エホバの証人の聖書

使徒 24:24

和文新世界訳聖書(エホバの証人)
幾日か後,フェリクスはユダヤ人の女である妻ドルシラを伴ってやって来た。そしてパウロを呼びにやり,キリスト・イエスに対する信念について彼[の話]を聴いた。

英文新世界訳聖書(エホバの証人)
Some days later Felix arrived with Dru?sil?la his wife, who was a Jewess, and he sent for Paul and listened to him on the belief in Christ Jesus.

新改訳聖書(ファンダメンタル)
数日後、ペリクスはユダヤ人である妻ドルシラを連れて来て、パウロを呼び出し、キリスト・イエスを信じる信仰について話を聞いた。

新共同訳聖書(カトリックとプロテスタント)
数日の後、フェリクスはユダヤ人である妻のドルシラと一緒に来て、パウロを呼び出し、キリスト・イエスへの信仰について話を聞いた。


 この聖句について、岩村義男氏は「神のみ名は「エホバ」か」の本の中でこのように指摘しています。

「信念」と翻訳されているギリシャ語は、ピステウオーです。……『王国行間逐語訳』でも、‘faith’「信仰」と訳出しています。『新世界訳』は、コロコロと訳語を変えます。一貫した字義訳を誇ることはできないのです。(表記修正)

 「信仰」を意味するギリシャ語ですが、英訳聖書や和訳聖書ではこれをいろいろと訳し分けることが慣例であると思います。たとえば、英語の“faith”は名詞であり、この語の動詞形はないので、動詞を用いなければならないところでは“believe”を用いるなどします。日本語でも、動詞「信じる」の名詞形というのはありませんし、名詞「信仰」の動詞形もありませんので、英訳聖書と同じような偏りがあります。
 ここで英文新世界訳聖書が“belief”を訳語とし、和文新世界訳聖書が“信念”としたのは、パウロにとって「信仰」である事柄も異教徒であるフェリクスから見れば「信条」に過ぎないという観点の相違に注目したからではないかと思います。もともと一貫した訳語を充てることはできない語ですし、「信念」という訳語も状況に対して相応ですので、これを「コロコロ変わる」と言うのはどうかと思います。

 新改訳聖書の「[キリスト]を信じる信仰」という訳語はなかなかおもしろいと思います。口語訳聖書や新改訳聖書はこの訳語をくり返し用いていますので、きっと何か考えることがあってそうしているのだと思います。おそらく、ギリシャ語ではたいへん紛らわしい、「キリストによる信仰」と「キリストへの信仰」の違いをはっきりさせようとしているのでしょう。


 さて、岩村氏はこの話に続けて『旧約聖書に「信仰」という聖句が登場するか』という話をしています。

ヘブライ語‘エームナー’が「信仰」と訳されるのは、新改訳、協会訳(口語訳)、文語訳、新共同訳で、ハバクク2章4節だけです。つまり、旧約聖書に「信仰」ということばは、一か所しか登場しないわけです。ところが、その一方で、『新世界訳』の旧約では、33回登場するのです。

 彼は創世記 15:6を一例として取り上げています。

創世記 15:6
新世界訳聖書(エホバの証人)
そこで彼はエホバに信仰を置いた。そして[神]は彼に対してそれを義とみなされた。
新改訳聖書(ファンダメンタル)
彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。

 彼はこう述べます。

‘エームナー’は、本来「忠実」という意味です。……『ナホム・ハバクク・ゼパニヤ』(D・W・ベーカー著)の注解書では、エームナーを……「揺るぎない信頼」を意味すると注解しています。ですから、創世記15章6節で、アブラハムが「エホバに信仰を置いた」という訳出は、「主を信じた」(契約を守られる主を信頼した)という訳が字義訳です。(一部省略)

 彼の主張には誤認の問題があるようです。彼自身、先の使徒 24:24のところでギリシャ語ピステウオーについてこのように解説しています。

「信念」と翻訳されているギリシャ語は、ピステウオーです。ピステウオーの語義は、「ただその方を信じるというのとは異なり、全信頼を置く、人格的信頼を全くその方にかけて投入してしまう」(織田昭編『ギリシャ語小辞典』)ということです。(表記修正)

 もうすこし言い添えますと、ギリシャ語ピステウオーには「忠実」という意味合いもあり、そのように訳されることもあります。ようするに、ヘブライ語アーマン(彼によるとエームナー)とギリシャ語ピステウオーは近い関係にある語であり、どちらも単に「信じる」という意味合いではないということです。
 ところが、新改訳聖書などを見てみますとアーマンに「信じる」という訳語が充てられています。実はこれ、先に述べた動詞と名詞の問題です。ヘブライ語アーマンは動詞です。ところが「信仰」という語には名詞形しかないので、本来なら「信じる」などという意味の浅い訳語を用いるべきではないのに、用いざるを得ないという状況になっています。
 しかし、新世界訳聖書にはこの問題を回避するみごとな裏技があります。名詞“信仰”の前に動詞“置く”を置いて“信仰”を動詞にしてしまうという技です。これは英文新世界訳聖書でも用いられています。

英文新世界訳聖書(エホバの証人)
And he put faith in Jehovah; and he proceeded to count it to him as righteousness.

 新世界訳聖書の旧約に「信仰」という訳語がたくさん出てくるのはそのせいです。
 彼はそのことに気づいていないのか、ヘブライ語アーマンとギリシャ語ピステウオーを強引に差別化しようとしています。
 しかし、これは彼一人の問題ではないでしょう。この種の錯覚はいろいろなところで頻繁に見られています。それで「信仰は新約の理念である」とか「信仰は神ではなくキリストに働かせる」とか言っている人には新世界訳聖書が間違っているように見えるのでしょう。


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