新世界訳
エホバの証人の聖書

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使徒 15:29

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
すなわち,偶像に犠牲としてささげられた物と血と絞め殺されたものと淫行を避けていることです。これらのものから注意深く身を守っていれば,あなた方は栄えるでしょう健やかにお過ごしください」。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
すなわち、偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。健康を祈ります。」

◇ 新改訳聖書 [第三版] ◇ (ファンダメンタル)
すなわち、偶像に供えた物と、血と、絞め殺した物と、不品行とを避けることです。これらのことを注意深く避けていれば、それで結構です。以上。」



 新世界訳聖書を他の聖書と比べるとかなり印象が違います。この聖句はエホバの証人が輸血を忌避する根拠の一つとなっていますので、エホバの証人は自分の教理に合わせて聖書の訳文を改竄したのではないかと疑う人も多いようです。



◇ 「新約聖書ギリシア語辞典」, εὖ の項, 玉川直重, キリスト新聞社 (表記修正)

(使徒)行伝 15:29 あなたがたは幸せで(結構で, 幸いで)あろう(あるいは, それが正しいであろう)



◇ 「新約聖書ギリシア語辞典」, ῥώννυμι の項, 玉川直重, キリスト新聞社 (表記修正)

(使徒)行伝 15:29 ἔρρωσθε, (手紙の結びに)ごきげんよう(敬具)



 辞書の内容から、ここではどの翻訳がおかしいというようなことは言えないようです。






◆ 輸血の話

 ここで輸血に関するいくつかの話をしたいと思います。
 話はまるめています。細かい点はご容赦ください。

○ 輸血の始まり

 「輸血」ということが考案されたのは中世のヨーロッパにおいてです。そのころは、カトリック教会が外科治療というものを全て禁止していて、そのせいで虫歯を抜くこともできない状況でした。必然的に、輸血はカトリックによって禁止されたも同然でした。
 輸血を行いたい医師たちはカトリック教会を説得することにしました。説得するには、輸血を正当化する理由が必要となります。このとき医師たちの頭の中にあったのは、輸血で「人の命が助かる」ということでしたが、それは言えませんでした。「人間は命が助かるのなら何をしてもよいのか」という反論を招くことになるからです。カトリック教会から見れば、そのような主張をする人は悪魔です。異端審問にかけられて火あぶりにされかねません。
 そこで医師たちはでっち上げをすることにしました。医師たちが言ったのは、母親のおなかの中では胎児と母親とがへその緒で繋がっているということです。医師たちはこう言いました。母親と胎児との間で血液は常に循環しているのです。これは常に輸血をしている状態です。このように人を造ったのは神です。ですから、輸血は神の定めた摂理にかなうのです。
 すると、カトリック教会はあっさりその主張を認めました。輸血はできるようになったのです。
 しかし、輸血はさっそく死亡事故を引き起こします。それを受けてローマ教皇は輸血の禁止令を公布し、長い期間、輸血はできなくなりました。

○ 倫理上の問題

 20世紀になると輸血は再開され、普及していきます。
 さて、医学が進歩すると、輸血を正当化する理由は使えなくなってしまいました。母親と胎児はへその緒で繋がっていますが、血液は循環していないことが判明したのです。
 驚かれるかもしれませんが、この後、現代に至るまで、輸血を倫理的に正当化する理由というものはなにも提出されていません。今、輸血が行われている理由はただ一つ、命が助かるからです。それに対する「命が助かるのなら何をしてもよいのか」という反論は放置されています。
 輸血というのは、人の体から血を取って他人の体に入れる行為ですから、当然、そこには倫理上の問題があります。しかしそういうことは考えないことになっているのです。

○ 血は臓器

 この問題を解決しようとして、多くの人から提出されてきた解決案があります。それは“血液燃料説”と言えるものです。
 車を走らせるためにはガソリンを入れる必要がありますが、人体と血液との関係もそのように説明できる、という考え方です。彼らはこう言います。人体は臓器の集合体であるが、血液は臓器ではない。しかもそれは足したり引いたり入れ替えたりすることができるので、人体に固有のものでもなく、ちょうど燃料のようなものである。だから、輸血に倫理上の問題は伴わない。
 しかしこの主張は二つの理由によって退けられています。1つに、医学的に説明すれば、血液は臓器の一種です。ようするに、細胞同士がくっついて固体のように振る舞うか、くっつかず液体のように振る舞うか、そういう違いがあるというだけのことです。2つに、法的に説明すれば、血液は「商品」ではありません。
 この法的見解については、過去にアメリカ政府と医師たちが全面対決をしたという経緯があります。輸血用血液は売ったり買ったりすることが行われています。それでアメリカ政府が「輸血用血液は法的に見れば商品じゃないか」と主張して、それを通そうとしたのです。もし血液が商品であるなら、商品についての法律が適用されなければなりません。たとえば、輸血用血液に安全性の問題があるなら生産者は消費者に補償を行わなければならないという具合です。アメリカ政府の主張が通れば、輸血は事実上禁止された状態になってしまいますので、アメリカ中の医師たちが反論してアメリカ政府をだまらせたそうです。

○ カトリックは今

 話はすこし戻りますが、カトリックは昔に輸血を禁止する布告を出したまま、まだ正式には撤回していないように思います。確かなことはよくわかりませんが。
 カトリック教会には“教皇不謬性”という教義があって、教皇の布告は撤回できないことになっています。これが一度だけ撤回されたことがあり、それが有名なガリレオ・ガリレイの名誉回復です。このような事例はほかにないと言いますから、たぶん、輸血の禁止令は残っていると思います。
 とはいえ、そもそも外科治療を禁止する布告が骨抜きになっているのですから、輸血の禁止令も無効になっているということになりそうです。

○ エホバの証人の登場

 そこに突如として出現したのが、エホバの証人による「輸血拒否」の教理です。
 エホバの証人は“現代社会における原始キリスト教の復興”ということを目指していて、100年くらいかかって、そのための課題をひとつひとつ解決しながら目標の達成に向かって進んできました。ある程度成熟したところで、輸血に関する議論は避けられなくなります。そしてその結論も避けられなくなった時、驚くべきことに、彼らは覚悟を決めてその結論に従ってしまったのです。
 場合によっては命にかかわることです。彼らはそれが理解できなかったわけではありません。教団としても信者たちとしても、それはもう怖ろしいということでしたが、引き下がったりはしませんでした。
 世のことわざも「毒食らわば皿まで」と言います。これはそういう話です。

○ 輸血拒否の根拠

 輸血拒否の根拠となっているのは、聖書に記されている「血は命であるから、血を食べてはならない」という教えです。彼らは原始キリスト教の復興ということをやっていますから、特に、血に関する十二使徒の布告の影響力は絶大です。
 この「血を食べてはならない」という教えを輸血に適用することに疑問をはさむ人がいます。彼らはこう言います。血を食べることと輸血することとは全然違うじゃないか。しかし、聖書の「血を食べてはならない」という言葉は「血の使用の禁止」ということを端的に言っているにすぎないので、こういう反論には説得力がありません。教義上の説明と証明が必要なのは、輸血は含まれるという見解ではなく、輸血は含まれないという見解のほうです。
 血の教えによって、暗に命の尊厳や命の源である神への敬意が説かれているということもあります。敬意という要素があるので、この教えは簡単には回避できるものではありません。例えばですが、血に関する聖書の諸記述を杓子定規に解釈すれば、こんなことが言えます。「食べるなというなら、飲めばいいんじゃないか」。「肉と共に食べてはいけないとあるから、肉から分離して食べるのはいいんじゃないか」。「使わない血は地面に注げと書いてあるから、畑にまいて肥料にすればいいんじゃないか」。「エサにまぜて家畜に食わせてしまうのはどうか」。もし聖書が法律書ならそういう議論もあるのかもしれませんが、聖書は宗教書です。それは道徳と倫理ということを扱っていて、敬意を要求します。こういう議論は聖書にはまず通用しません。

○ 血と医療

 聖書自身は何も言っていませんが、この教えの背景には、昔から血が“万能の薬”として用いられたということがあります。
 現代に見るような医療技術が何もなく、まともな薬もほとんどなかった時代、血は、あらゆる病気に対抗しうる唯一にして究極の切り札だと見なされていました。ほとんどの文化では、薬を作る際には必ず血を混ぜますし、金持ちや貴族は健康維持のために血を飲みます。
 聖書が血の使用を禁じたことは、必然的に、医療目的で血を使うことが禁止されたことを意味し、実際そのように解釈され運用されました。その結果、イスラエル人は当時の“最先端医療”を受けることができませんでした。
 エホバの証人に反論して「医療目的での血の使用は別枠だ」ということを唱える方がいたりしますが、そういうことにはなりません。

○ 用語の問題

 ところでですが、「輸血拒否」の教理、という言い方はどうなんでしょうか。
 これは外部の人たちの言い方です。エホバの証人は基本的に「血に関する神の律法」とか「血に対する敬意」と言います。
 世の中には考えがあって臓器移植を受けない人がいますが、これを「移植拒否」と言うことはありません。同様に、菜食主義者を「肉食拒否」と言うことはありません。もし言ったら、これは人を馬鹿にしている、ということになると思います。
 実際の手続きにしても、選択肢は同意と不同意しかないと私は思うのですが。輸血は強制ではないので、「拒否」などという選択肢はないはずです。

○ 世の中の反応

 エホバの証人が輸血拒否を始めたのを見て、世界は驚愕しました。宗教が輸血を否定するということは、人々の想像できる範囲を大幅に逸脱した、途方もない事柄だったのです。
 世界中の人々は、これは極めて異常な行動だと強く感じました。そして、これほどの異常な行動の原動力となったのは極めて危険な思想であるに違いないと推論しました。
 エホバの証人は、輸血を受けない理由を筋道立てて説明し世間の理解を得ようと努めました。聖書の倫理観では、血は命の象徴です。血を摂取しないことは命の尊厳に対する敬意の表明です。それは神によって布告され人間に義務づけられています。そうすると必然的に輸血もしてはならないということになります。しかし、ほとんどの人はこの説明が理解できませんでした。人々はこう言いました。「これは頭がおかしい」。さらにこうも言いました。「こんなのは宗教じゃない」。

○ 常識の問題

 「この宗教には常識ということが全く通用しない」と人々は言いました。「もし彼らが常識をわきまえていれば、輸血拒否などしないはずだ」、「常識ということを勉強して態度を改めなさい」。エホバの証人は手厳しい非難と要求にさらされることになります。
 こうして明らかになったのは、「一般に考えられている「常識」には、宗教に関する常識は含まれていない」ということです。
 エホバの証人にかかわる論争にはこの種の問題がたくさんあります。たとえば、輸血拒否と並んで非難されるものに、布教活動があります。エホバの証人が聖書伝道に励むのを見て「非常識きわまりない」と言う人はたくさんいます。もしあなたがそう考える人の一人なら、少し考えてみてください。宗教は布教するのが当たり前ではないでしょうか。これのどこが非常識なのでしょうか。輸血についても同様です。宗教というものは、独自の道徳と倫理というものを構築し、医療についても独自の方針を立てます。
 エホバの証人のことを非常識呼ばわりする論争の大半は、その「常識」に宗教の常識を含めることで解決します。

○ 予備知識の問題

 加えて明らかになったのは、宗教についての基本的知識の欠落です。
 世の中のほとんどの宗教は“血を神聖視する”という共通の信条を持っています。それで、宗教は血の使用についての独自の基準を持ち、様々な場面で血の使用を許可したり禁止したりします。聖書も、血の使用を全面的に禁止しているわけではなく、特定の儀式では血の使用を規定しています。
 こういったことからすると、エホバの証人が輸血を受け入れないことは、不思議だということも、理解不能だということもないはずです。このような決定をする宗教がエホバの証人しか存在しないことのほうが不思議だというくらいです。
 もし世の中が宗教に関する基本的知識をしっかりと持っていたら、輸血拒否に対する反応はかなり違うものになっていたでしょう。

○ 宗教的保護

 ちょうど生物の領域に「絶滅種」や「絶滅危惧種」があって悪化しているように、この世の中では、宗教的領域における「教条の絶滅」がどんどん進行しているようです。しかし今、エホバの証人という宗教はその種の教条が集中する数少ない「ホットスポット」の一つとなっています。
 ものの発想を転換してこのような見方をすると、輸血拒否の信条は、絶滅を免れている宗教信条の代表例であるということになります。
 もし、この種の問題に対する危惧というものがあれば、人々はエホバの証人のことを、宗教上の絶滅危惧種、「保護」の対象と考えたはずです。ユネスコから世界遺産に認定されるということもあったかもしれません。
 昔から、少数ながら、エホバの証人に対してそういう見方をする人たちがいました。しかも最近はかなり優勢になってきていて、国連などの国際機関がエホバの証人のことをある種の保護の対象として扱うようになっています。輸血拒否の信条についても、国際的人権団体によって擁護されるようになってきています。

○ キリスト教の現状

 エホバの証人以外のキリスト教会は、エホバの証人とその輸血拒否とを無視することにしました。現在のキリスト教は、原始キリスト教の教えのかなりの部分を放棄しています。それで、今になってこの種の話が出てくるのは都合が悪いということがあります。
 キリスト教は今から2000年くらい昔に成立して、当初は血に関する神の命令をきちんと守っていました。しかし、それは当時の高度医療のかなりの部分を拒否しなければならないことを意味していましたので、やがて教会は血の教えを放棄するようになりました。さらに教会は、血を食べることを人々に推奨するようになりました。その結果ヨーロッパでは「血入りのソーセージ」といったものが普及しました。いまさら引き返すことなどできません。
 キリスト教は「医療の倫理」の課題に意欲的に取り組んでいます。それで、臓器移植やクローン技術の応用といったことについて、討論会を行ったり、世に向かって声明を発表したりということがさかんに行われています。しかし、その議論の中に輸血の話題が入ることは決してないということになっています。これはお約束というものです。
 カルト宗教ということが世の中で取りざたされるようになると、エホバの証人の輸血拒否をカルト的教条として説明しようとする動きが現れ、爆発的に広まりました。こうして、諸教会は口をそろえてこう言うようになりました。「エホバの証人が輸血を拒否するのは、彼らが聖書の中から一部の言葉だけを切り取り、それを自分たちに都合のよいように曲解したからです。」

○ ほかの宗教は

 キリスト教ではない諸宗教にも、キリスト教と同じく、医療倫理について論じるが輸血の話題には触れないという傾向が見られます。おそらくですが、理由としては「エホバの証人が輸血を拒否したから」ということが筆頭に上がってくるように思います。どの宗教も、輸血を拒否したエホバの証人がひどい目に遭うのを見ていますから、この話題は危ないと思うのでしょう。
 日本にはこんな話があります。日本を代表するある宗教の話です。その宗教では、神の血筋を引く家系が現存しているということが信じられていて、その家系の中から一人の人を選んで「神様」として祀るということが行われています。その「神様」が病気にかかって輸血が必要になった時、指導者たちの間で「うちの神様には輸血をしてよいものだろうか」ということが論じられたそうです。その結果、「神様に輸血をするのはいけません」という結論が出て神様に伝えられました。それで神様はどうしたかというと、この決定を無視して輸血を受けてしまいました。それも、ほとんど毎日、大量に輸血を受け続けました。そして、神様はそのまま死んでしまいました。というわけで、この話は現在に至るまでうやむやになっています。この神様は輸血のやりすぎで死んだんじゃないかと言う人もいますが、確かなところはよくわかりません。

○ 血液希釈法

 エホバの証人は、輸血ができなくなりましたので、代わりに「血液希釈法」という手法を用いるようになりました。これは、血の代わりにリンゲル液などの輸液を点滴するというものです。
 患者に大量の出血があった場合、体内の血液の量が減少しますので、心臓が一生懸命働いても全身に血液が回らなくなります。血液循環の不足によるショック状態によってその人は死ぬことになります。そこで、出血量と同じだけの輸液を体に注入して全身に血液が回るようにしようというのが、血液希釈法の基本的概念です。
 輸液には赤血球もヘモグロビンも含まれていないじゃないか、そんなことをしても無駄だ、と言う人がいます。しかし、もともと血液と血液循環のシステムには、激しく運動したときなどに備えて過剰な酸素供給能力が備わっていて、血液希釈によって血液が薄くなることはさほど問題になりません。問題なのは血液の濃さではなくて量です。ようするに、患者は血液希釈法を受けながら安静にしていればいいのです。
 このことは、エホバの証人が輸血拒否をするまで、医師の間でもほとんど認識されていませんでした。多くの医師は、血液希釈法というやり方を聞いてエホバの証人のことを馬鹿にしましたし、それでエホバの証人の命が助かる話を聞いても、この宗教の信徒たちは精神力が強いようだと言いました。

○ 二つの由来

 血液希釈法には二つの由来があります。
 一つは、いわゆる「海水療法」です。ひとことで言うなら、海水は輸血の代わりになるという考え方です。この療法は、ある程度の合理的根拠と効能とがありますが、どちらかと言うと疑似科学に属するものですので注意が必要です。
 過去には、海水療法を考案した人によって、犬の血液を全部抜いて代わりに海水を注入しても犬は死なないという実験が公開で行われたりしました。現在でもこの話を持ち出す人がいたりしますが、この種の話と、話をする人を信用してはいけません。この話を真に受け、犬でうまくいくなら人間でもうまくいくだろうということを考えた人たちがいましたが、どうなったでしょうか。日本では、戦争で捕虜になったアメリカ兵を連れてきて同じ実験をした人がいましたが、アメリカ兵は死んでしまいました。犬の実験は手品の一種だったと考えられます。
 もう一つは、アメリカ軍による血液の粉末化の研究です。
 アメリカは、世界大戦に参加すると、献血が行われる本国と戦場との距離が長すぎるという問題に直面しました。そこで、軍は医師たちに、血液を乾燥させて粉末状態にし、現場で水で戻して輸血できるようにしなさい、ということを命じました。医師たちにすればこれは唖然とする話でした。血液の成分のうち、赤血球や白血球は細胞ですので、乾燥させて粉になんかしてしまったら、水を足しても元には戻りません。それでも、ダメもとでいろいろと研究してみたところ、血液成分のうち血漿に限っては粉にして戻すことができることが判明しました。それで試しに輸血の代わりに血漿溶液を使用してみたところ、驚いたことに、輸血とほぼ同等の結果が得られました。医師たちはよく理解していませんでしたが、ようするに、血管内に入れて拒絶反応のような問題が生じないのであれば、成分はなんでもよかったのです。
 そこで、血漿溶液は実際に戦場で用いられることになり、数千人のアメリカ兵士が水で戻した血漿を受けました。しかし、アメリカ軍はこの技術を公開せず、世界大戦が終わったあとは封印してしまいました。

○ 術中血液回収法

 さらに、エホバの証人は「術中血液回収法」を使うようになりました。
 一般的な手術では、手術中に生じる出血は、助手がガーゼで拭き取ってごみ箱に捨てます。術中血液回収法では、出血した血液はチューブで吸い取り、人工透析と似た手順で患者の体に戻します。
 術中血液回収法を用いると、手術中の失血量は限りなくゼロに近づきます。大量の出血を伴う手術でも心配はありません。

○ 人工血液

 ところで、世の中では人工血液の開発が進められています。
 人工血液の核となるのは人工赤血球です。これの開発が難航していて、いまのところ実用化には至っていません。
 実は、人工赤血球というものは、4つの材料を粉末で調達して、水で溶き、家庭用のジューサーミキサーでガガガッと混ぜるだけで簡単にできあがります。ただし、これを動物に使ったりすると、最初は良い結果が得られるのですが、そのうち体の至るところで人工赤血球が詰まってしまい、その動物は死んでしまいます。この、詰まるということの解決がまだできていません。
 フルオロカーボン(フロン)を使った人工血液もあります。フルオロカーボンの液体に酸素を混ぜてそこにネズミを投入すると、ネズミは死なずに生き続けます。そこで、日本のミドリ十字というメーカーがこれを原料とした「フルオゾール」という人工血液を作りましたが、この会社がフルオゾールの臨床試験を無許可で行っていたことが発覚して、お蔵入りになりました。

○ 日本の医師たち

 エホバの証人が輸血を拒否するようになって、世界中の人々が考えたのは、それは命を粗末にすることではないだろうか、それはある種の自殺ではないだろうか、ということでした。大切なのは命だということです。しかし、日本の医師たちにはそれとはかなり異なる反応がありました。それは、ひとことで言ってしまうなら「けしからん」ということです。
 日本には「けしからん」という概念があります。しかも、昔は今とはかなり違う意味で用いられていました。たとえば、戦後、日本の各地で公害の問題が次々発生したという時期がありましたが、公害によって深刻な病気にかかった人たちが企業や国を裁判に訴えた時、日本中の人たちが言った言葉が「けしからん」でした。そして、公害の被害者たちのところには、日本全国から非難の声、抗議の手紙、嫌がらせといったものが殺到しました。被害者の側につく人はほとんどいなかったそうです。
 医療の分野にも「けしからん」の概念はいろいろとありました。たとえば、医者が患者に薬を処方した時、患者が医者に「この薬の名前は何ですか」と質問することはけしからんことだと考えられていました。このようなことをする患者は病院から追い出され治療を受けられなくなって当然だと思われていたのです。
 それで、エホバの証人が輸血を拒否するようになった時、日本中の医師たちが考えたのが「これはたいへんけしからんことだ」ということでした。「これはけしからん!」という言葉を50回続けて言ったとしてもまだけしからんさが足りないというくらい、医師たちは憤りました。
 医師たちはこのようにも言いました。「このような行為がまかり通ればどうなるか考えてみろ。医師が患者に「あなたには入院が必要です」とか「手術が必要です」と言う度に、患者は「少し考えさせてください」とか「ほかの方法でお願いします」と答えるようになるじゃないか。しかも、医師はそのような患者の相手をしなければならなくなってしまう。そんなことになったら医療は崩壊だ。絶対に認められない。」

○ 治療拒否

 というわけで、日本の医療がエホバの証人の輸血拒否に対して示した拒絶反応には、他国の場合とはかなり異なる醜悪な側面がありました。医師たちは、輸血を拒否する患者の健康や命というものを軽視し、そのようなことよりも“医療の秩序を守ること”のほうがはるかに重要だと考えたのです。その結果、エホバの証人の患者たちは医師たちから“この人たちは医療を受けるに値しない”というひどい扱いを受けました。
 多くの病院で流行したのが、「輸血を拒否する患者に治療は一切行わない」そして「患者が輸血に同意するまで治療は一切行わない」と宣言することでした。患者が輸血を必要としているかということは度外視されました。そもそも出血がなく、よって輸血が必要でないとしても、エホバの証人の患者である限り、この要求はつきつけられたのです。そのうえ、患者の命がかかっているかということも度外視されました。患者が今にも死にそうで、今すぐ処置が必要であっても、この要求はつきつけられました。
 命がかかっている医療の現場で、非情なことが何度も起きました。医師は患者に、輸血を受け入れなければ治療は始まらないと通告します。患者は医者に、お願いですから治療を始めてくださいと懇願します。時間が経過し、状況がきわどくなってくると、どちらかが譲歩しなければならなくなります。もし、どちらも最後まで譲歩しなかった場合、患者は死ぬことになります。
 そしてついに、ひとつの破局が生じることになります。「大ちゃん事件」です。

○ 大ちゃん事件

 それは、エホバの証人の親を持つ一人の子供が交通事故に遭い、両親が輸血を拒否したのに合わせて医師が治療を拒否したため、ついに子供は死んでしまったという事件です。
 交通事故に遭った子供は、自分の親がエホバの証人であることを記したカードを所持していました。そこで医師たちは、この子の治療を開始せず、まずは両親を呼び出すことにしました。というわけで、両親が急いで病院に着いた時、治療は開始されていませんでした。医師たちは両親に言いました。あなたたちが輸血に同意するまでこの子の治療は開始されません。それを聞いて両親は、そんなことを言わないでどうかこの子の治療を開始してください、と懇願し始めます。しかし、医師たちはこの懇願を無視しました。
 当時の細かい状況は正確には伝えられていないと言われていますが、それでも、メディアの伝える情報をまとめたところでは、この時、このような残酷なことがあったようです。医師たちは両親を処置室に連れていきます。そこには大怪我をした我が子が治療を受けないまま横たわっています。医師たちは子供の怪我を見せながら両親に言います。「ほら、このままだとあなたのお子さんは死んでしまいますよ。いいんですか。」 子供のほうは「死にたくない」と訴えます。両親は必死になってこう懇願します。「輸血はできないんです。だからといってこの子を見殺しにしないでください。どうかお願いです。治療を始めてください。」 医師たちは答えます。「あなたたちが輸血に同意さえしてくれたら、直ちに治療は始まりますよ。」
 押し問答は、なんと5時間も続きました。そしてついに、子供は治療を受けることなく死んでしまいます。
 ここで一点指摘しておかなければならないことがあります。この子は、交通事故で大怪我をしたとはいえ、出血量は少なく、輸血は必要なかったということです。もしこの子が輸血を必要としていたら、医師たちは両親の到着を待たずに輸血を実施したと思われます。

○ 社会の反応

 この事件をマスメディアはセンセーショナルに報道しました。「エホバの証人の親が輸血を拒否したせいで子供は死んでしまった。子供は「生きたい」と訴えたのに、両親はその声を無視してしまった。」という具合です。
 この報道を受けて、日本中の人たちは憤りました。人々は口々に言いました。子供を見殺しにするとは、なんてひどい親なんだ。そして、なんてひどい宗教だ。警察はこの両親を逮捕すべきだ。殺人罪で裁判にかけるべきだ。
 一方、警察のほうは、かなり冷静に状況を見ていました。結局、警察が起訴したのは、交通事故を引き起こした運転手だけでした。
 とはいえ、今でも多くの人が、この事件では「輸血拒否で子供が死んだ」と思っています。

 というわけで、この件については資料を提示しておきたいと思います。



◇ 読売新聞, 1988年3月10日 (表記修正)

両親、医師の刑事責任問わず ― 「死亡と因果関係ない」

 川崎市高津区で六十年六月、ダンプカーにひかれた小学五年生の男の子が、輸血が必要になったのに、「エホバの証人」の信者である両親の輸血拒否にあい、約五時間後に死亡した事件で、神奈川県警交通指導課と高津署は九日までに、輸血を拒否した親の保護責任者遺棄容疑、輸血を行わなかった医師の業務上過失致死などの刑事責任は問わず、ダンプカーの運転手だけを業務上過失致死容疑で近く書類送検する方針を固めた。「輸血をしなかったことと死亡との因果関係はなかった」という鑑定結果を基に判断した……。



◇ 朝日新聞, 1988年3月10日 (表記修正)

輸血拒んだ両親不問 ― 子の死と関係なし

 川崎市高津区でダンプカーにはねられた小学生の両親が宗教上の理由で子どもへの輸血を拒否、この子どもが間もなく死亡した事件で、神川県警高津署は九日、輸血拒否と死因の間に因果関係は認められないという鑑定書をもとに、両親の保護者遺棄致死罪など刑事責任を問わないことを決めた。



◇ 毎日新聞, 1988年3月10日 (表記修正)

両親の刑事責任は不問

 ……大君が六十年六月、交通事故で負傷し失血死した事故で、神奈川県警交通指導課と高津署は九日までに「輸血されたとしても必ずしも大君が助かったとはいえない」として宗教上の理由から輸血を拒否した両親の刑事責任は問わず、大君をはねたダンプーカー運転手を……業務上過失致死容疑で書類送検する方針を固めた。



 メディアは、それなりに事実を正しく報道したものの、「医師のほうが治療を拒否した」というエホバの証人側の視点は無視しました。血液希釈法を実施しながら直ちに治療を開始したなら、少なくとも5時間は早く治療が行われ、輸血なんかまったく必要としなかったし、この子の命も助かったはずだ、という彼らの指摘が紹介されることはありませんでした。

○ データベース

 1990年代になると、エホバの証人の無輸血主義がどのような結果をもたらすかについての統計的情報がいくつも取りまとめられるようになりました。それらのデータベースは、輸血を受けなかったエホバの証人患者を、年齢、性別、症例などによって細かく分類し、それぞれのグループの死亡率を示しています。
 医師たちは示された結果に驚愕しました。だいたいどの条件でも、輸血を受けなかったエホバの証人の死亡率は、輸血を受けた一般の人たちのそれとほぼ同じだったのです。さらに、世界のメディアは、心臓手術の項目に注目した報道を盛んに行い、こうして人々もこのデータベースの存在を知ることになりました。世界の人々はまず、エホバの証人が心臓手術を輸血なしで行っていることを知り、驚愕しました。しかも、その死亡率がほかと同じであると知り、さらに驚愕しました。
 データベースによって示された諸事実に注目が集まると、医師たちの間で「生存率」と「再発率」ということが指摘されるようになりました。生存率というのは、例えば手術を受けて5年後10年後に患者の何パーセントが生きているかという指標です。再発率も同様に、5年後10年後に何パーセントが病気の再発に直面しているかを示します。
 輸血には非常に長期にわたる副作用があります。そのため、輸血を回避した患者の生存率はだいたい2倍、再発率は半分になると言われています。未成年者に対する輸血の害は大きく、発育に問題が生じ、がん発症のリスクが高まるとも言われています。つまり、長期生存ということまで含めて考えると、もしかして輸血を拒否するエホバの証人はそうとうに得をしているのではないか、と医師たちは指摘しました。
 そこで世界中の医師たちはこう考えました。どうしても輸血が必要な時にだけ輸血を施し、それ以外の場合にはエホバの証人と同じようにすれば、今エホバの証人が得ている結果を上回る結果が得られるんじゃないか。こうして、世界中で「輸血の最適化」の努力が推し進められることになります。

○ 輸血神話

 一方、日本では、これらのデータベース群の存在は無視されました。メディアがそれを取り上げることはなく、人々が事実を知ることもありませんでした。日本のメディアは、「このような報道をするとメディアがエホバの証人の宣伝をしたことになるじゃないか。それはよろしくないことだ。」ということを考えたようです。
 当時の日本には、「輸血神話」という名の疫病が蔓延していました。輸血神話に冒された人々は、「輸血は清らかだ」、「輸血は安心だ」というような虚構を、何の疑問もなく信じました。その結果医療の現場で盛んに行われたのが「念のため輸血」です。これは、手術などの医療処置の後、必要はない輸血を“念のため”に実施するというものです。医師も患者も、治療の最後を輸血で締めくくることで安心感を得ました。こうして輸血の量は増え続けました。
 このような状況には世界中から批判が集まりましたが、誰もそれを気にしませんでした。そしてどうなったかというと、そのうち、「世界の輸血用血液のうちの半分は日本で消費されている」と言われるまでになりました。批判は非難に変わりましたが、それでも日本の人々は気にしませんでした。そしてついに、国連が日本政府に対して警告を通達する事態になります。
 国際社会から事実上の脅迫を受けてしまった日本政府は、日本の医学界に対して「輸血改革」ということを呼びかけるようになります。こうして、日本の医療も、他国と同様、輸血の適正な実施に向けての努力を推し進めることになりました。

○ ビデオ紹介

 このビデオは、1990年ごろの、輸血の最適化の初期の努力と成果を紹介するものです。
 用語について注意していただきたい点があります。このビデオでは、「血液希釈法」という言葉がその本来の意味、「自己血輸血」の一種として紹介されていて、ここで言っているものについては「貧血の許容」という言い方になっています。

『輸血の代替療法 ― 簡便,安全,効果的』



『輸血の代替医療 ― 患者の必要と権利にこたえる』



『無輸血 ― 医療はその課題に取り組む』



○ 記事紹介

 この記事は、1995年時点での、エホバの証人の心臓手術についての海外メディアの報道を紹介するものです。



◇ 「目ざめよ!」誌1996年01月22日号, ものみの塔聖書冊子協会 (表記修正)

エホバの証人が心臓手術の進歩に貢献

 ニューヨーク・デーリー・ニューズ紙は1995年8月27日に,「無血手術」という見出しの記事を掲載しました。それによると,ニューヨーク病院・コーネル医学センターは,「一滴の血液すら失わずに行なえる,冠動脈バイパス手術の革新的な方法 ― 最近,ニューヨーク市の前市長デービッド・ディンキンズが要請したのと同じ手術 ― を公表する予定」です。
 「エホバの証人が関係する問題から着想を得た,この新しい方法のすばらしさは……病院側の莫大な費用の節約,患者側の血液汚染の危険の大幅縮小となって表われるだろう」と同紙は述べました。その病院の無血手術プログラムの責任者であるトッド・ローゼンガート博士は,「この手術に必要な輸血量は,普通,患者一人当たり2単位ないし4単位であるが,現在では我々はそれをゼロにまで減らすことができる」と言いました。
 同病院の心臓外科医で,その手術法の開拓を援助したカール・クリージャー博士は,「献血者の血液と血液製剤の需要を除去することによって,私たちとしても,一般に輸血と関連のある,手術後のある種の発熱や感染の危険を減らしている」と述べました。
 また,このように言う専門家たちもいます。「無血バイパスだと,手術後の集中治療の時間を24時間余りからわずか6時間に減らすことができる。臨床試験の対象となった患者たちは,健康を回復し,通常より最高48時間も早く退院することができた」。これは,病院や政府や保険会社にとって大幅な節約を意味しています。ローゼンガート博士の算定によれば,「この手術によって患者一人当たり,少なくとも1,600㌦(約16万円)の節約になる」のです。
 デーリー・ニューズ紙の記述は続きます。
 「皮肉なことだが,この新たな手術法を生み出すよう駆り立てたものは,経済上の緊急性でもなければ医学上の緊急性ですらなく,宗教的熱情だったのだ。輸血を禁じる信条を持つエホバの証人の社会では,心臓病で倒れる年配の成員のために援助を探し求めていた。……
 「エホバの証人の社会にせき立てられた医師たちは,血液回収術と新薬とを組み合わせた。また,心臓手術の際に患者が死なないようにするために使われていた従来の人工心肺を利用する新たな方法を見いだした。
 「最初の臨床研究で40人のエホバの証人の患者が対象になったのに加え,ニューヨーク・コーネルのチームは,6か月前に,一般の患者にもこの手術を紹介した。『それ以降,彼らは連続100回の無血バイパス手術を成し遂げたが,死亡した人はいなかった』と,クリージャー博士は述べた。通常のバイパス手術の死亡率は2.3%である」。



○ そして今

 こうして、世界中の人々がエホバの証人から恩恵を受けるという時代が訪れることとなりました。エホバの証人が輸血を拒否することで得られた知見は、今、人々の健康や命を守っています。益を受けているのは、何万人、何百万人ではなく、何億人という数の人々です。特に子供たちへの益は見過ごせません。
 エホバの証人自身は、輸血を拒否することで多くの苦しみを経験してきました。そのせいで亡くなった方もいますし、中には、輸血を拒否したせいで医者に殺されたという人もいます。
 とはいえ、その苦しみは決して無駄でなかったと言えるのではないでしょうか。