新世界訳
エホバの証人の聖書

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使徒 4:12

◇ 新世界訳参照資料付き聖書英語版 (NW/Reference Bible) ◇ (エホバの証人)
Furthermore, there is no salvation in anyone else, for there is not another name under heaven that has been given among men by which we must get saved.”

◇ 新国際訳聖書 (NIV) ◇ (ファンダメンタル)
Salvation is found in no one else, for there is no other name under heaven given to mankind by which we must be saved.”

◇ 新世界訳参照資料付き聖書日本語版 ◇ (エホバの証人)
さらに,ほかのだれにも救いはありません。人々の間に与えられ,わたしたちがそれによって救いを得るべき名は,天の下にほかにないからです」。



 「フリーマインドジャーナル」1994年5-6月号に掲載された「新世界訳聖書における改竄」リストはこの聖句の問題をこのように取り上げています。



◇ 'Misleading Revisions in the New World Translation' Andy Bjorklund, Free Minds Journal May/Jun 1994

“be saved”が“get saved”に変えられている。
この改竄は、イエスが即座にして完全な救いを個人に対して与えることを認めまいとするものである。それは、エホバの証人組織の示すこところにしたがって証人たちが選択的な救いを信じているからである。(同様の改竄は使徒 16:30-31にも見られる)



 少し考えてみましたが、“be”と“get”との違いがなぜこのような教理の違いと結びつけられているのか、私にはよく分かりませんでした。おそらくですが、救いというものは与えられるものであって獲得するものではない、というようなことを言っているのだと思います。
 文法書などを調べてみると分かるかと思いますが、英語には“get”のあとに“saved”などの過去分詞をつけて受動態とする表現があります。このような時の“get”の意味は「される」となり、“be”(受け身の助動詞)と全く同じ働きになります。“get saved”という言い回しは“be saved”よりくだけた言い回しですので、新世界訳聖書は読みやすい方を選択したのでしょう。

 一方で、新世界訳聖書日本語版のほうがすこし気になるところです。日本語版がここのところを「救いを得る」と訳したのは英語版の文意を間違えたからではないかと思いました。ただ、「(誰か)によって救いを得る」という日本語の表現は、一般的に「(誰か)から救いを与えられる」の意味に解釈されるでしょうし、また救いには与えられるという要素だけでなく得るという要素もあることを考えると、神学的にはそれほど問題でないように思います。
 このあたりは新世界訳が重訳であるとことに伴う課題だと感じました。

 フリーマインドジャーナルが挙げている使徒 16:30-31も見てみましょう。



使徒 16:30-31

◇ 新世界訳参照資料付き聖書英語版 (NW/Reference Bible) ◇ (エホバの証人)
And he brought them outside and said: “Sirs, what must I do to get saved?” They said: “Believe on the Lord Jesus and you will get saved, you and your household.”

◇ 新国際訳聖書 (NIV) ◇ (ファンダメンタル)
He then brought them out and asked, “Sirs, what must I do to be saved?” 31 They replied, “Believe in the Lord Jesus, and you will be saved—you and your household.”

◇ 新世界訳参照資料付き聖書日本語版 ◇ (エホバの証人)
そして,彼らを外に連れ出してからこう言った。「皆様,救われるためにわたしは何をしなければなりませんか」。彼らは言った,「主イエスを信じて頼りなさい。そうすれば救われます。あなたも,あなたの家の者たちも」。



 問題は同様ですが、日本語版に不備は見られないようです。

 




◆ 救いは獲得するものなのか

 救いを獲得するという概念についてエホバの証人はどのようなことを信じているのでしょうか。
 エホバの証人は聖書の教えにしたがい、救いというものは自分の力で獲得するということが決してできないものであると考えています。



エフェソス 2:8-10

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
まさにこの過分のご親切のもとに,あなた方は信仰によって救われているのです。そして,これはあなた方によるのではなく,神の賜物なのです。そうです,それは業によるのではありません。だれも誇ることのないためです。わたしたちは[神]の業の所産であって,キリスト・イエスと結ばれて良い業のために創造されたのです。それは,わたしたちがそのうちを歩むようにと神が前もって準備してくださったものです。



◇ 「唯一まことの神の崇拝において結ばれる」, ものみの塔聖書冊子協会

さらに,イエスの犠牲によってとこしえの命を受ける機会がわたしたちのために開かれました。……これは自分の力で勝ち取る報いではありません。たとえエホバへの奉仕においてどんなに多くのことをしたとしても,わたしたちは決して,わたしたちに命を与える義務を神に負わせるような業績を築けるものではありません。とこしえの命は『わたしたちの主キリスト・イエスによる神の賜物』です。(ローマ 6:23。エフェソス 2:8‐10)



 人々は一般的に、エホバの証人が熱心に宗教活動をしているのを見ると、彼らが熱心に聖書伝道を行うのはそれによって自分が救われると信じているからなのだろう、と推論するようです。それで、そんな証人たちのことをかわいそうだと言う方も多くいます。また、キリスト教の諸教会は、エホバの証人をカルト呼ばわりしたうえで、証人たちは教団に唆されて救われたい一心で宗教活動に人生を投じている、と主張します。しかし、当のエホバの証人はそういうことをあまり考えていなかったりします。



◇ 「ものみの塔」誌2014年7月15日号, ものみの塔聖書冊子協会 (表記修正)

クリスチャンは各自,「自分の業がどんなものかを吟味すべきです」。(ガラ 6:4)わたしたちは罪の傾向を持っているので,自分でも気づかないうちに不誠実な考えを取り入れてしまう可能性があります。(ヘブ 3:12,13)ですから,エホバに仕える動機を,事あるごとに吟味するのは良いことです。こう自問しましょう。「自分はエホバへの愛と主権に対する認識のゆえに,エホバを崇拝しているだろうか。それとも,(自分が救われて)楽園で得られる物質的な祝福のほうに強い関心があるだろうか」。(啓 4:11)自分の業を吟味し,偽善が少しでも心にあるなら,それを除き去りましょう。それは本当に有益なことです。



 とはいえ、聖書には信仰の業によって救いを獲得するという概念も示されています。また、聖書は救いを待望するようにとも教えています。
 ですから、救いを獲得するということについては、バランスをとり、極端な考え方に走らないようにしたいものです。



テモテ第一 6:12

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
信仰の戦いをりっぱに戦い,永遠の命をしっかりとらえなさい。あなたはそのために召され,多くの証人たちの前でりっぱに公の宣言をしたのです。

◇ 新改訳聖書 [第三版] ◇ (ファンダメンタル)
信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、また、多くの証人たちの前でりっぱな告白をしました。

ヤコブ 2:14

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
わたしの兄弟たち,ある人が,自分には信仰があると言いながら,業が伴っていないなら,それは何の益になるでしょうか。その信仰はその人を救うことができないではありませんか。



◇ 「ものみの塔」誌1996年2月1日号, ものみの塔聖書冊子協会

わたしたちは,これらのことを行なって救いを獲得するのではありません。そのような驚くべき祝福に値するほどの事柄を行なえる人は一人もいないからです。とはいえ,聖書に記されている,神とキリストがわたしたちに期待しておられる事柄を行なって,愛と従順を実証しないなら,わたしたちはこのすばらしい贈り物を受けるに値しません。信仰を実証する業がないなら,イエスに従うと唱えても全く意味がないでしょう。聖書は,「信仰も,業が伴っていないなら,それだけでは死んでいる」と,はっきり述べているからです。―ヤコブ 2:17。



ヘブライ 11:6

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
そして,信仰がなければ,[神]を十分に喜ばせることはできません。神に近づく者は,[神]がおられること,また,ご自分を切に求める者に報いてくださることを信じなければならないからです。



◇ 「ものみの塔」誌2006年10月1日号, ものみの塔聖書冊子協会 (表記修正)

言うまでもなく,わたしたちがエホバに仕えるおもな動機はエホバへの愛です。(マルコ 12:30)それでも,報いを待望するのは良いことです。事実エホバは,わたしたちがそうするようにと期待しておられます。……エホバは求める者に報いてくださる方で,ご自分をそう見るようにと望んでおられます。……天の父は寛大な方で,ご自身の子たちを愛してくださっています。「将来と希望」を持っていなかったなら,どんなに不幸で,容易に失意していたかを考えてみてください。―エレミヤ 29:11。