新世界訳
エホバの証人の聖書

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使徒 10:36

◇ 新世界訳参照資料付き聖書英語版 (NW/Reference Bible) ◇ (エホバの証人)
He sent out the word to the sons of Israel to declare to them the good news of peace through Jesus Christ: this One is Lord of all [others].

◇ 新世界訳参照資料付き聖書日本語版 ◇ (エホバの証人)
[神]はイスラエルの子らにみ言葉を送って,イエス・キリストによる平和の良いたよりを宣明されました。この[イエス・キリスト]は[ほかの]すべての者の主なのです。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
神がイエス・キリストによって――この方こそ、すべての人の主です――平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、

◇ 新改訳聖書 [第三版] ◇ (ファンダメンタル)
神はイエス・キリストによって、平和を宣べ伝え、イスラエルの子孫にみことばをお送りになりました。このイエス・キリストはすべての人の主です。



 言語学、あるいは翻訳の世界においてはまれに、“AとすべてのB”という表現の細かいニュアンスが問題となります。このような表現が用いられた場合、AはBに含まれているのでしょうか。“Aと、Aを含まないすべてのB”ということを言っているのか、それとも“Aと、Aを含めたすべてのB”ということを言っているのか、それが問題です。
 英語や日本語を含めたほとんどの言語では、こういうことははっきりとは決まっていません。しかし、言語ごとに傾向ということはあるでしょう。もしかすると、一部の言語では、この区別ははっきりしていて表現を使い分けなければならないかもしれません。そして、この問題において、唯一の例外と言われている言語があります。それはギリシャ語です。ギリシャ語では、多少の例外はあるものの、“AとすべてのB”の意味はほぼ必ず「Aを含まないB」です。

 ギリシャ語のこの特徴については、コロサイ 1:16-17の項に詳しく書いていますので適宜参照ください。

 ギリシャ語で書かれた聖書に“AとすべてのB”あるいはこれに類似した表現があった場合、これを機械的に訳出すると、ギリシャ語に特有のニュアンスが失われ、訳文の意味が厳密ではなくなってしまうようです。
 少なくとも日本語訳の聖書では、こういったことはほとんど問題になりません。しかし、新世界訳聖書は重訳聖書ですから、世の中にはいろいろな言語があるだろうということを考慮しなければなりません。参照資料付き聖書の場合、重訳底本である英語版において“all [others]”の訳が採用されていますので、これでおおかたの問題は回避されるようです。

 一方、新世界訳聖書改訂版のほうでは異なる方針が見られます。



使徒 10:36

◇ 新世界訳聖書改訂英語版 (NWT) ◇ (エホバの証人)
He sent out the word to the sons of Israel to declare to them the good news of peace through Jesus Christ―this one is Lord of all.



 改訂版ではこの聖句にかかわる複数の解釈を考慮し、一歩引いて中立的な訳文を採用したようです。

 この聖句で述べられている“ほかのすべての者”は具体的に誰を指しているのでしょうか。
 今論じている使徒 10:36は構文が“AとすべてのB”とはなっておらず、Aが何かということが曖昧です。しかし、聖書においてこの種の表現が見られる場合Aは着眼点だという基本的なルールがありますので、この文における着眼点が何であるかを考えるなら問題は解決しそうです。
 ほとんどの人は、着眼点はキリストだ、と思うでしょう。この文はそう読める文です。着眼点がキリストである場合、“ほかのすべての者”が示しているのはイエス以外のすべての者です。イエスは自分以外のすべての者の主であるということです。しかし、この解釈は間違っているようです。この文にはもう一つ着眼点の候補があります。それは、この時ペテロが話しかけていた人たち、つまりユダヤ人の群衆です。着眼点がユダヤ人である場合、“ほかのすべての者”が示しているのはユダヤ人以外のすべての民族です。

 この聖句の解釈や、その根拠となっている文法論、神学論については、「ギリシャ語パースと救いの概念」にて詳しく説明しています。






 エホバの証人統一協会対策香川ネット正木弥氏は、「ものみの塔の新世界訳聖書は改ざん聖書」という文書の中でこの聖句についてこのように述べています。



◇ 「ものみの塔の新世界訳聖書は改ざん聖書」, 正木弥 (表記修正)

 ギリシャ語のπαsおよびその活用形は"all…"と訳しますが"all others"となると、違った意味が付加されます。新世界訳(日本語)では「(ほかの)すべての者の主なのです」としてありますが、これでは、イエス・キリストが「すべての者」の一員であることになります。そのような印象を与えます。イエス・キリストは”すべての者”とは違う方であるのにそのように思わせる訳は、大きな罪ではないでしょうか。新世界訳は、とにかく、キリストの神性、至高性をこぼつ方向を向いています。



 「フリーマインドジャーナル」1994年5-6月号に掲載された「新世界訳聖書における改竄」はこの聖句についてこのように指摘しています。



◇ 'Misleading Revisions in the New World Translation' Andy Bjorklund, Free Minds Journal May/Jun 1994

 『すべての主』が『[ほかの]すべての主』に替えられている。
この改竄には、イエスを最高の栄光を持つ者としつつも、なおイエスが神の創造物のひとつであることを示唆する意図がある。(同様の改竄はローマ 8:32, フィリピ 2:9, コロサイ 1:16-17にも見られる)



 同様の改竄として挙げられている3つの聖句は以下の通りです。



ローマ 8:32

◇ 新世界訳参照資料付き聖書日本語版 ◇ (エホバの証人)
ご自身のみ子をさえ惜しまず,わたしたちすべてのためにこれを引き渡してくださったその方が,どうしてそのご親切によって,[み子]と共にほかのすべてのものをも与えてくださらないことがあるでしょうか。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。

◇ 新改訳聖書 [第三版] ◇ (ファンダメンタル)
私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。



フィリピ 2:9

◇ 新世界訳参照資料付き聖書日本語版 ◇ (エホバの証人)
まさにこのゆえにも,神は彼をさらに上の地位に高め,[他の]あらゆる名に勝る名を進んでお与えになったのです。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。

◇ 新改訳聖書 [第三版] ◇ (ファンダメンタル)
それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。



コロサイ 1:16-17

◇ 新世界訳参照資料付き聖書日本語版 ◇ (エホバの証人)
なぜなら,[他の]すべてのものは,天においても地においても,見えるものも見えないものも,王座であれ主権であれ政府であれ権威であれ,彼によって創造されたからです。[他の]すべてのものは彼を通して,また彼のために創造されているのです。また,彼は[他の]すべてのものより前からあり,[他の]すべてのものは彼によって存在するようになりました。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。

◇ 新改訳聖書 [第三版] ◇ (ファンダメンタル)
なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。



 岩村義男氏は「神のみ名は「エホバ」か」の本の中でこの聖句の問題を指摘しています。



◇ 「神のみ名は「エホバ」か」, 岩村義男, いのちのことば社 (表記修正)

 『新世界訳』はエホバの証人の教理に合うように、ことばを付け加えたりしています。……ギリシャ語本文にない「ほかの」という言葉を付け加えて、みことばを曲解していることがおわかりになるでしょう。また、コロサイ 1章16-17節でも、4か所も本文にない「他の」を付け加えています。



 新世界訳聖書に繰り返し見られる「ほかのすべてのもの」の訳文には、このような指摘がたくさんあり、挙げ始めればきりがありません。そして、これらの批判におおかた共通しているのは、聖書の「Aを含まないB」が、Aがキリストであった場合には「Aを含むB」に変換されてしまうという傾向です。どうしてこのような不思議な現象が生じるのかということについては、コロサイ 1:16-17の項に言及がありますので参照ください。