新世界訳
エホバの証人の聖書

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ヨハネ 12:44-45

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
しかしながら,イエスは叫んで言われた,「わたしに信仰を持つ者は,わたし[だけ]でなく,わたしを遣わした方に[も]信仰を持つのです。また,わたしを見る者は,わたしを遣わした方を[も]見るのです。

◇ 新改訳聖書 ◇ (ファンダメンタル)
また、イエスは大声で言われた。「わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わした方を信じるのです。また、わたしを見る者は、わたしを遣わした方を見るのです。」



 新世界訳聖書の訳文を見ると、「[だけ]」という語と「[も]」という語が挿入されています。聖書原典にはない語が挿入されたせいで文意が変わってしまっているということで、新世界訳聖書のこの訳文はキリスト教諸教会から強く非難されています。

 同じような問題は、少し後のヨハネ 14:7, 9にも見られます。



ヨハネ 14:7, 9

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
あなた方がわたしを知っていたなら,わたしの父を知っていたでしょう。今この時から,あなた方は[父]を知っており,また見たのです」。
イエスは彼に言われた,「わたしはこれほど長い間あなた方と過ごしてきたのに,フィリポ,あなたはまだわたしを知らないのですか。わたしを見た者は,父を[も]見たのです。どうしてあなたは,『わたしたちに父を示してください』と言うのですか。


◇ 新改訳聖書 ◇ (ファンダメンタル)
あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父を知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」
イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。



 ヨハネ 14:7には、ギリシャ語原典に「も」という語がありますから、それに続く表現ではもう「も」が省略されてしまっていると考えることができるようです。ただ、こういったことを想定すると、いろいろとややこしい問題が生じてしまうようです。

 聖書のギリシャ語では、「AだけでなくBも」という考えを述べる時に、普段はこのような言い回しを用います。



ヨハネ 13:9 原典

λεγει αυτω σιμων πετρος κυριε μη τους ποδας μου μονον αλλα και τας χειρας και την κεφαλην



ヨハネ 13:9

◇ 新改訳聖書 ◇ (ファンダメンタル)
シモン・ペテロは言った。「主よ。私の足だけでなく、手洗ってください。」



 「……だけ」に相当する “μονον (モノン)”、「でなく」に相当する “αλλα (アラー)”、「も」に相当する “και (カイ)” が用いられます。
 しかし、このような表現は省略されることがあります。

 ヨハネ 14:7はそのような省略の例であると考えることができるようです。



ヨハネ 14:7 原典

ει εγνωκειτε με και τον πατερα μου αν ηδειτε απ αρτι γινωσκετε αυτον και εωρακατε



ヨハネ 14:7

◇ 新改訳聖書 ◇ (ファンダメンタル)
あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父を知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」



 ここでは “και” しか用いられていません。
 ヨハネ 14:9ではさらに省略が進んだと考えることができるようです。



ヨハネ 14:9 原典

λεγει αυτω ο ιησους τοσουτον χρονω μεθ υμων ειμι και ουκ εγνωκας με φιλιππε ο εωρακως εμε εωρακεν τον πατερα πως συ λεγεις δειξον ημιν τον πατερα



ヨハネ 14:9

◇ 新改訳聖書 ◇ (ファンダメンタル)
イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。



 この、「わたしを見た者は、父を見たのです。」のところでは “και” も用いられていません。
 一方、ヨハネ 12:44では根本的な相違がみられます。



ヨハネ 12:44 原典

ιησους δε εκραξεν και ειπεν ο πιστευων εις εμε ου πιστευει εις εμε αλλα εις τον πεμψαντα με



ヨハネ 12:44

◇ 新改訳聖書 ◇ (ファンダメンタル)
また、イエスは大声で言われた。「わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わした方を信じるのです。



 英語の“not”に相当する“ου (ウー)”が挿入されることにより文意は大きく変わるようです。
 この文を杓子定規に読んだところでは、イエスへの信仰の信仰の対象にイエスは含まれていません。これが文意の相違です。しかし、新世界訳聖書のような挿入を行うと、イエスへの信仰の信仰の対象にイエスが含まれてしまいます。新世界訳聖書の訳文は原典どおりではありません。そこで、新世界訳聖書によるこの句の訳文はほんとうに改竄されているということが言えるようです。

 それにしても、新世界訳聖書はどうしてこのような挿入を行ったのでしょうか。それは、文脈が示す文意を考慮したからであるようです。すでに見たように、関連聖句は、イエスへの信仰の信仰の対象はイエスとエホバの両者であることを示しています。

 一連の聖句を、前後の文脈を含めて見てみましょう。



ヨハネ 14:6-12

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
イエスは彼に言われた,「わたしは道であり,真理であり,命です。わたしを通してでなければ,だれひとり父のもとに来ることはありません。あなた方がわたしを知っていたなら,わたしの父をも知っていたでしょう。今この時から,あなた方は[父]を知っており,また見たのです」。フィリポが彼に言った,「主よ,わたしたちに父をお示しください。それで十分です」。イエスは彼に言われた,「わたしはこれほど長い間あなた方と過ごしてきたのに,フィリポ,あなたはまだわたしを知らないのですか。わたしを見た者は,父を[も]見たのです。どうしてあなたは,『わたしたちに父を示してください』と言うのですか。わたしが父と結びついており,父がわたしと結びついておられることを,あなたは信じていないのですか。わたしがあなた方に言う事柄は,独自の考えで話しているのではありません。わたしとずっと結びついておられる父が,ご自分の業を行なっておられるのです。わたしは父と結びついており,父はわたしと結びついておられると[言う]わたしを信じなさい。そうでなければ,業そのもののゆえに信じなさい。きわめて真実にあなた方に言いますが,わたしに信仰を働かせる者は,その者もまたわたしの行なっている業をするでしょう。しかも,それより大きな業をするのです。わたしが父のもとに行くからです。

ヨハネ 12:44-49

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
しかしながら,イエスは叫んで言われた,「わたしに信仰を持つ者は,わたし[だけ]でなく,わたしを遣わした方に[も]信仰を持つのです。また,わたしを見る者は,わたしを遣わした方を[も]見るのです。わたしは光として世に来ました。それは,わたしに信仰を持つ者が,だれも闇の中にとどまることがないためです。しかし,わたしのことばを聞いてそれを守らない人がいても,わたしはその人を裁きません。わたしが来たのは,世を裁くためではなく,世を救うためだからです。わたしを無視し,わたしのことばを受け入れない人には,その人を裁く者がいます。わたしの話した言葉が,終わりの日にその人を裁くのです。わたしは自分の衝動で話したのではなく,わたしを遣わした父ご自身が,何を告げ何を話すべきかについて,わたしにおきてをお与えになったからです。またわたしは,[父]のおきてが永遠の命を意味していることを知っています。それゆえ,わたしの話すこと,[それは,]父がわたしにお告げになったとおりに話している[事柄]なのです」。



 直近の文脈も、文意においてはおおかた新世界訳聖書の読みを支持しているようです。イエスがエホバの考えを述べるゆえに彼はエホバの代理である、というのが基本的な趣旨です。このような時、イエスは自分の考えを一切述べようとしませんでしたから、イエスの言葉はエホバの言葉であってイエスの言葉ではない、ということになります。これを極端に言うと、この時のイエスはイエスではなかったということになります。そうすると、イエスへの信仰の信仰の対象はイエスではないということも言えます。

 新世界訳としてはこのように考えたようです。一連の表現は、もともとは「……だけでなく……も」というものである、ところが、イエスはいつもその表現を省略して述べているし、特にヨハネ 12:44では極端な表現法を用いて現実にはありえない矛盾したことを言っている、これらはみな聖書の誤読の原因になるものであるので、訳文を修正すべきである。



○ 新世界訳聖書の翻訳方針

誤読の生じる句は修正して訳出する



 このような方針に対して、エホバの証人以外のキリスト教諸教会は激しく反発しています。それは、単に訳文が改変されたからではないようです。一般的に、諸教会は三位一体論を支持しています。そして、新世界訳聖書の訳文はキリスト教にとって重要な三位一体論を否定するものであると考えています。それこそが問題です。

 たとえば、このように非難されています。



◇ 「ものみの塔の新世界訳聖書は改ざん聖書」, 正木弥 (表記等修正)

新世界訳(英文)には[only]と[also]が挿入されています。挿入に当たっては[ ]書きにされていますが、そうしたからといって挿入の事実に変わりはありません。この挿入によって”わたし”と”わたしを遣わした方”とが別の存在であることを印象付けようとしています。しかし、原文にはonlyとかalsoに当たることばも意味もありません。「わたしを見る者はわたしを遣わした方を見るのです。」これを素直に受け止めると、キリスト=父(神)となります。それが、三位一体を否定するものみの塔・エホバの証人には都合が悪いので、挿入(付け加え)をしたのです。



 しかし、このような批評には不自然なところがあるようです。すこしこの点を考察してみましょう。

 現代のキリスト教はエホバの証人のようなごく少数の例外を除けばすべてが三位一体論を支持しています。そして、三位一体論においてその証明とされているのは、聖書から神とキリストの同一性を示唆する聖句を挙げることです。ですから、聖書の訳業においては、神とキリストが同一であるという訳文を採用することが強く求められます。
 ではここでヨハネ 12:44の訳文をもう一度見てください。



ヨハネ 12:44

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
しかしながら,イエスは叫んで言われた,「わたしに信仰を持つ者は,わたし[だけ]でなく,わたしを遣わした方に[も]信仰を持つのです。

◇ 新改訳聖書 ◇ (ファンダメンタル)
また、イエスは大声で言われた。「わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わした方を信じるのです。



 新改訳聖書は、キリストは神でないという訳文です。一方の新世界訳聖書は、キリストと神には同一性があるという訳文です。どちらかというと、新世界訳聖書の訳文のほうが三位一体論の証明に使えるのではないでしょうか。

 それなのにキリスト教諸教会が新世界訳聖書を非難する理由は、続くヨハネ 12:45のほうにあるようです。



ヨハネ 12:45

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
また,わたしを見る者は,わたしを遣わした方を[も]見るのです。

◇ 新改訳聖書 ◇ (ファンダメンタル)
また、わたしを見る者は、わたしを遣わした方を見るのです。」



 キリスト教諸教会は、三位一体を証明しようとして神とキリストとの同一性を示す聖句を示します。ヨハネ 12:45はそのような聖句の一つです。この聖句を杓子定規に読むと、イエスは神にほかならないということになりますから、それは三位一体の見事な証明ということになります。ところが、新世界訳聖書の訳文を見ると、「[も]」という挿入があります。このような挿入があったとしても、同一性ということは示されていますから、三位一体論の観点から見て間違っているというわけではありません。しかし、挿入がない場合に比べてみると、新世界訳聖書の訳文は両者の非同一性を暗に示唆しているようにも思えます。そこが問題です。ではどうしてこんな挿入が行われているのか、ということを考えたとき、その直前のヨハネ 12:44にまったく余計な挿入が行われており、それが原因であるということに気づかされます。こうして、諸教会はヨハネ 12:44における新世界訳聖書の訳を非難することになるようです。

 私としては、諸教会はこのように述べるべきだったと思います。「ヨハネ 12:44における新世界訳聖書の訳文はすばらしい。この内容は、我々諸教会が主張したかったまさにその通りのものであり、まったく文句のつけようがない。しかも、エホバの証人の主張では、このような訳文は文脈に従ったものでまったく間違いないものであるというではないか。実にすばらしい。しかし、少し残念なのは、44節の挿入に釣られて続く45節に余計な挿入がついてしまったことだ。これさえなければ完璧だったのに、実に残念だ。」
 一方のエホバの証人はこのように応えるべきだったと思います。「私たちは残念に思います。私たちは三位一体論は間違っていると考えていますから、聖書の訳業に際しては文脈に従った正確な訳文の構築に努めれば、自然と三位一体論的な訳文は消滅すると信じていたのです。ところが、この聖句ではそういうことにならなかったのです。私たちはこのような結果に困惑しましたが、だからといって聖書の訳文を都合よく改竄してしまうということはできませんから、私たちは涙を呑んでこの訳文をそのままにしたのです。私たちとしては実に残念です。」

 では実際に、エホバの証人は何と言っているでしょうか。



◇ 「聖書に対する洞察」, 『イエス・キリスト 』の項, ものみの塔聖書冊子協会

イエスはトマスの質問に答え,「あなた方がわたしを知っていたなら,わたしの父をも知っていたでしょう。今この時から,あなた方は父を知っており,また見たのです」と言われました。また,イエスはフィリポの質問に答えて,「わたしを見た者は,父をも見たのです」と付け加えられました。(ヨハ 14:5-9)この時もやはり,イエスがそのあとに説明された言葉は,イエスがみ父を忠実に代表し,み父の言葉を語り,み父の業を行なわれたゆえに,そのように言えたことを示しています。(ヨハ 14:10,11。ヨハ 12:28,44-49と比較。)イエスはご自分が死ぬ日の夜のこの同じ時に,それら同じ弟子たちに,『父はわたしより偉大な方です』と言われました。―ヨハ 14:28。
弟子たちがイエスのうちにみ父を「見た」ということも,聖書の他の例に照らして考えると,理解できます。例えば,ヤコブはエサウにこう言いました。「わたしはあなたの顔を,さながら神の顔を見るようにして見ているのです……あなたが喜びをもってわたしを受け入れてくださったからです」。ヤコブがそう言ったのは,エサウの反応が,神にささげた自分の祈りと調和したものだったからです。(創 33:9-11; 32:9-12)ヨブは風あらしの中から神による尋問を受けて物事をはっきり理解した後,「私はあなたのことをうわさで聞いていましたが,今は,私のこの目があなたを確かに見ております」と述べました。(ヨブ 38:1; 42:5。裁 13:21,22も参照。)『その心の目』は啓発されていました。(エフェ 1:18と比較。)み父を見ることに関して語られたイエスの言葉は,文字通りの意味ではなく,比喩的な意味に取らなければなりません。このことは,ヨハネ 6章45節のイエスご自身の語られた言葉だけでなく,イエスの死後かなりたってからヨハネが,「いまだ神を見た人はいない。父に対してその懐の位置にいる独り子の神こそ,彼について説明したのである」と書いたことからも明らかです。―ヨハ 1:18; ヨハ一 4:12。



 私が思ったようには話が進んでいないようです。

 どうしてこのような混乱が生じるのでしょうか。問題を理解するには2つのポイントを押さえておく必要があるようです。
 それは、“同一視”というものの見方の意味するところ、そして、キリスト教に特徴的な“非合理主義”です。

 聖書には同一視の表現やその極端な言い回しがいくつも見られます。これを見てみましょう。



ゼカリヤ 2:8

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
万軍のエホバはこのように言われたからである。『[その]栄光に続いて,[神]は,あなた方から奪い取っていた諸国民のもとにわたしをお遣わしになった。あなた方に触れる者はわたしの目の玉に触れているのである。

サムエル第一 8:7

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
すると,エホバはサムエルに言われた,「民があなたに言うことに関しては,すべてその声に聴き従いなさい。彼らが退けたのはあなたではない。彼らは,わたしが彼らの王であることを退けたからである。

ガラテア 2:20

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
わたしはキリストと共に杭につけられているのです。生きているのはもはやわたしではなく,わたしと結びついて生きてくださるキリストです。実際,わたしは自分が肉にあって今生きているこの命を,神のみ子に対する信仰によって生きているのです。[み子]はわたしを愛し,わたしのためにご自身を渡してくださったのです。



 このように述べた場合、神の民はエホバでもあるのでしょうか。サムエルはサムエルではなくてエホバなのでしょうか。パウロは実は死んでいてイエスがパウロに成り替わって生きているのでしょうか。そんなことはないはずです。
 同一視という見方は、事実としては同一でないものを概念的に同一とみなすという見方です。同一視という見方はそれ自体が、同一視の対象となっているものが同一ではないことを強く示唆しています。
 そして、聖書には神とキリストを同一視する表現が多数あります。では、キリストと神とは同一なのでしょうか。三位一体の神学にしたがえば、同一です。
 三位一体論の神学は、聖書の中にある同一視の表現に伴う読者の混乱から始まって成立していったようです。聖書を読み、そこに神とキリストとを同一視する表現があるのを見たとき、ある人々は、もしかしてキリストは神ご自身なのではないだろうか、と思いました。はじめのうち、そのような考え方は無視されていたようです。そんなことを考える人は頭がおかしい、と思われたのでしょう。しかし、なんといってもキリスト教は宗教ですから、精神状態が普通というのではかえっておさまりが悪い、ということになります。こうして、キリスト教は成立してから100年を過ぎたころから、その様々な概念を極端な方向に向かわせることになります。キリスト教は非合理主義の道を突き進みました。神とキリストを同一視する考え方は重んじられるようになり、ついに優位に立ちます。やがて、三位一体論はキリスト教の根本教理とされ、不動のものとなりました。



○ 同一視についての三位一体論の論理

同一視の表現は同一を意味するものである

神とキリストが同一視されているということは、キリストが神であるということである



○ 同一視についてのファンダメンタルな論法

聖書にはキリストと神を同一視する表現がある

つまり、キリストは神なのである



 キリスト教はこの考え方で千数百年もうまくやってきたのですが、そこに大きな試練が訪れます。それは、世界の近代化に伴う合理主義の出現、そして、合理主義に伴って台頭したエホバの証人という宗派です。
 エホバの証人が三位一体論の論法に対してやったことは、一言で言うなら『文脈を参照しましょう』です。三位一体論者は三位一体を証明するとき、三位一体を証明するとされる聖句に過剰に注目した結果文脈は全く見えなくなってしまうというファンダメンタルな思考法を採ります。ところが、現行のキリスト教が三位一体の証明として挙げる聖句のひとつひとつについて、エホバの証人はこう言いました。その聖句の正しい意味を知るためにぜひ一緒に文脈を考慮しましょう、関連聖句を調べてみましょう、その記述が何を示しているのか文脈や関連聖句に基づいて考えてみましょう。
 これは、それまでのキリスト教にとっては青天の霹靂というほどのことでした。天変地異とも言えるでしょう。キリスト教の長い歴史を見ても、このような滅茶苦茶なことを述べた教派というものはありませんし、現在でもそんな支離滅裂なことを言うのはエホバの証人だけです。これはキリスト教にとってはあってはならないこと、存在自体が許せないことです。しかもこれは、たとえて言うなら金魚がたくさん泳いでいる池に誰かが1匹のピラニアを投げ込むような話です。そのまま放っておいて下手をすれば池の魚が全滅してしまうじゃないですか。もしあなたが池の管理者であるなら、なんとかして有効な対策を打たなければならないでしょう。



○ エホバの証人に特徴的な思想

合理主義
現実主義
実践主義
実証主義



 さて、この文書はいろいろな方が読まれていると思います。あなたはこれを読んでどう思うでしょうか。ほとんどの方はキリスト教徒ではありませんから、おそらくこう思うでしょう。この話、どこまでがほんとうなのだろうか、キリスト教には1万を超える教派があるというのに「文脈を参照しましょう」と言えるのはエホバの証人だけであるなどということがはたしてあるのだろうか。
 ふつう、あまりにおかしなことを話す人がいた場合、おかしいのは話をしている当人であるものです。そうするとどうでしょうか。この文書を書いている宮原という人物は自分が勝手に妄想したことをあたかも事実であるかのように書いているに違いない、ということになります。つまり、私は頭がおかしいということです。同じことはエホバの証人にも言えます。ようするに、三位一体論にかかわるこの種の話はみなエホバの証人というおかしな宗教の妄想の産物であるということです。これはまさしくそういう種類の問題です。

 もしあなたがキリスト教の信徒であるなら、もちろん、このように言うことになるでしょう。
 エホバの証人はそもそもキリスト教ではありません。あれは偽のキリスト教です。彼らは自分たちのことを正しいキリスト教だと言っていますが全くとんでもない話です。まともな教会でエホバの証人のことをキリスト教であると認めるところは一つもありませんし、まともな学者でエホバの証人がキリスト教であると認める人も一人としていません。エホバの証人は言っていることもやっていることもあまりにおかしいので、相手にできないのです。彼らが出版している新世界訳聖書という聖書は聖書ではありません。偽物の聖書です。きちんとした教会で新世界訳聖書を聖書と認めているところはありませんし、学者たちだってだれも新世界訳聖書を相手にしていません。もちろん、三位一体の教えはキリスト教の正しい教えです。エホバの証人はイエスは神ではないなどとおかしなことを主張していますが、話になりません。エホバの証人が三位一体論を否定しているということ自体が間違っているのです。三位一体はキリスト教の根本教理です。三位一体論なしにキリスト教があるなどということは全く考えられません。エホバの証人がまともな宗教であったなら、三位一体を否定したりはしないはずです。