新世界訳
エホバの証人の聖書

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使徒 24:24

◇ 新世界訳参照資料付き聖書日本語版 ◇ (エホバの証人)
幾日か後,フェリクスはユダヤ人の女である妻ドルシラを伴ってやって来た。そしてパウロを呼びにやり,キリスト・イエスに対する信念について彼[の話]を聴いた。

◇ 新世界訳参照資料付き聖書英語版 (NW/Reference Bible) ◇ (エホバの証人)
Some days later Felix arrived with Dru·silʹla his wife, who was a Jewess, and he sent for Paul and listened to him on the belief in Christ Jesus.

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
何日か後,フェリクスはユダヤ人の妻ドルシラとやって来た。そしてパウロを呼び出し,キリスト・イエスを信じることについて話を聞いた。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
数日の後、フェリクスはユダヤ人である妻のドルシラと一緒に来て、パウロを呼び出し、キリスト・イエスへの信仰について話を聞いた。

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
数日の後、フェリクスはユダヤ人である妻ドルシラと一緒に来て、パウロを呼び出し、キリスト・イエスへの信仰について話を聞いた。

◇ 新改訳聖書 [第三版] ◇ (ファンダメンタル)
数日後、ペリクスはユダヤ人である妻ドルシラを連れて来て、パウロを呼び出し、キリスト・イエスを信じる信仰について話を聞いた。

◇ 新改訳聖書 [2017年版] ◇ (ファンダメンタル)
数日後、フェリクスはユダヤ人である妻ドルシラとともにやって来て、パウロを呼び出し、キリスト・イエスに対する信仰について話を聞いた。



 ギリシャ語の“ピスティス”は、たいていは「信仰」と訳されますが、もっと広い意味を持っています。
 新世界訳聖書の参照資料付き版がピスティスを「信念」と訳出したのはなぜでしょうか。主語がフェリクスになっているからのようです。フェリクスはキリスト教徒ではなく、どちらかというと迫害者でした。キリスト教徒にとっての「信仰」は、迫害者にとっては単なる「信念」に思えるでしょう。
 新世界訳聖書はいつものように、文を組み立てるにあたって文意ということをよく考えています。

 新改訳聖書の「……を信じる信仰」という訳は、一時期日本で流行した訳し方です。聖書には「キリストの信仰」というような表現が多数見られますが、「キリストへの信仰」とも「キリストによる信仰」とも読めるという問題があるそうです。そこで、この表現が「キリストへの信仰」の意味で用いられていると考えられる場合に、そのことを明示するためにこのような訳語が用いられるようになりました。
 「キリストへの信仰」と「キリストによる信仰」との違いは何でしょうか。信仰を持っているのが誰であるかが違います。「キリストへの信仰」を持つのは信徒たちです。一方、「キリストによる信仰」はキリスト自身が持っている信仰です。
 キリストの持つ信仰とは何か、とあなたは思われるかもしれません。ここでは、「信仰」と訳されるギリシャ語の意味は広い、ということを念頭に置かなければなりません。たとえば、イエスは「信頼」のおける人である、とか、イエスは「真実」を語る人である、というようなことを考えることができます。

 日本では、「キリストによる信仰」という読み方をする場合には「信実」という訳語を用いることが提唱され、普及しつつあります。読みが「真実」と同じでまぎらわしいですので注意が必要です。



◇ 「それでも新聖書翻訳」, 津村春英, New聖書翻訳 No.2

 1980年以降、「キリストのピスティス」を「キリストの信/信実」と解する見解は英語圏のパウロ書簡研究で議論され、日本でも1995年ごろから、後者を支持する研究者が増えている。



◇ 「集英社国語辞典」, “信実”の項

まじめでうそのないこと。正直。



 ギリシャ語ピスティスについて、ここ最近は様々な訳し方が盛んに議論されています。その結果、「……を信じる信仰」という訳し方はもう使われなくなりました。さらに今後は大きな変化が生じるかもしれません。

 そのようなわけで、使徒 24:24は、「キリスト・イエスの持つ信実さについて」とも訳せます。もう一つの読みがあることには留意しておきたいものです。

 私はこれまで、『パウロはトリックの仕込まれた文章を書くことが大好きな方なんだ』ということを繰り返し指摘してきました。特に「二通りに読める書き方」へのこだわりが見られます。「キリストの信仰」という表現は、ギリシャ語原典で読んでみると、風変わりな言い回しです。これはパウロの趣味の現れであると私は思います。パウロが「二通りに読める書き方」をするということについては、「ギリシャ語パースと救いの概念」のほうに詳しく書いていますので、興味のある方はご覧ください。

 新世界訳聖書の訳については、反対者の立場から、このようなことを述べられた方がいます。



◇ 「神のみ名は「エホバ」か」, 岩村義男, いのちのことば社

 「信念」と翻訳されているギリシャ語は、πιστεύω (ピステウオー) です。……『王国行間逐語訳』でも、‘faith’「信仰」と訳出しています。『新世界訳』は、コロコロと訳語を変えます。一貫した字義訳を誇ることはできないのです。



 ギリシャ語ピスティスは語義が広く、いつでも「信仰」と訳してよいだろうか、ということが議論されています。文意に応じて訳語を使い分けるほうがいい、という意見もあります。もちろん、そのようにすれば訳語の一貫性は損なわれることになります。岩村氏は不毛なことを言っているように私は思います。

 岩村氏の主張のほうも見ましょう。
 岩村氏はここで、「エホバのみ名に対する信仰、それともイエスのみ名に対する信仰」というかなり挑発的な見出しを掲げています。
 聖書において、エホバへの信仰とイエスへの信仰を分離することはできません。しかし岩村氏は、これらは両立できないと考えているようです。
 そして、岩村氏は突拍子もないことを指摘します。



◇ 「神のみ名は「エホバ」か」, 岩村義男, いのちのことば社

 証人にとって、エホバのみ名に信仰を働かせることがあっても、イエスの名に信仰を働かせることなど、ひらめくことすらありません。それで、「イエスの名に信仰を働かせる」という聖句を示すと、証人は困惑してしまいます。



 元エホバの証人であり長老までやっていたという方がこのような指摘をするというのは、なかなかの衝撃です。
 エホバの証人にとって、イエスの名に信仰を働かせることは、ひらめくもなにも、常識です。この方は、エホバの証人をやっていたころ、イエスの名に信仰を表したことなどなかったのでしょうか。

 この教条がエホバの証人の出版物の中でどのように扱われているか、見てみましょう。



◇ 「ものみの塔」誌1986年7月15日号, ものみの塔聖書冊子協会

 神は,わたしたちの祈りに答えてくださいます。それは,「わたしたちがそのおきてを守り行ない,神の目に喜ばれることを行なっているからです」。自分の祈りに答えていただきたいと思うなら,次の二つの要求を含む神の「おきて」を守らなければなりません。(1)イエスの「名」に信仰を持ち,贖いを受け入れ,イエスの得ている,神から与えられた権威を認めるべきです。(フィリピ 2:9-11)(2)さらに,イエスのご命令のとおり,『互いに愛し合って』いるべきです。(ヨハネ 15:12,17)確かに,キリストの名に信仰を持つ人は皆,そうした信仰を働かせる他の人すべてを愛すべきです。



 何の問題もありません。

 岩村氏はこの本の中で同様の怪しい主張をしつこく唱えています。たとえば、「本当はだれの証人か」という章では、エホバの証人は「イエスの証人」ではない、クリスチャンは「エホバの証人」ではなく「イエスの証人」だ、ということを主張しています。
 この本を手にする方々は、エホバの証人はイエスを軽視する宗教だと思うでしょう。
 多くの教会はこの本を推奨しています。この本の主張を信じる教会信徒はかなりいるでしょう。

 エホバの証人の出版物には、このような人たちに対するメッセージとして書かれたと思われる文書がいくつもあります。そのうちの一つの主題は、「真の信仰に導く名前」です。



◇ 「ものみの塔」誌1998年12月1日号, ものみの塔聖書冊子協会

『真の信仰に導く名前』

 「あなた方は,イエスと,罪を贖うイエスの血を信じていません」と,ある女性はエホバの証人に言いました。またある男性は,「あなた方は自分たちのことをエホバの証人と呼んでいるが,わたしはイエスの証人だ」と主張しました。
 エホバの証人はイエスを信じていないとか,イエスをあまり重要視していないという見方をする人は珍しくありません。しかし,事実はどうでしょうか。
 ……永遠の命を得るには,確かに「神のみ子[イエス]の名に」信仰を置かなければならないことをエホバの証人は知っています。
 ……エホバの証人はイエスの模範に倣い,人種や宗教や経済に関する背景がどんなものであれ,すべての人がイエスの名を通してもたらされる救いについて学べるよう喜んで助けます。彼らはイエスの名に対する信仰に動かされ,「イエスは主であるということを公に宣言」します。(ローマ 10:8,9)あなたもエホバの証人の助けを得て,イエスの名に信仰を置くことを是非学んでください。



 ただ、エホバの証人側がこのようなアピールを繰り返し行っても、キリスト教会側の反応は全くなかった、という問題があります。キリスト教諸教会としては、エホバの証人のことを異端だと決めつけてしまったから、これから先いつまでもそう決めつけていたい、という強い思いがあるようです。

 岩村氏はさらに、「旧約聖書に「信仰」という聖句が登場するか」という見出しを掲げます。



◇ 「神のみ名は「エホバ」か」, 岩村義男, いのちのことば社 (表記修正)

 ヘブライ語‘エームナー’が「信仰」と訳されるのは、新改訳、協会訳(口語訳)、文語訳、新共同訳で、ハバクク2章4節だけです。つまり、旧約聖書に「信仰」ということばは、一か所しか登場しないわけです。ところが、その一方で、『新世界訳』の旧約では、33回登場するのです。
 ……新約聖書で初めて、‘主イエス・キリスト’に対する「信仰」が100回以上登場します。



 岩村氏としては、信仰の対象はイエスであってエホバではない、ということを言いたいようです。

 新世界訳聖書には訳し方の偏りがあるのでしょうか。あるいは、反対者がよく言うように、新世界訳聖書はエホバの証人に都合のよいように改竄されてしまっているのでしょうか。
 これは単に言語の問題であるようです。

 英語や日本語には「信仰」という語についてのやっかいな欠陥があります。それは、名詞と動詞が対応しないという問題です。
 英語の場合、“faith”は名詞です。この語に動詞形はないので“believe”を用いるなどします。日本語でも、「信じる」の名詞形や「信仰」の動詞形はありません。
 旧約聖書は「信仰」という語をほとんどの場合動詞として用いているようです。そのため、翻訳された聖書を見ると、旧約に「信仰」という語はほとんどないように見えます。エホバに対する信仰を教えていないようにも見えます。
 そのような事情により、キリスト教徒の中には、「信仰は新約特有の理念である」とか「神は信仰の対象ではない」ということを信じている方が結構いたりします。これはかなり深刻な問題です。
 しかし、新世界訳聖書にはこの問題を回避するみごとなテクニックがあります。名詞“信仰”の前に“置く”などの動詞を置いて“信仰”を動詞にしてしまうという技です。



創世記 15:6

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
そこで彼はエホバに信仰を置いた。そして[神]は彼に対してそれを義とみなされた。

◇ 新世界訳参照資料付き聖書英語版 (NW/Reference Bible) ◇ (エホバの証人)
And he put faith in Jehovah; and he proceeded to count it to him as righteousness.

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
そこでアブラムはエホバに信仰を持った。神はそのことを正しいと見なした。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。

◇ 新改訳聖書 [第三版] ◇ (ファンダメンタル)
彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。

◇ 新改訳聖書 [2017年版] ◇ (ファンダメンタル)
アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。



 これで問題は見事に解決します。新世界訳はうまくやったと思います。