エホバの証人の聖書

コリント第一 15:29

新世界訳聖書(エホバの証人)「そうでなければ、死んだ者[となる]ためにバプテスマを受けている者たちは、何をしていることになりますか。死人のよみがえらされることが決してないのであれば、なぜ彼らはそのような者[となる]ためにバプテスマを受けたりするのですか。」

新共同訳聖書(カトリックとプロテスタント)「そうでなければ、死者のために洗礼を受ける人たちは、何をしようとするのか。死者が決して復活しないのなら、なぜ死者のために洗礼など受けるのですか。」


 新共同訳聖書で「死者のために洗礼を受ける」となっているところが、新世界訳聖書では「死んだ者[となる]ためにバプテスマを受けている」となっています。

 このことについては「聖書に対する洞察」がこのように説明しています。

『リデルとスコットの「希英辞典」は,コリント第一 15章29節で属格の語と共に使われているギリシャ語の前置詞ヒュペルの定義として,「……のために」,「……に代わって」,「……の理由のために」などを含めています。(H・ジョーンズ改訂,オックスフォード,1968年,1857ページ)「……の理由のために」という表現は,文脈によっては「……の目的のために」と同じ意味になります。すでに1728年に,ヤーコプ・エルスナーは,幾人かのギリシャの著述家の文献の中から,属格を取るヒュペルが最後の意味,すなわち目的を表わす意味になる事例に注目し,コリント第一 15章29節のその構文にもそうした意味があることを示しました。(「新契約書に関する聖なる観察」,ユトレヒト,第2巻,127-131ページ)新世界訳はそのことと調和して,その節のヒュペルを「……の目的のために」という意味に訳しています。 ……これはローマ 6章3節の次の言葉とも調和します。「あなた方は知らないのですか。キリスト・イエスへのバプテスマを受けたわたしたちすべては,その死へのバプテスマを受けたのです」。』

 これは、文法的にはどちらの意味にも読めるということのようです。しかし、どちらの意味を取るかは大きな問題です。これは単なる文法の問題ではありません。
 もしも、聖書時代の初期クリスチャンが「死者のために洗礼を受ける」ことを行っていたとするなら、それはどういうことかを考えなければなりません。そして、それに意義が見いだせるなら、当然、現代のクリスチャンもそれに倣うようでなければなりません。
 実際にそういうことを考えた教派があります。末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教)がそうです。彼らは、死んだ人のためにバプテスマを受ければ、その人も救われると考え、特に自分の祖先のためにバプテスマを受けます。
 「アメリカ生まれのキリスト教」という本はこう解説しています。

(モルモン教の創始者)ジョセフが教えを説き始めたのは、19世紀であるが……彼が説く以前に死んだ者達、地理的、政治的、およびその他の理由によって、教えに接する事の出来なかった者達……が救われる方法として、モルモン教では、死者のためのバプテスマを説く。その理由としては、神は、人間に対して常に公平であるのに、生前中(ママ)に神の福音に接する機会がなかった者は、不公平である。それゆえ、当然何らかの形で、死者に対して、教えを聞き悔い改める機会を与えるべきとの見解から行われるのが、死者のためのバプテスマである。
……モルモン教の信者になった者は、まず、自分達の先祖の中で、正しい福音に接する機会がなかった者達を出来る限り捜し出さなければならない。この仕事は、信者の義務であり、子孫としての当然の責任であると明示している。
……信者が故人の代理人として……死者のためにバプテスマを行うと、霊界において迷っている(復活の可能性のなかった)故人は解き放たれる。そして、もし死者がその代理のバプテスマを受け入れたら、霊界において福音を聞く機会が与えられる。だが、死者といえども、自由意志があるので、福音を拒否することもあり得る。その場合には、地上において行われた死者のためのバプテスマは、役に立たないと言えよう。
……このために、教会では、各信者の系図作成を大いに奨励している。ユタ州の本部では、ソルトレークに系図図書館を持ち、信者の系図作成に援助を与えているが、1965年、ソルトレークから20マイル離れたグラナイト山に記録保管庫を作った。……このグラナイト山の保管庫は、系図保管に関する限り、世界一の施設と言われている。』
(一部追記・表記修正)

 末日聖徒イエス・キリスト教会のこの立場に対する評価は控えたいと思います。特定教派と議論することが目的ではありませんので。

フランシスコ会聖書研究所訳聖書(カトリック)は、脚注で、この聖句が修辞疑問文にも読めることを指摘し、そう読んだ場合の訳文を挙げています。

『さもなければ、洗礼を受ける人々はなんのためにそうするのか。死者のためだろうか。なぜ洗礼を受けるのか。死者のためか。復活することのない人々に加わろうというのか。』

 修辞疑問とは、簡単に説明すると、相手にちょっと考えさせてから「いいえ、違います」と言わせる質問です。修辞疑問の特徴となっているのは、疑問文を肯定文に直すと、間違った結論が導かれることです。この質問の場合、間違った結論とは、「洗礼を受ける人々は死者のためにそうする。死者のため、復活することのない人々に加わろうとして。」です。ギリシャ語聖書には修辞疑問や、修辞疑問にも読める疑問文がいくつも見いだせます。

 この聖句にはほかにも様々な解釈があって面白いのですが、翻訳の観点から論じるのであれば、挙げるのはこれくらいでいいでしょう。


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