新世界訳
エホバの証人の聖書

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コリント第一 15:29

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
そうでなければ,死んだ者[となる]ためにバプテスマを受けている者たちは,何をしていることになりますか。死人のよみがえらされることが決してないのであれば,なぜ彼らはそのような者[となる]ためにバプテスマを受けたりするのですか。

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
そうでなければ、死者のために洗礼を受ける人たちは、何をしているのでしょうか。死者が決して復活しないのなら、なぜ死者のために洗礼など受けるのですか。

◇ 新改訳聖書 [2017年版] ◇ (ファンダメンタル)
そうでなかったら、死者のためにバプテスマを受ける人たちは、何をしようとしているのですか。死者が決してよみがえらないのなら、その人たちは、なぜ死者のためにバプテスマを受けるのですか。



 ここは「死者のために」が字義訳ですが、新世界訳聖書は補足をつけて「死んだ者[となる]ために」と訳出しています。
 このことについて、エホバの証人の発行する聖書辞典はこのように説明しています。



◇ 「聖書に対する洞察」, 『バプテスマ』の項, ものみの塔聖書冊子協会

『死んだ者となるための』バプテスマとは何ですか

 コリント第一 15章29節の言葉は,翻訳者によって以下のとおり様々な仕方で訳されています。「死人のためにバプテスマを受くる者は何をなすか」(欽定); 「彼らの死者に代わって」(聖ア); 「死者に代わって」(新英); 「死んだ者となるために」(新世)。
 この節については,色々な解釈が行なわれてきました。最も一般的なのは,パウロが,身代わりとして受ける水のバプテスマ,つまり死者の益のために死者の代わりとして,生きている人にバプテスマを施す習慣に言及していた,という解釈です。パウロの時代にそのような慣行があったということは証明できません。またその慣行は,『弟子たち』,つまり自ら『その言葉を心から受け入れ』て自分で「信じた」人たちがバプテスマを受けたとはっきり述べている幾つかの聖句とも調和しません。―マタ 28:19; 使徒 2:41; 8:12。
 リデルとスコットの「希英辞典」は,コリント第一 15章29節で属格の語と共に使われているギリシャ語の前置詞ヒュペルの定義として,「……のために」,「……に代わって」,「……の理由のために」などを含めています。(H・ジョーンズ改訂,オックスフォード,1968年,1857ページ)「……の理由のために」という表現は,文脈によっては「……の目的のために」と同じ意味になります。すでに1728年に,ヤーコプ・エルスナーは,幾人かのギリシャの著述家の文献の中から,属格を取るヒュペルが最後の意味,すなわち目的を表わす意味になる事例に注目し,コリント第一 15章29節のその構文にもそうした意味があることを示しました。(「新契約書に関する聖なる観察」,ユトレヒト,第2巻,127-131ページ)新世界訳はそのことと調和して,その節のヒュペルを「……の目的のために」という意味に訳しています。
 ある表現が文法上二通り以上に翻訳できる場合,正確なのは文脈と合致した訳です。文脈からすると,コリント第一 15章3,4節は,ここでおもに論じられているのが,イエス・キリストの死と復活に対する信仰であることを示しています。続く数節では,その信仰が確かな根拠に基づくものである証拠を取り上げ(5-11節),復活に対する信仰を否定することの重大な結果(12-19節),またキリストの復活が他の人々も死からよみがえらされることの保証となっているという事実(20-23節),さらには,そのすべてがいかにして理知ある全創造物と神との合一に向かって作用するかを論じています(24-28節)。29節は明らかにこの論議の肝要な部分です。しかし,29節で問題になっているのはだれの復活でしょうか。そこで言及されているバプテスマを受ける人々の復活ですか。それとも,そのバプテスマが行なわれる前に死んだ人の復活でしょうか。続く数節は何を示していますか。30節から34節は,生きているクリスチャンの将来の命の見込みがそこで論じられていることをはっきり示しています。そして35節から58節は,その人たちが天的な命の希望を持つ忠実なクリスチャンであることを述べています。
 これはローマ 6章3節の次の言葉とも調和します。「あなた方は知らないのですか。キリスト・イエスへのバプテスマを受けたわたしたちすべては,その死へのバプテスマを受けたのです」。この聖句が明確にしているように,それは,クリスチャンがすでに死んだ他の人に代わって受けるようなバプテスマではありません。むしろそれは,本人自身の将来に影響を及ぼす事柄です。
 では,どのような意味で,それらのクリスチャンは,「死んだ者となるためにバプテスマを受け(た)」,もしくは「彼の死へのバプテスマを受けた」のでしょうか。彼らは,キリストの場合と同様に,忠誠を保つ者としての死に至る生き方,またキリストの復活と同様の不滅の霊の命への復活に関する希望を伴う生き方をするために浸礼を施されました。(ロマ 6:4,5; フィリ 3:10,11)これは,水の浸礼のように,すぐに終わるバプテスマではありませんでした。イエスは水の浸礼を受けて3年以上たってから,ご自分の場合にはまだ完了しておらず,弟子たちの場合は将来経験することになっていたバプテスマについて語られました。(マル 10:35-40)このバプテスマが天的な命への復活に至ることからすれば,それは,神の霊がその希望を生み出すような仕方で当人の上に働く時に始まり,当人が死ぬ時ではなく,復活によって不滅の霊の命の見込みが実現する時に終わるに違いありません。―コリ二 1:21,22; コリ一 6:14。



 ここのところは「死んだ者となるために」と読むことが可能のようです。エホバの証人は、そう読むことは文脈と調和すると説明しています。

 とはいえ、私が気になったのは、この記述は例外を述ベているようにも見えるということです。この文には「あなたがたは」とか「わたしたちが」という言い方がないため、誰について書いているとも読めます。おかしな行動をする信者に言及していたという可能性もあります。
 これについてはっきりとした結論は出せないと私は思いました。

 この言葉がどのような考え方や行動を指しているかについては、いろいろと可能性があり、挙げていくときりがないように思います。
 一例だけ挙げてみましょう。クリスチャンになる人の中には、バプテスマには罪を清める魔術的な力があると考える人もいました。そのような人たちの間では、信者になってもすぐにバプテスマを受けず、死に際に受けることが横行した可能性があります。というのも、バプテスマは生涯に一度しか受けることができないからです。いますぐバプテスマを受けてしまうと、これまで犯した罪から洗われて清くなる一方で、これから犯す罪はもう清めることができないという状況が生じます。だったら、バプテスマの時を先延ばしにして、死に際に受けることにすればよいのではないでしょうか。そうすれば、復活も確実になるでしょう。






 ところでですが、この世の中には、聖書のこの言葉を額面通りに受け取り、実践するようになった人たちがいます。末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教)の人々です。



◇ 「アメリカ生まれのキリスト教」, 生駒孝彰 (表記修正)

 (モルモン教の創始者)ジョセフが教えを説き始めたのは、19世紀であるが……彼が説く以前に死んだ者達、地理的、政治的、およびその他の理由によって、教えに接する事の出来なかった者達……が救われる方法として、モルモン教では、死者のためのバプテスマを説く。その理由としては、神は、人間に対して常に公平であるのに、生前に神の福音に接する機会がなかった者は、不公平である。それゆえ、当然何らかの形で、死者に対して、教えを聞き悔い改める機会を与えるべきとの見解から行われるのが、死者のためのバプテスマである。
 ……モルモン教の信者になった者は、まず、自分達の先祖の中で、正しい福音に接する機会がなかった者達を出来る限り捜し出さなければならない。この仕事は、信者の義務であり、子孫としての当然の責任であると明示している。
 ……信者が故人の代理人として……死者のためにバプテスマを行うと、霊界において迷っている(復活の可能性のなかった)故人は解き放たれる。そして、もし死者がその代理のバプテスマを受け入れたら、霊界において福音を聞く機会が与えられる。だが、死者といえども、自由意志があるので、福音を拒否することもあり得る。その場合には、地上において行われた死者のためのバプテスマは、役に立たないと言えよう。
 ……このために、教会では、各信者の系図作成を大いに奨励している。ユタ州の本部では、ソルトレークに系図図書館を持ち、信者の系図作成に援助を与えているが、1965年、ソルトレークから20マイル離れたグラナイト山に記録保管庫を作った。……このグラナイト山の保管庫は、系図保管に関する限り、世界一の施設と言われている。



 私は、モルモン教の人たちを批判したいとはあまり思わないのですが、心配に思うことはいろいろとあります。
 どうもモルモン教の人たちは、バプテスマは「秘跡」の類である(魔術的効力がある)と思っているみたいです。さらに、モルモン教には聖書に外典的な付け足しをする傾向が強くあって、ここでもその傾向が表れていると思います。