新世界訳
エホバの証人の聖書

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ヨハネ 14:17

◇ 新世界訳参照資料付き聖書英語版 (NW/Reference Bible) ◇ (エホバの証人)
the spirit of the truth, which the world cannot receive, because it neither beholds it nor knows it. YOU know it, because it remains with YOU and is in YOU.

◇ 新世界訳聖書改訂英語版 (NWT) ◇ (エホバの証人)
the spirit of the truth, which the world cannot receive, because it neither sees it nor knows it. You know it, because it remains with you and is in you.

◇ 英語標準訳聖書 (ESV) ◇ (プロテスタント)
even the Spirit of truth, whom the world cannot receive, because it neither sees him nor knows him. You know him, for he dwells with you and will be in you.

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
それは真理の霊であり,世はそれを受けることができません。それを見ず,また知らないからです。あなた方それを知っています。それはあなた方のもとにとどまり,あなた方のうちにあるからです。



 ここでは、神の聖霊を指して代名詞が用いられる場合に、英訳聖書においてどう訳出するべきかということが問題になっています。邦訳聖書もいくらかその問題の影響を受けるようです。

 「フリーマインドジャーナル」1994年5-6月号に掲載された「新世界訳聖書における改竄」はこの問題ついてこのように指摘しています。



◇ 'Misleading Revisions in the New World Translation' Andy Bjorklund, Free Minds Journal May/Jun 1994

 『彼を見ず、彼を知らない』が『それを見ず、それを知らない』に変えられている。
 この改竄は、先の聖句で語られている、「助け手」の役割を果たす聖霊の人格性を否定し、文脈から導かれる代名詞の意味を無視したものである。



 ここのところを聖書原典で読むと、中性の代名詞が用いられています。ですから、これを“it”と訳出する新世界訳聖書の訳文は原典通りです。一方、英語標準訳聖書などのほぼすべての英訳聖書はこれを“he”に訳し換えています。
 英訳聖書の世界では、聖霊に対して用いる代名詞は男性形でなければならないと考えられています。一方、新世界訳聖書は、代名詞の訳出は原典通りでよいという立場をとっています。



○ 英訳聖書における翻訳のルール

聖霊に充てられる代名詞は男性形としなければならない。

○ エホバの証人の反論

聖霊に充てられる代名詞は原典のとおりでよい。



 どうして英訳聖書にはこのようなルールが存在しているのでしょうか。現代のキリスト教世界は三位一体論を支持しており、聖霊には神やキリストと同等の人格性が備わっていると主張します。さらに、英語の世界には中性の代名詞は人ではなく物を指すという認識があります。そこで、聖霊には人格が備わっているのだから、それを物のように扱うのは失礼だ、という認識が生じることになるようです。

 この英語の感覚についてもう少し見てみましょう。
 ふつう、男性でも女性でもないものに人格が備わっていることはありません。人格が備わっている存在は基本的には人のみであり、人には性があるからです。一方、物には性がなく、また人格もありません。ですから、一般的な会話や文書の範囲では、物に対して男性や女性の代名詞を用いることはほぼありませんし、人に対して中性の代名詞を用いることもあまりありません。これが習慣になり、やがて、“人に対して中性の代名詞を用いることはたいへん失礼である”という認識が生まれました。
 ところが、英語には代名詞の使用を混乱させるやっかいな問題があります。人を指す中性の表現があるのです。
 たとえば子供の場合、“boy”なら男性、“girl”なら女性ですが、“child”は中性です。子供が複数いるなら、性を無視できる“they”という代名詞を用いることができますが、一人しかいないなら、“he”か“she”かを選ばなければなりません。
 相手が赤ちゃんである場合は特にやっかいです。たとえばこのように言うところを考えてください、「あらとってもかわいい赤ちゃんですね。この子のお名前はなんでしょう?」 このような場合、日本語で「この子」と言うところ、英語では“he”か“she”を選ばなければなりません。ところが往々にして赤ちゃんは男か女か判別できなかったりします。では、こういう時に中性の“it”を用いるのはどうでしょうか。これは非常に失礼な言葉遣いだと考えられていますので、やめておくべきです。これが英語の感覚というものです。このような時、英語を話す人は窮地に陥ることになります。



◇ 「ロイヤル英文法」, 旺文社 (表記修正)

it が人をさす場合
 it はふつうは、中性のものや動物を表すが、人でも、baby や child などを受けることがある。ただし、話し手がよく知っていて親しみを感じている場合は、これらの名詞も he, she で受ける。

性の一致
 原則として性の区別のある単数名詞は he, she で受け、物などの性の区別のない単数名詞は it で受けるが、child, baby の場合、直接関係がなくその子を知らない人が言う場合は it で受けるが、母親など親しみを感じている人が言う場合は he, she を用いる。



 このように、たいていの文法書では、一応は“it”も使えるような言い方をしていますが、失礼ですから、やめておいたほうがいいらしいです。ではどう対応したらよいでしょうか。
 なんとかする方法として複数の“they”が持ち出されることがあります。



◇ 「ロイヤル英文法」, 旺文社 (表記修正)

-body,-one (somebodyなど) を受ける代名詞
 性的差別を避ける立場から he, she とするのが正式だが、特にくだけた言い方では they で受ける傾向がある。



 ところが、これもやっぱりやめておいたほうがいいらしいです。文法書によってはやむなく“he”を使うということを述べているものもあるらしいですが、これもまた問題になりそうです。
 困ったことに、このような問題に対するきちんとした解決策はないということのようです。

 一方、聖書のギリシャ語の感覚は英語と異なります。
 聖書のギリシャ語において「聖霊」は中性です。これは、聖書において聖霊が物扱いであるということでしょうか。そうだろうとは言えますが、断言できるわけではないようです。聖書は神を男性として扱いますが、聖霊は中性です。これを英語の感覚に杓子定規に適用すると、神は人格者で聖霊は非人格者であるということが言えるでしょう。しかし、そうなるのは、英語が中性の人格者を指す語を持ちながらそれを器用に無視しているからです。中性の人格者を考慮しないという考え方はギリシャ語の感覚ではないようです。ギリシャ語でも「子供」を意味する語は中性ですが、それに中性の代名詞を用いても何ら不都合は生じないようです。
 ギリシャ語で聖霊が中性であることの背景には、聖霊には性がないという通念があるようです。英語の場合、中性の人格者が意味するのは性が不明であることです。つまり、男か女かどちらかであるがそれがわからないということです。英語では性を持たず男でも女でもないという意味の中性の人格者は考慮されませんが、これは聖書の「聖霊」の概念を英語がうまく扱えないことを意味しているようです。

 この問題はどのように解決されるでしょうか。聖書ギリシャ語の代名詞の用法は、聖霊に性がないことを示しているだけで、聖霊が物扱いなのか人格者扱いなのかまでは示しません。特定するには聖霊に関する聖書の記述を総合的に分析することが必要です。そして、もし現代のキリスト教諸教会が三位一体論にしたがって信じるように聖霊が人格者であることを聖書が示しているなら、英訳聖書において聖霊に用いる代名詞は“he”が適切だということになるでしょう。しかし聖書が聖霊を物扱いしていることが示されるなら、代名詞は“it”が適切でしょう。

 すでに何度か述べているように、キリスト教諸教会は三位一体論を支持しています。そして、三位一体論は聖霊が神やイエスと同等の人格者であることを教えます。そこで諸教会は、三位一体論と聖書との接点を求め、聖書の中で聖霊が擬人法で扱われている部分に注目するようになりました。ふつう、擬人法は、その対象となっているものが物にすぎないことを示します。しかし三位一体論の論理によれば、聖書の中で聖霊に対して擬人法が用いられていることは、聖霊が人格者であることの証明です。一方、エホバの証人は三位一体論を支持しておらず、そのような論法に対して否定的です。



◇ 「聖書から論じる」, 『三位一体』の項, ものみの塔聖書冊子協会 (表記修正)

 聖霊に言及している幾つかの個々の聖句は,それが人格的存在であることを示しているように思えるかもしれません。例えば,聖霊は,教えたり,証ししたり,話したり,聞いたりする助け手と呼ばれています。(ヨハネ 14:16,17,26; 15:26; 16:13)どんな結論が道理にかなっていますか。聖書では知恵,罪,死,水,血などが擬人化されているように,参照されている聖句では,神の聖霊,つまりその活動する力を擬人的に表わした比喩的表現が用いられているということです。
 ……新カトリック百科事典は次の点を認めています。「新約[聖書]の聖句の大部分は,神の霊のことを,ある者としてではなく,あるものとして示している。このことは霊と神の力とが平行関係にある対句の中では特にそうである」。(1967年版,第13巻,575ページ)



 聖書では、聖霊は擬人法である部分を除けば物として扱われているようです。

 エホバの証人が聖霊を物扱いしていることは、関係代名詞の用い方の違いにも現れています。英語標準訳聖書が“whom”としているところ、新世界訳聖書は“which”です。

 とはいえ、ここで注意が必要な点があります。聖書は聖霊を物として扱う一方でそれに人格性を持たせることもしており、エホバの証人もそのことに異論はないということです。
 エホバの証人は自分たちは聖霊の人格性を否定していると言っていますし、実際そのとおりであるように見えます。しかし、それは三位一体論で定義されるところの人格性が問題になっているからです。キリスト教の用語とその定義を作るのはキリスト教世界であり、エホバの証人は受け身にならざるを得ないのです。似たような問題は運命論の場合にもあります。口では完全に否定したようなことを言っていますが、実はそうでないということですから、よく気をつけなければなりません。



マルコ 13:11

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
しかし,人々があなた方を引き渡そうとして引いて行くとき,何を話そうかと前もって思い煩ってはなりません。何であれその時に与えられること,それを話しなさい。あなた方が話しているのではなく,聖霊が[話している]のです。

ガラテア 4:6

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
では,あなた方は子なのですから,神はご自分のみ子の霊をわたしたちの心の中に送ってくださり,それが,「アバ,父よ!」と叫ぶのです。



◇ 「ものみの塔」誌1992年2月1日号, ものみの塔聖書冊子協会 (表記修正)

 聖霊の重要な働きの一つは,わたしたちがクリスチャン人格を培うのを助けることにあります。……エホバは,わたしたちが罪を犯しやすい自分の傾向と闘うことを期待しておられ,聖霊はわたしたちがそうするのを助けます。パウロは,「霊によって歩んでゆきなさい。そうすれば,肉の欲望を遂げることは決してありません」と言いました。(ガラテア 5:16)パウロは続けて,霊がわたしたちの内に最も優れた特質を生み出し得ることを示し,「霊の実は,愛,喜び,平和,辛抱強さ,親切,善良,信仰,温和,自制です」と書きました。―ガラテア 5:22,23。

◇ 「ものみの塔」誌2011年12月15日号, ものみの塔聖書冊子協会 (表記修正)

 自分の言動を吟味して,自分が聖霊に導かれ,霊の実を生み出していると本当に言えるかどうか考えてみるのは賢明なことです。(コリ二 13:5前半。ガラ 5:25)霊の実の幾つかの面を培う必要を感じたなら,それらの特質を生み出す点で,いっそう聖霊と協力することができます。……自分や仲間のクリスチャンの生活に神の霊が働いた結果を目にすると,なぜ聖霊を導きとすべきかが,はっきり認識できるようになります。



 聖書の考える聖霊の人格性は、三位一体論で言うところの聖霊の人格性と異なります。もしエホバの証人が聖霊の人格性について語ることがあるとするなら、それは聖霊の働きについて語っている場合で、おおかた、1. 聖霊の働きについて語っているときに擬人法が用いられるか、2. 聖霊の働きの結果として何かに人格が宿るかのどちらかのようです。

 ここで、フリーマインドジャーナルが述べるところの「先の聖句」に注目しましょう。
 三位一体論では、聖書の英訳の際に聖霊に男性の代名詞を充てるべきことはこの聖句によって証明されると考えます。



ヨハネ 14:16

◇ 新世界訳聖書改訂英語版 (NWT) ◇ (エホバの証人)
And I will ask the Father and he will give you another helper to be with you forever,

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
そしてわたしは父にお願いし,[父]は別の助け手を与えて,それがあなた方のもとに永久にあるようにしてくださいます。



 イエスは同様の表現を別のところでも用いています。



ヨハネ 16:7-8,13

◇ 新世界訳聖書改訂英語版 (NWT) ◇ (エホバの証人)
Nevertheless, I am telling you the truth, it is for your benefit that I am going away. For if I do not go away, the helper will not come to you; but if I do go, I will send him to you. And when that one comes, he will give the world convincing evidence concerning sin and concerning righteousness and concerning judgment:
However, when that one comes, the spirit of the truth, he will guide you into all the truth, for he will not speak of his own initiative, but what he hears he will speak, and he will declare to you the things to come.


◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
しかしやはり,わたしはあなた方に真実を告げます。わたしが去って行くことはあなた方の益になるのです。わたしが去って行かなければ,助け手は決してあなた方のもとに来ないからです。しかし,去って行けば,わたしはをあなた方に遣わします。そして,その者が到来すれば,罪に関し,義に関し,裁きに関して,納得させる証拠を世に与えるでしょう。
しかし,その者,すなわち真理の霊が到来するとき,あなた方を真理の全体へと案内するでしょう。は自分の衝動で話すのではなく,すべて自分が聞く事柄を話し,来たらんとする事柄をあなた方に告げ知らせるからです。



 どうしてこの聖句が証明になるのでしょうか。ここで「聖霊」は「助け手」と言い換えられており、その「助け手」は男性形の名詞です。さらに、聖書はこの場合には男性の代名詞を用いています。もしこれらの聖句により聖霊が男性であることが証明されるのであれば、英訳聖書における代名詞の問題は決着を見ることになります。



○ 「助け手」についてのファンダメンタルな論理

『聖書は聖霊を「助け手」と呼んでいる』
『聖書のギリシャ語において「助け手」は男性形の名詞である』
『このことから聖霊が男性であることが確認できる』
『これは言い換えると聖霊は非人格者ではなく人格者であるということである』
『よって、聖書において聖霊に充てる代名詞は“he”でなければならない』



 ところがこのような論理には無理があるようです。



◇ 「聖書に対する洞察」, 『霊』の項, ものみの塔聖書冊子協会

 擬人法は性格を有する存在であることを示す証拠とはならない
 イエスは確かに,聖霊のことを「助け手」と言い,そのような助け手が「教え」,『証しし』,『証拠を与え』,『案内し』,『話し』,『聞き』,また『受ける』と言われました。そのように言われた際,元のギリシャ語はイエスがその「助け手」(擁護者)を指して男性形の人称代名詞を使われたことを示しています。(ヨハ 14:16,17,26; 15:26; 16:7-15と比較。)しかし聖書の中で,実際には人格的存在でないものが人格化,もしくは擬人化されるのは珍しいことではありません。「箴言」(1:20-33; 8:1-36)では,知恵が擬人化されています。元のヘブライ語では,多くの英語の翻訳でもそうであるように(欽定,改標,ユダヤ,聖ア),知恵という語に関連して女性形の代名詞が使われています。マタイ 11章19節やルカ 7章35節でも知恵は擬人化されており,これらの句では知恵は「働き」もあれば,「子供」もあるものとして描かれています。使徒パウロは罪や死,それに過分のご親切をも「王」として人格化しました。(ロマ 5:14,17,21; 6:12)パウロは罪が「誘いを受け」,「貪欲を生み出し」,「たぶらかし」,『殺す』と言っています。(ロマ 7:8-11)しかし,パウロが罪は実際に人格的存在であると言っていたのでないことは明らかです。
 ですから,聖霊に関するイエスの言葉を収めたヨハネの記述についても同様で,イエスの述べた言葉は文脈に基づいて考慮しなければなりません。イエスはその霊のことを「助け手」(ギリシャ語では男性実名詞パラクレートス)として語った時,聖霊を人格化されました。ゆえに,ヨハネがイエスの言葉を,男性形の人称代名詞を使って霊の「助け手」としての面に言及した言葉として表わしているのはもっともなことです。一方,同じ文脈の中で,ギリシャ語のプネウマが使われている場合,プネウマそれ自体は中性形なので,ヨハネは聖霊に言及するのに中性形の代名詞を用いています。したがって,パラクレートスに関連したヨハネの男性形の人称代名詞の使い方のうちに示されているのは,教理上の表現ではなく,文法上の規則に従った一例です。―ヨハ 14:16,17; 16:7,8。



 「ものみの塔」誌1974年10月15日号は、このことを痛烈な仕方で語っています。



◇ 「ものみの塔」誌1974年10月15日号, ものみの塔聖書冊子協会 (表記修正)

 それでは,聖書が霊のことを,「助け手」・「慰める者」・「擁護者」として言及し,その文脈中で「彼」という代名詞を使っている点についてはどうですか。これは,霊がまさに人格的なものであるという決定的な証拠ではありませんか。
 考えてみてください。ヨハネ 16章7,8,13節で,欽定訳はイエスの述べた次のことばを記しています。「わたしが去らねば慰むる者(パラクレトス)はあなたがたに来ない,わたしがゆけば彼をあなたがたに遣わす。彼が来るとき,世を責める……彼,真理の霊,が来る時,あなたがたをすべての真理に導く」。
 この聖句に関して新カトリック百科事典(第13巻575,576ページ)は次のように述べています。「聖ヨハネは,教会においてキリストの立場にとって変わった聖霊に人格的なものをあまりにもはっきりと認めたために,〔プネウマ,霊〕が中性名詞であるにもかかわらず,聖霊を指すのに男性代名詞(エケイノス)を用いた。(16:8,13-16)したがって,聖ヨハネが聖霊を人格的なものと考え,それが父と子からは区別され,しかも,栄光を受けた子や父とともに忠実な者のうちにあり,活動していると考えていたことは明らかである(14:16; 15:26; 16:7)」。
 しかし,ヨハネは「霊」という語が中性であるにもかかわらず,あえて男性代名詞を使ったのですか。ヨハネは,霊がまさに人格的なものであることを示そうとしていたのですか。もう一度上記のヨハネ 16章からの引用を読み返してください。代名詞「彼」の先行詞は何ですか。それは「慰むる者」ではありませんか。そうです,そしてそのギリシャ語はパラクレトスで,それは男性名詞です。それで,この聖句中では,文法上の理由で,ヨハネは男性代名詞を正しく使っていたといえます。
 ところがヨハネは,実際に中性の語であるプネウマ(霊)が先行詞であるときには,男性名詞を使いませんでした。この点は,ロザハム訳のような字義訳の聖書を読むと容易に理解できます。ヨハネ 14章16,17節で,ロザハムはイエスのことばを次のように訳出しています。「わたしは父にお願いする。そしてほかの擁護者(パラクレトス)を父はあなたがたに与える。彼がとこしえにあなたがたと共にいるためである。真理の霊であり,それは世が受けないものである。なぜなら,世はそれを見ず,またそれを知るに至らないからである。しかしあなたがたはそれを知るであろう。それはあなたがたとともに宿り,あなたがたの中にあるからである」。先行詞が男性名詞パラクレトスであるときは,代名詞が男性形(「彼」)であり,先行詞が中性名詞プネウマであるときは,中性(「それ」)であることに注意してください。
 この事実は,聖書の翻訳においてしばしば隠されてしまいます。なぜなら,中性代名詞が男性代名詞に置き換えられてしまうからです。ヨハネ 14章17節の新アメリカ聖書の脚注は次のように認めています。「『霊』に対応するギリシャ語のことばは中性である。我々は英語で人称代名詞(‘彼’)を使っているが,ほとんどのギリシャ語写本は,‘それ’という語を用いている」。
 このように,三位一体論者は,自分の説を支持する時だけ人称代名詞を持ち出しますが,支持しないとなると,それを無視することがわかります。一方,三位一体論者が引き合いに出す聖句を注意深く調べてみると,ヨハネの代名詞の使い方は,中性であれ男性であれ,文法上の問題であり,聖霊が人格的なもので唯一の神の「第三位格」であるという主張を支持してはいないことがわかります。
 それで,聖書の句の大部分どころか,すべての聖句は,神の霊が「人格的なもの」ではなくて「非人格的なもの」であるという点で調和しています。簡単であっても注意深く聖書を読むならば,神の霊がまさに目に見えない神の活動力であることが明らかになります。



 続いて邦訳聖書に注目しましょう。



ヨハネ 14:17

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
それは真理の霊であり,世はそれを受けることができません。それを見ず,また知らないからです。あなた方それを知っています。それはあなた方のもとにとどまり,あなた方のうちにあるからです。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。

◇ 新改訳聖書 [第三版] ◇ (ファンダメンタル)
その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。

◇ 口語訳聖書 ◇ (プロテスタント)
それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。



 新世界訳聖書日本語版と口語訳聖書は聖霊に「それ」の代名詞を充てています。こういう言い方をすると、英語ほどではありませんが、日本語でも物扱いのイメージが生じます。口語訳聖書は三位一体論を支持する立場に立つ日本聖書協会から発行されていますが、それでも学術的に正確な訳文を優先した結果、新世界訳聖書と代名詞の用い方が同じになったと考えられています。三位一体論をなにかと無視してしまうのは口語訳聖書の特徴です。学術的には正しいのかもしれませんが、諸教会にとっては大問題です。一方、新共同訳聖書や新改訳聖書は「この方」、「その方」というように、“方”を代名詞に加えることによって、聖霊を人格者扱いにしています。これなら三位一体論と矛盾は生じません。