エホバの証人の聖書

フィリピ 1:23

新世界訳聖書(エホバの証人)
わたしはこれら二つのものに迫られています。しかし,わたしがほんとうに願っているのは,解き放たれること,そしてキリストと共になることです。言うまでもなく,このほうがはるかに良いからです。

新改訳聖書(ファンダメンタル)
私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。


 この聖句について、「フリーマインドジャーナル」1994年6月号に掲載された、「新世界訳聖書における改竄」リストはこう解説しています。

『この世を去ってキリストと共にいる』が『解き放たれてキリストと共になる』に替えられている。
このパウロの熱心さによって、信者の霊は死ぬと直ちにキリストと共になるということが示された。この改竄は、死とキリストと共になることとが一定の期間を挟んだ二つの分かたれた段階である、との読みを促すものである。エホバの証人は死んだ魂が眠る(人の霊が無意識になって復活を待つ)と信じているのである。


 これについては参照飼料付新世界訳聖書の「付録」がこのように述べています。

動詞アナリューサイはここでは動詞的名詞として用いられています。この動詞はクリスチャン・ギリシャ語聖書の中でもう一度だけ,ルカ 12:36に出て来ます。そこでは,キリストが戻って来られることについてこれが用いられています。これと関連のある名詞アナリュシスはテモテ第二 4:6に一度だけ出て来ます。その箇所で使徒は,『わたしの解き放たれる定めの時は目前に迫っています』と述べています。……フィリピ 1:23では,その動詞を……「解き放たれること」と訳出しました。その理由は,この言葉が次の二つの考えを伝えているように思えるからです。すなわち,キリストが戻られる際,使徒自身が解き放たれてキリストと共になること,および主がご自分の約束どおり,天における拘束からご自身を解き放って戻って来られることの二つです。……ですから,ト アナリューサイ,「解き放たれること」という表現を,同使徒の人間としての死,また現在の命から去ることに当てはめることはできません。それは,キリストが戻られる臨在の時に生じる出来事とキリストにあって死んでいるすべての人々がよみがえらされて永久にキリストと共になることに言及しているに違いありません。

 新世界訳聖書の翻訳者は、このギリシャ語単語の聖書中の語法に基づいて、この語はキリストの臨在の時に起こる二つのこと、つまりキリストが「戻る」ことと、死者がキリストと「共になる」こととを指していると考え、これは人の死の段階とは厳密に分けられるべきだとしています。その考えに基づく読み方では、パウロは当面のこととして生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされていますが、最終的にはキリストのもとに行くことを希望しています。それは、キリストが臨在した時に起こると聖書が述べている事柄です。
 パウロはこう述べています。

テサロニケ第一 4:15-17
新世界訳聖書(エホバの証人)
主の臨在[の時]まで生き残るわたしたち生きている者は[死んで]眠っている者たちに決して先んじないということ,これが,エホバの言葉によってわたしたちがあなた方に伝えるところなのです。主ご自身が号令とみ使いの頭の声また神のラッパと共に天から下られると,キリストと結ばれて死んでいる者たちが最初によみがえるからです。その後,生き残っているわたしたち生きている者が,彼らと共に,雲のうちに取り去られて空中で主に会い,こうしてわたしたちは,常に主と共にいることになるのです。

 ここで聖書は復活に至る三つの段階を述べています。つまり、(1)イエスが臨在する日まで死んだ者は「眠っている」が、(2)イエスが臨在するとまず「死んでいる者たちがよみがえり」、(3)そのあと「生き残っている者が取り去られ」、彼らは「主と共に」なります。
 この書き方からもわかるように、パウロは(そして聖書は)、フリーマインドジャーナルが述べるところのエホバの証人と同様、人は死ぬと眠っている状態になると信じていました。
 しかしパウロの切なる期待は、死んで眠りにつくことではなく、死んで直ちにキリストと結ばれることにあったのかもしれません。やはりパウロ自身がこう述べています。

コリント第一 15:51-53
新世界訳聖書(エホバの証人)
ご覧なさい,わたしはあなた方に神聖な奥義を告げます。わたしたちはみな[死の]眠りにつくのではありませんが,わたしたちはみな変えられるのです。一瞬に,またたくまに,最後のラッパの間にです。ラッパが鳴ると,死人は朽ちないものによみがえらされ,わたしたちは変えられるからです。朽ちるものは不朽を着け,死すべきものは不滅性を着けねばならないのです

 これらを総合的に考えると、パウロの示した希望は復活の3番目の段階ともっとも一致するということになります。
 とはいえ、新世界訳聖書の翻訳者はそこまで解釈を踏み込むには至らなかったようです。新世界訳の翻訳者の解釈はどちらかというと、パウロは自分が上の1と2の段階を経験したあと「解き放たれて」キリストと結ばれることを切に期待した、というものであるようです。

 一方の新改訳聖書は、聖書が述べるところの復活の段階を考慮せず、人の死の段階とキリスト臨在の段階とを区別しようとしていません。とはいえ、これを比較してどちらが正しいとか間違っているとか言うのは難しいように思います。新世界訳聖書の訳文も新改訳聖書の訳文も実質的なところは同じであり、ただ、訳文でははかりきれない解釈の部分が違っているというように私は思いますし、その解釈の部分も結局は仮定の話であるように思います。新世界訳聖書の訳文は両方の解釈に対して中立的な訳文なわけですし。
 フリーマインドジャーナルの主張はそのあたりを見てということなのでしょう。ようするに、キリストが臨在する前であろうと後であろうと、人は死ねば直ちに復活して天に召されるのだと言いたいようです。


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