新世界訳
エホバの証人の聖書

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ローマ 2:29

◇ 英文新世界訳聖書 (NW/NWT) ◇ (エホバの証人)
But he is a Jew who is one on the inside, and [his] circumcision is that of the heart by spirit, and not by a written code. The praise of that one comes, not from men, but from God.

◇ 新国際訳聖書 (NIV) ◇ (ファンダメンタル)
No, a man is a Jew if he is one inwardly; and circumcision is circumcision of the heart, by the Spirit, not by the written code. Such a man's praise is not from men, but from God.

◇ 英語標準訳聖書 (ESV) ◇ (プロテスタント)
But a Jew is one inwardly, and circumcision is a matter of the heart, by the Spirit, not by the letter. His praise is not from man but from God.

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
内面の[ユダヤ人]がユダヤ人なのであって,[その人の]割礼はによる心の[割礼]で,書かれた法典によるものではありません。その人に対する称賛は,人間からではなく,神から来ます。



 新国際訳聖書のような一般的な英訳聖書では“the Spirit”と訳出されているところ、英文新世界訳聖書では“spirit”と訳出されています。
 ここのところ、原典を参照すると、「霊」という語に冠詞はありません。ですから、これを直訳すると英文新世界訳聖書のように“spirit”となるでしょう。しかし、一般的な英訳聖書はそのように訳出していません。この問題について考えてみましょう。

 これについて要点をわかりやすくするために、すこし主題から脱線して、まずは『国名に定冠詞はつくのか』という問題を考えたいと思います。
 英語などの西洋言語では、一般的に、国名に定冠詞はつきません。「日本」と言う場合、単に“Japan”と言います。“the Japan”と言ったりはしません。しかし、国名に定冠詞がつく場合もあります。“the United States of America”という場合がそうです。これはなぜなのでしょうか。



◇ 「日本人の英語」, マーク・ピーターセン

U.S.A. に the がつくのは固有名詞だから、あるいは国名だからではなく、普通名詞の states があるからである。



 “Japan”に定冠詞がつかないのは、それが固有名詞であり、その存在が単一だからです。その対象が特定されており、「それはいったいどの“Japan”ですか?」というようなことを聞く必要がない語に定冠詞は用いません。一方、たとえば“Kingdom”などと言う場合は状況が異なります。その対象が特定されておらず、「それはどの王国なのか」という疑問が生じるような場合は“the Kingdom of ...”というような表現が必要になってきます。このような時の定冠詞は、抽象的な語を特定する働きをする定冠詞です。ですから、“the United States of America”の“the”は“United States of America”ではなく“United States”にかかっており、“of America”と協働して“United States”を特定する働きをします。これを“the United States of the America”とは言いません。“America”の存在が単一だからです。
 ところが、西洋言語を用いない日本人にはこのあたりの感覚がなかなか解らないものだそうです。“the United States of America”という国名にしても、「国名に“the”をつけるとなんだかかっこいいね」などと関係のないことを考えたりします。



◇ 「日本人の英語」, マーク・ピーターセン (表記等修正)

日本の英文学術雑誌の……各論文の冒頭センテンス、66の中だけでも、余分な the のあるセンテンスは24もあった。…… the の足りないセンテンスは7……



 実のところ、私にも定冠詞のことはさっぱり解りません。そうすると、私はいろいろなところで「この文はどうしてこういう文になるんだ!」と考えて困り果てることになります。
 たとえば、聖書の冒頭、創世記 1:1です。



創世記 1:1

◇ 英語標準訳聖書 (ESV) ◇ (プロテスタント)
In the beginning, God created the heavens and the earth.

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
初めに神は天と地を創造された。



 「初め」と「天」と「地」には定冠詞がついているのに、どうして「神」には定冠詞がつかないのでしょうか。わけがわかりません。
 続いて、創世記 1:2です。



創世記 1:2

◇ 英語標準訳聖書 (ESV) ◇ (プロテスタント)
The earth was without form and void, and darkness was over the face of the deep. And the Spirit of God was hovering over the face of the waters.

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
さて,地は形がなく,荒漠としていて,闇が水の深みの表にあった。そして,神の活動する力が水の表を行きめぐっていた。



 「霊」に定冠詞がつくのに「神」のほうにつかないのはいったいどういうことでしょうか。納得できません。
 このようなわけで、ちょっと英訳聖書を読んだくらいで私はもう大混乱です。

 ではここで主題を思い起こしてみましょう。
 聖書には「霊」という語の多様な用法があります。たとえば、風が「霊」と表現されます。人の呼吸も「霊」です。人の心は「霊」ですし、心の考えも「霊」です。状況も、その雰囲気も「霊」です。神は「霊」ですし、悪魔や天使も「霊」です。ややこしいことに、神が「霊」であることとは別に「神の霊(聖霊)」というものがあります。一方、ローマ 2:29の場合、文意から、ここで述べられている「霊」とは神の霊のことである、と特定できます。そうすると、英語の考え方では、これに定冠詞を補わず単に“spirit”と訳してしまうと、定冠詞がつかないことに不自然さが感じられる、ということになってしまいます。「霊」という語が神の霊を指している場合、訳文に“the”を補うことは自然なことのようです。読者は“the Spirit”という表現を見て、「これは“the Spirit of God”から“of God”を省いた形なのだ」と考えればよいでしょう。

 英文新世界訳聖書が定冠詞を省いているのはなぜでしょうか。それは、「霊」の訳出に際しては英訳文においても定冠詞の用法を聖書原典での用法と合わせるという方針を持っているからです。あるいはもしかすると、この場合の「霊」は特定できないという考えがあったのかもしれません。聖書には“人の霊と結びついた神の霊”という考えがあります。このような「霊」は二つの性質を同時に帯びているので、英文法の考え方では、特定ということができず、定冠詞をつけにくいようです。ローマ 2:29で述べられているのはそのような霊なのかもしれません。

 ここで、「フリーマインドジャーナル」1994年5-6月号に掲載された「新世界訳聖書における改竄」の記事を見てみましょう。



◇ 'Misleading Revisions in the New World Translation' Andy Bjorklund, Free Minds Journal May/Jun 1994 (表記等修正)

“By the Spirit”が“by spirit”に変えられている。
ギリシャ語原典において、定冠詞“the”はいつでも用いられているわけではない。しかしそれは、プネウマ(霊)の用法においては省略されるということに過ぎない。このような改竄は聖霊の実在性を巧みな仕方であいまいにし、抽象化するものである。
(同様の改竄はローマ 15:19(18), エフェソス 2:22, 3:5, テトス 3:5, ヤコブ 2:26, ペテロ第二 1:21にも見られる。)』



 「霊」が神の霊(聖霊)を指していてさらに定冠詞がない場合、これをどう理解すればよいのでしょうか。
 聖書原典において「聖霊」に言及されている部分をみると、定冠詞がついている場合とついていない場合があります。



◇ 'Truth in translation, Jason David BeDuhn

「聖霊」という表現は聖書の中に87回用いられ、42回は定冠詞あり、45回は定冠詞なしである。



 「霊」が何であるか特定できる場合は定冠詞を使ったほうがよさそうなのですが、常にそうなっているわけではないため、定冠詞がない場合には「それはいったいどの霊か」ということがあいまいになるようです。ただ、ギリシャ語の定冠詞の用法は感覚的に英語より雑だということを根拠にして、フリーマインドジャーナルは、定冠詞は省略されているのだと主張しています。
 フリーマインドジャーナルが言うことにはもっともなところがあるようです。

 聖霊を意味する「霊」から定冠詞が省かれているかもしれないということからは、もしかすると「聖霊」は固有名詞であるかもしれないということが推論できるようです。



◇ 「新約聖書ギリシャ語原典入門」, J・G・メイチェン (表記等修正)

一つの種のものの唯一のものというのではないが、非常に独特な人、またはものに言及するある名詞は、固有名詞として取り扱われ、冠詞は挿入されることも、省略されることもある。たとえば、「神」、「(神の)霊」または「聖霊」、「世」、「律法」。



 これは英訳聖書の場合にも似たような例があります。英訳聖書では“God”には定冠詞がついたりつかなかったりします。しかし、英語の場合なら“God”の頭文字を大文字にすることによってそれが固有名詞であることを明示できますが、聖書ギリシャ語にはそのような方法がありません。つまり、聖書は「聖霊」が固有名詞である可能性を示していますが、明示してはいません。

 これについては、「聖霊」という語の「聖(聖なる)」の部分が形容詞だということに注目することで、推論を進めることができるようです。



◇ 「新約聖書ギリシア語入門」, 大貫隆 (表記等修正)

形容詞の限定的用法には次の2通りの組み合わせがある。……定冠詞と名詞の間に形容詞が挟まれる形……形容詞が名詞の後につき、しかも、名詞の前の定冠詞と同じ定冠詞を自分の前にもう一度繰り返す形。……述語的用法の形容詞は自分自身では定冠詞を取らずに、定冠詞を伴った主語名詞を述定する。……時には……名詞と形容詞のどちらも定冠詞を伴わずに並列する場合がある。……形容詞はそのまま名詞として用いられ得る。定冠詞を伴うことが多いが、伴わない場合もある。



 聖書原典を見てみると、「聖霊」という表現に定冠詞がついている場合、ほとんどが定冠詞を繰り返す形、残りのほぼすべてが形容詞が挟まれる形となっています。つまり、これは形容詞の限定的用法であるということになります。

 これについては、「聖なるみ使い(天使)たち」という表現にも注目できるでしょう。「聖霊」という表現が「聖(聖なる)」という語と「霊」という語が組み合わさってできるのに対し、「聖なるみ使いたち」は「聖(聖なる)」という語と「み使い(天使)たち」という語が組み合わさってできます。つまり、文法的にはだいたい同じです。聖書には「聖なるみ使いたち」という表現が3回用いられ、1回が定冠詞なし、2回が定冠詞ありです。そして定冠詞のある2回のうち、1回は定冠詞を繰り返す形、もう1回が形容詞がはさまれる形です。ここでのポイントは、「聖なるみ使いたち」は複数形なので「固有名詞として取り扱う」ということができないということです。それなのに、固有名詞として取り扱うことのできる「聖霊」の場合と比べて語法に違いが見つかりません。そうすると、「聖霊」という語は聖書原典において固有名詞としては考えられていないのではないか、という疑問が生じ、さらにこの疑問と連動して、聖霊が単に「霊」と呼ばれる場合も同様ではないのか、という疑問が生じるようです。



◇ 「新約聖書ギリシア語入門」, 大貫隆 (表記等修正)

(聖書ギリシャ語の)定冠詞の最も主要な働きは、英語を初めとする現代欧米語の場合と同じように、名詞を限定、同定、規定することである。



 つまり、「(神の)霊」が定冠詞つきであったりなかったりするのは、それが固有名詞ではなく一般名詞であり、ただ単に限定ということがあいまいだからなのではないか、と考えることになります。

 もっとも、これらの考察は英訳文における定冠詞の使用にそれほど影響しないようです。聖書原典は「(神の)霊」や「聖霊」から冠詞を省略したのかもしれませんし、固有名詞として扱っているのかもしれませんが、英訳聖書としては、そういったことにこだわらず文意に応じて適宜定冠詞を補うのが自然なこととなるでしょう。“spirit”の頭文字を大文字にして固有名詞として扱うべきかという課題がありますが、ここでの話は基本的に定冠詞ということにとどめておきます。

 ところが、文法論上のこのような考え方に対してエホバの証人は驚くような仕方で横槍を入れています。



◇ 「聖書に対する洞察」, 『霊』の項, ものみの塔聖書冊子協会

神ご自身は霊であり,聖なる方であられ,またその忠実なみ使いである子たちも霊であり,聖なる者ですから,もし「聖霊」が人格的存在であるとすれば,その霊者をそれら他のすべての『聖なる霊』と区別し,その実体を明示する何らかの方法が当然,聖書中に収められているべきでしょう。聖霊が「神の聖霊」と呼ばれたり,同様の何らかの表現で修飾されたりしていない場合にはすべて,少なくとも聖霊という語と共に定冠詞が使われているものと考えられるでしょう。そうであれば,少なくとも“その聖霊”(THE Holy Spirit)として区別されるでしょう。ところが,それとは逆に,多くの場合,「聖霊」という表現は元のギリシャ語では定冠詞を伴わずに出ており,このことは聖霊が性格を有する者ではないことを示唆しています。



 この文書は、「聖霊」における定冠詞の用法と人格性との関連ということを扱っています。それはどうしてでしょうか。三位一体論では聖霊は人格者でありそのことは定冠詞の用法によって示されるとされているからのようです。先に挙げたフリーマインドジャーナルの言う「聖霊の実在性」も、三位一体論の考え方で言い換えるなら「聖霊の人格性」ということになります。聖書翻訳の世界では、訳文において「聖霊」から定冠詞を省くことは聖霊の人格性の否定を意味すると考えられているようです。この人格性ということについては、また別のところで扱うことにしてとりあえず無視したいと思います。

 定冠詞の用法についてこの文書は何を言おうとしているのでしょうか。
 すでに指摘したように、「聖霊」という語は「聖(聖なる)」という語と「霊」という語が組み合わさってできますが、この「聖」という語は単独で用いられると「聖なる者(方)」もしくは「聖なるもの(何か)」の意味になり、何にでも誰にでも用いられるようになります。また「霊」も、すでに指摘したように、様々な意味を持っています。聖書の中で「聖(聖なる)」という語と「霊」という語がそれぞれ天使を指して用いられているということからすると、「聖霊」という表現について、それは神の霊ではなく天使を指しているのではないか、これは「聖なるみ使い(天使)」の言い換えではないのか、ということが考えられるようです。
 これは、神学の常識的視点に立って考えると突拍子もないことですが、間違っていると言うことはできなさそうです。



ペテロ第一 1:10, 12

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
ほかならぬこの救いに関して,勤勉な探究と注意深い調査が,あなた方に向けられた過分のご親切について預言した預言者たちによって行なわれました。
彼らは,天から送られた聖霊をもってあなた方に良いたよりを宣明した人々を通して今あなた方に発表されている事柄に奉仕しましたが,それが,自分自身のためではなく,あなた方のためであることを啓示されました。み使いたちは,実にこうした事柄を熟視したいと思っているのです。


ペテロ第二 1:21

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
預言はどんな時にも人間の意志によってもたらされたものではなく,人が聖霊に導かれつつ,神によって語ったものだからです。

ガラテア 3:19

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
では,律法はなぜ[与えられたの]ですか。それは違犯を明らかにするために付け加えられたのであり,約束のなされた胤が到来する時にまで及ぶのです。そして,それはみ使いたちを通し,仲介者の手によって伝えられました。



 ここで聖書が言う「預言」とは広い意味の預言で、神の言葉を公布することを指します。モーセは預言者の筆頭に挙がる人物であり、ここでは「仲介者」と呼ばれています。問題は、同じことを述べているこれらの表現を比較すると、そこに出てくる「聖霊」は天使たちを指しているという結論になってしまうということです。
 「聖霊」という表現にこういう問題があるにもかかわらず、聖書はそのことを全く気にしておらず、そのことが定冠詞の用法に現れているということのようです。

 そのようなわけで、聖書を英訳する際、聖書には「聖霊」という語の不自然な用法がありますから、それを修正して訳出するかそれともそのま不自然な訳出をするかという難しい選択が求められるようです。