新世界訳
エホバの証人の聖書

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フィリピ 2:6

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
彼は神の形で存在していましたが,強いて取ること,つまり,自分が神と同等であるようにということなどは考えませんでした。

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
キリストは神のような方でしたが,神の立場を奪って神と同等になろうなどとは考えませんでした。

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
キリストは 神の形でありながら 神と等しくあることに固執しようとは思わず

◇ 新改訳聖書 [2017年版] ◇ (ファンダメンタル)
キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、



 ここで問題となっているのはギリシャ語の「ハルパゾー」という語をどう理解するかということです。ここでは、ハルパゾーの変化した「ハルパグモン」が用いられています。
 この語の意味は「強奪する」です。しかし、キリスト教諸教会では、フィリピ 2:6に限ってこの語を「固守する」の意味に読むべきだという見解が主流です。

 これはなぜでしょうか。現代のキリスト教では「三位一体」の教理が支持されているからです。この教えによると、キリストは神ご自身です。そうすると、「キリストが神から神の地位を奪おうとする」ことについての記述が聖書にあるのはおかしいということになります。
 一方、エホバの証人は現代キリスト教の教理ではなく原始キリスト教の教理を採用しています。原始キリスト教の考え方では、キリストは神の子であり、たとえ「神の形」を持つ者であっても神ではありませんから、この聖句は字義通りに訳しておけばよいということになります。

 キリスト教諸教会はこの聖句のことでエホバの証人を非難しています。エホバの証人は聖書を改ざんしているというのがその主張です。一方のエホバの証人はキリスト教諸教会を批判しています。

 エホバの証人やその見方を支持する人たちは、「強奪する」と「固守する」では意味が逆になってしまうと指摘しています。「持っていない」が「持っている」になるということです。



◇ 「あなたは三位一体を信ずるべきですか」, ものみの塔聖書冊子協会

 このことに関して,ラルフ・マーティンは「フィリピ人へのパウロの書簡」という本の中で元のギリシャ語について次のように述べています。「しかし,この動詞の意味が『捕まえる』,『乱暴に奪い去る』という,その実際の意味から,『しっかり保つ』という意味に次第に変わることがあり得るかどうかは疑問である」。「解説者のギリシャ語新約聖書」も次のように述べています。「ἁρπάζω[ハルパゾー],もしくはその派生形のいずれかが『所有している』,『保持している』という意味を持っている箇所は一つも見いだせない。その語は決まって,『捕む』あるいは『乱暴に奪い去る』という意味を表わしているように思われる。したがって,『捕らえる』というその本来の意味をそれとは全く異なった『固守する』という意味にすり替えることは許されない」。
 以上の例から,ドウェー訳やジェームズ王訳などの聖書翻訳者たちは三位一体論者の目的を支持するために規則を曲げていることが,はっきり分かります。フィリピ 2章6節のギリシャ語を客観的に読めば,イエスは神と同等であることを適当だと考えられたなどと言えるどころか,全く逆のこと,つまりイエスはそれを適当だとはお考えにならなかったことが分かります。
 この箇所の前後の節(3-5,7,8,新共; ドウェー)の文脈は,6節をどのように理解すべきかを明らかにしています。フィリピの人たちは,「へりくだって,互いに相手を自分よりも優れた者と考え(なさい)」と勧められました。次いで,パウロはキリストをそのような態度の際立った手本として用いて,「互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです」と述べました。心がけるべき「このこと」とは何ですか。「神と等しくあることを強奪とは思わず」ということでしょうか。いいえ,それはここで示されている要点のまるで逆のことと言えるでしょう! そうではなく,『神を自分よりも優れた者と考えた』イエスは,決して「神と同等であることを捕らえ」ようとはせず,かえって,『へりくだって,死に至るまで従順になられました』。
 確かに,それは全能の神のいずれかの一部について述べていることではないはずです。それはここでのパウロの論点,すなわち自分の上位者で創造者であられるエホバ神に対する謙遜さと従順の重要性という論点を完全に例証されたイエス・キリストに関して述べていることなのです。



 途中、「……箇所は一つも見いだせない」のくだりがあります。では実際に、この語の出てくる箇所を全部見ていくことにしましょう。



マタイ 11:12

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
ただ,バプテストのヨハネの日から今に至るまで,天の王国は人々の押し進む目標となっており,押し進んでいる者たちはそれをとらえつつあります

マタイ 13:19

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
人が王国の言葉を聞きながらその意味を悟らない場合,邪悪な者がやって来て,その心にまかれたものをさらって行きます。これが道路のわきにまかれたものです。

ヨハネ 6:15

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
それゆえイエスは,彼らが,自分を王にするためとらえに来ようとしているのを知り,再び山の中にただ独りで退かれた。

ヨハネ 10:12

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
雇われ人は,おおよそ羊飼いとは異なり,その羊も自分のものではないので,おおかみが来るのを見ると,羊たちを見捨てて逃げます ― そして,おおかみは彼らをさらい,また散らします ―

ヨハネ 10:28

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
そしてわたしは彼らに永遠の命を与え,彼らはいつまでも決して滅ぼされることがなく,だれも彼らをわたしの手から奪い取る者はいません。

ヨハネ 10:29

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
父がわたしに与えてくださったのは,ほかのすべてのものより偉大なものであり,だれもそれを父の手から奪い取ることはできません。

使徒 8:39

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
彼らが水から上がって来ると,エホバの霊がフィリポを急いで連れ去り,宦官はもう彼を見なかったが,歓びながら自分の道を進んで行った。

使徒 23:10

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
さて,争論が大きくなった時,軍司令官はパウロが彼らに引き裂かれることを恐れ,兵隊に,下りて行って彼らの中から[パウロ]を奪い出し,兵営の中に連れて来るよう命令した。

コリント第二 12:2

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
わたしはキリストと結ばれたひとりの人を知っています。その人は十四年前に ― それが体においてであったかどうかわたしは知りません。体を出てであったかどうかも知りません。神が知っておられます ― そのような者として第三の天に連れ去られました

コリント第二 12:4

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
その人はパラダイスに連れ去られ,人が話すことを許されず,口に出すことのできない言葉を聞いたのです。

テサロニケ第一 4:17

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
その後,生き残っているわたしたち生きている者が,彼らと共に,雲のうちに取り去られて空中で主に会い,こうしてわたしたちは,常に主と共にいることになるのです。

ユダ 1:23

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
[彼らを]火の中からつかみ出して救いなさい。しかし,他の人々に引き続き憐れみを示しなさい。それも恐れの気持ちをもってしなさい。それと共に,肉によって汚された内衣をさえ憎みなさい。

啓示(黙示録) 12:5

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
そして彼女は子を産んだ。男子であり,あらゆる国民を鉄の杖で牧する者である。そして彼女の子供は神のもとに,そのみ座のもとに連れ去られた



 確かに、この語は常に「強奪する」の意味で用いられています。

 すでに指摘したように、フィリピ 2:6に限ってこの語が「固守する」の意味にとられるのは、三位一体の教理があるからです。
 三位一体論者は、この句にはキリストが「神の形」であることが述べられており、この言い方は、イエスが神と全く同等であったことを、言い換えるならイエスが神であることを証明していると主張します。だからここでのこの語の意味は「固守する」になるんだ、ということです。これについてはどうなのでしょうか。
 パウロは「神の形」という語を「神に近い」、言い換えると「神に少し劣る」の意味で用いたと考えられます。
 理由は二つあります。そもそも、それが聖書における「神の形」の意味です。さらに、パウロはこの言葉を、旧約聖書に記されているいくつかの出来事と比較する言い回しで書いています。

 この、出来事ということを見てみましょう。
 まずはアダムとエバの件です。



創世記 1:26-28

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
次いで神は言われた,「わたしたちの像に,わたしたちと似た様に人を造り,彼らに海の魚と天の飛ぶ生き物と家畜と全地と地の上を動くあらゆる動く生き物を服従させよう」。そうして神は人をご自分の像に創造してゆき,神の像にこれを創造された。男性と女性にこれを創造された。さらに,神は彼らを祝福し,神は彼らに言われた,「子を生んで多くなり,地に満ちて,それを従わせよ。そして,海の魚と天の飛ぶ生き物と地の上を動くあらゆる生き物を服従させよ」。

詩編 8:5-8 (共同訳系聖書では 8:6-9)

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
あなたはまた,[人]を神のような者たちより少し劣る者とし,次いで栄光と光輝を冠としてこれに添えられました。あなたはこれにご自分のみ手の業を支配させ,すべてのものをその足の下に置かれました。小家畜や牛,それらすべて,さらに,原野にいる獣,天の鳥,海の魚,海路を通って行くものを。



 エホバ神は、天地創造の終わりごろに人間を創造しました。人は「神の像、似た様」つまり神の形に造られました。聖書はこれを言い換えて、「神のような者たちより少し劣る者」としています。人間は、神に近いものの、神や天使には劣る存在でした。
 ところが、そこに「蛇」の姿をした悪魔が現れ、誘惑します。



創世記 3:1-5

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
さて,エホバ神が造られた野のすべての野獣のうち蛇が最も用心深かった。それで[蛇]が女にこう言いはじめた。「あなた方は園のすべての木からは食べてはならない,と神が言われたのは本当ですか」。それに対して女は蛇に言った,「園の木の実をわたしたちは食べてよいのです。でも,園の真ん中にある木の実を[食べること]について,神は,『あなた方はそれから食べてはならない。いや,それに触れてもならない。あなた方が死ぬことのないためだ』と言われました」。それに対して蛇は女に言った,「あなた方は決して死ぬようなことはありません。その[木]から食べる日には,あなた方の目が必ず開け,あなた方が必ず神のようになって善悪を知るようになることを,神は知っているのです」。



 ここで悪魔は、人は「神のようになる」ことができると言って人間を誘惑します。そして、その誘惑に屈した人間は堕落してしまいました。
 これは、フィリピ 2:6の言葉で言い換えるなら、「人は強奪して神と等しくなろうとした」ということです。

 次は、悪魔の件です。
 すこしややこしいですが、この話はティルスという国に関する記述の中に出てきます。ティルスに対する神の宣告の中に、悪魔の堕落に関する言及があるのです。



エゼキエル 28:12-16

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
「人の子よ,ティルスの王に関して哀歌を唱えよ。あなたは彼に言わなければならない,『主権者なる主エホバはこのように言われた。
「『「あなたは知恵に満ち,美しさの点で完全であり,ひな型に封印する者。あなたは神の園であるエデンにいた。あらゆる宝石があなたの覆いであった。ルビー,トパーズ,碧玉,貴かんらん石,しまめのう,ひすい,サファイア,トルコ玉,エメラルド。あなたの中のはめ込み台と受け具の作りは金であった。あなたの創造された日にそれらは整えられていた。あなたは覆うことをする油そそがれたケルブであり,わたしがあなたを置いたのである。神の聖なる山にあなたはいた。あなたは火の燃える石の中を歩き回った。創造された日からあなたのうちに不義が見いだされるまでは,あなたはその道においてとがのない者であった。
「『「あなたの満ちあふれる商品のゆえに,人々はあなたの中に暴虐を満たし,あなたは罪を犯すようになった。それで,覆うことをするケルブよ,わたしはあなたを汚れた者として神の山から出し,あなたを火の燃える石の中から滅ぼすであろう。
「『「あなたの心はあなたの美しさのゆえにごう慢になった。あなたはその輝かしい光輝のゆえに自分の知恵を滅びに陥れた。わたしは地の上にあなたを投げ出す。わたしはあなたを王たちの前に置く。[彼らが]あなたをながめるためである。



 直接的な言い回しはありませんが、「ケルブ」という言葉と詩的表現によって、悪魔が神の形であったことが述べられています。ケルブとは、神のすぐそばに立つ地位を持つ天使のことで、人間の感覚で言えば大臣に相当します。王は神エホバ、王子は神の子イエス、そして大臣は悪魔サタンです。
 つまり、悪魔は神に極めて近い存在でした。
 しかし、悪魔はうぬぼれて「ごう慢」になります。
 それに対して、フィリピ 2:6を文脈も含めて見ると、イエスが「自分を無にし、低くした」と述べています。



フィリピ 2:5-8

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
キリスト・イエスにあったこの精神態度をあなた方のうちにも保ちなさい。彼は神の形で存在していましたが,強いて取ること,つまり,自分が神と同等であるようにということなどは考えませんでした。いえ,むしろ,自分を無にして奴隷の形を取り,人のような様になりました。それだけでなく,人の姿でいた時,彼は自分を低くして,死,それも苦しみの杭の上での死に至るまで従順になりました。



 フィリピ 2:6はこの二つの記述を連想させる書き方になっています。このようなわけで、フィリピ 2:6は暗に、イエスを、堕落した最初の人間や、人間をそそのかした悪魔と比較しているのです。

 そうすると、現代キリスト教が主張するように、ここの「神の形」を「神自身である」という意味に読むことはできないということになります。「神の形」と「神と等しい」とには差があるということにもなります。ハルパゾーを「固守する」の意味に読むこともできないということになります。






 この聖句の翻訳については、フランスで大論争が起こったそうですので紹介しておきます。



◇ 「ものみの塔」誌1971年9月15日号, ものみの塔聖書冊子協会 (表記修正)

フランスのシュロの日曜日論争

 「キリストは神だ。神のかたちじゃない!」 この割れるような叫び声が,パリ,ノートルダム寺院のゴシック式アーチ造りの院内にこだまし,「使徒書簡」の朗読が一時かき消されました。おりしも居合わせた2,000人ほどのカトリック信者はこの声に驚きましたが,かろうじて落ち着きを取り戻したところへ,今度は使徒信経のラテン語詠唱を聞かされました。しかしその抗議の詠唱はオルガンの壮大な響きにたちまち圧倒され,デモ隊は退散し,ミサは続行されました。
 1971年4月4日,その週末のシュロの日曜日にミサを行なったパリ市内の教会堂ではほかにも同様の抗議デモが行なわれました。デモ参加者は新教徒や無神論者ではなく,ほかならぬ伝統主義者のカトリック教徒だったのです。しかしなぜ抗議をしたのですか。
 それには「使徒書簡」を自国語,つまりフランス語で読むことが関係していました。教会に通っているカトリック信者ならだれでも知っているとおり,シュロの日曜日のミサで読まれる「使徒書簡」とは,ピリピ書 2章5節から11節をさします。フランス語の1959年版聖句集のピリピ書 2章6節は次のとおりです。「キリストは神の身分を有しておられたが,ご自分を神と等しくする地位を欲ばって固守されなかった」。ところが,1969年になって,フランス語を話す司教たちは,同年9月16日付で教皇庁の認可した新しい聖句集の出版を許可しました。その聖句集のピリピ書 2章6節は次のように訳出されています。「キリスト・イエスは神のかたちである。しかし彼は神と同等であることをしいて捕えようとは望まれなかった」。フランスの著名なカトリックの学者のひとりアンドレ・フィエーは書きました。「この翻訳は……すべての側からの鋭い批判を引き起こした。それは字義上の最も厳密な意味でキリストが神ではないことを信者に信じさせるという点で責任を負わねばならなかったのではないか」。(エスプリ・エ・ビー誌,1970年12月17日号)まさにそれが問題だったのです。
 圧力を受けたフランスのカトリック教会当局はピリピ書 2章6節の改訂訳の再改訂に同意しました。ところが,ピリピ書 2章6節のこの三度目の翻訳が三位一体を支持しない点では改訂訳と変わりのないことが明らかにされ,それが1971年4月4日,シュロの日曜日にすべての教会で朗読されることになったため,伝統主義者のカトリック教徒たちが激しい反対を表わしたのです。
 カトリックの月刊誌,イティネレールは1971年1月号に特別付録を添えて,その改訂訳のピリピ書 2章6節に言及し,「もし彼[キリスト]がそれ[つまり,神と同等であること]を捕えようとはしなかったのであれば,彼はかねてそうした立場を保ってはいなかったに違いない」と述べました。そして,その3度目の翻訳に関しては,もしキリストが「神と同じ者であると唱えるのを望まれなかった」のであれば,これは彼が「神と同じ者」ではなかったことを意味していると評しました。このことと一致して,カトリックの新アメリカ聖書(1970年版)は,「彼は神と同等であることを,捕えるべき事柄とはみなされなかった」と訳出しています。が,インティネレール誌は,「こうしたことばの置き換えは実際のところ,異端また冒涜のことばも同然であると」評して,シュロの日曜日に挙行されるミサにさいし,「使徒書簡」が朗読される時まで待って,朗読が始まりしだい,「冒涜!」「神そのもの,人そのものなるイエス・キリスト」と叫ぶか,使徒信経を詠唱するかして不満の意を表明するよう読者に勧めました。
 こうした脅威にもかかわらず,フランスの司教団はピリピ書 2章6節の3度目の訳文を擁護しました。ル・モンド紙(1971年3月21,22日付)はこう評しました。「この翻訳は……フランスの全司教団によって認められた。パリで会合を開いたばかりのフランス司教団常設評議会はその翻訳を承認した。ゆえにそれは存続するであろう」。しかしながら,問題のシュロの日曜日のミサにおける騒動を回避すべく,数人の司教は自分たちの司教管区内の司祭に1959年版の聖句集の使用を許しました。にもかかわらず,パリおよびリヨン各地の聖堂ではデモが行なわれました。

フランスの司教たちの陥っている窮地

 それら伝統主義者のデモ参加者がフランスの司教や枢機卿以上に善良なカトリック教徒たらんと努めていたというのは,まさに奇妙なことと言わねばなりません。善良なカトリック教徒として彼らは,父と子と聖霊が神性において同等であると説く三位一体の教理を信じており,キリストは自分が「神と同じ者」であるとは決して主張したことがないと示唆するピリピ書 2章6節の翻訳を教会当局が認可したことで深刻な衝撃を受けたのです。この翻訳はキリストが神であることを否定するとの彼らの発言は正しいのですが,彼らはキリストご自身がそれを否定して,ご自分の父をさして「唯一のまことの神」と言われたという点を見落としています。(ヨハネ 17:3,バルバロ)キリストは三位一体の教理を教えられませんでした。
 ここに興味をそそる問題があります。フランスの高位僧職者は,カトリックの基本的な教理の一つを明らかに否定する翻訳をなぜ認可せざるをえなかったのですか。それだけではありません。それら僧職者がこの句を新たに翻訳し直す必要を認めたのはきわめて不思議なことではありませんか。ローマ・カトリック教会の「妨げなし」の署名と出版認可を得たカトリックの聖書すべてについてはどうですか。エルサレム聖書,クランポン聖書,リエナール聖書,マレドスー聖書,グレール聖書,オスティ新約,サシ聖書,その他正式にフランスのカトリック訳として認められている聖書すべてについてはどうですか。これらの聖書はすべて,英語のカトリック訳やドウエー聖書,最近のエルサレム聖書と同様,問題の聖句をあたかもキリストは神と同等であったかのように訳出しているのに,なぜ新たに翻訳し直す必要があるのですか。
 この不可解な問題はル・モンド紙(1971年4月6日付)に載せられた次の見解によって解き明かされました。「フランスの司教の大多数が認めたこの改訂に対して責任のある学者たちは,以前の訳よりも今回の新しい翻訳はギリシア語本文にいっそう忠実な訳であるとみなしている」。
 したがって,フランスのカトリック教会の枢機卿,大司教そして司教たちは今や進退きわまった観を呈しています。つまり前言を取り消して,ピリピ書 2章6節の新しい翻訳を撤回し,そうすることによって聖書翻訳の正確さよりも三位一体の教理をいっそう重視する立場を示すか,あるいは,(他の国語の聖書はさておき)フランスの種々のカトリック聖書が問題の聖句を三位一体流の考えでこじつけて誤訳したことを残念ながら認めたうえで,この重要な聖句の新しい公式な翻訳を支持するかのいずれかに決めなければならないのです。






 改訂版聖書の発表から3年がたち、いくつかの聖句に訳文の修正が入りました。



フィリピ 2:6

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] [2019年印刷版] ◇ (エホバの証人)
キリストは神のような方でしたが,神の立場を奪って神と同等になろうなどとは考えませんでした。

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] [2022年印刷版] ◇ (エホバの証人)
キリストは神のような方でしたが,神と同等になろうなどと考えることさえしませんでした。



 「神の立場を奪って」がなくなっています。これには驚いたという方は大勢おられると思います。
 この修正については、「新世界訳聖書改訂日本語版の特徴」のほうに解説を載せましたので参照してください。