新世界訳
エホバの証人の聖書

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ローマ 5:21

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
何のためですか。罪が死を伴って王として支配したのと同じように,過分のご親切もまた,わたしたちの主イエス・キリストを通して来る永遠の命の見込みを伴いつつ,義によって王として支配するためでした。

◇ 新改訳聖書 [第三版] ◇ (ファンダメンタル)
それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し永遠のいのちを得させるためなのです。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。

◇ 新改訳聖書 [2017年版] ◇ (ファンダメンタル)
それは、罪が死によって支配したように、恵みもまた義によって支配して、私たちの主イエス・キリストにより永遠のいのちに導くためなのです。



 新世界訳聖書の訳文についてこのようなことが言われています。



◇ 「ものみの塔の新世界訳聖書は改ざん聖書」, 正木弥 (表記修正)

 ここでも、新世界訳(英文)にはギリシャ語本文、逐語訳(英文)にないことばが2箇所も出てきます。"as king"(王として)と"in view"です。いずれも本文の中にその意味を汲み取ることができません。特に後者の結果、新世界訳(日本語文)では「・・・永遠の命の見込みを伴いつつ・・・」と訳されてしまいました。”永遠の命”が見込みに格下げされたのです。原文の中にない意味をもたらすような挿入は、改ざんという外ありません。



 まず、“王として支配する”という語について考えましょう。ここのところ、原典を参照すると、「王」を意味するギリシャ語“バシレウス”の変化形“バシレウオー”が用いられています。これは最近の日本語の感覚で言うと「王様する」といった感じです。王が何をするかというと、それは当然支配をするということになります。

 新世界訳聖書の訳は他の訳に比べ、聖書原典に対して厳密であるようです。新世界訳聖書に対するこの種の批判を見た時には、ぜひとも辞書を参照して事実を確認するようにしたいものです。



◇ 「新約聖書ギリシア語辞典」, βασιλεύω の項, 玉川直重, キリスト新聞社 (表記修正)

1.王として治める、支配する。(……ローマ 5:21) 2.王となる。



 続いて、“永遠の命の見込みを伴い”について考えましょう。ここのところ、原典で用いられている語は前置詞の“エイス”で、基本的には目的ということを示唆します。エイスはかなり広い意味を持ちますので、その意味は文脈や文意によって大きく変わり得ます。
 ギリシャ語エイスが救いに関連して用いられている場合、特に二つの要素が関係します。



○ 救いを示唆するギリシャ語 εἰς の問題

目的を示すのか結果を示すのか

現在の行為なのか将来の行為なのか



 ローマ 5:21において、新世界訳聖書は、エイスを現在から俯瞰した将来の結果を示すものととらえています。新共同訳聖書は単に将来の結果ととらえています。新改訳聖書は第三版でこれを単に目的と取っていますが、2017年版では新共同訳聖書と同じになりました。

 これは、文脈のローマ 6:22との調和をはかったものと思われます。ローマ 6:22は永遠の命が将来のものであることを示しています。



ローマ 6:22

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
しかし,今あなた方は罪から自由にされて神に対する奴隷となったので,神聖さの面で自分の実を得ており,その終わりは永遠の命です。



 キリスト教世界には、新世界訳聖書の訳の、特に“見込み”のところを痛烈に非難する向きがあります。
 これはどうしてでしょうか。キリスト教の神学では、救いの確実性ということが論じられています。そして多くの教会は、救いの確実性は絶対的であるという教義を採用しています。さらに、このことには予定説の神学ということも絡んできます。もし、ある人の救いを神が予定されたのであれば、救いは確実にその人に訪れるでしょう。逆に、ある人の滅びを神が予定されたのであれば、それもまた必ずそうなるでしょう。そうすると、新世界訳聖書に見られる“見込み”という表現は、救いの確実性を否定するような表現で不適切だということになります。

 この問題について、エホバの証人の資料がどのようなことを述べているかを見てみましょう。



◇ 「ものみの塔」誌1989年9月15日号, ものみの塔聖書冊子協会

 「み子を信ずる者は永遠の命を持(つ)」と聖書に書かれているではないかと主張する人は少なくありません。(ヨハネ 3:36,ジェームズ王欽定訳)そうした人々は,主イエス・キリストを自分個人の救い主としてひとたび受け入れたなら,二度と引き離されることはあり得ないと信じています。“一度の救いは,永久の救い”というのが彼らの合い言葉です。しかし,聖書は本当にそう述べているのでしょうか。この問いに答えるためには,この問題に関して聖書が述べていることをすべて検討してみる必要があります。わたしたちは,神の言葉のほんの一部だけを読んで,「虚偽の推論によって自分を欺く」ことを決して望みません。
 弟子ユダが霊感を受けて記した,次の警告に注目してください。「愛する者たちよ,わたしたちが共にあずかる救いについてあなた方に書き送るため,わたしはあらゆる努力をしていましたが,聖なる者たちに一度かぎり伝えられた信仰のために厳しい戦いをするよう,あなた方に書き送って説き勧める必要のあることを知りました」。(ユダ 3)ユダがこのように書いたのはなぜでしょうか。個々のクリスチャンには依然として,「共にあずかる救い」を失う可能性があることをユダは知っていたからです。ユダは続けてこう述べています。「わたしは,あなた方に次のことを思い出させたいのです。それは,エホバが,民[イスラエル人]をエジプトの地から救い出したにもかかわらず,後に,信仰を示さない者たちを滅ぼされたことです」― ユダ 5。
 クリスチャンたちがそれらのイスラエル人と同様の危険に面していなかったのであれば,ユダの警告は的外れのものになってしまいます。ユダはイエスの犠牲の価値について疑っていたのではありません。その犠牲はアダムの罪からわたしたちを救いました。そしてイエスは,ご自分に信仰を働かせる者たちを保護されるでしょう。イエスのみ手からそうした人々を取り去ることはだれにもできません。しかしわたしたちがそのような保護を失う可能性はあります。どのようにでしょうか。エジプトから救われた大勢のイスラエル人と同様の事柄を行なえば,そうなります。わたしたちは神に背く道を故意に選ぶ可能性があるのです。―申命記 30:19,20。
 ……クリスチャンは救われた状態にあります。また,神のみ前に是認された立場を得ているので,永遠の命の見込みを持っています。一つのグループとして,アダムの罪とその結果生じるすべての事柄から救われることは確実です。しかし個人としては,神のすべてのご要求に固く従い続ける場合にのみ,救われて永遠の命に至るのです。イエスは,ご自分をぶどうの木に,弟子たちをぶどうの木の枝になぞらえた時に,この点を強調してこう言われました。「[神]は,わたしにあって実を結んでいない枝をみな取り去り(ます)。……わたしと結びついたままでいないなら,その人は枝のようにほうり出されて枯れてしまいます。そして人々はそうした枝を寄せ集めて火の中に投げ込み,それは焼かれてしまいます」。(ヨハネ 15:2,6。ヘブライ 6:4-6)イエスに対する信仰を失う人は,永遠の命をも失うのです。



◇ 「聖書は“一度の救いは永久の救い”を教えていますか」, jw.org

 いいえ,聖書は“一度の救いは永久の救い”という教理を教えてはいません。イエス・キリストへの信仰によって救いを得た人でも,救いにつながるその信仰を失うことがあります。聖書は,信仰を保つためには懸命な努力,「厳しい戦い」が必要である,と述べています。(ユダ 3,5)キリストをすでに受け入れていた初期クリスチャンも,「恐れとおののきをもって自分の救いを達成してゆきなさい」と教えられました。―フィリピ 2:12。
 聖書は,神の王国に入れなくなるような重大な罪について警告しています。(コリント第一 6:9-11。ガラテア 5:19-21)……聖書は,救いを得た人が重大な罪を犯す習慣に逆戻りし,離れ落ちてしまう可能性があることを示しています。例えば,ヘブライ 10章26節は「真理の正確な知識を受けた後,故意に罪を習わしにするなら,罪のための犠牲はもはや何も残されて」いない,と述べています。―ヘブライ 6:4-6。ペテロ第二 2:20-22。
 ……弟子たちは,一時は自分の実,つまり行動によってイエスに信仰を表わしたとしても,後にそうしなくなるなら,実のならない「枝のようにほうり出され」て救いを失うことになりました。(ヨハネ 15:1-6)使徒パウロも似たような例えを用い,信仰を保たないクリスチャンは「切り落とされる」,と述べています。―ローマ 11:17-22。……「闇に属する業」を行なうことによって,あるいはイエスから命じられた活動を十分に行なわないことによって霊的な眠りに落ちる人は,救いを失ってしまいます。―ローマ 13:11-13。啓示 3:1-3。
 たくさんの聖句が,救われている人であっても終わりまで忠実に忍耐しなければならない,ということを示しています。(マタイ 24:13。ヘブライ 10:36; 12:2,3。啓示 2:10)……使徒パウロは,死が目前に迫った時に初めて,自分は必ず救われると考えることができました。(テモテ第二 4:6-8)それ以前のパウロは,肉の欲望に屈するなら自分の救いを失うことさえある,と理解していました。こう書いています。「自分の体を打ちたたき,奴隷として引いて行くのです。それは,他の人たちに宣べ(のべ)伝えておきながら,自分自身が何かのことで非とされるようなことにならないためです」。―コリント第一 9:27。フィリピ 3:12-14。



 聖書は、そして聖書を生み出した原始キリスト教は、救いの確実性ということについては割と否定的です。ある程度の確実性は認めていますが、絶対的ということにはならないようです。キリスト教世界に見られる新世界訳聖書の訳を非難する向きは、救いを極端に美化する非合理的な神学に起因するものであると言うことができるでしょう。

 ギリシャ語エイスについては、「ギリシャ語エイスと救いの概念」という文書を用意しましたので、そちらのほうも参照してください。






 さてここで、私としては、救いの確実性を信じて疑わない人たちについていくらか言っておきたいことがあります。
 私は立場上、この種の人たちとそうとうな量の議論をやってきましたが、そうするうちに、この人たちには特有の思考パターンがあるんだということに気づくようになりました。



◇ 「キリスト教問答」, 内村鑑三

 予定……は、読んで字のごとく、神に救われし者は神によって予め定められた者であるということであります。……私は頑固信者の一人でありまして、……予定の教義をも信じます。
 ……予定はけっして聖書のそこここに散在しているような曖昧なる教義ではありません。予定は聖書を始めより終わりまで貫徹する精神であります。



 これは、キリスト教の偉大な思想家として名高い内村鑑三氏の言葉です。このように言われると、この人はいったい普段から聖書をどういうふうに読んでいるんだ、ということになるわけですが、それで内村鑑三氏が列挙するのはたとえばこのような聖句です。



ヨハネ第一 4:19

◇ 新改訳聖書 [2017年版] ◇ (ファンダメンタル)
私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。

ローマ 8:28-30

◇ 新改訳聖書 [2017年版] ◇ (ファンダメンタル)
神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。神は、あらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め、義と認めた人たちにはさらに栄光をお与えになりました。

エフェソス 1:4-5

◇ 新改訳聖書 [2017年版] ◇ (ファンダメンタル)
すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。



 加えると、このような聖句も引き合いに出されます。



ヨハネ 3:36

◇ 新改訳聖書 [2017年版] ◇ (ファンダメンタル)
御子を信じる者は永遠のいのちを持っているが、御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。

ヨハネ 6:44

◇ 新改訳聖書 [2017年版] ◇ (ファンダメンタル)
わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできません。わたしはその人を終わりの日によみがえらせます。

ローマ 8:35, 38-39

◇ 新改訳聖書 [2017年版] ◇ (ファンダメンタル)
だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
こう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。



 こういった聖書の言葉をまとめると、このような結論が導かれます。神は、この宇宙が誕生する前から、救われる人と救われない人ということを定めておられる。神に救われると定められた人だけがキリスト教の信者となることができる。その人の救いは保証されており決して奪い去られない。

 これらの人たちの共通点となっているのは「おおげさな表現が大好き」という精神状態です。聖書にはおおげさな表現がたくさんありますが、この種の人たちは聖書を読むとき、聖書の中の特殊な表現にはよく反応し、普通の表現には無反応です。彼らは、そうやって選んだおおげさな表現を語句通りに読もうとしたり、できるだけ極端に解釈しようとしたりします。彼らはそうすることがやめられないのです。

 引用されている聖句は常識的かつ普通のことを述べています。たとえば、救われる人はあらかじめ定められたと聖書が述べるとき、それは救い自体が定められていたことを述べているにすぎません。これは、あなたが明日川で釣りをすることを決めたというのと同じです。川で釣るのは魚でしょう。フナを釣ると決めているかもしれません。小さいフナではなく大きなフナを持って帰るつもりかもしれません。しかし、川にいるどのフナを釣るかまで決めているでしょうか。それは川で魚を釣ってみてはじめて判明することです。釣り上げてみて、それを確認し、大きなフナなら持ち帰り、あとは川に戻すでしょう。これが普通の考え方というものです。ところが、彼らと議論をすると、彼らはこういう考え方を一切受け付けないということが判明します。彼らがそれを受け入れないのは、受け入れることができないからです。受け入れることができないのは、それが普通だからです。彼らは普通ということには我慢できないのです。

 いま私は釣りのたとえを話しましたが、聖書はこれを漁とオリーブの枝の挿し木のたとえにして話しています。私はそれを引用しますが、返ってくるのは徹底した拒絶反応です。



マタイ 13:47-50

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
「また,天の王国は,海に下ろされてあらゆる種類の[魚]を寄せ集める引き網のようです。それがいっぱいになったとき,人々は浜辺にたぐり上げ,腰を下ろして,良いものを器に集め,ふさわしくないものは投げ捨てました。事物の体制の終結のときにもそのようになるでしょう。み使いたちは出かけて行って,義人の中から邪悪な者をより分け,彼らを火の燃える炉にほうり込むのです。そこで[彼らは]泣き悲しんだり歯ぎしりしたりするでしょう。

ローマ 11:17-24

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
しかしながら,枝のうちのあるものが折り取られ,他方あなたが,野生のオリーブでありながらその[枝]に交じって接ぎ木され,そのオリーブの肥えた根にあずかる者となっていても,それらの枝に対して勝ち誇ってはなりません。しかし,たとえそれらに対して勝ち誇るとしても,あなたが根を支えているのではなく,根があなたを[支えている]のです。ここであなたは言うでしょう,「わたしが接ぎ木されるために枝は折り取られたのだ」と。そのとおりです! 彼らは信仰の欠如のゆえに折り取られ,一方あなたは信仰によって立っているのです。高ぶった考えを抱かず,むしろ恐れの気持ちでいなさい。神が本来の枝を惜しまなかったのであれば,あなたを惜しまれることもないからです。それゆえ,神のご親切と厳しさとを見なさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあります。一方あなたに対しては神のご親切があります。ただし,あなたがそのご親切のうちにとどまっていればのことです。そうでないと,あなたも切り落とされることになります。また彼らも,信仰の欠如のうちにとどまっていなければ,接ぎ木されることになるのです。神は彼らを再び接ぎ木することができるからです。というのは,あなたが本来野生のオリーブの木から切り取られ,自然に反して園のオリーブの木に接ぎ木されたのであれば,まして,本来それに属するこれらのものは自らのオリーブの木に接ぎ木されるはずだからです。



 聖書の救いには、「現在の救い」と「将来の救い」という概念があります。「現在の救い」の特徴となっているのは「とりあえず救ってみよう」という考え方です。とりあえずキリスト教徒にしてみて様子を見、その人がきちんと悔い改めて正しい生き方をするならよし、そうでないならその人は棄ててしまおう、という考え方です。「将来の救い」は見込みにすぎず、確実ではありません。聖書にこういう考えが示されていることは、彼らにとっては完全に受け入れられないことです。そして、普通の感覚を持っている人にとっては驚くべきことが起こります。彼らは普通ということに対して闘争を挑み始めるのです。そして引き下がりません。自分は正しいということを確信しきっていて譲ることができないのです。

 キリスト教の歴史を振り返ると、キリスト教会は成立後100年もたったころにはこの種の精神構造を持った人たちによって占領された状態になってしまったことに気づかされます。彼らは普通の精神構造を持った人たちに闘争を挑むことがやめられないので、普通の人が駆逐されてしまうのです。その後、キリスト教会内には普通の考え方ではありえない聖書解釈が氾濫し、それらが正しい教義として採用されるようになりました。

 そして現代では、こうして入念に作り上げられた壮大な虚構を命がけで守っている人たちがいます。実際、現代のキリスト教はそういった人たちによって支えられています。そして彼らは、たとえば私のことを「悪」であると認識します。エホバの証人という宗教も「悪」と認識します。彼らの認識は、あの人たちは間違っているとか、おかしいとか、そういう普通のレベルにはとどまらないのです。



◇ 「平気でうそをつく人たち」, M・スコット・ペック (表記修正)

 私が邪悪と呼んでいる人たちの最も特徴的な行動としてあげられるのが……他人に罪を転嫁することである。自分は非難の対象外だと考えている彼らは、だれであろうと自分に近づいてくる人間を激しく攻撃する。……自分の悪を否定しなければならないのであるから、他人を悪と見なさざるをえないのである。
 ……邪悪な人間は、自分自身の欠陥を直視するかわりに他人を攻撃する。……問題は、彼らがその悪の所在を見誤っていることである。自分自身のなかにある病を破壊すべきであるにもかかわらず、彼らは他人を破壊しようとする。……そのため彼らは、通常は正義の名のもとに、生命を憎み、生命を破壊することに専念する。
 ……彼らは、自己批判や自責の念といったものに耐えることができないし、また、耐えようともしない。……邪悪性の基本的要素となっているのは、罪悪や不完全性にたいする意識の欠如ではなく、そうした意識に耐えようとしないことである。



 ついに私が見抜くようになったところでは、彼らには隠された本音があります。自分は裁きの対象外だ、自分は絶対に救われると信じたいのです。もしかすると自分は救われないのではないか、とか、救われない可能性もあるのだろう、という考えに彼らは耐えることができませんし、耐えようともしません。彼らは自分の罪深さにではなく、自分の罪深さを思い起こさせるあらゆるものに対して闘争を挑みます。彼らは表面的にはキリスト教の愛の教えを説いていますが、そうするのは自分の不遜な渇望を満たすためであり、その本性はどこまでも自己中心的です。

 しかし今はどうでしょうか。今は合理主義の時代です。非合理な考え方は受け入れられません。攻撃性ということに対しても視線は厳しくなっています。しかも、20世紀の終わりごろから精神医学の目覚ましい進展が生じた結果、今やこの種の人たちは「脳の機能に障害がある」などと診断されるようになっています。先に引用した内村鑑三氏も、彼の時代には偉大な思想家と評価されましたが、今となってはあやしいものです。

 いまやキリスト教は、この極端さと攻撃性ということをなんとかしなければならない状況に直面していると思います。そうすると、まず第一に諸教会が取り組まなければならないのは、救いの確実性を信じて疑わない人たちへの治療、ということではないでしょうか。