新世界訳
エホバの証人の聖書

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フィリピ 1:23

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
わたしはこれら二つのものに迫られています。しかし,わたしがほんとうに願っているのは,解き放たれること,そしてキリストと共になることです。言うまでもなく,このほうがはるかに良いからです。

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
私はその2つの間で揺れています。本当に願っているのは,解放されてキリストと共になることです。間違いなく,そうなる方がはるかによいからです。

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
この二つのことの間で、板挟みの状態です。私の切なる願いは、世を去って、キリスト共にいることであり、実は、この方がはるかに望ましい。

◇ 新改訳聖書 [2017年版] ◇ (ファンダメンタル)
私は、その二つのことの間で板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。そのほうが、はるかに望ましいのです。



 ここは「世を去って」の訳が一般的ですが、新世界訳聖書は異なる訳し方をしています。
 この訳について、参照資料付き新世界訳聖書の「付録」はこのように説明しています。



◇ 参照資料付き新世界訳聖書, 付録, 5ニ, 「解き放たれて,キリストと共になる」

フィリピ 1:23 ―「解き放たれること」。ギ語,アナリューサイ; ラ語,ディッソルウィー

 動詞アナリューサイはここでは動詞的名詞として用いられています。この動詞はクリスチャン・ギリシャ語聖書の中でもう一度だけ,ルカ 12:36に出て来ます。そこでは,キリストが戻って来られることについてこれが用いられています。これと関連のある名詞アナリュシスはテモテ第二 4:6に一度だけ出て来ます。その箇所で使徒は,『わたしの解き放たれる定めの時は目前に迫っています』と述べています。ルカ 12:36で,わたしたちはその動詞を「帰って来る」と訳出しましたが,それは,僕たちの主人が婚宴から離れて来る,婚宴から出発して来る,つまり祝宴を終えて来ることをその語が表わしているからです。しかし,フィリピ 1:23では,その動詞を「帰って来ること」あるいは「出発して来ること」とではなく,「解き放たれること」と訳出しました。その理由は,この言葉が次の二つの考えを伝えているように思えるからです。すなわち,キリストが戻られる際,使徒自身が解き放たれてキリストと共になること,および主がご自分の約束どおり,天における拘束からご自身を解き放って戻って来られることの二つです。
 使徒はここで,自分が死の際に直ちに霊者に変えられ,永久にキリストと共になると語っているのではありません。テサロニケ第一 4:15-17で同使徒が霊感のもとに述べているところによれば,そのように主キリストと共になることはキリストが戻られるとき初めて可能になるのであり,キリストのうちにあって死んでいる者がまずよみがえらされます。パウロがフィリピ 1:23で言及していたのは,キリストがこのように戻って来られること,および使徒自身が解き放たれていつも共になることにほかなりません。パウロはそこで,自分にとってすぐに行なえる二つの事柄,すなわち(1)肉の様で生き続けること,および(2)死ぬことがあると述べています。考慮すべき状況から,パウロは自分がこれら二つのものに迫られていると語り,自分がどちらを選ぶかについては明らかにしていません。次いで,パウロは,自分が本当に望んでいる三つ目のものを挙げています。パウロがこのこと,すなわち「解き放たれること」にあずかりたいという願いを抱いていたことに疑問の余地はありません。と言うのは,それはパウロがキリストと共になることを意味しているからです。
 ですから,ト アナリューサイ,「解き放たれること」という表現を,同使徒の人間としての死,また現在の命から去ることに当てはめることはできません。それは,キリストが戻られる臨在の時(付録5ロ参照)に生じる出来事とキリストにあって死んでいるすべての人々がよみがえらされて永久にキリストと共になることに言及しているに違いありません。



 ここで用いられているギリシャ語単語には「帰る」という意味があるそうです。この聖句の訳は、単語の語義と聖書中の用法に注目するか、それとも文脈に注目するかによって大きく変わるということのようです。
 文脈に合わせて訳すなら、聖書協会共同訳や新改訳の訳になります。しかしそれだと使われている語の意味に合わないということになります。逆に、新世界訳聖書のように用法に合わせて訳すと、文脈と合いません。

 まずは文脈を見てみましょう。



フィリピ 1:21-24

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
わたしの場合,生きることはキリストであり,死ぬことも益なのです。さて,もし肉の様で生きつづけるとすれば,それはわたしの業が実を結ぶことになります ― ですが,どちらを選ぶべきか,わたしには分かりません。わたしはこれら二つのものに迫られています。しかし,わたしがほんとうに願っているのは,解き放たれること,そしてキリストと共になることです。言うまでもなく,このほうがはるかに良いからです。しかし,あなた方のためには,わたしが肉の様でとどまっていることのほうが必要です。それで,この点を確信しているので,わたしは,あなた方の進歩と[あなた方の]信仰に伴う喜びとのために,自分がとどまり,あなた方すべてと共にいることになるのを知っています。



 パウロはここで、自分が今生きるべきか死ぬべきかという話をしています。その中に「解き放たれる」という言い回しがあるのですから、これはパウロが死ぬことについて言っているのだろうということになります。しかし、新世界訳聖書はそれに待ったをかけます。その読みはこの語の用法に合わないという主張です。



ルカ 12:36

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
こうしてあなた方は,自分たちの主人が婚礼から帰って来るのを待ち,[主人]が到着して[戸を]たたいたらすぐに開けられるようにしている人たちのようでありなさい。



 ルカ 12:36とフィリピ 1:23は共にキリストの臨在(再臨)について語っています。そこに同じ単語が使われているのですから、フィリピ 1:23の意味はルカ 12:36に合わせるべきなのかもしれません。

 新世界訳聖書はこの問題に対して中立的な訳で対応したようです。「解き放たれる」という訳は、「世を去る」という言い方を避けてはいますが、その意味に読めますし、違う意味を読み取ることもできます。
 エホバの証人としては、聖書には中立的な訳文を採用したうえで、釈義では「世を去る」の意味を否定するという選択をしたことになります。



○ 新世界訳参照資料付き聖書の特徴

複数の読み方がある語句には中立的な訳語を充てる



 ここで、新世界訳聖書の見解に説得力を加えているのが、「キリストと共になる」という言い回しです。
 すでにひとこと指摘したように、この表現はキリストの臨在を指しています。なぜなら、天への復活は臨在の時に起こるからです。



コリント第一 15:22-23, 51-52

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
アダムにあってすべての人が死んでゆくのと同じように,キリストにあってすべての人が生かされるのです。しかし,各々自分の順位にしたがっています。初穂なるキリスト,その後,その臨在の間に,キリストに属する者たちです。
ご覧なさい,わたしはあなた方に神聖な奥義を告げます。わたしたちはみな[死の]眠りにつくのではありませんが,わたしたちはみな変えられるのです。一瞬に,またたくまに,最後のラッパの間にです。ラッパが鳴ると,死人は朽ちないものによみがえらされ,わたしたちは変えられるからです。


テサロニケ第一 4:15-17

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
主の臨在[の時]まで生き残るわたしたち生きている者は[死んで]眠っている者たちに決して先んじないということ,これが,エホバの言葉によってわたしたちがあなた方に伝えるところなのです。主ご自身が号令とみ使いの頭の声また神のラッパと共に天から下られると,キリストと結ばれて死んでいる者たちが最初によみがえるからです。その後,生き残っているわたしたち生きている者が,彼らと共に,雲のうちに取り去られて空中で主に会い,こうしてわたしたちは,常に主と共にいることになるのです。



 「キリストに属する者たち」つまり天への復活を約束された人たちが天に召されるのは「キリストの臨在の間」です。新約聖書が書かれた時点では、これは将来の話です。そのようなわけで、キリストの臨在が来るより前に死んだ人は「死の眠り」に就くことになります。しかし「最後のラッパ」つまり臨在が始まると、「死の眠り」という段階はなくなり、天への復活を約束された人たちは「変えられる」ことになります。

 これはどういうことかというと、仮にパウロが今すぐ死んだとしても、パウロがすぐに「キリストと共になる」ことにはならないということです。もしパウロがこの語を「今すぐ世を去る」の意味で用いていたとすれば、「キリストと共になる」のも今すぐであるということになり、パウロは復活の順番の教えを否定したことになります。パウロ自身こう書いています。



テモテ第二 2:16-18

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
また,聖なる事柄を汚すむだ話からは遠ざかりなさい。そうした者たちはいっそうの不敬虔へと進み,その言葉は脱疽のように広がるからです。ヒメナオとフィレトがその中にいます。これらの人たちは真理からそれ,復活はすでに起きたのだと言っています。こうして彼らは,ある人たちの信仰を覆しているのです。



 復活はすでに起こっているという考え方をする人は異端者であるとパウロは指摘しています。パウロが復活の時期を今に持ってこようとした可能性は低いと思われます。

 フィリピ 1:23についての二つの見解はどちらも説得力があります。最終的な結論を出すのは難しいと私は思いました。






 ところでですが、聖書協会共同訳聖書には訳文の日本語がなにかにつけ雑であるという問題があって、ここでもその問題が見られています。
 「望ましい」は新改訳のように「望ましいのです」にしたほうがよいでしょう。






 「フリーマインドジャーナル」1994年5-6月号に掲載された「新世界訳聖書における改竄」は、ファンダメンタルな立場から新世界訳聖書におけるこの聖句の問題を取り上げてこのように指摘しています。



◇ 'Misleading Revisions in the New World Translation' Andy Bjorklund, Free Minds Journal May/Jun 1994

 「世を去ってキリストと共にいる」が「解き放たれてキリストと共になる」に変えられている。
 パウロは熱心さに関するこの記述は、信者の霊は死ぬと直ちにキリスト共になるということを示している。この改竄は、死ぬこととキリストと共になることとが、一定の期間を挟んだ二つの分かたれた段階であると示唆するものである。エホバの証人は死んだ人の魂が眠る(人の霊が無意識になって復活を待つ)と信じているのである。



 キリスト教はある時期から、復活には予定の時があるという聖書の教えを放棄するようになりました。現代キリスト教のほとんどは、臨在とは関係なしに、死んだ人は直ちに復活すると教えています。
 フリーマインドジャーナルはこの教えを擁護しようとしています。それで、復活について聖書が教えていることのうち自分たちにとっては受け入れられないことを、エホバの証人の独自の教えであるということにしてしまおうとしているように見えます。

 ここで私が気になったのは、フリーマインドジャーナルがエホバの証人を“キリスト教の異端”だと位置づけていることです。現代キリスト教は修正された聖書の教えを採用し、エホバの証人は原始キリスト教の教えを採用しています。そうすると、現代キリスト教がエホバの証人のことを異端呼ばわりしても、実際は逆であるということが生じることになります。

 現代キリスト教の教えが聖書を正しく翻訳することの障害になっていることについては、コリント第一 15:51の事例があります。コリント第一 15:51の項には聖書の教える復活についての説明がありますので適宜参照してください。