エホバの証人の聖書

フィリピ 2:6

新世界訳聖書(エホバの証人)「彼は神の形で存在していましたが、強いて取ること、つまり、自分が神と同等であるようにということなどは考えませんでした。」

現代訳聖書(プロテスタント)「キリストは神ご自身であられる方なのに、神の栄光や特権に執着されないで、」


 現代訳聖書で、「神ご自身」となっているところが、新世界訳聖書では「神の形」となっています。
 ほかにも違いがあります。
 現代訳聖書は、三位一体論に都合がよいように聖書本文を変えてしまっています。
 これは、現代訳聖書特有の訳文であると言えるでしょう。

新世界訳聖書(エホバの証人)「彼は神の形で存在していましたが、強いて取ること、つまり、自分が神と同等であるようにということなどは考えませんでした。」

口語訳聖書(プロテスタント)「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、」


 今度は、口語訳聖書で「固守すべき事」となっているところが、新世界訳聖書では「強いて取ること」となっています。
 そのため、エホバの証人に反対する人たちは、「新世界訳聖書のこの聖句は改竄されている」と主張しています。
 新世界訳は改竄されているのでしょうか。

 口語訳聖書の「固守すべき事」という訳し方については、「解説者のギリシャ語新約聖書」に注解があります。

『[ハルパゾー]もしくはその派生形[ハルパグモンを含む]のいずれかが『所有している』,『保持している』という意味を持っている箇所は一つも見いだせない。その語は決まって,『捕む』あるいは『乱暴に奪い去る』という意味を表わしているように思われる。したがって,『捕らえる』というその本来の意味をそれとは全く異なった『固守する』という意味にすり替えることは許されない。』(「聖書から論じる」より)

 この注解からすると、新世界訳聖書は改竄されているとは言えないようです。


 このすり替え、もしくは調整は、聖書を三位一体論と調和させるために行われています。
 というのも、イエスが神から奪おうとした、という考えは、『イエスは神である』という三位一体論と矛盾するからです。

 こういう考え方はとても危険である、と指摘しておきたいと思います。
 せめて、三位一体論者は、「三位一体論を聖書と調和させる」ことを考えるべきです。


 この聖句の扱いについて、フランスで面白い事件が起こっていますので紹介したいと思います。

『フランスのシュロの日曜日論争
「キリストは神だ。神のかたちじゃない!」 この割れるような叫び声が,パリ,ノートルダム寺院のゴシック式アーチ造りの院内にこだまし,「使徒書簡」の朗読が一時かき消されました。おりしも居合わせた2,000人ほどのカトリック信者はこの声に驚きましたが,かろうじて落ち着きを取り戻したところへ,今度は使徒信経のラテン語詠唱を聞かされました。しかしその抗議の詠唱はオルガンの壮大な響きにたちまち圧倒され,デモ隊は退散し,ミサは続行されました。
1971年4月4日,その週末のシュロの日曜日にミサを行なったパリ市内の教会堂ではほかにも同様の抗議デモが行なわれました。デモ参加者は新教徒や無神論者ではなく,ほかならぬ伝統主義者のカトリック教徒だったのです。しかしなぜ抗議をしたのですか。
それには「使徒書簡」を自国語,つまりフランス語で読むことが関係していました。教会に通っているカトリック信者ならだれでも知っているとおり,シュロの日曜日のミサで読まれる「使徒書簡」とは,ピリピ書 2章5節から11節をさします。フランス語の1959年版聖句集のピリピ書 2章6節は次のとおりです。「キリストは神の身分を有しておられたが,ご自分を神と等しくする地位を欲ばって固守されなかった」。ところが,1969年になって,フランス語を話す司教たちは,同年9月16日付で教皇庁の認可した新しい聖句集の出版を許可しました。その聖句集のピリピ書 2章6節は次のように訳出されています。「キリスト・イエスは神のかたちである。しかし彼は神と同等であることをしいて捕えようとは望まれなかった」。フランスの著名なカトリックの学者のひとりアンドレ・フィエーは書きました。「この翻訳は……すべての側からの鋭い批判を引き起こした。それは字義上の最も厳密な意味でキリストが神ではないことを信者に信じさせるという点で責任を負わねばならなかったのではないか」。(エスプリ・エ・ビー誌,1970年12月17日号)まさにそれが問題だったのです。
圧力を受けたフランスのカトリック教会当局はピリピ書 2章6節の改訂訳の再改訂に同意しました。ところが,ピリピ書 2章6節のこの三度目の翻訳が三位一体を支持しない点では改訂訳と変わりのないことが明らかにされ,それが1971年4月4日,シュロの日曜日にすべての教会で朗読されることになったため,伝統主義者のカトリック教徒たちが激しい反対を表わしたのです。
カトリックの月刊誌,イティネレールは1971年1月号に特別付録を添えて,その改訂訳のピリピ書 2章6節に言及し,「もし彼[キリスト]がそれ[つまり,神と同等であること]を捕えようとはしなかったのであれば,彼はかねてそうした立場を保ってはいなかったに違いない」と述べました。そして,その3度目の翻訳に関しては,もしキリストが「神と同じ者であると唱えるのを望まれなかった」のであれば,これは彼が「神と同じ者」ではなかったことを意味していると評しました。このことと一致して,カトリックの新アメリカ聖書(1970年版)は,「彼は神と同等であることを,捕えるべき事柄とはみなされなかった」と訳出しています。が,インティネレール誌は,「こうしたことばの置き換えは実際のところ,異端また冒涜のことばも同然であると」評して,シュロの日曜日に挙行されるミサにさいし,「使徒書簡」が朗読される時まで待って,朗読が始まりしだい,「冒涜!」「神そのもの,人そのものなるイエス・キリスト」と叫ぶか,使徒信経を詠唱するかして不満の意を表明するよう読者に勧めました。
こうした脅威にもかかわらず,フランスの司教団はピリピ書 2章6節の3度目の訳文を擁護しました。ル・モンド紙(1971年3月21,22日付)はこう評しました。「この翻訳は……フランスの全司教団によって認められた。パリで会合を開いたばかりのフランス司教団常設評議会はその翻訳を承認した。ゆえにそれは存続するであろう」。しかしながら,問題のシュロの日曜日のミサにおける騒動を回避すべく,数人の司教は自分たちの司教管区内の司祭に1959年版の聖句集の使用を許しました。にもかかわらず,パリおよびリヨン各地の聖堂ではデモが行なわれました。
フランスの司教たちの陥っている窮地
それら伝統主義者のデモ参加者がフランスの司教や枢機卿以上に善良なカトリック教徒たらんと努めていたというのは,まさに奇妙なことと言わねばなりません。善良なカトリック教徒として彼らは,父と子と聖霊が神性において同等であると説く三位一体の教理を信じており,キリストは自分が「神と同じ者」であるとは決して主張したことがないと示唆するピリピ書 2章6節の翻訳を教会当局が認可したことで深刻な衝撃を受けたのです。この翻訳はキリストが神であることを否定するとの彼らの発言は正しいのですが,彼らはキリストご自身がそれを否定して,ご自分の父をさして「唯一のまことの神」と言われたという点を見落としています。(ヨハネ 17:3,バルバロ)キリストは三位一体の教理を教えられませんでした。
ここに興味をそそる問題があります。フランスの高位僧職者は,カトリックの基本的な教理の一つを明らかに否定する翻訳をなぜ認可せざるをえなかったのですか。それだけではありません。それら僧職者がこの句を新たに翻訳し直す必要を認めたのはきわめて不思議なことではありませんか。ローマ・カトリック教会の「妨げなし」の署名と出版認可を得たカトリックの聖書すべてについてはどうですか。エルサレム聖書,クランポン聖書,リエナール聖書,マレドスー聖書,グレール聖書,オスティ新約,サシ聖書,その他正式にフランスのカトリック訳として認められている聖書すべてについてはどうですか。これらの聖書はすべて,英語のカトリック訳やドウエー聖書,最近のエルサレム聖書と同様,問題の聖句をあたかもキリストは神と同等であったかのように訳出しているのに,なぜ新たに翻訳し直す必要があるのですか。
この不可解な問題はル・モンド紙(1971年4月6日付)に載せられた次の見解によって解き明かされました。「フランスの司教の大多数が認めたこの改訂に対して責任のある学者たちは,以前の訳よりも今回の新しい翻訳はギリシア語本文にいっそう忠実な訳であるとみなしている」。
したがって,フランスのカトリック教会の枢機卿,大司教そして司教たちは今や進退きわまった観を呈しています。つまり前言を取り消して,ピリピ書 2章6節の新しい翻訳を撤回し,そうすることによって聖書翻訳の正確さよりも三位一体の教理をいっそう重視する立場を示すか,あるいは,(他の国語の聖書はさておき)フランスの種々のカトリック聖書が問題の聖句を三位一体流の考えでこじつけて誤訳したことを残念ながら認めたうえで,この重要な聖句の新しい公式な翻訳を支持するかのいずれかに決めなければならないのです。』
(「ものみの塔」誌1971年9月15日号より)


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