新世界訳
エホバの証人の聖書

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ローマ 9:5

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
父祖たちは彼らに属し,キリストも,肉によれば,彼らから[出た]のです。すべてのものの上におられるが永久にほめたたえられますように。アーメン。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです。キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン。

◇ 新改訳聖書 [第三版] ◇ (ファンダメンタル)
父祖たちも彼らのものです。またキリストも、人としては彼らから出られたのです。このキリストは万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神です。アーメン。

◇ 共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
彼らはまた、偉大な先祖を持ち、メシアも人間としては彼らから出られたのです。万物を支配しておられるは、永遠にほめたたえられますように。アーメン。

◇ 口語訳聖書 ◇ (プロテスタント)
また父祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストもまた彼らから出られたのである。万物の上にいますは、永遠にほむべきかな、アァメン。



 ローマ 9:5を様々な聖書で読み比べてみると、キリストを神として称賛するものと、そうでないものとがあることに気づかされます。これはどうしてでしょうか。



◇ フランシスコ会聖書研究所訳聖書 [2011年版], ローマ 9:5 脚注 (表記修正)

 本節後半は、前半との関連上、キリストの代わりに神に対する栄唱と解し、「万物の上におられる神は、永遠にたたえられますように。アーメン」と訳すことが、テキストの区切り方によっては可能である。パウロがそのすべての書簡のいかなる箇所においても、キリストを直接に神とは呼んでいないので、ローマ 1:25, コリント第二 11:31のように、神に対する栄唱と解するほうがよいと考える学者も多い。



◇ 「新共同訳新約聖書略解」, 日本基督教団出版局 (表記修正)

 頌栄は11:36の終結部分と呼応し、歴史の支配者である神に対する賛美。「キリスト賛歌」と称し、《キリストは、……神》とキリストを主語とするこの訳は無理がある(口語訳参照)。



ローマ 1:25

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
すなわちそれは,神の真理を偽りと換え,創造した方より創造物をあがめてそれに神聖な奉仕をささげた者たちです。[創造した]方こそ永久にほめたたえられるのです。アーメン。

コリント第二 11:31

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
主イエスの神また父,永久に賛美されるべきその方こそ,わたしが偽りを語っていないことを知っておられます。

ローマ 11:36

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
すべてのものは[神]から,また[神]により,そして[神]のためにあるからです。[神]に栄光が永久にありますように。アーメン。



 関係する聖句を見る限り、この句はキリストではなくエホバについて述べている可能性が高そうです。

 とはいえ、ことはそれほど簡単ではありません。聖書には同じような問題がいくつもあって判断が分かれるからです。
 まずは、テモテ第一 6:14-16です。



テモテ第一 6:14-16

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
わたしたちの主イエス・キリストの顕現の時まで,汚点のない,またとがめられるところのない仕方でおきてを守り行ないなさい。その[顕現]は,幸福な唯一の大能者がその定めの時に示されるのです。[その方は]王として支配する者たちの王,主として支配する者たちの主であり,ただひとり不滅性を持ち,近づき難い光の中に住み,人はだれも見たことがなく,また見ることのできない方です。この方に永遠の誉れと偉力とがありますように。アーメン。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
わたしたちの主イエス・キリストが再び来られるときまで、おちどなく、非難されないように、この掟を守りなさい。は、定められた時にキリストを現してくださいます。は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です。この神に誉れと永遠の支配がありますように、アーメン。

◇ 新改訳聖書 [第三版] ◇ (ファンダメンタル)
たちの主イエス・キリストの現れの時まで、あなたは命令を守り、傷のない、非難されるところのない者でありなさい。その現れを、はご自分の良しとする時に示してくださいます。は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしえの主権はのものです。アーメン。

◇ 共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
わたしたちの主イエスス・キリストがお現われになるときまで、落ち度なく非難されないように、この掟を守りなさい。は、定められた時にキリストを現わしてくださいます。神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の中の王、主の中の主、唯一不死の存在、近寄りがたい光の中に住まわれるかた、だれも見たことがなく、見ることのできないかたです。この神に誉れと永遠の支配がありますように。アーメン。

◇ 口語訳聖書 ◇ (プロテスタント)
わたしたちの主イエス・キリストの出現まで、その戒めを汚すことがなく、また、それを非難のないように守りなさい。時がくれば、祝福に満ちた、ただひとりの力あるかた、もろもろの王の王、もろもろの主の主が、キリストを出現させて下さるであろう。はただひとり不死を保ち、近づきがたい光の中に住み、人間の中でだれも見た者がなく、見ることもできないかたである。ほまれと永遠の支配とが、にあるように、アァメン。



 「この方」は神ではなくキリストを指しているかもしれません。これを「この方」と訳出すればその意味は中立的になりますが、これを「神」と断定している訳文が見られます。

 続いて、ヘブライ 13:21です。



ヘブライ 13:21

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
あなた方にあらゆる良いものを備えてそのご意志を行なわせ,み前にあって大いに喜びとなる事柄を,イエス・キリストを通してわたしたちの中で行なってくださいますように。この方に栄光が限りなく永久にありますように。アーメン。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン。

◇ 新改訳聖書 [2017年版] ◇ (ファンダメンタル)
あらゆる良いものをもって、あなたがたを整え、みこころを行わせてくださいますように。また、御前でみこころにかなうことを、イエス・キリストを通して、私たちのうちに行ってくださいますように。栄光が世々限りなくイエス・キリストにありますように。アーメン。

◇ 新改訳聖書 [第三版] ◇ (ファンダメンタル)
イエス・キリストにより、御前でみこころにかなうことを私たちのうちに行い、あなたがたがみこころを行うことができるために、すべての良いことについて、あなたがたを完全な者としてくださいますように。どうか、キリストに栄光が世々限りなくありますように。アーメン。

◇ 共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
御心にかなうことをイエスス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行なうために、すべての良いものをあなたたちに備えてくださいますように。栄光が世々限りなくキリストにありますように。アーメン。

◇ 口語訳聖書 ◇ (プロテスタント)
イエス・キリストによって、みこころにかなうことをわたしたちにして下さり、あなたがたが御旨を行うために、すべての良きものを備えて下さるようにこい願う。栄光が、世々限りなくにあるように、アァメン。



 続いて、ペテロ第一 4:11です。



ペテロ第一 4:11

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
語る者は,神の神聖な宣言を[告げる]かのように[語りなさい]。奉仕する者は,神が備えてくださる力に頼る者として[奉仕しなさい]。こうして,すべてのことにおいて,イエス・キリストを通して神に栄光が帰せられるためです。栄光と偉力は限りなく永久に[神]のものです。アーメン。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。栄光と力とが、世々限りなくにありますように、アーメン。

◇ 新改訳聖書 [2017年版] ◇ (ファンダメンタル)
語るのであれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕するのであれば、神が備えてくださる力によって、ふさわしく奉仕しなさい。すべてにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。この方に栄光と力が世々限りなくありますように。アーメン。

◇ 新改訳聖書 [第三版] ◇ (ファンダメンタル)
語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン。

◇ 共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
話をする立場の人は、神の言葉にふさわしく話をしなさい。奉仕する立場の人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエスス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。栄光と力とが、世々限りなくのものでありますように。アーメン。

◇ 口語訳聖書 ◇ (プロテスタント)
語る者は、神の御言を語る者にふさわしく語り、奉仕する者は、神から賜わる力による者にふさわしく奉仕すべきである。それは、すべてのことにおいてイエス・キリストによって、神があがめられるためである。栄光と力とが世々限りなく、にあるように、アァメン。



 今見た関連聖句のうち、テモテ第一 6:14-16では多くの聖書が「神」の文意を採用していますが、エホバの証人はそれに反対しています。



◇ 「ものみの塔」誌2005年9月1日号, ものみの塔聖書冊子協会

読者からの質問 ― 「ただひとり不滅性を持ち,……人はだれも見たことがなく,また見ることのできない方」といった表現は,エホバ神ではなくイエスについて述べたものであると言える,どんな根拠がありますか。

 使徒パウロはこう書きました。「その顕現は,幸福な唯一の大能者がその定めの時に示されるのです。その方は王として支配する者たちの王,主として支配する者たちの主であり,ただひとり不滅性を持ち,近づき難い光の中に住み,人はだれも見たことがなく,また見ることのできない方です」。―テモテ第一 6:15,16。
 聖書注解者たちは一般にこう推論します。『「ただひとり不滅性を持ち」,「唯一の大能者」で,「人はだれも見たことがなく,また見ることのできない方」といった表現が,全能者以外のだれかを指すことなどあり得るだろうか』。確かに,そのような言葉はエホバを表わすのに用いることができます。しかし文脈を見ると,パウロはテモテ第一 6章15,16節で明確にイエスについて述べていたことが分かります。
 14節でパウロは,「わたしたちの主イエス・キリストの顕現」に言及しています。(テモテ第一 6:14)ですから15節で,「その顕現は,幸福な唯一の大能者がその定めの時に示されるのです」と書いた時,パウロはエホバ神ではなくイエスの顕現について述べていました。では,「唯一の大能者」とはだれでしょうか。パウロがここで述べている大能者はイエスである,と結論するのが妥当でしょう。なぜそう言えるでしょうか。文脈から,パウロがイエスを人間の支配者と比較していることが明らかだからです。イエスはパウロが書いたとおり,「王として支配する者たち[人間]の王,主として支配する者たち[人間]の主」です。 それら人間たちと比較すると,イエスは「唯一の大能者」なのです。イエスには「支配権と尊厳と王国とが」与えられました。それは,「もろもろの民,国たみ,もろもろの言語の者が皆これに仕えるため」でした。(ダニエル 7:14)そのような大能者であると主張できる人間の権力者は一人もいません。
 「ただひとり不滅性を持ち」という表現はどうでしょうか。この場合も,イエスと人間の王たちが比較されています。地上のいかなる支配者も不滅性を授けられたと主張することはできませんが,イエスはできます。パウロはこう書きました。「死人の中からよみがえらされた今,キリストはもはや死なないということを,わたしたちは知っているからです。死はもはや彼に対して主人ではありません」。(ローマ 6:9)ですからイエスは,不滅性という賜物を受けた者として聖書の中で最初に描写されている方です。実のところ,パウロが書いた時,イエスは滅びることのない命を与えられていた唯一の方でした。
 もう一つ留意すべき点として,もしパウロが,エホバ神がただひとり不滅性を持たれると述べていたなら,間違っていたことになります。パウロがその言葉を書いた時には,イエスも不滅だったからです。しかしパウロは,地上の支配者たちと比較して,イエスはただひとり不滅であると言うことができました。
 さらに,復活して天に昇られたイエスについて,まさに「人はだれも見たことがなく,また見ることのできない方」と描写することができます。もちろん,イエスの油そそがれた弟子たちは,死んで霊の被造物として天に復活させられた後にイエスを見ます。(ヨハネ 17:24)しかし,だれであれ地上にいる人が,栄光を受けた状態にあるイエスを見ることはありません。ですから,イエスの復活と昇天以来,「人はだれも」実際にイエスを見たことがないというのは真実です。
 確かに,一見すると,テモテ第一 6章15,16節の描写は神に当てはまるように思えるかもしれません。しかし,パウロの言葉の文脈は,他の聖句の裏付けと相まって,パウロがイエスについて述べていたことを示しています。



 エホバの証人は文脈を見て判断しているようです。
 一方で、この文書の主題であるローマ 9:5では、やはり文脈が参照された結果、異なる認識が示されています。



◇ 「聖書から論じる」, 『三位一体』の項, ものみの塔聖書冊子協会

 ある箇所が文法的には二通り以上に翻訳できる場合,どれが正しい訳ですか。それは聖書のほかの箇所と一致した訳です。もし,聖書のほかの部分を無視し,自分の好きな訳の特定の節を中心にして自分の信条を組み立てるなら,その人の信じている事柄は実際には神の言葉ではなくて,自分自身の考えか,もしかすると別の不完全な人間の考えを表わすものとなります。
 この節は,キリストが「万物の上に」,または「すべてのものの上に」おられ,またそれゆえにキリストは神であると述べているのですか。それとも,異なった別個の存在としての神とキリストとに言及し,神が「すべてのもの」の上におられると述べているのですか。ローマ 9章5節のどちらの訳し方がローマ 15章5,6節と一致しますか。この句はまず神とキリスト・イエスとを区別し,次いで,「わたしたちの主イエス・キリストの神また父の栄光をたたえる」ことを読者に勧めています。(また,コリント第二 1:3とエフェソス 1:3も参照。)ローマ 9章のつづきの部分を考慮してみてください。6-13節までの箇所は,神の目的が肉による相続ではなく,神のご意志に基づいて成し遂げられることを示しています。14-18節は,出エジプト記 9章16節に記されているファラオに対する神の音信に言及し,神が万物の上に,つまりすべてのものの上におられることを強調しています。19-24節では,陶器師と陶器師が作る粘土の器を用いた類推によって神の優位性がさらに例証されています。ですから,5節の「すべてのものの上におられる神が永久にほめたたえられますように。アーメン」という表現は何と適切なのでしょう。―新世。
 「新約聖書神学新国際辞典」はこう述べています。「ローマ 9:5は論議を呼んでいる。……この表現はキリストを指していると見るのは容易であり,また言語学的にも全く可能である。そう読むとすれば,この節は,『万物の上におられる神であるキリストは,永久にほめたたえられるように。アーメン』ということになるであろう。それでも,キリストは神と完全に同等であるということにはならず,ただ神の性質を備えた存在として描写されているにすぎないということになろう。というのは,テオスという語には冠詞が付されていないからである。……この言葉は神に対する頌栄であるというほうがずっと妥当な説明のようである」―(ミシガン州グランドラピッズ,1976年),ドイツ語からの英訳,第2巻,80ページ。



 これらの聖句については、よく文脈を考慮してより妥当性の高い文意を選んでいくのが適正であるということのようです。

 多くの聖書翻訳では三位一体論ということが制約になると思います。ほとんどの教会は、キリスト教の正しい教えであるとされる三位一体の神学を支持しています。三位一体論はキリストが神であるということを教えていますから、その教えに調和した訳文を載せた聖書は教会から歓迎されます。しかし、学問的な見地からすれば、諸教会に見られるこの種の傾向はよくないということになります。
 一方のエホバの証人は、三位一体論を否定する立場にありながら、あまりそのことにはこだわらず、文脈に合わせた文意の採用ということに専念したようです。エホバの証人は自分たちにとって都合の良いように自分たちの聖書を改造していると主張する人たちがいますが、総合的にみると、これはそういうことではないようです。






 2018年に日本聖書協会から新しく出版された聖書協会共同訳聖書では、訳文が新世界訳聖書に近くなりました。「万物の上におられる方」はキリストであるとしていますが、キリストを神とすることは避けています。
 2017年に出版された新改訳聖書の改訂版、2019年に出版された新世界訳聖書の改訂版とあわせて掲載します。



ローマ 9:5

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです。キリストは万物の上におられる方。は永遠にほめたたえられる方、アーメン。

◇ 新改訳聖書 [2017年版] ◇ (ファンダメンタル)
父祖たちも彼らのものです。キリストも、肉によれば彼らから出ました。キリストは万物の上にあり、とこしえにほむべき神です。アーメン。

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
また,彼らには父祖たちがいて,その家系からキリストが人間として生まれました。全てのものを治めているが永遠に賛美されますように。アーメン。



 聖書協会共同訳聖書の訳文についてはこのように解説されています。



◇ 「ここが変わった! 「聖書協会共同訳」」, 日本キリスト教団出版局 (表記等修正)

 聖書協会共同訳聖書は、前半部分がキリストに関する言説で、後半部分が神に関する言説というふうに、キリストと神とについて二文に分けて述べられており……キリストの神性を述べていません。
 ……私たちは三位一体という教会の教理 ― パウロを含めた新約聖書記者はこの教理を知らなかった ― によって安易に一方の訳を選ぶという時代錯誤的な判断に安んじるのではなく、むしろ原始教会が〈キリストとは誰で、神とキリストとがいかなる関係にあったか〉という問題を模索した様子に思いを馳せるなら、二千年の時を超えて信仰の先達とともに「永遠にほめたたえられる神」を礼拝する豊かな機会を得ることになるでしょう。



 ところで、新世界訳聖書の改訂版が「肉」を「人間」と訳出していることが気になる方もおられると思います。
 新世界訳聖書の改訂版は、聖書における語の対象にしたがって訳語を決定しています。聖書が「肉」という語を人間を指して用いている場合は「人間」と訳すという具合です。
 「彼ら」を「その家系」と訳していることにも気づかれるでしょう。聖書翻訳には、代名詞にはその実体を充ててもよいというルールがあります。
 聖書では、「上にいる」という表現は「支配している」という意味も伴います。
 これらについては、この文書の冒頭で取り上げたいくつかの聖書に見られるように、すでに前例があります。

 新世界訳聖書は、聖書翻訳のルールを多彩に使いこなし、これまでの聖書に対して画期的な、非常に読みやすい聖書を実現しています。
 こういった方針については「新世界訳聖書改訂日本語版の特徴」のほうに総合的な解説がありますのでご覧ください。






 「フリーマインドジャーナル」1994年5-6月号に掲載された「新世界訳聖書における改竄」は、ファンダメンタルな立場から、この聖句の問題をこのように指摘しています。



◇ 'Misleading Revisions in the New World Translation' Andy Bjorklund, Free Minds Journal May/Jun 1994

 「万物の上におられる神であるキリストは永遠にたたえられるように!」が「キリストも、肉によれば、彼らから[出た]のです。すべてのものの上におられる神が永久にほめたたえられますように。」に変えられてしまった。キリストが神であることを示す宣言が、改竄された文によって覆い隠されている。