新世界訳
エホバの証人の聖書

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ヨハネ 17:3

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
彼らが,唯一まことの神であるあなたと,あなたがお遣わしになったイエス・キリストについての知識を取り入れること,これが永遠の命を意味しています

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。

◇ 新改訳聖書 [第三版] ◇ (ファンダメンタル)
その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。

◇ 口語訳聖書 ◇ (プロテスタント)
永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります。



 新共同訳聖書などの一般的な聖書では「知る」となっている部分を、新世界訳聖書は「知識を取り入れる」と訳出しています。これはどうしてなのでしょうか。エホバの証人の出版物はこのように説明しています。



◇ 「ものみの塔」誌1992年3月1日号, ものみの塔聖書冊子協会 (表記修正)

新世界訳がこの聖句を,他のほとんどの聖書翻訳のように「神……を知る」という表現を使わずに,「神……についての知識を取り入れる」と訳しているのはなぜでしょうか。
ここで「知識を取り入れる」または「知る」と訳されているギリシャ語は,ギノースコーという動詞の変化形です。そして,新世界訳の訳し方は,その語の意味をできる限り明らかに表現するよう意図されたものです。ギノースコーの基本的な意味は「知る」ですが,このギリシャ語は微妙に異なる様々な意味を持っています。次の定義に注目してください。
「ギノースコー(γινώσκω)は,知識を取り入れていること,知るようになること,認識するようになること,理解するようになること,完全に理解することを意味する」。(W・E・バイン著,「新約聖書用語解説辞典」)ですから,ギノースコーを「知識を取り入れる」と訳しても,新世界訳を批判している人々が主張するように“聖書を変えている”ことにはなりません。有名な辞書編集者ジェームズ・ホープ・モールトンは,その語に含まれる微妙に異なる様々な意味について論じ,こう述べています。「現在時制の単純語 γινώσκειν (ギノースケイン)は継続相であり,『知識を取り入れている』という意味である」。―新約聖書ギリシャ語文法。
「新約聖書のギリシャ語文法解析」という本は,ヨハネ 17章3節に出てくるようなギノースコーは,「継続的な過程を意味する」と説明しています。マービン・R・ビンセント著,「新約聖書の用語研究」もこのギリシャ語についてこう注解しています。「とこしえの命は知識に,いや,知識の追求にかかっている。というのは,現在時制は継続すること,また漸進的に知ることを表わすからである」。A・T・ロバートソンの「新約聖書の絵画的表現」は,この語を「知りつづけるべきである」と訳すことを提案しています。
ですから,元のギリシャ語では,ヨハネ 17章3節のイエスの言葉には,まことの神とみ子イエス・キリストについて知るよう継続的に努力するという意味があります。新世界訳の訳し方ではこの点がよく表現されています。わたしたちは神の言葉を勤勉に研究し,その規準に生活を合わせることにより,この知識を得ます。(ホセア 4:1,2; 8:2; テモテ第二 3:16,17と比較してください。)神とみ子のご性格を十分に知り,それに一生懸命倣おうとする人にはどんなすばらしい報いが待っているのでしょうか。それは永遠の命です。



 新世界訳聖書のように訳したほうが聖書原典に対して訳文が厳密になるようです。

 ただ、示されている文法上の解説については、聖書ギリシャ語に詳しくない初心者は少し気をつけなければならないでしょう。ヨハネ 17:3に言われるような状況はごくまれであるということです。
 ギリシャ語聖書には現在形の、言い換えれば継続相である語が大量にあり、そのほとんどは継続相であることを無視すべき語です。というのは、多くの場合、継続相は単一の行為か状態が継続していることを意味しているからです。
 これを日本語の場合で考えてみましょう。だれかがこのように言ったとします。ほら、あそこにきれいな花が咲いているわ。このような場合、「咲いている」は文法理論上は継続相です。また、実態に関しても、今咲いている花は次の瞬間にも咲いているでしょうから、それは継続的行為となります。しかし、ふつう、このような言葉を述べる時、人はそれが継続相であることを考慮するでしょうか。まずそのようなことはないでしょう。聞き手も、それが継続相であることを考慮したりしないでしょう。このような継続相は無視される継続相です。
 ヨハネ 17:3の場合、文意が継続の幅の広さを示しています。つまり、もともと神もキリストも全く知らないという人がいて、やがて知るようになり、理解を深め、信仰に達し、最後には救われるという過程が「知る」の一言で語られています。ここまで継続相の役割が明確である場合には、新世界訳聖書のような訳文が採用できるでしょう。しかし、そうでない場合には、このような訳出は控えるべきです。
 実際、新世界訳聖書はそのようにしています。聖書にはギリシャ語ギノースコーが大量にあり、そのうち継続相であるものは80ほどありますが、「知識を取り入れる」と訳されているのはここだけです。

 ヨハネ 17:3には誤解を生じさせる可能性があるようです。この句だけを見ていると、人は神とキリストを知ってさえいればよい、理解を深めれば十分である、というような読み方もできます。この問題は翻訳の工夫で解消できるものではないようです。
 エホバの証人の出版物はさらにこのようにも説明しています。



◇ 「ものみの塔」誌2001年8月1日号, ものみの塔聖書冊子協会

「知識を取り入れる」という表現には,単に「知る」というよりはるかに深い意味があります。『バインの解説辞典』(英語)によれば,これは,「知る側と,知られる側との関係を示唆している。この点で言えば,知られるものは,知る者にとって価値があり,重要である。こうして相互の関係が構築される」のです。だれかと関係をもつとは,ただそれがだれで,どんな名前の人かを知るだけのことではありません。その人の好き嫌いを知り,価値観や物事に対する規準を知り,それを尊重することも含まれます。―ヨハネ第一 2:3; 4:8。

◇ 「ものみの塔」誌1990年9月15日号, ものみの塔聖書冊子協会

救いはわたしたちが神とみ子についての知識を取り入れるか否かにかかっているのです。しかし,単に知識を頭に詰め込む以上のことが必要です。人は神とみ子を親しく知り,お二方との気脈の通じた交友関係を築くようにしなければなりません。様々な事柄に関してお二方が感じられるように感じ,お二方の見地に立って物事を見なければなりません。そして何よりも,人は他の人との関係において,神とみ子の持っておられる比類のない特質を見倣うよう懸命に努力しなければなりません。



 今度は新世界訳聖書の英語版に注目しましょう。



ヨハネ 17:3

◇ 新世界訳参照資料付き聖書英語版 (NW/Reference Bible) [1984年] ◇ (エホバの証人)
This means everlasting life, their taking in knowledge of you, the only true God, and of the one whom you sent forth, Jesus Christ.

◇ 新世界訳聖書改訂英語版 (NWT) [2013年] ◇ (エホバの証人)
This means everlasting life, their coming to know you, the only true God, and the one whom you sent, Jesus Christ.



 改訂英語版では訳文が修正され、“taking in knowledge”が“coming to know”になりました。どのように意味が変わったでしょうか。



◇ 「ジーニアス英和辞典」, “take”の項 (表記修正)

take in
〈物〉を(内部に)取り入れる



 多くの方は“coming to”のところで“come to London”というような文意を考えられることと思います。知るもしくは知識を得るという到達点に向かって自らが進んでいく、というイメージです。語義のイメージとしてはそれで間違っているということはないようですが、この場合の“come”にはもうすこし別の意味があるようです。



◇ 「ジーニアス英和辞典」, “come”の項 (表記修正)

come to ≪know などの状態動詞≫
…するようになる



 ここで注意したいのは、この場合の“come”は、実質的には“get”の言い換えだということです。こういったことは辞書には載っていなかったりしますから、うっかりしないようにしたいものです。



◇ 「ジーニアス英和辞典」, “get”の項 (表記修正)

get to ≪状態を表す know など≫
…するようになる



 さらに、この場合の“get”は、実質的には“do”です。
 ちょうど、「食べることをする」という表現が「食べる」の意味でしかないのと同様、“come to know”という表現には「知る」という意味しかありません。

 新世界訳聖書が“coming to know”という回りくどい言い回しを使うのは、聖書原典の意味合いを少しでも訳文に反映させようとしたからのようです。原語の意味を示そうとして訳文が複雑になるのは新世界訳聖書の特徴です。読みやすさの問題があったため改訂版ではかなり削減しましたが、ここではそうならなかったようです。

 この改訳については一部の反対者たちの間に混乱が見られているようです。新世界訳聖書において“taking in knowledge”が“coming to know”に替えられたのは、“taking in knowledge”の訳が間違っていたからだ、と決めつける向きがあります。エホバの証人もついに自分たちの聖書に誤訳があることを認めざるを得なくなった、ということのようです。

 英語の新世界訳聖書の改訂版が出ましたから、まもなく日本語版にも改訂版が出ると噂されています。それで、日本語版の訳文はどうなるのだろうかと気にされる方も多いようです。
 翻訳の常識に従えば、英文“coming to know”の日本語訳は「知るようになる」です。単に「知る」でもかまいません。おそらくそのようになるでしょう。

 この聖句においてもう一つ気になるところがあります。それは、一般的な聖書で「……とは」と訳されるところを、新世界訳では「……を意味する」と訳していることです。
 ここのところ、原典ではギリシャ語“エイミ”が用いられています。これは英語の be 動詞にあたり、ふつう、「……は……である」などと訳出されます。しかし、エホバの証人は、ギリシャ語“エイミ”には「……を意味する」の用法があるのでそれを無視してはならないと言います。



ヨハネ 12:50

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
またわたしは,[父]のおきて永遠の命を意味していることを知っています。それゆえ,わたしの話すこと,[それは,]父がわたしにお告げになったとおりに話している[事柄]なのです」。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
父の命令永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。」

◇ 新改訳聖書 [第三版] ◇ (ファンダメンタル)
わたしは、父の命令永遠のいのちであることを知っています。それゆえ、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのままに話しているのです。」

◇ 口語訳聖書 ◇ (プロテスタント)
わたしは、この命令永遠の命であることを知っている。それゆえに、わたしが語っていることは、わたしの父がわたしに仰せになったことを、そのまま語っているのである」。



 たとえばこの聖句の場合、新共同訳聖書などに見られる訳文では文意がかなり不安定です。文意を誤ると、神は人に死ぬなと命令しているのだということになりかねません。
 これらの聖句の場合に限らず、原典のニュアンスを厳密に見極めたうえで丁寧に訳出するということについて、新世界訳聖書には他の邦訳聖書と比べて卓越したところがあるようです。

 では、新共同訳聖書を発行している日本聖書協会などの諸団体は、新世界訳聖書の手本に倣うでしょうか。いまのところ、それはほとんど考えられないことです。
 キリスト教諸教会はエホバの証人を異端だと述べ、エホバの証人は偽物のキリスト教であると主張しています。加えて彼らは、エホバの証人の聖書は偽物の聖書であると述べています。そのうえ、キリスト教諸教会のエホバの証人対する拒絶反応は徹底しており、完璧です。そんなエホバの証人が聖書翻訳の優れた手本を示したとして、それを認めることが彼らにできるでしょうか。
 しかし、今見ている聖句の場合のように、エホバの証人の示す手本の中には、そういつまでも無視し続けられそうにないものがあります。時代の変化に伴って今の邦訳聖書に手厳しく求められているのは、訳文が日本語としておかしくないことです。昔と異なり、聖書に不器用で不自然な訳文が見られることが初歩的な問題だと見られるようになっているのです。しかもこの要求はいまなお高まっていますから、機械翻訳のような訳文が見られる聖書はこの先生き延びられそうにありません。日本聖書協会は新共同訳聖書を改訳したものを“日本語標準訳聖書”として頒布する予定だそうです。今見ているような訳文で「これこそが日本語の標準である」などということを名乗って大丈夫でしょうか。
 そのようなわけで、新世界訳聖書の良いところは、キリスト教世界の聖書翻訳において深刻な問題をもたらしているようです。



○ 課題

ここでは、ヨハネ 17:3とヨハネ 12:50とが翻訳の観点から論じられています。では、その意味の関連性についても考えてみましょう。
これらの聖句は、永遠の命を得るためにはどちらか一つの条件を満たせばよいと言っているのでしょうか。それとも、両方が必要だと述べているのでしょうか。このことから、「知る」ということと永遠の命との関連性について、どのようなことが言えるでしょうか。