エホバの証人の聖書

ローマ 7:24

新世界訳聖書(エホバの証人)「わたしは実に惨めな人間です! こうして死につつある体から、だれがわたしを救い出してくれるでしょうか。」

 これは、北海道広島会衆元長老の金沢司氏による、通称「金沢文庫」の中の「欠陥翻訳−新世界訳」という本の中で、新世界訳聖書の欠陥のうちの「傑作」として挙げられたものです。
 列王第一 7:6-8のところでも述べていますが、この本の著者は「わざと勘違い路線」を邁進しており、ここでもその傾向が見られます。

 彼はここで、新世界訳聖書の脚注を攻撃しています。

『「実に惨めな」。字義,「[皮膚の]たこを忍ぶ」。』

 では、この脚注に対して、彼がなんと述べているかを見てみましょう。

『最後に傑作を一つ。
《ローマ 7:24》パウロはタコを忍ぶ人
この「タコを忍ぶ人」は新世界資料付き聖書の脚注の中に登場する。本文の方は次のようになっている。
24「実に惨めな」。字義、「[皮膚の]たこを忍ぶ」。
「わたしは実に惨めな人間です!こうして死につつある体から、だれがわたしを救い出してくれるでしょうか」
「Miserable man that I am ! Who will rescue me from the body undergoing this death ?」
パウロはこの24節の前の方で、自分の中に働く二つの律法、すなわち思いの律法と罪の律法について述べている。
内面では神の律法を喜んでいるのに、肉体は罪の律法に支配されている。戦いは罪の力の勝利に終り、結果として罪のとりこにされてしまう。パウロが「実に惨めである」といって嘆いているのはこうした状態のことである。
参照資料付き聖書の脚注によれば、この「実に惨めな」の字義が「[皮膚の]たこを忍ぶ」であると説明されている。体のどこにたこができていたのかは分からないが、パウロは「たこを忍ぶ人」であったわけである。よほどタコに悩まされていたのに違いない。
さて、文脈から明らかなように、パウロがここで論じているのは、肉と霊の戦い、そして罪の力からのキリストによる救いという人間の本性、およびキリスト教の本質に関するきわめて重要な側面である。「わたしは実に惨めな人間です!」と記されてはいるが、この記述はパウロ個人に関してというよりは、むしろ人類一般の抱えている状況について述べられたものと解釈されている。人はだれもみな罪の力に悩まされるからである。
したがって、いくら字義とはいってもこういう論議の中に、皮膚のたこのような個人的な問題が出てくるとはちょっと考えにくい。というのは、すべての人が「たこ」に悩まされているとは限らないからである。
[たこを忍ぶ]と訳されている英語は[callus-bearing]である。[callus]をたこ、[bearing]をがまんする、辛抱する、忍耐すると取ると、[callus-bearing]で「たこを忍ぶ」になる。しかし、[callus]を皮膚硬結、[bearing]を生じる、抱えると考えれば、「皮膚硬結を抱える、あるいは持っている」と訳すこともできる、がやはり、たいして意味は変わらない。
かなり無理をして、「皮膚硬結」を老化現象によるものと仮定すると「人はみな年を取ると皮膚がこわばりカサカサになってゆく」という意味に考えられないこともない。それだと「実に惨めな状態です!」と嘆くこととも合うかもしれないが。』
(一部修正)

 新世界訳聖書の脚注は、当然ながらギリシャ語についてのものなのですが、彼はここで、なぜか英語の話をしています。

 ここで、「実に惨めな」と訳されているギリシャ語を調べてみると、「忍ぶ」を意味する語と「たこ」を意味するギリシャ語が結合していることがわかります。四字熟語ならぬ二字熟語と言えばわかりやすいでしょうか。ギリシャ語ではよくある形です。
 この「たこ」の部分をギリシャ語の辞書で調べてみると、「たこ」もしくは「皮膚硬結」と定義されています。

 「実に惨めな」と訳されているギリシャ語の原義が「たこを忍ぶ」であることを知る時、パウロの用いたこの表現は読み手にとって描出的になり、迫力が増します。彼のような推論はいただけませんが。


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