新世界訳
エホバの証人の聖書

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使徒 2:17

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
『神は言われる,「そして終わりの日に,わたしは自分の霊の幾らかをあらゆるたぐいの肉なる者の上に注ぎ出し,あなた方の息子や娘たちは預言し,あなた方の若者たちは幻を見,老人たちは夢を見るであろう。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
『神は言われる。終わりの時に、わたしの霊すべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。

◇ 新改訳聖書 [第三版] ◇ (ファンダメンタル)
『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊すべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。

◇ 口語訳聖書 ◇ (プロテスタント)
『神がこう仰せになる。終りの時には、わたしの霊すべての人に注ごう。そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るであろう。



 新共同訳聖書や新改訳聖書や口語訳聖書において単に「霊を」と訳されているところ、新世界訳聖書では「霊の幾らかを」と訳されています。これはどうしてでしょうか。
 ここで用いられているギリシャ語について、「セアの新約聖書希英辞典」はこう定義しています。



◇ 'THAYER'S GREEK-ENGLISH LEXICON of the NEW TESTAMENT', ἀπό の項, Joseph H. Thayer

分離……全体から幾らかの部分が取られる……使徒 2:17



 このことからすると、新世界訳聖書の訳し方のほうが聖書原典に対して厳密になるようです。

 似たような例は民数記 11:17, 25にも見られるようです。



民数記 11:17, 25

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
そうしたらわたしは必ず下って行き,そこであなたと話す。わたしはあなたの上にある霊の幾らかを取って,それを彼らの上に置くことになる。そして,彼らは荷となるこの民を担う点であなたを助け,あなたが自分独りで担わないでよいようにするのである。
するとエホバは雲のうちにあって下って来られ,彼に話して,彼の上にあった霊の幾らかを取り,それをその七十人の年長者ひとりひとりの上に置かれた。そして,霊がその上にとどまるとすぐ,彼らは預言者として行動するのであった。しかし彼らはそのことを繰り返し行なうことはなかった。


◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
わたしはそこに降って、あなたと語ろう。そして、あなたに授けてある霊の一部を取って、彼らに授ける。そうすれば、彼らは民の重荷をあなたと共に負うことができるようになり、あなたひとりで負うことはなくなる。
主は雲のうちにあって降り、モーセに語られ、モーセに授けられている霊の一部を取って、七十人の長老にも授けられた。霊が彼らの上にとどまると、彼らは預言状態になったが、続くことはなかった。


◇ 新改訳聖書 [第三版] ◇ (ファンダメンタル)
わたしは降りて行って、その所であなたと語り、あなたの上にある霊のいくらかを取って彼らの上に置こう。それで彼らも民の重荷をあなたとともに負い、あなたはただひとりで負うことがないようになろう。
すると主は雲の中にあって降りて来られ、モーセと語り、彼の上にある霊取って、その七十人の長老にも与えた。その霊が彼らの上にとどまったとき、彼らは預言した。しかし、それを重ねることはなかった。


◇ 口語訳聖書 ◇ (プロテスタント)
わたしは下って、その所で、あなたと語り、またわたしはあなたの上にある霊、彼らにも分け与えるであろう。彼らはあなたと共に、民の重荷を負い、あなたが、ただひとりで、それを負うことのないようにするであろう。
主は雲のうちにあって下り、モーセと語られ、モーセの上にある霊、その七十人の長老たちにも分け与えられた。その霊が彼らの上にとどまった時、彼らは預言した。ただし、その後は重ねて預言しなかった。



 聖書には、神の霊が人に与えられることについて、与えられるのは神の霊の一部である、という暗黙の前提があるようです。これは少し考えれば自明なことです。もし神が持っている霊のすべてを人に与えてしまったら、神は霊を失って干上がってしまうかもしれません。モーセについても同様でしょう。

 使徒 2:17の訳文にはもう一つ気になる点があります。



使徒 2:17

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
『神は言われる,「そして終わりの日に,わたしは自分の霊の幾らかをあらゆるたぐいの肉なる者の上に注ぎ出し,あなた方の息子や娘たちは預言し,あなた方の若者たちは幻を見,老人たちは夢を見るであろう。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
『神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。

◇ 新改訳聖書 [第三版] ◇ (ファンダメンタル)
『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。

◇ 口語訳聖書 ◇ (プロテスタント)
『神がこう仰せになる。終りの時には、わたしの霊をすべての人に注ごう。そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るであろう。



 ここで「すべて」と訳されているのはギリシャ語“パース”です。
 聖書における“パース”の基本的意味は「すべて」ですが、その用法は、多くの言語における「すべて」という表現の用法と比べると非常にあいまいなんだそうです。特に問題なのは、「すべて」と言っているのにその意味が「すべて」でない場合が頻繁にあるという点です。この聖句はこのような聖句の一つです。
 この句の場合、神の霊が文字通りすべての人に注がれるということが言われているわけではありませんので読み間違いがないように注意したいところです。これは文意をよく考えると理解できます。つまり、まず「あなた方」というグループがあって、その中から、息子や娘、あるいは若者や老人、という具合に“いろいろな人が”預言をするだろう、ということを述べているのですから、この「すべて」に当てはまるのは、「あなた方」で示されているグループのうちの一部であるということになります。

 新世界訳聖書はギリシャ語パースにかかわるこの種の問題に全面的に配慮し、聖書にパースが出てくるたびにその文意をよく考察して、訳文の意味が聖書のギリシャ語の意味からなるべく逸脱しないようにしています。一方、他の翻訳にはこのような配慮が見られず、読者に誤解を与えるような訳文が散見されます。



◇ 'THE Role of Theology and Bias IN Bible Translation', Rolf furuli (表記修正)

新世界訳聖書と70の聖書の比較を行ったところ、この課題を克服できていたのは新世界訳聖書だけであった。……他は誤解を助長する訳文だが、新世界訳聖書は明解だ。

 




 新世界訳聖書を他の訳本と比較すると、今見ているような訳語選択の違いが頻繁に見られます。たいていの場合、新世界訳聖書の訳文は他の聖書より厳密です。どうしてこのような違いが生じるのでしょうか。
 これは、新世界訳聖書の重訳底本となっている英語版が優秀だったことに加え、日本語の翻訳者の力量がたいへん優れていたためだと言われています。



◇ 「目ざめよ!」誌1982年10月22日号, ものみの塔聖書冊子協会 (表記修正)

誠実な翻訳者たちの作業は,ただ単に英文の「新世界訳聖書」を日本語に訳すというだけではなく,聖書が書かれた元の原語である,ヘブライ語そしてギリシャ語などのテキストを慎重に参照されて行なわれたものです。……訳す言葉を選ぶに当たって日常的卑近さを主眼点として訳されたのではなく,聖書が書かれた当時それがどのような意味で,どのような表現が用いられたかを第一に読者に伝えるという目的で翻訳されたものです。



◇ 「エホバの証人の年鑑」1998年版, ものみの塔聖書冊子協会

後に,聖書翻訳者たちが,本部で聖書翻訳支援システムを設計していた人たちに,その経験を伝えるよう招かれたとき,日本の聖書翻訳者たちもその中にいました。彼らの提案も,現在世界中の聖書翻訳者たちに利用されています。



◇ 「エホバの証人―神の王国をふれ告げる人々」, ものみの塔聖書冊子協会 (表記修正)

1989年までに,エホバの証人は聖書翻訳の助けとして,優秀なコンピューターシステムを活用するようになりました。……こうして翻訳者は,翻訳している事柄の深い意味合いをすぐにつかむことができます。また,原文の基本的な表現の独特の意味や文脈に応じた正確な意味を把握することによって,自分自身の言語でそれを正しく表現することができるようになります。
……聖書のどんな特定の単語に関してもすべての用例を調べ出し,文脈に応じてそれらの用例の一つ一つに地元の言語の訳語をあててゆくのは,ベテランの翻訳者です。こうして,高度の一貫性が確実に維持できます。各翻訳者の仕事は,同じチームで働いている別の翻訳者たちが再検討し,チーム全員の調査と経験が翻訳に生かされるようにします。



 各言語における新世界訳聖書の訳業は、まず聖書の単語すべてについて変化と用法のチェックを行い、訳語を決定するところから始まります。訳語選択の作業と訳文構築の作業は分けられていて、訳語決定の作業がすべて済んでから、訳文の構築の作業に進みます。日本語版はこの手法の先駆けとなったようです。この用法ということについては、分析を行ったり、辞書や注釈書を調べたりすればわかるということなのですが、実際にこれをやるとなると手間が膨大です。新世界訳聖書日本語版の訳文を見ると、この作業を、おそらく手作業で、真剣に行ったということがはっきり見て取れます。
 一方、新共同訳や新改訳などの他の聖書は、新世界訳聖書に比べるなら、手抜きです。この聖句に見られるような「を」とか「すべて」というような単純な語について、前もって用法をちくいち確認したという形跡は見られません。用法にかかわらず一つの単語に対して同じ訳語を使いまわすという傾向が見られます。まるで機械翻訳のようです。
 また、これら他の聖書は、新世界訳聖書に比べると出来上がった訳文のチェックも甘いように見えます。「わたしの霊をすべての人に注ぐ」という訳文ができたところで、この訳文が人々に読まれた時にどのような誤解が生じるかということを考えなかったようです。
 そのようなわけで、新世界訳聖書と他の聖書とにこのような違いがみられる背景には、聖書を翻訳するにあたって費やされた手間の差ということがあるようです。

 




 「フリーマインドジャーナル」1994年5-6月号に掲載された「新世界訳聖書における改竄」は、ファンダメンタルな立場から、新世界訳聖書における使徒 2:17の訳文についてこのように批評しています。



◇ 'Misleading Revisions in the New World Translation' Andy Bjorklund, Free Minds Journal May/Jun 1994

『霊を注ぐ』が『霊の幾らかを注ぐ』に替えられている。
この改竄は、神によって活動を制限された非人格的な力というものを読者に連想させて、聖霊と、ペンテコステにおける彼の活動とを認識しないよう唆すものである。



 フリーマインドジャーナルとしては、『霊の幾らかを注ぐ』という表現は聖霊の人格性を否定してしまう表現なのでよくない、ということを考えているようです。