うというごく一般的な法則があるからです。ヨハネ 1:1の構文と文脈は定冠詞の使用を認めるものでありませんので、不定冠詞の使用は当然のこととなります。
 ではなぜ、ヨハネ 1:1では例外的な訳文が採用されるのでしょうか。これには三位一体の神学が関係しているようです。



○ 三位一体の定義

父なる神がおられ、子なる神がおられ、聖霊なる神がおられる。
しかし、三人の神がおられるのではなく、ただおひとりの神がおられるのである。



 三位一体論は別個に存在する三つの神を認める神学です。しかし聖書の教えは一神教です。決して多神教ではありません。聖書は神がただ一人であることを公言しており、本来、聖書の教えは三位一体論の神学と対立する立場にあります。そこで、その対立を解消するために考案されたのが、その定義の後半の部分、「しかしただおひとりの神がおられるのである」という概念です。
 そうするとどうでしょうか、ヨハネ 1:1を“the Word was a god”と訳出するのは、文法的に正しくても神学的に間違っているということになります。もし子なる神が“a god”であるとすれば、それは複数の神がいるということを示しており、一神教の原則に反するからです。これでは聖書の神は多神教の神になってしまいます。そこで、“the Word was a god”から“a”を削除する調整が必要となりますが、ギリシャ語の用法による制約があるため、英文法の一般則にしたがってこれを“the”に置き換えることはできません。こうして必然的に“the Word was God”という訳文が採用されることになります。
 一方の新世界訳聖書は、三位一体論を否定するエホバの証人の翻訳による聖書ですから、三位一体の神学の制約を受けることなく訳文を構築することができます。つまり、聖書の教える一神教の基本的な論理にしたがって、唯一まことの神はエホバのみであるとし、イエスを唯一神ではない神とします。そうすると、ヨハネ 1:1は“the Word was a god”と訳しても構わないということになります。聖書は唯一神以外の神については多神教を教えているのですから。



ヨハネ 10:34-36

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
イエスは彼らに答えられた,「あなた方の律法の中に,『わたしは言った,「あなた方は神だ」』と書いてあるではありませんか。神のとがめの言葉が臨んだ者たちを『神』と呼び,しかもその聖書は無効にし得ないものなのに,あなた方は,父が神聖なものとして世に派遣されたわたしが,自分は神の子だと言ったからといって,『[神を]冒とくしている』とわたしに言うのですか。



 聖書の一神教の考えでは、それを唯一の神であるエホバとしないのであれば、何を神と呼んでも全く差し支えないようです。ですから、三位一体論を認めないエホバの証人にとってヨハネ 1:1の訳文を決定する際の神学上の制約は少なくなります。

 キリスト教合理主義の台頭に伴って勢力を拡大し、種々の非合理主義神学を蹴散らしてきたエホバの証人にすれば、三位一体論はキリスト教非合理主義の典型であり、最大級の攻撃目標です。新世界訳聖書が三位一体の論理に対する宣戦布告とも言える“the Word was a god”の訳文を採用したことは、いかにもエホバの証人らしい反目的行為だと言えるでしょう。しばしば、「エホバの証人はプロテスタント以上にプロテストである」ということが言われますが、ヨハネ 1:1の訳文はその代表例と言えます。

 この“the Word was a god”という訳文は、ヨハネ 1:1のギリシャ語構文が示そうとしており、またエホバの証人の強調したいと思っている事柄、つまり「別個の二人の神」という概念を示すにはうってつけの訳文です。それに対し“the Word was God”には多くの誤読が伴います。この訳文を読む多くの人は、ヨハネ 1:1は別個の神について述べているのではなく単一の神について述べているのだと感じるでしょう。ギリシャ語の構文が2種類の神について述べ、両者を区別していることに気づかないかもしれません。その結果、ヨハネ 1:1は三位一体論を証明する決定的な聖句であると感じるかもしれません。
 ヨハネ 1:1の“the Word was God”という訳文は三位一体論の証明として使えるでしょうか。使えないようです。なぜならそれは三位一体論によって調整された訳文だからです。このような訳文を三位一体論の証明に使うことは、先に述べたところの循環論法になります。三位一体論に合わせて調整された文章をもって三位一体論を説明することは、三位一体論の説明にはなっても証明にはなりません。この聖句を用いて三位一体論を証明しようとすることは軽率な行為であるようです。

 新世界訳聖書の“the Word was a god”の訳文は神学上のひとつの問題を解決する点では優秀ですが、別の問題を生み出すものでもあるようです。
 ここで、イエスとは別の意味で神であるとされている悪魔サタンについて考えてみましょう。



コリント第二 4:4

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
その人たちの間にあって,この事物の体制の神が不信者の思いをくらまし,神の像であるキリストについての栄光ある良いたよりの光明が輝きわたらないようにしているのです。



 聖書によると、悪魔サタンはエホバ神からの簒奪を行ってこの世の神になってしまいました。病や戦争などの苦しみが人類につきまとうのはそのせいであると聖書は教えます。しかし、いずれイエスが悪魔から世を取り返して千年王国の支配を行い、その後、神に世を返還することになっています。
 さて、サタンを世の神と言うとき、それはサタンが唯一まことの神であるエホバの神性を帯びているということを示しているでしょうか。そうではありません。サタンにはエホバの神性もエホバに対する従属性もありません。むしろ、サタンはエホバに対する従属性を放棄して神に反目することにより神となりました。悪魔という神は単立の神であり、その権威を他者に依存してはいません。
 一方のイエスはどうでしょうか。聖書は、悪魔を神と呼ぶような意味でイエスを神とは呼んでいません。神としてのイエスはエホバの性質を帯びており、エホバに従属しています。その権威はエホバに依存しています。さらに、イエスは神の子です。イエスは単立でも神と呼びうる存在ですが、聖書はそういう仕方でイエスを扱いません。ヨハネ福音書に描かれているイエスに言わせるなら、自分がサタンのような単立の神であると思われるのは心外なことです。間違ってもそう言われたりしないようにとたいへんな努力を払ってきたのですから。イエスはエホバご自身のものであるところの神です。つまり、ヨハネ 1:18が述べているように、イエスは「神の懐にいる独り子の神」なのです。
 そうすると、新世界訳聖書の“the Word was a god”はどうでしょうか。二人の神を混同しないことにおいて優れたこの訳文は、まさにその役割ゆえに神学上の問題を抱えることになります。イエスとエホバは二人の神ですが、完全に別個の神ではありません。しかしこの訳文を読む多くの人はそのようなことを考えてしまうかもしれません。そうするとどうでしょうか。その人はイエスの神性を否定しているということになります。
 イエスのことを“the Word was a god”と呼ぶとき、その god は実体においてはイエスを、しかし性質においてはエホバを意味しています。ヨハネ 1:1の意図に非常に近い表現をするなら、イエスはエホバではないものの、エホバに属する神なのです。
 結局のところ、ヨハネ 1:1における満足できる英訳文というものは存在しないようです。どの訳文を採用するとしても、その意味の正確な表明には、ヨハネ 1:18の、そしてヨハネ福音書全体による証言が必要でしょう。

 




 新世界訳聖書の訳文に対するキリスト教諸教会やその学者たちの反応はどうだったでしょうか。これはたいへん感情的なものであったと言うことができます。すこし例を挙げてみましょう。



◇ F・F・ブルース, (「聖書学者は『新世界訳』聖書をどう評価しているか」より引用)

“The Word was God”の‘神’に定冠詞がないことを問題にするのは素人の文法学者である。述部名詞はしばしば冠詞をとらない。『新世界訳』の‘a god’と訳出するのは何ら根拠がない。



◇ ウイリアム・パークレー, (「聖書学者は『新世界訳』聖書をどう評価しているか」より引用)

このグループは故意に真実を曲解している。[ヨハネの福音書1章1節の]“the Word was a god”は,文法的に不可能な訳である。このような訳し方をしているグループは,学問的な正直さを欠いている。



◇ ジュリアス・マンティ, (「聖書学者は『新世界訳』聖書をどう評価しているか」より引用)

JBL(聖書文献ジャーナル)のコールウェル氏、又、ハーナー氏の記事以来、特にハーナー氏の記事によると、ヨハネ1章1節を「ことばは a god であった。」と訳出するのは学識的でもなければ、又、道理にもかなっていない。語順からみてみると、そのような訳は廃棄された用い方であり、不正確である。……コールウェル氏及びハーナー氏両人はヨハネ 1:1のセオスは不定ではない故に a god と訳されるべきではないと言っている。今日ではものみの塔だけがそのような訳を支持している。文法的な証拠から言うと、99%間違っていると言える。



◇ サムエル・ミコラスキ, (「新世界訳の評判」より引用)

(冠詞を使っていない)この無冠詞の構造は, 英語で不定冠詞 "a" が含蓄しているものを意味しない。その聖句を "the Word was a god" と訳すとは空恐ろしい。



◇ カウフマン, (「新世界訳の評判」より引用)

エホバの証人の人々がギリシア語文法の基礎的な学説に底知れず無知であることは, ヨハネ 1:1の誤訳で証明している。



◇ フェインバーグ, (「新世界訳の評判」より引用)

エホバの証人のヨハネ 1:1の訳は, だれであれ立派なギリシア語学者には支持されないと, 私は保証できる。



 不定冠詞“a”の使用が「文法的に不可能である」とか「ギリシャ語の素人のやることだ」とする発言がたくさんあるようです。こういった発言の中には理解しようと努めれば理解できる要素もあります。しかし、それらを考慮しても、やはりこれらの発言は感情的であるという感がぬぐえません。というのも、ヨハネ 1:1における“the Word was a god”の訳文が認められない主な理由は三位一体の神学にあるからです。それを純粋に文法の問題であるかのように多くの学者が言ったというところが問題であるようです。



◇ 'TRUTH IN TRANSLATION', Jason David BeDuhn

ヨハネ 1:1の不定名詞は“a god”と訳すのが普通である。(しかし)英訳された聖書では……冠詞も不定冠詞も使用されていない。



 では、「ヨハネ 1:1は文法上の理由により“a god”と訳せない」という一流の学者たちの指摘は間違っているのでしょうか。必ずしもそうではないようです。なぜなら、このギリシャ語の構文に完全に合致する英語の構文というものはないからです。学者としてある程度知識や能力がある方なら、ギリシャ語や英語についての非常に厳密な議論を知っているのですから、これこれの理由によってこのギリシャ語文は“a god”と訳せないと言うことが可能になります。しかしそれは、事実上「このギリシャ語は英語でどのように翻訳しても間違いである」と言ってしまうのと同じことで、前提である英訳という課題の限度を超えてしまうことになります。
 それでもなお、“the Word was a god”の訳文を文法的な根拠によって否定しようとする人がいるとすれば、その人は“the Word was God”の訳文についても同じことを言わなければなりません。この訳文には「神」のところで固有名詞が用いられているという大きな問題があります。英語では、一般名詞と固有名詞の違いは表記の際にアルファベットを大文字にするかどうかで表すことができます。“God”は最初のアルファベットが大文字ですので固有名詞です。ここで固有名詞を用いることについては、神学的にはそれが妥当と言われていますが、文法的には疑問があります。



◇ 'TRUTH IN TRANSLATION', Jason David BeDuhn

これは英語の固有名詞である“God”とは合致せず、不定名詞である“a god”に合致する。



 単に性質を表しておりその対象が特定されていないような名詞に固有名詞を充てることはできるでしょうか。普通そういうことはしません。ギリシャ語のこの構文において定冠詞が省かれるという一般則があるのは、まさにそういう理由があるからのようです。その事情をよく知っているはずの学者たちが、「だから英訳の際には定冠詞“the”を訳文に復元しなければならないんだ」と言ってみたり、あるいは「定冠詞をつけることはできないが固有名詞にはしておくべきだろう」と言ったりすることがあるとしたら、どうでしょうか……。

 純粋に文法論の観点からヨハネ 1:1を論じることは不毛なことだと言わなければならないようです。そのようなことをする人は多かれ少なかれ詐欺を働いていることになります。ここには神学上の論議が入り込む余地がありますし、そうせざるを得ないでしょう。



◇ 「ものみの塔」誌1993年10月15日号, ものみの塔聖書冊子協会

「新英訳聖書」出版計画の責任者,C・H・ドッド教授はこの訳し方について次のように注解しています。「考えられる翻訳は……『言葉は神[a god]であった』だろう。これは字義訳として文句のつけようがない」。しかし「新英訳聖書」はこの聖句をそのように訳していません。それどころか,その翻訳のヨハネ 1章1節は,「すべてのものが始まったとき,言葉はすでにあった。言葉は神と共に住み,神であったもの,言葉はそのようなものであった」となっています。その翻訳委員会がもっと簡潔に訳そうとしなかったのはなぜでしょうか。ドッド教授はこう答えています。「それが受け入れられない理由は,ヨハネの思想,また正にクリスチャンの思想全体の流れに反するからである」。―「聖書翻訳者のための論文」,第28巻,1977年1月。



 結局は、翻訳者が三位一体論をどう思うかです。

 




 ここで、内田和彦氏による「キリストの神性と三位一体―「ものみの塔」の教えと聖書の教え」という本に触れたいと思います。この文書ではすでにこの本から何度か引用を行っていますが、この本はヨハネ 1:1についてほかにも述べていますので、これを見てみましょう。



◇ 「キリストの神性と三位一体―「ものみの塔」の教えと聖書の教え」, 内田和彦, いのちのことば社

(この本の)第一部で私たちは、新約聖書の中でイエスが「神」であると言われている箇所を、ひとつずつ見ていくことにします。「ものみの塔」の教えでは、こうした箇所はほとんど無視されているのが実情です。かろうじて取り上げられている箇所にしても、無理な議論を展開して、「ものみの塔」の教えに合うように解釈されています。



 エホバの証人は三位一体論に反論して細かいことを述べていますので、「ほとんど無視されているのが実情」とか「かろうじて取り上げられている」などと言うのはどうかと思います。
 しかしその点はとりあえず置いておくとして、ヨハネ 1:1における「ものみの塔の無理な議論」とはどのようなものであるかに注目しましょう。



◇ 「キリストの神性と三位一体―「ものみの塔」の教えと聖書の教え」, 内田和彦, いのちのことば社

「ことば/言葉は神であった」とありますから、このキリストが「神」と言われていることは間違いないと思われます。しかし、「ものみの塔」はそのように受け取りません。実はこの箇所で、「ことばは神とともにあった」の「神 ( theos = テオス )」には冠詞がついているのに対し、「ことばは神であった」の「神 ( 同じく theos )」には冠詞がついていません。「ものみの塔」はこの事実に注目し、「ことばは神であった」と言われているのは、「ことばは神性を備えていた」あるいは、「一つの神」であったという意味であるとしています。



 多くの反対者がしているように、エホバの証人の主張に反論するにあたって反論しやすいようにその主張を手直ししている様子が見られています。特にこのやり口はヨハネ 1:1について論じる時に反対者が用いる常習的な手法で、頻繁に見られます。



○ エホバの証人によるヨハネ 1:1の解釈についての反対者の論調

『エホバの証人は聖書のギリシャ語にも神学にも全くの素人なので、ヨハネ 1:1における「神」の意味は定冠詞の有無で決定されると思いこんでいる。』



 実際には動詞に先行する無冠詞の叙述名詞が問題になっているという点はとりあえず省略されています。つまり、「動詞に先行する無冠詞の叙述名詞」から「動詞に先行する叙述名詞」の要素を取り去るなら、論点は「無冠詞の」という一点に絞られるというわけです。こういった手法の使用は双方の側に見られています。エホバの証人側としては、初心者向けに説明を短く分かりやすくするようなときにこのような手法を用いますし、反対者側としては、話を有利にするためにこのような手法を用います。ですから、このような手法が全く間違っているというわけではないようです。このような場合、素人なのは書き手ではなく書き手が想定する読み手であるということに留意が必要です。
 このようなエホバの証人の論法に対して内田氏がどのように反論を述べているかを見てみましょう。



◇ 「キリストの神性と三位一体―「ものみの塔」の教えと聖書の教え」, 内田和彦, いのちのことば社

もし、冠詞のない「神」ということばが「一つの神」を表わすという「ものみの塔」の主張が正しいなら、彼らにとって大変都合の悪いことがあります。それは、ヨハネの福音書において、「エホバ」なる神を意味するテオスに冠詞が付いていないことがしばしばあるという事実です。たとえば……



 ギリシャ語と神学の素人であるエホバの証人には同じくらい素人である反論がお似合いであるようです。幼稚で乱暴な論理を唱えるエホバの証人はこれくらいの反論で追いつめられて右往左往することになるでしょう。

 ギリシャ語テオスに冠詞がつかないことは度々あります。たいていの場合、そのことに深い意味はありません。単に抜けているだけだからです。ですから、「神」に定冠詞がついていないことを根拠にしてその文の解釈を変えるということにはなかなかなりません。
 内田氏は、あえて条件を絞らないことにより類例の数を増やしています。



◇ 参照資料付き新世界訳聖書, 付録

ギリシャ語本文中には,マルコ 6:49; 11:32; ヨハネ 4:19; 6:70; 8:44; 9:17; 10:1,13,33; 12:6など,動詞に先行する単数形の無冠詞叙述名詞の例が数多く見られます。対象となっているものの特質や特性を明らかにするため,英訳聖書の場合,翻訳者たちはこれらの箇所で,叙述名詞の前に不定冠詞“a”を挿入しています。これらの句において叙述名詞の前に不定冠詞が挿入されているのですから,ヨハネ 1:1の無冠詞の叙述名詞ο θεοςの前に不定冠詞“a”を挿入し,これを“a god”(神)と読むようにするのはそれと同様に正当なことです。聖書はこうした訳し方が正確であることを確証しています。



 条件を適切に設定すると類例の数は絞られてきます。さらに叙述名詞がテオスである場合を選んでいくと内田氏の主張するようなことにはならないようです。



○ エホバの証人によるヨハネ 1:1の解釈についてのファンダメンタルな論法

『エホバの証人はヨハネ 1:1における「神」の意味は定冠詞の有無で決定されると主張している。』
『聖書にはその類例が多くある。』
『それらの事例は、エホバの証人がヨハネ 1:1について主張していることと合致しない。』



 引き続き内田氏の主張を見ましょう。



◇ 「キリストの神性と三位一体―「ものみの塔」の教えと聖書の教え」, 内田和彦, いのちのことば社

「ものみの塔」が「一つの神」という訳を主張する根拠として挙げられることは、「神」を意味するギリシャ語「セオス」に冠詞が付いていない事実です。この点について、少し詳しく論じている『三位一体』(27頁)における彼らの議論は混乱しています。

「『聖書文献ジャーナル』は、『無冠詞の述語が動詞に先行している[表現]は主として限定的な意味を持つ』と述べています。これは同『ジャーナル』が述べる通り、ロゴスを一種の神になぞらえ得ることを示しています。」

彼らはその何号のだれの論文に拠っているのか明らかにしていません。そのこと自体ルール違反です。筆者が調べた結果、E・C・コーウェルが1933年発行の52号(1-12頁)に発表した論文に言及しているものと思われます。しかし、そこで論じられていることは、なんと彼らの主張と反対のことなのです。



 この文章には不自然さがあります。この文章を書いた時内田氏が何をたくらんだか、推察してみましょう。
 今、内田氏はエホバの証人による聖書文献ジャーナルの引用を扱おうとしているところです。そして彼の手には、この引用のある二つの資料があります。彼はこの両方を参照したと主張しています。



◇ 「あなたは三位一体を信ずるべきですか」, ものみの塔聖書冊子協会

「聖書文献ジャーナル」は,「無冠詞の述語が動詞に先行している[表現]は主として限定詞的意味を持つ」と述べています。これは同「ジャーナル」が述べる通り,ロゴスを一種の神になぞらえ得ることを示しています。同「ジャーナル」はまた,ヨハネ 1章1節に関し,「述語の持つ限定詞的働きは極めて顕著であるゆえに,その名詞[テオス]を特定されたものとみなすことはできない」と述べています。



◇ 参照資料付き新世界訳聖書, 付録

フィリップ・B・ハーナーは,「聖書文献ジャーナル」(Journal of Biblical Literature,第92巻,フィラデルフィア,1973年,85ページ)に掲載された,「限定詞としての無冠詞叙述名詞: マルコ 15章39節およびヨハネ 1章1節」と題する自分の論文の中で次のように述べています。ヨハネ 1:1にあるような,「無冠詞の述語が動詞に先行している[文節]は主として限定詞的意味を持つ。これは,ロゴスがテオスの特質を有していることを示しているのである。述語であるテオスについて,これを特定されたものと取る根拠はどこにもない」。ハーナーは結論として,その論文の87ページでこう述べています。「ヨハネ 1:1の場合,述語の持つ限定詞的働きは極めて顕著であるゆえに,その名詞を特定されたものとみなすことはできない」。



 見たところ、参照資料付き新世界訳聖書には引用元がきちんと記されていますが「三位一体」の冊子には引用元がきちんと記されていません。内田氏は「三位一体」の冊子のほうを使用することにしました。
 さて、「三位一体」の冊子には資料の引用元がきちんと記されていませんので、内田氏はそれがどの資料からの引用であるのか調べてみることにしました。といっても、「聖書文献ジャーナル」は膨大な資料群をなしていますので、これを調べるのはたいへんな作業です。内田氏は苦労の末、その引用元を特定することができました。ところが、驚いたことに、その引用元にはエホバの証人が主張することとは全く逆のことが記されていたのです。そこで内田氏はこう思います。これは悪引用というものではないだろうか。

 内田氏はファンダメンタリストですので、ファンダメンタルに特徴的なこのような論法をよしとしているようです。彼はエホバの証人の資料を読み替えていますし、聖書文献ジャーナルなどの他の資料も読み替えています。



○ ファンダメンタルが常用する読み替えの手法

『 [ Aを主張する ] この文章は、詳しく解説するとBを主張するものである。』



◇ 「キリストの神性と三位一体―「ものみの塔」の教えと聖書の教え」, 内田和彦, いのちのことば社

つまり、……限定的な意味を持つ冠詞付きのセオスと意味は変わらないということなのです。「限定的な意味を持つ」ということは彼らも認めています。しかし、それならば意味は the God であって、a God とは訳することはできません。それなのに彼らは「ロゴスを一種の神になぞらえ得る」という正反対の結論を引きだすのです。これでは、全く文法の初歩的な理解を欠いていると言わなければなりません。



 内田氏が、「聖書文献ジャーナル」にある「限定的な」という表現の意味をすり替えている様子を見ることができます。

 




 JWTC エホバの証人をキリストへという団体による「イエスはどのような神なのか―ヨハネの書1:1の解釈」という文書はこの聖句についてこのように述べています。



○ ご注意ください

JWTC はエホバの証人と常日頃から対立しているファンダメンタル諸教会によって運営される、反宗教型のカルトグループです。
ある宗教カテゴリにおける教派間の争いが当事者のカルト化を劇的に促進するという悲惨な事例に属するものですのでご注意ください。



◇ 「イエスはどのような神なのか―ヨハネの書1:1の解釈」, エホバの証人をキリストへ (表記等修正)

「『ことば』は神であった」という第三文節は、エホバの証人が最も力を入れて論じている箇所である。ヨハネ1:1のすべての文節が意味あるものとなるには、第二文節の「神」と第三文節の「神」とは同一ではありえない。エホバの証人は前者をエホバ神、後者をより低い神(a god)と考える。それに対し、歴史的キリスト教は、前者を父なる神、後者を父なる神の本性と解釈する。問題はどちらがより説得力を持っているかということにある。
ヨハネ1:1の第二文節の「神」には冠詞がある。しかし第三文節の「神」には、冠詞がない。この違いこそ、エホバの証人が、第三文節の「神」を第二文節の神(God、エホバ神)とは違う、より低い神(a god)と解する理由である。彼らは、名詞に冠詞が伴わず、かつ動詞の前に来る場合には、形容詞的な意味となり、主語を限定する働きをするというハーナーの研究を引用する。その引用法が間違っていることは最後の章で扱う。
無冠詞である名詞が動詞の前に来た場合、不定冠詞をつけて訳す必要があるかどうかは学問的に重要な課題である……(が、神学的には)、不定冠詞をつけて訳すべきかどうかということはさして重要なことではない。問題は、第三文節の無冠詞の「神」を小文字のgodに変え、第二文節の冠詞つきの「神」Godとは違う、より低い、より劣った「神」を想定することにある。

……参照資料付の新世界訳聖書は、ハーナー博士(Philip B. Harner)の論文の一部を引用している。「ヨハネ1:1の場合、述語の持つ限定詞的働きは極めて顕著であるゆえに、その名詞を特定されたものと見なすことはできない」(「聖書文献ジャーナル』第92巻(1973年)の87頁から)。この文は、ハーナー博士がエホバの証人の解釈に同意しているかのような印象を与える。それは全く違う。
エホバの証人が誤解した(むしろ読者を欺いているとしか筆者には思えない)原因は、限定詞的働き(qualitative force)という言葉の理解にある。エホバの証人はこの「限定詞的」を「あいまいで弱めたものにする」と解釈する。その結果、『ことば』は神のようなもの(Godlike)、神的な(divine)、ある神(a god)である、と読み込む。同じ論文の中で、ハーナー博士は「直前に出てくる神と同じ性質ではない意味でのdivineという言葉は、ヨハネ1:1では使用すべきではない」とまで明言している。結局、ハーナー博士の論文は、新世界訳のヨハネ1:1の翻訳を真っ向から否定したものである。



 エホバの証人によるハーナー氏の論文の引用についてはこれを悪引用とする指摘が多数あるようです。

 エホバとイエスは同等なのでしょうか。これはそうだともそうでないとも言えるようです。
 ヨハネ 1:1に見られる言い回しには、共通点に過剰に注目して相違点は無視してしまうというニュアンスがあるようです。エホバとイエスは、同じところを見ると全く同じですが、違うところを見れば全く違います。このような時に共通点のみに注目したいのであれば、ギリシャ語には便利な言い回しがあるということのようです。このような言い回しが用いられること自体が、その両者についてどこかに相違点があることを暗示しており、エホバの証人はその共通点と相違点の双方を見ているように私は思います。違っているところを見る限りにおいてイエスはエホバより劣っていますから、結局のところ、ヨハネ 1:1における「同等」という概念は「同等なところについては全く同等だ」という意味にすぎないようです。

 




◆ エホバの証人とキリストの神性

 では、エホバの証人はキリストの神性を否定しているのでしょうか。

 キリスト教諸教会はみな口をそろえて、エホバの証人はキリストの神性を否定していると言います。そして、エホバの証人はそんな自分たちの都合に合わせて聖書を改竄してしまったと指摘します。この指摘はほんとうなのでしょうか。

 聖書にはキリストの神性について特にはっきりと述べている箇所があります。この聖句の新世界訳聖書の訳と、エホバの証人文書の解説を見てみましょう。



ヘブライ 1:3

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
彼は[神の]栄光の反映,またその存在そのものの厳密な描出であり,その力の言葉によってすべてのものを支えておられます。そして,わたしたちの罪のための浄めを行なった後,高大な所におられる威光の右に座られました。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。



◇ 「聖書に対する洞察」, 『ヘブライ人への手紙』の項, ものみの塔聖書冊子協会

その方は類例のないみ子,相続者として定められた方,み父の存在そのものの厳密な描出であり,この方を通して,造られたすべてのものも支えられている

◇ 「ものみの塔」誌1993年6月15日号, ものみの塔聖書冊子協会

わたしたちは,創造物を通して,また聖書に書かれている神の行動について読むことによってエホバ神を見ることができます。さらに,イエス・キリストについて記されている言葉や行動によっても神を見ることができます。イエスは自らその点を認め,ヨハネ 12章45節で,「わたしを見る者は,わたしを遣わした方をも見るのです」と言われました。さらに,ヨハネ 14章9節では,「わたしを見た者は,父をも見たのです」と言っておられます。コロサイ 1章15節には,「[イエス]は見えない神の像で(す)」とあります。ヘブライ 1章3節は,「[イエス]は神の栄光の反映,またその存在そのものの厳密な描出であ(る)」と述べています。エホバは,贖いを備えるだけでなく,言葉と行ないの両面で見倣うべき手本を残すためにもみ子を遣わされました。イエスは神の言葉を語られました。ヨハネ 12章50節では,「わたしの話すこと,それは,父がわたしにお告げになったとおりに話している事柄なのです」と言っておられます。イエスは自分自身のことは行なわず,神がお告げになった事柄を行なわれました。ヨハネ 5章30節では,「わたしは,自分からは何一つ行なえません」と言っておられます。―ヨハネ 6:38。

◇ 「ものみの塔」誌1994年10月15日号, ものみの塔聖書冊子協会

イエスの考え方はエホバに由来し,イエスはエホバを反映しており,エホバの存在そのものの厳密な描出です。イエスを見ることはエホバを見ることにほかなりません。

◇ 「ものみの塔」誌1997年6月1日号, ものみの塔聖書冊子協会

キリストは地上において,父なるエホバ神のご性格を完ぺきに反映しました。

◇ 「ものみの塔」誌1998年6月1日号, ものみの塔聖書冊子協会

エホバはご自分の独り子を地に遣わされ,イエス・キリストはこの地上での生涯にわたるすべての歩みにおいて天の父を完全に反映されました。

◇ 「ものみの塔」誌2005年8月15日号, ものみの塔聖書冊子協会

イエスは,言葉と行ないの両面においてエホバの栄光を完全に反映させた方です。



 エホバの証人はキリストの神性を擁護しているようです。新世界訳聖書の訳文に改変の様子はありませんし、出版物においてもキリストの完全な神性ということが強調されています。
 しかし一方で、この聖句についてこのように述べています。



◇ 「ものみの塔」誌1983年8月15日号, ものみの塔聖書冊子協会

ヘブライ人への書は,キリストの勝った地位に注意を集中することから始まっています。キリストは今や栄光を受けた霊であり,「[神の]存在そのものの厳密な描出」であられます。とは言っても,父と子が同一の存在であるとか一つの神であるとかいう意味ではありません。ヘブライ 1章3節は,イエスが,「高大な所におられる威光の[「神の」,今日の英語聖書]右に座られました」と付け加えているからです。ヘブライ 2章10節や5章5,8節などの聖句も,エホバがみ子より勝っておられることを示しています。それでもキリストは,「み使いたちよりも優れた名[地位あるいは名声]」を得ています。―ヘブライ 1:4。



 これらの資料から、エホバの証人がキリストの神性を認める一方で、神とキリストとを別個の存在としていることことが分かります。

 エホバの証人がヘブライ 1:3について述べていることは、ヨハネ 1:1について彼らが述べていることと一致しているようです。



◇ 「あなたは三位一体を信ずるべきですか」, ものみの塔聖書冊子協会

ジェームズ王欽定訳のヨハネ 1章1節は次の通りです。「初めに言葉がおり,言葉は神と共におり,言葉は神[God]であった」。これは,イエス・キリストとして地上に来た「言葉」(ギリシャ語,ホ ロゴス)が全能の神ご自身だったことを意味する,と三位一体論者は主張します。
しかし,ここでもまた,文脈が正確な理解を得る土台となります。ジェームズ王欽定訳でさえ,「言葉は神と共におり」となっています。だれかがほかの人「と共に」いるなら,その人はそのほかの人と同一人物ではあり得ません。このことと一致して,イエズス会士ジョセフ・A・フィッツメイヤー編,「聖書文献ジャーナル」は,もしヨハネ 1章1節の終わりの「神」のことをこの節の前半に出てくる神を意味すると解釈するなら,「先行する節と矛盾することになる」と述べています。その節には,言葉が神と共にあった,とあるからです。
……それで,ヨハネ 1章1節は「言葉」の性質,つまりこの方は全能の神ではなく,「神性を備えた」方,「神のような」方,「神[a god]」であられたことを強調しています。このことは,神の代弁者としての役割の点で,ここで「言葉」と呼ばれているイエスが,ご自分の上位者であられる全能の神により地に遣わされた従順な従属者であることを示している,聖書の他の箇所と調和しています。



 エホバの証人は昔からキリストの神性を擁護してきましたし、ヨハネ 1:1についても、「ヨハネ 1:1の“a god”の訳文はキリストの神性を擁護するものである」と主張してきました。
 では、なぜキリスト教の諸教会はエホバの証人がキリストの神性を否定していると唱えるのでしょうか。

 これについて理解するには、これまでキリスト教諸教会がエホバの証人について何と言ってきたかを思い起こす必要があるようです。
 キリスト教諸教会はこれまで100年以上にわたり、みんなで口をそろえて、それはもう熱心に、「エホバの証人はキリストが神の子であることを否定する宗教だ」と唱えてきました。エホバの証人はイエスが神の子であることを否定しているんだそうです。アメリカやヨーロッパのようなキリスト教国ではテレビや新聞までもが同じように言います。宗教学者もそういう内容の論文を書きます。ただエホバの証人だけが「私たちはそんな宗教ではありません」と言いますが、だれもそれを信じません。
 こういうことが、あろうことか100年以上続いてきました。こうなってくると、諸教会にも意地というものがでてくるらしいです。やがて諸教会はエホバの証人の定義なるものを勝手に作成したうえでそれに固執するようになり、ますます口をそろえて熱心にその定義を唱えるようになりました。
 その定義とは何でしょうか。教会に通っている方ならだれもがよく知っているあの定義です。



○ キリスト教世界による、キリスト教世界のための、エホバの証人の第一定理

『エホバの証人はキリスト教を名乗っているがキリスト教ではない』



 これに続く定義はこうです。



○ エホバの証人の第二定理

『エホバの証人はキリストが神の子であることを否定している』



 ところが20世紀も終わり頃になってくると、「どうもこの第二の定義はまちがっているらしい」ということがあちらこちらで言われるようになりました。しかも、「間違っている」という言われようはまだましなほうで、中には「あんたたちキリスト教諸教会はそろいもそろって頭がおかしいんと違いますか」とか「あんたたちはそこまで弱い者いじめをして何が楽しいんですか」とか言う人もでてくるという始末でした。
 そこで出てきたのが改訂された第二の定義です。



○ 21世紀のキリスト教を担う、新しい、エホバの証人の第二定理

『エホバの証人はキリストの神性を否定している』



 21世紀になると、キリスト教の諸教会は改訂された第二の定義をこれまた熱心に唱えるようになりました。
 この改訂に当たって諸教会は、「間違いについて特に反省の言葉を述べず、改訂はさりげなく実施する」という方針を取りました。そのため、今のところ一部の教会に出遅れの現象が見られています。彼らはまだ古い方の定義を盛んに唱えていますので、教会の足並みがそろうにはもう少し時間がかかりそうです。

 出直しにあたって諸教会は理論武装に努めました。理論武装に当たってターゲットとされたのが、エホバの証人によって翻訳された聖書、「新世界訳」です。
 新世界訳聖書にはキリストの神性を否定しているかのように見える訳文があります。その一つがヨハネ 1:1です。エホバの証人はこのような訳文について「別にキリストの神性を否定しているわけではありませんよ」と言っていますが、諸教会がそれを上回る勢いで口をそろえて熱心に「これはキリストの神性を否定する訳文ですよ」という解説を述べれば、エホバの証人はキリストの神性を否定しているという結論が導かれるのではないでしょうか。



○ 第三定理

『エホバの証人は自分たちに都合のよいように聖書を解釈している』

○ 第四定理

『エホバの証人は自分たちの都合に合わせて聖書を改竄している』



 諸教会としては、できることならエホバの証人がキリストの神性を否定しているという事実を証明したいものです。証明は可能でしょうか。証明はきちんとできていると諸教会は言います。それなら安心です。もう何も心配することはありません。しかも、この定義には保険までついています。



○ エホバの証人の第二定理の最終証明

『キリストの神性とは、極めて厳密に定義するなら、三位一体論で言うところの神性のことである』
『ところがエホバの証人は三位一体論を認めていない』

『つまり極めて厳密に論じるなら、エホバの証人はキリストの神性を否定していると言えるのである』



 この保険がある限り、もうだれからも嘘つき呼ばわりされる心配はありません。
 ここでのポイントは、エホバの証人はキリストの神性を認めながらも一方ではエホバに対するイエスの従属性を説いているということです。もう一つのポイントは、彼らがキリストの神性を認めつつも一方ではエホバとイエスとが「一体」であることを否認しているということです。この二つの事実がある限り、改訂された第二の定義が間違っているということにはなりません。

 キリスト教諸教会としては、この新しい定義をあと100年はもたせるつもりであるようです。100年ももつでしょうか。これは間違いなくもつように思えます。それに、キリスト教諸教会には、彼らにとって極めて神聖にして決して侵されざる第一の定義があります。これはあと1000年くらいはもつでしょう。この第一の定義がある限り、第二の定義はなくなりません。ただその形が変わるだけです。

 




 ヨハネ 1:1を巡ってたびたび引用されているフィリップ・ハーナーの論文の抜粋日本語訳を掲載します。



◇ Qualitative Anarthrous Predicate Nouns, Philip Harner, Journal Of Biblical Literature

今日に至るまで私たちは、この聖句における無冠詞の叙述名詞が主に性質についての意味合いを持つということ、また、その文脈や文意が明確にその対象を示している場合に限ってそれが限定的な役割を果たすということを学んできた。ヨハネは何を書こうとしたか、あるいは、彼は何を書いたのか。その問いに答えてこの聖句の理解をもたらすための助けとして、この場面において彼が用いることができたと思われる語順(もしくは語彙)を列挙しよう。

A. ho logos en ho theos
B. theos en ho logos [これはヨハネが実際に書いた語順である]
C. ho logos theos en
D. ho logos en theos
E. ho logos en theios

Aの場合、theos は冠詞つきの叙述名詞である。これは logos と theos とが等価であり兼用であることを意味するだろう。それはつまり、ho theos でなければ ho logos にはなり得ないということを示しているだろう。しかし二者の等価を示すこのような表現は、ヨハネ 1:1の第二節の「言葉は神と共におり」に矛盾するだろう。第二節は両者の関連性を示している。つまるところ、両者のペルソナ(位格もしくは人格)の多少の違いを示しているのである。
Dの場合、動詞が無冠詞の叙述名詞に先行している。おそらくこれは logos が“a god”である、もしくは多少は神的な存在であることを意味しているだろう。つまり、それは一般的に theos の示す範疇にありながらも ho theos である神とは区別された存在であるということになるだろう。
Eの場合、それはDの弱い言い回しであろう。つまりそれは logos が“divine(神的)”であることを意味しているが、logos がどのようにまたどれほどまでに神的であるかは明示されていないということになるだろう。またそれは、logos が単に theios であり、theos に劣る者であることを暗示するだろう。
ヨハネは明らかに、logos のことをAの言い方ではなく、またDやEにとどまらない言い方で言い表そうとした。BやCの場合、無冠詞の叙述名詞が動詞に先行しており、性質的な要素が主体である。それらの文は、logos が theos の性質を持っていることを示しており、このような場合、述語 theos が限定的であると考える根拠は全くない。それだとBやCはAと等価になってしまうだろうし、Aの場合のようにそれらの文はヨハネ 1:1の第二節と矛盾することになってしまうだろう。
ho logos と ho theos の共通点と相違点とについて述べた時ヨハネは、BもしくはC、つまり、現に theos が所有しているのと同じ性質を両者が共有するということを示唆しようとしていた。BやCの文は、両者が一致しているとの意味を示しつつその両者のわずかの相違にも注目する文である。Bの文は logos が(他の誰かではなく) theos の性質を持っていたことを意味しているだろう。

……ヨハネ 1:1 について私は、述語名詞の性質的な意味合いは顕著であってその名詞を限定的なものと見なすことはできないと考える。



 ハーナー氏は、批評によりこのところ信頼が下がっているコルウェルの法則を補強しようとしているようです。その内容は基本的にコルウェルの法則の示すものを繰り返すものです。
 彼はさらに、ヨハネ 1:1の三位一体論的な解釈も補強したいと願ったようです。そのため、文脈が叙述名詞を限定するということを指摘しながら、ヨハネ 1:18の「独り子の神」という表現のことは無視しています。
 また、新世界訳聖書が採用している“a god”の訳文については“性質の同等性”という観点に立って選択肢から除外する見解を示しています。これは新世界訳聖書が考える“別個の存在”という観点とかみ合っていません。これを悪引用とする反対資料が多数あるのもうなずけます。

 おそらく、ハーナー氏は新世界訳聖書を攻撃する明確な意図をもって“a god”の問題について述べたのでしょう。しかし、新世界訳聖書はこれに対して返し技を繰り出しているようです。つまり、三位一体論を促進したいハーナー氏は二つの神が性質においては同等であってもペルソナにおいて同一ではないことをしっかりと主張していますので、そこにつけ込んでみせたというわけです。

 なんとも面倒な話ではないか、と私は思います。これでは話がややこしくなります。



○ 悪引用の問題

反対者たちの指摘によると、エホバの証人の出版物にはこのような“悪引用”がたくさんあります。エホバの証人は何をたくらんでいるのでしょうか。
このような戦術的な引用は裁判でよく見られます。たとえばこのようです。被告の弁護士は原告の指摘が間違っているという主張を長々と述べます。しかし原告の弁護士はその内容の一部に注目し、反論します。あなた自身ここでこのように述べていることからすると我々の指摘はやはり正しいのではないか、またこのように述べているのだからあなたも実際にはこれが正しいことを知っているのではないか。これを聞いて裁判官はなるほどと思い、原告勝訴の判決を下します。原告と被告とが全く正反対の主張をしていも、真実はどちらか一つであるはずです。そこで正しい方の側は“悪引用”を行って裁判に勝つことができます。

 




 ここで、ヨハネ 1:1についての私見を述べたいと思います。
 私はコルウェルの法則を全面的に支持していません。ですから、これまで私が書いてきた内容はここですべて白紙になります。

 コルウェルの法則は、1933年にコルウェル氏によって“発見”され、さらに拡張された文法規則です。それまではそのような法則があることなど知られていませんでした。
 この法則はどのようにして発見されたのでしょうか。彼は聖書のギリシャ語本文を調べて、動詞の前に来る叙述名詞がしばしば冠詞を欠くということを発見しました。冠詞を欠く名詞はその実体が不明瞭になります。そこで、そのような叙述名詞は形容詞的であろうということが考えられました。

 しかし、ここで考えなければならないことは、そもそも名詞というものはみな形容詞的であるということです。今、私の机の上にはペンがありますが、ペンはペンの性質を持っているのではないでしょうか。机には机の性質があります。机の上には本もあります。コーヒーの入ったコップもあります。それらもみな同様ではないでしょうか。このことは、コルウェルの法則が動詞の前に来る叙述名詞に限って発見したこととどのような違いがあるのでしょうか。
 私がペンを取ってメモ帳に何かを書いたとします。このように言う時そのペンがどのペンであるかは明示されていませんから、理屈のうえでは、その分ペンという語のペンとしての性質は強調されているということになります。しかし、こんな理屈に深い意味があるのでしょうか。もし私がそのペンがどのペンであるかを明示したら、その瞬間にその名詞の示す性質のニュアンスは消滅するのでしょうか。

 最初に挙げた二つの例について考えてください。ヨハネ 6:70において「悪魔」という語は実体ではなく性質を示しているということでした。それはほんとうなのでしょうか。これを断言する言い方で言う場合とそうでない場合とでユダの実体に差が出てくるのでしょうか。マルコ 6:49-50において弟子たちがイエスのことを「幽霊」と思った時、それは特定されない幽霊だということでした。どういう言い方をしたとしてもそれは同じではないでしょうか。あるいは弟子たちは「あれは間違いなくイエスであるが幽霊のように見えるから不思議だ」ということを省略して述べていたのでしょうか。そうだとすると、続くイエスの「わたしです。恐れることはありません。」という言葉には何か意味があるのでしょうか。

 私見では、コルウェルの法則とは、第一に、物には物の性質が伴うという当然の自然法則を基礎とした壮大な虚構です。

 さて、ある表現によってある名詞が強調された場合、理屈のうえでは、その名詞の持つ性質も強調されていることになります。叙述名詞を強調する文法として代表的なのは倒置法です。ヨハネ 1:1の「言葉は神であった」では、叙述名詞である「神」が動詞の前に来ていますから、これは倒置表現です。倒置表現によって冒頭に来る「神」は強調されているのですから、その分、その性質も強調されていると言うことが可能です。しかしその場合、倒置文が強調しているのは原則的には先行している名詞そのものです。つまり、その性質も強調されるからといって、性質に特に注意が向けられているのではありません。

 私見では、コルウェルの法則とは、第二に、倒置表現では先行して置かれる語が強調されるという当然の文法規則を基礎とした壮大な虚構です。

○ 正常な表現

「この表現は倒置表現である。」

○ ファンダメンタルが考案した特殊な表現

「この表現は叙述名詞が動詞に先行する表現である。」



○ 正常な表現

「文脈に書いていないことはよくわからない。」

○ ファンダメンタルが考案した特殊な表現

「文脈がその対象を明示していない場合、その叙述名詞の性質的役割は顕著であり、よってその対象を特定することはできない。」



 では、結局のところヨハネ 1:1はどのように読むべきなのでしょうか。
 私は、ヨハネ 1:1はヘブライ 7:3と同様の黙示表現であると考えます。



ヘブライ 7:3

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
彼は,父もなく,母もなく,系図もなく,生涯の初めもなければ命の終わりもなく,神の子のようにされていて,永久に祭司のままです。

詩編 110:4

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
エホバは誓いをお立てになりました。(そして悔やまれません。)「あなたは定めのない時に至るまで,メルキゼデクのさまにしたがう祭司である!」



 祭司メルキゼデクについて述べたヘブライ 7:3を読んで悩むという人は少なくありません。メルキゼデクが神の子のようであるとはどういうことなのか、と考えてしまいます。しかしこれは詩篇 110:4の黙示表現です。黙示表現には黙示表現の解読法が適用されますから、解読すればもとの意味に戻ります。つまり、ヘブライ 7:3は「神の子はメルキゼデクの祭司のようである」ということを難しくして述べているようです。
 ヘブライ 7:3が黙示表現であることを無視したとき、神の子であるイエスとメルキゼデクとが対等であるとする解釈が生じます。もしだれかがこの解釈を発展させると三位一体論と同様の結論が導かれてしまうかもしれません。

 ヨハネ 1:1についてはどうでしょうか。



ヨハネ 1:1

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
初めに言葉がおり,言葉は神と共におり,言葉は神であった。

詩編 138:1-2

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
わたしは心をつくしてあなたをたたえます。他の神々の前でわたしはあなたに調べを奏でます。わたしはあなたの聖なる神殿に向かって身をかがめ,あなたのみ名をたたえます。あなたの愛ある親切とあなたの真実とのゆえに。あなたはそのみ名すべてにも勝って,あなたのみことばを大いなるものとされたからです。



 詩編 138:1-2は難解な聖句です。イエスの時代までに、ユダヤ人たちは聖書を厳密に研究した結果、「神(々)」という表現が天使たちを指す婉曲表現として用いられていることを発見するようになりました。このような研究は当時普及したセプトゥアギンタ訳聖書において取り入れられ、そのような聖句にある「神(々)」という語は「天使たち」と訳出されました。



詩編 138:1-2

◇ セプトゥアギンタ (七十人訳/LXX) ◇ (ユダヤ)
εξομολογησομαι σοι κυριε εν ολη καρδια μου οτι ηκουσας τα ρηματα του στοματος μου και εναντιον αγγελων ψαλω σοι προσκυνησω προς ναον αγιον σου και εξομολογησομαι τω ονοματι σου επι τω ελεει σου και τη αληθεια σου οτι εμεγαλυνας επι παν ονομα το λογιον σου



 新約聖書も、ヘブライ 1:6などでそのような解釈を支持しています。



ヘブライ 1:6

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
しかし,その初子を人の住む地に再び導き入れる際にはこう言われるのです。「そして神のみ使いたちはみな彼に敬意をささげよ」。

詩編 97:7

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
彫刻した像に仕える者はみな恥をかくがよい。 無価値な神々を誇りにしている者たちは。 この方に身をかがめよ,すべての神々よ。

◇ セプトゥアギンタ (七十人訳/LXX) ◇ (ユダヤ)
αισχυνθητωσαν παντες οι προσκυνουντες τοις γλυπτοις οι εγκαυχωμενοι εν τοις ειδωλοις αυτων προσκυνησατε αυτω παντες οι αγγελοι αυτου



 詩編 138:1-2も、そのような句であるとされた句です。つまり、詩編 138:1-2は「言葉」が「天使たち」よりも、それどころか「神のすべての名」よりも偉大にされたと述べているのです。
 この難解な聖句はキリスト教の信仰、そして新約聖書に大きな影響を与えました。そうしてヘブライ 1章の記述をはじめとする幾つかの記述が書かれました。



ヘブライ 1:1-12

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
神は,昔には,多くの場合に,また多くの方法で,預言者たちによってわたしたちの父祖に語られましたが,これらの日の終わりには,み子によってわたしたちに語られました。[神]は彼をすべてのものの相続者に定め,また彼を通して事物の諸体制を作られました。彼は[神の]栄光の反映,またその存在そのものの厳密な描出であり,その力の言葉によってすべてのものを支えておられます。そして,わたしたちの罪のための浄めを行なった後,高大な所におられる威光の右に座られました。こうして彼はみ使いたちよりも優れた名を受け継ぎ,それだけ彼らに勝る者となられました。たとえば,み使いたちのうちのだれに[神]はかつてこう言われたでしょうか。「あなたはわたしの子。わたしは,今日あなたの父となった」。また,「わたしは彼の父となり,彼はわたしの子となるであろう」と。しかし,その初子を人の住む地に再び導き入れる際にはこう言われるのです。「そして神のみ使いたちはみな彼に敬意をささげよ」。また,み使いたちについてはこう言われます。「そして[神]はご自分の使いたちを霊とし,自分の公僕たちを火の炎とする」。しかしみ子についてはこうです。「神は限りなく永久にあなたの王座,あなたの王国の笏は廉直の笏である。あなたは義を愛し,不法を憎んだ。それゆえに,神,あなたの神は,歓喜の油をあなたの仲間に勝ってあなたにそそがれた」。また,「主よ,あなたは初めにこの地の基を据えられました。天はあなたのみ手の業です。それらのものは滅びうせますが,あなたご自身は絶えずとどまっておられます。それらはみな外衣のように古び,あなたは外とうのように,外衣のようにそれらをたたまれます。それらは変わりますが,あなたは同じであり,あなたの年が尽きることは決してありません」と。



 このような表現は、キリスト教徒が詩編 138:1-2における「言葉」をイエスを指す婉曲表現であると考えていたことを示しています。このとき、詩編の「あなたのすべてのみ名」という表現は「天使たちの名」に読み替えられています。詩編 138:1-2はもともと難解な読み替えを必要とする聖句ですが、新約聖書における読み替えはさらに複雑で難解です。
 そして、このような解釈を説くところにおいては、記述上、イエスは神よりも偉大な者であるとされているのです。別の言い方をすると、詩編 138:1-2について新約聖書が語るところでは、神学上の法則にしたがって、イエスが神より上位であるという書き方が求められたということです。

 ではここでもう一度ヨハネ 1:1を見てみましょう。



ヨハネ 1:1

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
初めに言葉がおり,言葉は神と共におり,言葉は神であった。



 ヨハネ 1:1は明らかに常識的でない言い方で始まっています。本来なら「初めに神がおり」で始まるべきところです。出だしが逆になっているところからして、この聖句はあからさまに「この表現は黙示表現なんですよ」と述べているのではないでしょうか。これを詩編 138:1-2の黙示表現であるとしてヘブライ 1章とフィリピ 2章の記述の助けを得つつ解読すると、その中間的な解読はだいたいこのようになります。「初めに神がいたが、神が言葉を高めたので、言葉は天使たちに対して神のようになった。それは天使たちや人間たちがイエスに対して平伏し、エホバを賛美するためである。」
 しかしこれは黙示表現ですので、完全に解読すると「イエスは神によって高められた神の子である」といういたって平凡な意味になります。



○ 課題

まずは箴言 8:22-31と詩編 138:1-2を読んでください。続いてヨハネ 1:1-3とフィリピ 2:6-11とコロサイ 1:15-20とヘブライ 1:1-4を読みましょう。これらの聖句がどのように調和しているか説明してください。また、これらの聖句から、キリスト教の信仰がどのようにして成立していったかを考察してください。



 引き続き私見となりますが、最後に、ヨハネ 5:18とヨハネ 10:33に注目しましょう。
 三位一体論を信じるファンダメンタリストたちは、これらの聖句は三位一体を証明する重要な聖句であると主張してきました。



ヨハネ 5:17-18

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
しかし[イエス]は彼らにこう答えられた。「わたしの父はずっと今まで働いてこられました。ですからわたしも働きつづけるのです」。まさにこれがもとで,ユダヤ人たちはいよいよ彼を殺そうとするようになった。彼が安息日を破っているだけでなく,神を自分の父と呼んで,自分を神に等しい者としているという理由であった。

ヨハネ 10:31-36

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
またもやユダヤ人たちは,彼を石打ちにしようとして石を取り上げた。イエスは彼らにお答えになった,「わたしは,父からのりっぱな業をあなた方に数多く見せました。そのうちどの業のために,あなた方はわたしを石打ちにするのですか」。ユダヤ人たちは彼に答えた,「りっぱな業のためではなく,冒とくのために,つまり,あなたが人間でありながら自分を神とするからこそ,わたしたちは石打ちにするのだ」。イエスは彼らに答えられた,「あなた方の律法の中に,『わたしは言った,「あなた方は神だ」』と書いてあるではありませんか。神のとがめの言葉が臨んだ者たちを『神』と呼び,しかもその聖書は無効にし得ないものなのに,あなた方は,父が神聖なものとして世に派遣されたわたしが,自分は神の子だと言ったからといって,『[神を]冒とくしている』とわたしに言うのですか。



 三位一体論者はこれらの聖句についてこのように述べます。実は、イエスの時代のユダヤ人たちはすでに(部分的にではあるが)三位一体の神聖な真理を理解していたのだ。ユダヤ人たちは「神の子」と「神」とが等しいことを知っていた。しかし彼らはイエスがメシアであることは信じなかった。それで、イエスが自分のことを「神の子」と称した時、このような言い方でイエスを否認したのだ。

 これはほんとうなのでしょうか。ユダヤ人は三位一体論を知っていたのでしょうか。
 これは時代錯誤であるように思えます。三位一体論が成立したのはイエスの時代より何世紀もあとだからです。では、三位一体論のヒントとなるものがイエスの時代のユダヤ教にあったのでしょうか。これも種々の証拠からして考えにくいことです。それでも聖書には、イエスの時代のユダヤ人が「神の子」を神と同一視する推論を行ったことが記されています。

 この主張についてのよくある反論は、ユダヤ人はここで言いがかりを述べており、それで表現が大げさなのだ、というものです。この反論によると、ユダヤ人たちはまだ三位一体の教えを知らなかったので、神の子が神と等しいという信条を持ってもいませんでした。つまり、ここで示されている法則は、この時のユダヤ人の身勝手な思いつきによるもので、彼らの信条を反映したものではありません。
 しかし、この反論はどうやら正しくないようです。ファンダメンタルが主張するように、このころのユダヤ人はすでに『神の子と神は等しい』という結論に至っていたようなのです。
 私はすでにこの文書にて、旧約聖書には読み替えのルールがあり、それにより「天使たち」が「神(々)」に書き換えられる事例があることを指摘しました。これは一つめのヒントです。もう一つのヒントがあれば、謎は解けます。

 当時のユダヤ人にとって「神の子」とは何のことだったしょうか。これについて考えるにあたっては時代錯誤に注意してください。現代の私たちにとって「神の子」とは何であるかと言えばもちろん、それはほかでもないイエス・キリストのことです。しかし、神の子についてのそのような定義はイエスの時代に生じたものです。イエスの弟子たちはその定義を知りましたが、ユダヤ人たちは別のことを考えていました。それは、旧約聖書において定義されている「神の子」です。
 旧約聖書は、ただひとりの、そして文字通り神の子であるところの「神の子」などという概念を持ってはいません。旧約聖書において「神の子」とは「天使たち」のことです。たとえば創世記 6:1-4には、天使たちが人間の体をつけて地上に降りてきた出来事が記されています。



創世記 6:1-4

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
さて,人が地の表に増え始め,彼らに娘たちが生まれると,そのとき[まことの]神の子らは人の娘たちを見,その器量の良いことに気づくようになった。そして彼らは自分たちのために妻を,すべて自分の選ぶところの者をめとっていった。その後エホバはこう言われた。「わたしの霊が人に対していつまでも定めなく働くことはない。彼はやはり肉であるからだ。したがってその日数は百二十年となる」。その時代,またその後にも,ネフィリムが地にいた。それは[まことの]神の子らが人の娘たちと関係を持ちつづけ,その[娘]たちが彼らに子を産んだころで,それらは昔の力ある者たち,名ある人々であった。



 これが二つめのヒントです。どのような答えが導かれるでしょうか。旧約聖書は「天使」のことを「神の子」と呼びます。さらに「天使」のことを「神に等しい」とも描写しています。この二つを合わせるなら、『神の子と神は等しい』という神学的結論が導かれます。
 そこで、ここでユダヤ人が「神の子」と言ったときの「神の子」の意味は「天使」であるということのようです。
 イエスはその問いに答えることができたでしょうか。見事な返答ができたようです。イエスの反論を見てみましょう。イエスは、旧約聖書の中で天使が神であるとされている箇所の一つを引用して反論しています。そのような聖句は幾つかありますが、イエスが引用したのは、その中でただ一つ例外的に、「神」という表現が天使だけでなく人間にも適用されているところです。つまりイエスは、自分がたとえ人間であっても神の子であり、よって神に等しいということを証明してみせたのです。

 ここでは、黙示表現ということもよく念頭に置いておく必要があります。もしある組織がある信条や行動を他者に対して秘密にしたいと思うなら、隠語を用いることでしょう。たとえば、戦争中に軍が通信を送るとして「トラ・トラ・トラ」と言えば「我奇襲に成功せり」という意味であるという具合です。宗教にもこのような手法が多用されています。ただ、いくつかの宗教では秘密にしたい内容を目立たせないように表現を一般化する傾向が見られるのに対し、聖書は表現を過激にする傾向が顕著です。一見して普通に思える内容の文書や会話に特別な意味が忍ばせてあるのではなく、一見して普通でない文書や会話に一般的な意味が込められます。ですから、聖書の黙示表現に不慣れな人は、その奇抜な表現に翻弄されることになります。
 するとどうでしょうか。こういった特殊なルールによって交わされる会話についていけることは、神学者として一流であることの証になります。ユダヤ人神学者たちはイエスにその証を求めたのでしょう。ですから、その会話の内容は、そのルールを知らない一般の人々には全く別の種類の会話に聞こえなければなりません。そのような意味において、イエスは確かに神と等しいのです。
 そして、後に聖書は「啓示の書(黙示録)」という黙示表現の壮大な集大成を生み出します。それは極めて異常な表現で構成されており、極めて特殊な内容を述べているように見えますが、黙示表現の解読法に従って解読すると、割と平凡です。その書は旧約聖書や新約聖書がそれまでに述べてきた事柄に追随しているにすぎず、これまで個別に述べられたことを一つにまとめて完成させようとする意図が読み取れます。しかし、啓示の書に顕著に見られるような黙示表現は唐突に生じたものでは決してなく、その土台となるものは聖書の各所にちりばめられています。

 実はこの話には三つ目のヒントがあります。イエスの時代、ユダヤ人たちを支配していたローマのカエサル(皇帝)は自分のことを「神の子の使い」という称号で呼び、他者による「神の子」という称号の使用を死刑に値する反逆罪だと定めていました。ユダヤ人にとってこれは屈辱的なことでした。しかし、彼らとしてはローマに面と向かって刃向かうわけにもいきませんから、それに対してぶつぶつ不満の言葉を述べるしかなく、こうして『神の子と神は等しい』という神学的法則がひねりだされたようです。カエサルが自分のことを「神の子」と唱えることはカエサルが自分を神と等しくしているということにほかならず、受け入れられないということです。ですから、イエスが自分のことを「神の子」と述べるよりずっと前に、すでにこのような神学的反論ができあがっていたようです。

 さて、以上のことを考えるとどうでしょうか。ファンダメンタルはこれについてなかなか巧みな言葉を述べているように思います。実に巧妙なことではないか、と私は思います。



○ 「神の子」という表現に対するユダヤ人の見解についてのファンダメンタルな論法

『ユダヤ人は神の子であると唱えることが神であると唱えることと等しいという理由でイエスを殺そうとした』
『つまりユダヤ人は神の子が神と等しいということを信じていた』

『つまりユダヤ人は三位一体を理解していたのである』