新世界訳
エホバの証人の聖書

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ヨハネ 8:24

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
それゆえわたしは,あなた方は自分の罪のうちに死ぬと言ったのです。わたしが[その者]であることを信じないなら,あなた方は自分の罪のうちに死ぬことになるのです」。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。



 新共同訳聖書では“『わたしはある。』”となっているところが、新世界訳聖書では“わたしが[その者]である”となっています。
 ここのところは新世界訳聖書の訳文のほうが普通であるようです。一方、新共同訳聖書は三位一体論を支持していますから、ヨハネ 5:58などでしているように、この表現をイエスが神であることを示す称号にしてしまおうと考えたようです。



ヨハネ 8:58

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』



 このあたりの事情については、まずヨハネ 8:58の項を参照してください。

 他の主要な聖書はここをどう訳出しているでしょうか。



ヨハネ 8:24

◇ 新改訳聖書 ◇ (ファンダメンタル)
それでわたしは、あなたがたが自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。」

◇ 口語訳聖書 ◇ (プロテスタント)
だからわたしは、あなたがたは自分の罪のうちに死ぬであろうと、言ったのである。もしわたしがそういう者であることをあなたがたが信じなければ、罪のうちに死ぬことになるからである」。



 新改訳聖書は訳文を省略しているようです。
 新共同訳以外の聖書では、この表現をキリストを指す称号と考える訳は支持されていません。
 しかし、新共同訳聖書にはほかにもこのような訳文が見られます。これは新共同訳聖書特有の傾向であるということが言えるでしょう。

 ここで、中澤啓介牧師による“「エホバ」のみ名 ― 対話シリーズ”という文書に注目しましょう。
 中澤啓介氏は日本バプテスト教会連合大野キリスト教会の牧師です。この人はエホバの証人に対する救出活動を熱心に行っており、“JWTC ― エホバの証人をキリストへ”という団体の主講師を務めています。この人の活動に対する社会的な評価も高いようです。日本においてエホバの証人問題の専門家といえばまずはこの人でしょう。

 では文書を見てみましょう。



◇ 「エホバ」のみ名 ― 対話シリーズ, 中澤啓介, JWTC ― エホバの証人をキリストへ (表記等修正)

クリスチャン ヨハネの福音書を注意深く見ますと、イエスに神がお与えになった別の名前が出てくることに気づきます。ヨハネ8:24、28、13:19、18:6を読んでいただけますか。
(読者の皆さんは、必ず聖書を開いてお読みください。)
これらの箇所に、新世界訳では、「その者」という言葉が出てきます。新共同訳でも、二重括弧付で『わたしはある』と訳しています。そのギリシャ語「エゴー・エイミ」は、普通、後ろに何かの言葉がついて「わたしは...である」と訳されます。ところが上記の箇所においては、後に説明の言葉が続かず、「わたしはある」と訳さねばならない用例です。クリスチャン・ギリシャ語聖書では他に、マタイ14章27節、マルコ6章50節、14章62節、ルカ22章70節などにもこの表現が見られますが、新世界訳はマルコ14章62節のみ[その者]と訳出しています。
エホバの証人 [その者]という表現が17章6節のみ名なのですか。
クリスチャン そうです。……



 この文書は、「エホバの証人」と「クリスチャン」との対話というストーリーになっています。どうしてこのような書き方になるのでしょうか。中澤氏はエホバの証人についてのキリスト教諸教会の伝統的見解に同意する立場を取っています。その見解によると、エホバの証人はキリスト教ではありません。エホバの証人はキリスト教ではないのですから、クリスチャンでもありません。つまり、エホバの証人と一般的なキリスト教との対話はエホバの証人とクリスチャンとの対話であるということになります。



○ エホバの証人についてのキリスト教諸教会の基本的見解

エホバの証人はキリスト教を名乗っているがキリスト教ではない



 中澤氏はこのような主張を展開していることになります。イエスによって用いられている εγω ειμι (エゴー エイミ) というギリシャ語の表現は、補語が伴わない場合は「名(ここでは称号の意味)」であり、新共同訳聖書のように“『わたしはある』”と「名(称号)」の扱いで訳すべきである。これこそが εγω ειμι についてのキリスト教の正しい見解である。

 では、順を追って内容を確認していきましょう。
 最初に挙げられている4つの聖句のうち、まずはヨハネ8:24,28の2つです。これを文脈も含めて見てみましょう。



ヨハネ 8:21-30

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
そこで[イエス]は再び彼らに言われた,「わたしは去って行こうとしています。そしてあなた方はわたしを捜すことでしょう。それでも,あなた方は自分の罪のうちに死にます。わたしが行こうとしている所へ,あなた方は来ることができません」。それゆえ,ユダヤ人たちは言いはじめた,「彼は自殺するつもりなのではあるまい。『わたしが行こうとしている所へ,あなた方は来ることができない』と言っているが」。それで[イエス]はさらに彼らに言われた,「あなた方は下の領域からの者ですが,わたしは上の領域からの者です。あなた方はこの世からの者ですが,わたしはこの世からの者ではありません。それゆえわたしは,あなた方は自分の罪のうちに死ぬと言ったのです。わたしが[その者]であることを信じないなら,あなた方は自分の罪のうちに死ぬことになるのです」。そこで彼らは,「あなたはだれなのですか」と言いだした。イエスは彼らに言われた,「一体なぜわたしはあえてあなた方に話しているのでしょうか。わたしには,あなた方について話すべきこと,また裁きを下すべきことがたくさんあります。実際のところ,わたしを遣わした方は真実な方であり,その方から聞いたこと,それをわたしは世で話しているのです」。[イエス]が父について話しておられることを,彼らは会得しなかった。それゆえイエスは言われた,「ひとたび人の子を挙げてしまうと,そのときあなた方は,わたしが[その者]であり,わたしが何事も自分の考えで行なっているのではないことを知るでしょう。わたしはこれらのことを,ちょうど父が教えてくださったとおりに話しているのです。そして,わたしを遣わした方は共にいてくださいます。わたしを独りだけにして見捨てたりはされませんでした。わたしは常に,その方の喜ばれることを行なうからです」。これらのことを話しておられる間に,多くの者が彼に信仰を持った。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
そこで、イエスはまた言われた。「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。」ユダヤ人たちが、「『わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない』と言っているが、自殺でもするつもりなのだろうか」と話していると、イエスは彼らに言われた。「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」彼らが、「あなたは、いったい、どなたですか」と言うと、イエスは言われた。「それは初めから話しているではないか。あなたたちについては、言うべきこと、裁くべきことがたくさんある。しかし、わたしをお遣わしになった方は真実であり、わたしはその方から聞いたことを、世に向かって話している。」彼らは、イエスが御父について話しておられることを悟らなかった。そこで、イエスは言われた。「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。」これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた。



 ここで、イエスは自分が天から来た者であるということを語っています。新世界訳聖書は εγω ειμι を「わたしは[上の領域からの者]である」という意味に読んでいます。すでに述べたように、ここは新世界訳聖書の訳が普通ですが、新共同訳聖書はこれを称号に訳そうとしています。このような訳し方には無理があるようにも思えますが、まったくできないということでもないようです。

 続いてヨハネ 13:19です。



ヨハネ 13:18-20

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
わたしはあなた方のすべてについて語っているのではありません。わたしは自分が選んだ者たちを知っています。しかしそれは,『常々わたしのパンを食していた者が,わたしに向かってかかとを挙げた』と[述べる]聖書が成就するためなのです。わたしは今この時から,それが起きる前にあなた方に告げておきます。それが実際に起きる時,わたしが[その者]であることをあなた方が信じるためです。きわめて真実にあなた方に言いますが,わたしが遣わした者を迎える人はわたしを[も]迎えるのです。また,わたしを迎える人はわたしを遣わした方を[も]迎えるのです」。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
わたしは、あなたがた皆について、こう言っているのではない。わたしは、どのような人々を選び出したか分かっている。しかし、『わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった』という聖書の言葉は実現しなければならない。事の起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである。はっきり言っておく。わたしの遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」



 ここでも、新共同訳聖書は εγω ειμι を“『わたしはある』”と訳しています。新世界訳聖書は自然体で、文脈に従い「わたしは[かかとを挙げられる者]である」という意味に訳しています。

 最後にヨハネ 18:6です。



ヨハネ 18:1-9

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
これらのことを言われてから,イエスは弟子たちと共に外に出,キデロンの冬の奔流を渡って園のある所に行き,彼も弟子たちもその中に入った。さて,彼を裏切る者であるユダもその場所を知っていた。イエスはそこで弟子たちと何度も会合しておられたからである。それゆえユダは,兵士の一隊と,祭司長やパリサイ人の下役たちを連れ,たいまつやともしびや武器を携えてそこにやって来た。それゆえイエスは,自分に臨もうとするすべての事柄を知り,進み出て彼らに言われた,「あなた方はだれを捜しているのですか」。彼らは,「ナザレ人のイエスを」と答えた。[イエス]は彼らに言われた,「わたしが[その者]です」。さて,[イエス]を裏切る者であるユダも彼らと共に立っていた。しかしながら,「わたしが[その者]です」と[イエス]が言われた時,彼らは後ずさりして地面に倒れた。それゆえ,[イエス]は彼らに再びお尋ねになった,「あなた方はだれを捜しているのですか」。彼らは,「ナザレ人のイエスを」と言った。イエスは答えられた,「わたしが[その者]ですと告げたではありませんか。それゆえ,あなた方の捜しているのがわたしであれば,これらの者たちは去らせなさい」。これは,「わたしに与えてくださった者のうち,わたしはその一人をも失いませんでした」と言われた言葉が成就するためであった。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。イエスは、弟子たちと共に度々ここに集まっておられたからである。それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明やともし火や武器を手にしていた。イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。そこで、イエスが「だれを捜しているのか」と重ねてお尋ねになると、彼らは「ナザレのイエスだ」と言った。すると、イエスは言われた。「『わたしである』と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」それは、「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」と言われたイエスの言葉が実現するためであった。



 よく見ると、新共同訳聖書は εγω ειμι を称号に訳していないようです。この場合、そのように訳すことにはさすがに無理があるでしょう。しかし、表現がまぎらわしいのでうっかり読み間違える方もおられるかと思います。中澤氏はファンダメンタルですから、ファンダメンタルに特有の手法を実践し、そのような効果を狙ったのでしょう。

 これらの句について正しく理解するには、前後の文脈を参照し、「その」にあたる部分を見極めることが役立つようです。

 続いて、文書が参考として挙げている4つを見てみましょう。



マタイ 14:23-27

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
やがて,群衆を去らせた[イエス]は,祈りをするために自分だけで山に上って行かれた。[時刻は]遅くなっていたが,ただ独りでそこにおられた。そのころまでに,舟は陸から何百メートルも離れていたが,波のために難儀させられていた。向かい風だったからである。ところが,夜の第四見張り時に,[イエス]は海の上を歩いて彼らのところに来られたのである。海の上を歩いておられるのを見かけたとき,弟子たちは騒ぎ立ち,「これは幻影だ!」と言った。そして,恐れのあまり叫び声を上げた。しかし,イエスはすぐに,「勇気を出しなさい,わたしです。恐れることはありません」と彼らに言われた。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」



マルコ 6:45-50

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
それから直ちに,[イエス]は弟子たちを強いて舟に乗らせ,ベツサイダに向けて先に対岸に行かせ,その間にご自分は群衆を解散させた。そして,彼らに別れを述べたのち,祈りをするため山の中に入って行かれた。すでに夕方になっており,舟は海の真ん中にあったが,[イエス]は独りで陸におられた。それから,向かい風のために彼らがこぐのに難儀させられているのをご覧になると,夜の第四見張り時ごろであったが,[イエス]は海の上を歩いて彼らのほうに来られた。しかし,彼らのそばを通り過ぎる気でおられた。[イエス]が海の上を歩いておられるのを見かけると,彼らは,「これは幻影だ!」と考え,大きな叫び声を上げた。彼らは皆[イエス]を見て騒ぎ立ったのである。しかし,[イエス]はすぐに彼らと話をし,「勇気を出しなさい,わたしです。恐れることはありません」と言われた。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた。群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。



マルコ 14:60-62

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
最後に,大祭司が彼らの真ん中に立ち,イエスに質問して,こう言った。「何も返答しないのか。これらの者があなたに不利な証言をしていることはどうなのか」。しかし[イエス]は黙ったままで,少しも返答されなかった。大祭司が再び質問をはじめてこう言った。「あなたはほめたたえるべき方の子キリストか」。するとイエスは言われた,「わたしは[その者]です。そしてあなた方は,人の子が力の右に座り,また天の雲と共に来るのを見るでしょう」。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
そこで、大祭司は立ち上がり、真ん中に進み出て、イエスに尋ねた。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」しかし、イエスは黙り続け何もお答えにならなかった。そこで、重ねて大祭司は尋ね、「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と言った。イエスは言われた。「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る。」



ルカ 22:70

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
すると,彼らはみな言った,「それでは,あなたは神の子なのか」。[イエス]は彼らに言われた,「あなた方自身,わたしがそうだと言っています」。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
そこで皆の者が、「では、お前は神の子か」と言うと、イエスは言われた。「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている。」



 これらの聖句で、 εγω ειμι を称号の意味にとって“『わたしはある』”と訳出することには相当な無理があるでしょう。

 ここでもう一度、中澤氏による記述を見てみましょう。



◇ 「エホバ」のみ名 ― 対話シリーズ, 中澤啓介, JWTC ― エホバの証人をキリストへ

そのギリシャ語「エゴー・エイミ」は、普通、後ろに何かの言葉がついて「わたしは...である」と訳されます。ところが上記の箇所においては、後に説明の言葉が続かず、「わたしはある」と訳さねばならない用例です。クリスチャン・ギリシャ語聖書では他に、マタイ14章27節、マルコ6章50節、14章62節、ルカ22章70節などにもこの表現が見られますが、新世界訳はマルコ14章62節のみ[その者]と訳出しています。



 中澤氏は何かを主張しているように見えますし、そうでないようにも見えます。
 参考として挙げられている4つの聖句について、“エゴー・エイミの後に説明の言葉が続かず、「わたしはある」と訳さねばならない用例”であると主張しているように思えます。あるいは、新世界訳聖書はそれらの句のうち3か所では εγω ειμι を称号として訳出していると指摘しているとも思えます。しかし、そういう読み方はいずれも誤解です。

 このようなあいまいな記述の意味するところを十分に理解するには、中澤氏の資質や経歴を知っておく必要があるでしょう。彼はファンダメンタルの有能な神学者です。つまり、「もっともらしくて嘘ではない言い回し」に長けていて、それで神学者として成功してきたというところがあります。エホバの証人に対する反対文書においてその傾向は極めて顕著で、エホバの証人側から見れば、彼の問題とはその主張の内容というよりは話術のほうであったりします。もうすこし言うと、エホバの証人は彼の文書を自作自演の類であると思っています。その演出ぶりが凶悪なのでもはや対応する術さえないとも思っています。もう彼のことは放置するしかないと結論しています。ついでに言うと、中澤氏自身も自分がそう思われていることを知っているようです。
 ちなみに私自身も、彼の話しっぷりには常々うんざりしていて、なるべく相手にしたくないと思っています。
 もちろん、エホバの証人でない立場の人でそのように考える人はまずいません。キリスト教諸教会はエホバの証人問題の専門家としての中澤氏を高く評価していますし、宗教問題を扱う宗教学者たちも彼を頼りにしています。彼の言葉はマスメディアによって取り上げられることもありますし、学術的な論文の出典として用いられることも多々あるそうです。

 ここで論点を整理しましょう。問題となっているのは、聖書の中で εγω ειμι がイエスに適用され、かつ補語が伴わない場合です。
 中澤氏の主張では、そのような εγω ειμι は必ず「わたしはある」と訳さなければなりません。
 このような文法規則は存在するのでしょうか。すでに引用したところからもわかるように、そのようなことはないようです。ですから、中澤氏の主張はファンダメンタルな文法論だということができます。



εγω ειμι についてのファンダメンタルな論法

「補語を伴わない εγω ειμι は「わたしはある」という意味である。」

「よって、補語を伴わない εγω ειμι は「わたしはある」と訳さなければならない。」



 それに加えて、イエス以外の人物が εγω ειμι を用いたところにも注目することができるでしょう。



ヨハネ 9:8-9

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
それゆえ,隣人たちや,彼がこじきであるのを以前に見ていた人々は,「これは,いつも座って物ごいをしていた男ではないか」と言いはじめた。ある者たちは,「これはその人だ」と言い,ほかの者たちは,「いや,違う,ただ似ているだけだ」と言った。当人は,「わたしは[その者]です」と言うのであった。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。



 ファンダメンタルが唱える神学が本質的に詐欺であることは覚えておく必要があるでしょう。ファンダメンタルが聖書の翻訳について解説し、文法論を述べるような場合には、実際にはどうなのか、辞書や解説書を調べて確認しなければなりません。

 では、なぜ新共同訳聖書は、補語を伴わない εγω ειμι の出例のうちいくつかでファンダメンタルな文法論を採用し、それを“『わたしはある』”などと訳したのでしょうか。その答えを得るには教派的な事情を理解しておく必要があるようです。
 新共同訳聖書は、プロテスタント諸教会が支持する日本聖書協会が刊行した聖書です。聖書協会はファンダメンタリズム教会を含めたプロテスタント諸教派に対して全教派的でなければなりませんから、熱心な三位一体論者が唱えるいろいろな意見を考慮しなければなりません。とはいえ、ファンダメンタルの主張することを全面的に採用したりしたら、学術的な翻訳ではなくなってしまい、リベラルからの激しい批判は免れなくなります。そこで、聖書協会としてはこれら諸教派の間を取るしかありません。“エゴー・エイミ”が“『わたしはある』”と訳せそうなところを幾つかそのように訳し、いくら何でもそう訳すのは学術的に無理というところは普通に訳して、両者の顔を立てます。
 新共同訳はよく譲歩したと思います。たとえば、ヨハネ 13:19の「わたしは[かかとを挙げられる者]である」の部分ですが、ここは、ユダがイエスを裏切るとイエスが“エゴー・エイミ”であることが分かるというくだりです。これをファンダメンタリストが唱えるように称号の意味にとると、ユダの裏切りはイエスが神であることを証明する行為である、という意味になり、なぜユダの裏切りがそれを証明するのかという疑問が生じます。一方、新世界訳聖書のようにこれを普通に読めば、何の問題もありません。メシア預言は弟子による裏切りを預言していますから、ユダが裏切ることにより、イエスが確かにメシアであったことが証明されます。ここの訳文をファンダメンタリストの要求に合わせたのは、日本聖書協会としてはたいした譲歩だと私は思います。

 中澤氏はファンダメンタルの神学者ですから、その辺の事情をうまく利用するという立場にあります。新共同訳聖書から、“エゴー・エイミ”を“『わたしはある』”と訳出している部分を露出させ、“エゴー・エイミ”を“『わたしはある』”と訳出していない部分は上手に隠しながら、自分の話を進めます。
 すでに指摘しているように、中澤氏の主張が間違っていることは中澤氏が挙げている聖句の用例を見ても明らかですが、そのことがわかりにくいような書き方に中澤氏が長けているので、不用意な読者には中澤氏の言うことがもっともらしく聞こえてしまうということが起こっているようです。

 しかし、ことの真相はそれほど単純ではありません。以下に示す、補語を伴わない εγω ειμι の一覧をご覧ください。



マタイ 14:27

◇ 現代英語訳/今日の英語訳(TEV) ◇ (プロテスタント)
Jesus spoke to them at once. “Courage!” he said. “It is I. Don't be afraid!”

◇ 共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
イエススはすぐに話しかけた。「安心しなさい。わたしだ。怖がることはない」。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」



マルコ 6:50

◇ 現代英語訳/今日の英語訳(TEV) ◇ (プロテスタント)
They were all terrified when they saw him. Jesus spoke to them at once, “Courage!” he said. “It is I. Don't be afraid!”

◇ 共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
皆はイエススを見ておびえたのである。しかし、イエススはすぐ話しかけた。「安心しなさい。わたしだ。怖がることはない」。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。



マルコ 14:62

◇ 現代英語訳/今日の英語訳(TEV) ◇ (プロテスタント)
I am,” answered Jesus, “and you will all see the Son of Man seated on the right of the Almighty and coming with the clouds of heaven!”

◇ 共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
イエススは答えた。「そうです。あなたたちは、〈人の子〉が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見るであろう」。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
イエスは言われた。「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る。」



ルカ 22:70

◇ 現代英語訳/今日の英語訳(TEV) ◇ (プロテスタント)
They all said, “Are you, then, the Son of God?” He answered them, “You say that I am.”

◇ 共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
そこで皆の者が、「では、お前は〈神の子〉か」と尋ねると、イエススは、「わたしがそうだとは、あなたたち自身が言っています」と答えた。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
そこで皆の者が、「では、お前は神の子か」と言うと、イエスは言われた。「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている。」



ヨハネ 6:20

◇ 現代英語訳/今日の英語訳(TEV) ◇ (プロテスタント)
“Don't be afraid,” Jesus told them, “it is I!

◇ 共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
イエススは言った。「わたしだ。怖がることはない」。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
イエスは言われた。「わたしだ。恐れることはない。」



ヨハネ 8:24

◇ 現代英語訳/今日の英語訳(TEV) ◇ (プロテスタント)
That is why I told you that you will die in your sins. And you will die in your sins if you do not believe that ‘I Am Who I Am’.”

◇ 共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
だから、君たちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。わたしが〈主〉であることを信じないならば、君たちは自分の罪のうちに死ぬことになる」。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」



ヨハネ 8:28

◇ 現代英語訳/今日の英語訳(TEV) ◇ (プロテスタント)
So he said to them, “When you lift up the Son of Man, you will know that ‘I Am Who I Am’; then you will know that I do nothing on my own authority, but I say only what the Father has instructed me to say.

◇ 共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
そこで、イエススは言った。「あなたたちは、〈人の子〉を上げるときに初めて、わたしが〈主〉であること、また、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることがわかるだろう。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
そこで、イエスは言われた。「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。



ヨハネ 8:58

◇ 現代英語訳/今日の英語訳(TEV) ◇ (プロテスタント)
“I am telling you the truth,” Jesus replied. “Before Abraham was born, ‘I Am’.”

◇ 共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
イエススは答えた。「はっきり言っておきたい。アブラハムが生まれる前から、わたしは〈主〉である」。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』



ヨハネ 13:19

◇ 現代英語訳/今日の英語訳(TEV) ◇ (プロテスタント)
I tell you this now before it happens, so that when it does happen, you will believe that ‘I Am Who I Am.’

◇ 共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
そのことの起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき、わたしが〈主〉であると、お前たちが信じるようになるためである。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
事の起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである。



ヨハネ 18:5

◇ 現代英語訳/今日の英語訳(TEV) ◇ (プロテスタント)
“Jesus of Nazareth,” they answered. “I am he,” he said. Judas, the traitor, was standing there with them.

◇ 共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
彼らが「ナザレトのイエススだ」と答えると、イエススは、「それはわたしだ」と言った。裏切り者のユダスも彼らといっしょにいた。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。



ヨハネ 18:6

◇ 現代英語訳/今日の英語訳(TEV) ◇ (プロテスタント)
When Jesus said to them, “I am he,” they moved back and fell to the ground.

◇ 共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
イエススが、「それはわたしだ」と言ったとき、彼らはあとずさりし、地に倒れた。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。



ヨハネ 18:8

◇ 現代英語訳/今日の英語訳(TEV) ◇ (プロテスタント)
“I have already told you that I am he,” Jesus said. “If, then, you are looking for me, let these others go.”

◇ 共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
イエススは言った。「それはわたしだと言ったではないか。だから、わたしを捜しているのなら、この人々は去らせてくれ」。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
すると、イエスは言われた。「『わたしである』と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」



 TEVと新共同訳聖書とには共通性が見られます。TEVにおいて εγω ειμι が“‘I Am Who I Am.’”と訳出されているところは、新共同訳聖書において“『わたしはある』”と訳出されています。
 どうしてこうなったのかを理解するには、新共同訳聖書がどのような経過を経て出版に至ったかを知る必要があるようです。新共同訳聖書は共同訳聖書を大幅に改訳したものです。そして共同訳聖書はTEVがベースになっています。つまり、新共同訳聖書はTEVの間接的な重訳であるということのようです。
 このあたりの事情について「書物としての新約聖書」という本はこのように述べています。



◇ 「書物としての新約聖書」, 田川建三 (表記修正)

アメリカ聖書協会のこの翻訳方針は主としてナイダという人とブラッチャーという人が中心になって、世界中の聖書翻訳の方針として広めようとしたものである。この二人は日本に対しても、特に「共同訳聖書」の準備に際して、その方針で日本人にも聖書翻訳をやらせるべく、何度も来日し、講演会や翻訳担当者たちを相手にしたセミナー等々を開いている。その結果「共同訳」がTEVと本質的に同じ欠点をはらむものとなったのは、周知の事実である。これは日本だけでなく、特にいわゆる第三世界でアメリカ人の宣教師が「現地」の言語に聖書を翻訳する場合に、ほぼすべてその方針が押しつけられていった。



 それにしても、TEVの“‘I Am Who I Am.’”の訳は大胆な訳です。TEVは、ヨハネ 8:58について唱えられているファンダメンタルな神学に従い、出エジプト 3:14で用いられる表現をそのまま使用することにしました。“‘I Am Who I Am.’”はエホバを指す称号として用いられる表現ですので、イエスは自分がエホバであることを見事に宣言したという訳になります。



出エジプト 3:14

◇ 現代英語訳/今日の英語訳(TEV) ◇ (プロテスタント)
God said, "I am who I am. You must tell them: ‘The one who is called I AM has sent me to you.'



 これは従来の聖書翻訳のルールをかなり無視したものです。翻訳された聖書には神学上の都合によって調整された訳文が入り込むことが多々ありますが、それが聖書翻訳の暴走を生じさせるのはよくありませんから、「そのようなことをするなら、それなりに正当な理由に基づき、それなりに節度を持ってやりましょう」という暗黙の了解というものが存在するようになっています。別に誰かが文書化して公布したりしたわけではありませんが、それでもだいたいの大まかな基準というものが出来上がっています。まれにそのルールを無視する訳本もあるのですが、そういったものの大半はあまり主流でない団体や個人から出されたものでした。ところが、聖書協会という世界的に権威が認められている団体からそのような訳本が出版されてしまいました。
 ですから、TEVのこれらの訳文を見て驚いたという人は大勢おられると思います。また、それが共同訳聖書や新共同訳聖書になった時、日本でも同じことが起こったと思います。教会の牧師をしておられる方々や聖書学をやっておられる方々は、「なんだこれは」、「いったいどうなっているんだ」、「こんなことをしてもいいのか」と思ったに違いありません。私が勝手に思うところでは、この文書で取り上げている中澤氏だってそう思ったはずです。内心ではそういう健全な感覚を持ち備えたうえで引用のような巧みな文書を書くようでなければ、中澤氏の仕事は務まりません。

 これでは、TEVや共同訳や新共同訳聖書について「これは改ざんされた聖書だ」という声が上がっても仕方がないのではないでしょうか。
 もっとも、そのような声が多数上がっているという話は聞きません。そのような声は少数ですし、無視されています。

 ではここで、翻訳の話題を離れ、中澤氏の文書の文脈に注目しましょう。



◇ 「エホバ」のみ名 ― 対話シリーズ, 中澤啓介, JWTC ― エホバの証人をキリストへ (表記等修正)

エホバの証人 イエスが祈りの中でエホバに呼びかけた証拠は数多くあると思いますよ。
クリスチャン イエスは、エホバよと語りかけたのではなく、父よと語りかけました。イエスは処刑される前の晩、かなり長い祈りをささげています。ではその祈りを見てください。
(このパンフレットを読んでおられる方は、ヨハネ17章1、11、21、24、25節を注意深く読んでください。)
ここでイエスはどのような言葉で神に語りかけていますか?
エホバの証人 「父」です。
クリスチャン エホバではありませんね。では、イエスが「エホバよ」と語りかけて祈られた記録が聖書の中にあるでしょうか? いっしょに調べてみていただけませんか。
エホバの証人 分りました。
クリスチャン 新世界訳において、イエスはエホバという言葉を何回ぐらい使っているかご存じでしょうか。
エホバの証人 さあ。数えたことはありません。
クリスチャン 20回です。そのうちのほとんど、18回はヘブライ語聖書からの引用です。引用ではない箇所は、二箇所です。
エホバの証人 そうですか。
クリスチャン これらの箇所には、イエスが祈られた記録は入っていません。イエスが一度も「エホバよ」と祈っていないことは驚くべきことではありませんか?
エホバの証人 エホバというお名前が消されてしまったのではないでしょうか。
クリスチャン 写本が正確に伝達されたということはものみの塔も認めています。もし写本において消されてしまったと考えられる場合があれば、新世界訳では復元したはずですよね。



 これについてはどういうことが言えるでしょうか。これは、私が「“エホバ”復元問題」で述べたとおりです。



◇ “エホバ”復元問題, 新世界訳 ― エホバの証人の聖書, 宮原崇 (表記修正)

新約聖書にはただの一度さえも神の名前がでてきません。これがいくつかの問題の解決を難しくしています。たとえば、「イエスは神の名前を発音したか」という問いです。当時は、幾つかの異なる考え方に基づいて、神の名前の発音が行われたり、行われなかったりしたようですので、これについてはいろいろなことが考えられます。
そこで、イエスが旧約聖書を引用したり朗読したりした場面に注目してみましょう。……
新約聖書の中で、イエスは神の名前“エホバ”をことごとく別の言葉に言い換えています。多くの場合、“主”と言い換え、ところによっては“神”と言い換えています。このことからすると、イエスは当時のユダヤ人の主流に従って神の名前を“主”に呼び換えていた、と考えることもできます。
ところが、話はそれほど簡単ではありません。というのも、新約聖書の中にはそもそも“エホバ”が一度も出てこないからです。“エホバ”の名が出てくるべきあらゆる状況においてその名がことごとく置き換えられているという事実を考えるなら、新約聖書の記述から「イエスは神の名前を発音したか」という問いの答えを得ることは難しいようです。仮にイエスが神の名前を発音していたとしても、それを新約聖書に記録する段階で書き換えられたでしょうから。
もしも、新約聖書があるところで神の名前を用い、別のところでは用いないのでしたら、先のような聖句を手がかりに「イエスは神の名前を言い換えていた」あるいは「言い換えなかった」と結論することができるでしょう。しかし、神名に関する新約聖書の立場が一貫している以上、まず最初に「神の名前は一切用いない」というルールがあって、それが新約聖書の記述全体を支配しているということを考えなければなりません。



 イエスが「父」という称号で神に呼びかけたことについても同じことが言えます。

 新世界訳聖書の訳文においてイエスが神に「エホバ」と呼びかける場面がないのは、新世界訳聖書における神名の復元が不完全だからです。新世界訳聖書では「父」という呼称を「エホバ」に復元することは行われていません。旧約聖書からの引用では引用元を参照することにより復元のための根拠を得ることができますが、人物の台詞には引用元というものがないため根拠を得ることは難しいのです。

 文書はさらに、ヨハネ 17:6, 11-12, 26に注目しています。



ヨハネ 17:6, 11-12, 26

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
「わたしは,あなたが世から与えてくださった人々にみ名を明らかにしました。彼らはあなたのものでしたが,わたしに与えてくださったのであり,彼らはあなたのみ言葉を守り行ないました。
「そしてまた,わたしはもう世におりませんが,彼らは世におり,わたしはみもとに参ります。聖なる父よ,わたしに与えてくださったご自身のみ名のために彼らを見守ってください。わたしたちと同じように,彼らも一つとなるためです。わたしは,彼らと共におりました時,わたしに与えてくださったあなたご自身のみ名のために,いつも彼らを見守りました。そしてわたしは彼らを守り,滅びの子のほかには,そのうちだれも滅びていません。それは聖句が成就するためでした。
そしてわたしはみ名を彼らに知らせました。また[これからも]知らせます。それは,わたしを愛してくださった愛が彼らのうちにあり,わたしが彼らと結びついているためです」。



 これらの記述を読むと、イエスは神の名を人々に教えたように思えますが、中澤氏はそのような読み方に反対します。



◇ 「エホバ」のみ名 ― 対話シリーズ, 中澤啓介, JWTC ― エホバの証人をキリストへ (表記等修正)

エホバの証人 「み名を明らかにする」とはどういうことでしょうか。
クリスチャン 三つのことが含まれます。まず聖書においては、「み名」とはその人の本性、人格あるいはその人自身を指します。従って、イエスはその説教や奇跡的な業をとおして、父である神の本性、お姿、実態を明らかにしたという意味です。
エホバの証人 そうですか。
クリスチャン 次に、ギリシャ語のオノマ(名前)はデュナミス(力)と同義語のように使われているケースがあります。このことを「み名を明らかにする」との関連で考えますと、福音書の中に記されているイエスの奇蹟的な業が神の力(み名)を現わしたという意味に解釈できます。
エホバの証人 そうですか。
クリスチャン ヨハネ17章の11節および12節を読んでください。
(読者は必ず、聖書を開いてください。)
新世界訳では、11節の「わたしに与えてくださったご自身のみ名」と、12節の「わたしに与えてくださったあなたご自身のみ名」とを比べると、12節では「あなた」が加えられています。しかし、ギリシャ語原文は全く同じで、直訳すると11節、12節とも「あなたがわたしに与えてくださったあなたのみ名」となります。これは6節および26節の「あなたのみ名」に「あなたがわたしに与えてくださった」という但し書きをつけた言い回しです。すると6節および26節の「あなたのみ名」とは、イエスに与えられた名前ということになります。



 そうすると、エホバがイエスに与えた自分の名前とはいったい何なのか、ということを考えなければなりません。こうして、この文書で最初に引用した部分が登場することになります。新共同訳聖書のヨハネ8:24などにおける“『わたしはある』”という表現に注意が引かれ、それがイエスに与えられたエホバの名であるということが指摘されます。

 イエスが述べるところの「み名を明らかにする」という表現が慣用的であり実際に神名を発音することを意味していない、という考え方はどうでしょうか。これは、ありがちな誤解を訂正することにより、間違っていることが証明できるようです。

 みなさんは、「名を与える」という表現を聞くとどのような状況を思い浮かべるでしょうか。ほとんどの方は、親が子に名づけをするという場面を思い浮かべると思います。中澤氏の主張では、この表現の意味はだいたいそれと同じです。つまり、「わたしに与えてくださったご自身のみ名」とはイエスの名前であるということになります。イエスはそれを人々に明らかにしたのですから、明らかにされたのはエホバの名前ではなくイエスの名前であるということになります。
 ところが、イエスの時代には、そういうこととは全く異なる、神名を伝授する特別な慣行というものがあったようです。
 この時代は、ユダヤ人の間で神の名を発音することを忌避する悪習が確立されつつあった時代であると考えられています。神名を使うことができたのは祭司のような特別な立場にある人だけで、一般の民衆は神名を使うことを禁止されていました。また、神名を使うことができる人についても、神殿の儀式の時に、他の人に聞かれないように使うことが求められていたようです。ユダヤ人の言語であるヘブライ語は表音文字としては不完全ですので、このころのユダヤ人の大半は神名の正しい発音を知らなかったようです。そのような状況下では、神名を密かに伝授する儀式というものが必要になってきます。神名を知ることを特別に許された者にそれを伝える儀式です。その儀式では、神名の正しい発音を口頭で告げられる代わりに、その発音を決して人の前で使わないと誓わなければならなかったでしょう。しかし、記録によると、イエスの死後しばらくして、エルサレムに住むユダヤ人たちに神名の正しい発音が広まってしまうという事件が起こったようです。



◇ 秦剛平訳七十人訳ギリシア語聖書, 出エジプト記 3:14 脚注 (表記等修正)

ヨセフスは『古代史』 2-276で、……「神は呼び名を(はじめて)モーセに明らかにされたが、……それについては、わたしもまた口にすることを許されていない」と述べている。神の名は大祭司が一年に一度贖罪の日に神殿の至聖所内で口にすることが許された。それは大祭司の一族の間で秘伝とされたものであるが、実際には、……大祭司以外の者たちも知っていたようである。ヨセフスによれば、対ローマのユダヤ戦争における最後の場面(紀元後七〇年の秋)では、エルサレムの住民たちの一部は大祭司しか知らないはずの神の名を口にして、飢えからの助けを神に願っている。



 このことについてはいろいろなことが考えられてきりがないのですが、一つにはこのように考えることができます。イエスの発言を含む聖書のいくつかの記述から考えて、イエスやその弟子たちが民衆にその発音を広めてしまったのかもしれません。特にイエスにはそうする必要があったはずです。というのも、イエスは自分が聖書によって予告されたメシアであり、しかも神の子であると称していたからです。そうすると、それなら当然あなたは神名の正しい発音を知っているはずだ、ということになります。神名を口頭で弟子たちに伝授することは、イエスが確かにメシアであることの証明となったはずです。そうすると、大工の家の息子にすぎないイエスがどこで誰から神名を伝授されたのかということが問題になります。当然、その答えは人からではなく神からというものであるはずです。神の子であるイエスが神名を人から教わって知ったというのでは、話になりません。
 そうすると、イエスが神から与えられた神の名とは、神の名の正しい発音であるということになります。そのようなわけで、イエスが神名を発音しなかったとする中澤氏の主張は、誤解を一つ正すだけで、まったく逆の意味を帯びてくるようです。

 新約聖書の原典に神名が一度も出てこないことについてはどうでしょうか。これもまたきりのない話ですが、ここでの話の流れに合わせて、一つの可能性を示しておきたいと思います。



◇ 「聖書に対する洞察」, 『エホバ』の項, ものみの塔聖書冊子協会

ヒエロニムスは西暦384年にローマで書いた1通の手紙の中でこう述べています。「[神の]9番目[の名]は四文字語<テトラグラマトン>であるが,彼らはこれを[アネクフォーネートン],すなわち口に出せない事柄とみなしており,それはこれらの字母,つまりヨード,ヘー,ワーウ,ヘーで書かれている。一部の無知な者たちはギリシャ語の本の中でその語を目にすると,文字が似ているため,習慣的に,それを ΠΙΠΙ [ローマ字のPIPIに対応するギリシャ語の字母]と読んでいた」。



 ヒエロニムスによる記述が示しているのは、キリスト教はある時期から、神名を隠ぺいするユダヤ人の風習を取り入れるようになっていったのかもしれないということです。そうすると、新約聖書に神名が見つからないのは、教会自身がそれを積極的に隠ぺいしたからかもしれません。つまり、教会は神名の記された初期キリスト教文書を書き換えただけでなく、その方針に合わせてそれらの文書を組織的に破棄してしまったのかもしれない、ということです。