エホバの証人の聖書

フィリピ 2:9

英文新世界訳聖書(エホバの証人)
For this very reason also God exalted him to a superior position and kindly gave him the name that is above every [other] name,

和文新世界訳聖書[1982年版](エホバの証人)
まさにこのゆえにも,神は彼をさらに上の地位に高め,他のあらゆる名に勝る名を進んでお与えになったのです。

新改訳聖書[第二版](ファンダメンタル)
それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。


 「エホバの証人統一協会対策香川ネット」という団体の「宗教研究家 正木 弥」は、「ものみの塔の新世界訳聖書は改ざん聖書」という文書の中で、この聖句についてこう述べています。

逐語訳と英文新世界訳を比べてみてください。英文新世界訳には[other]が挿入されているでしょう。本文にはないことばをつけ加えているのです。しかもここでは、[ ]書きをつけておらず、日本人には挿入があることすら判らないようにしてあるのです。[他の]というつけ足しがなければ、キリストの名(実体)はすべての上にあるようにされたということですが、[他の]ということばが挿入することにより、神以外の存在よりは上としても神よりは下の存在のままである、ということにしました。つまり、キリストは神ではない、というエホバの証人の教理に合わせるために、[他の]をつけ加えたということになります。教理に合わせた聖書の改ざんがここでもなされています。(一部表記訂正)

 新世界訳聖書は改ざんされているのでしょうか。


 ここでは、「神がイエスに名を与える」ということが書かれています。その名は「あらゆる名に勝る名」です。すでに使徒 10:36の項で説明しましたが、このような表現があると、ひとつ、神学上の疑問が生じます。
 イエスは神の名よりも勝る名を与えられたのでしょうか。神はイエスに自分以上の地位を与えたのでしょうか。
 イエスが神の上に立つことは神学の法則に照らしてあり得ないことですので、新世界訳聖書は、誤読を防止するために「他の」という挿入を入れています。つまり、イエスはエホバ以外のすべての者の主です。
 一方、正木氏のように、三位一体論を支持して「イエスは神である」と考える人にとって、この聖句の意味するところは難解です。彼らは「イエスは神の子であると同時に神である」と信じているので、「イエスは神よりも上位に座した」と解釈することはできませんし、その逆もできません。そもそもイエスは神なのだから、どちらに対してどちらが上であるということは根本的にあり得ないという発想です。
 これを文脈も含めて考えてみましょう。フィリピ 2:6-11です。

フィリピ 2:6-11
新世界訳聖書(エホバの証人)
彼は神の形で存在していましたが,強いて取ること,つまり,自分が神と同等であるようにということなどは考えませんでした。いえ,むしろ,自分を無にして奴隷の形を取り,人のような様になりました。それだけでなく,人の姿でいた時,彼は自分を低くして,死,それも苦しみの杭の上での死に至るまで従順になりました。まさにこのゆえにも,神は彼をさらに上の地位に高め,他のあらゆる名に勝る名を進んでお与えになったのです。それは,天にあるもの,地にあるもの,地の下にあるもののすべてのひざがイエスの名によってかがみ,すべての舌が,イエス・キリストは主であると公に認めて,父なる神に栄光を帰するためでした。
新改訳聖書[第二版](ファンダメンタル)
キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

 まず、「強いて取らず」の部分をどのように訳出するかが問題になります。新改訳聖書はこれを「捨てる(つまり、「固守せず」)」の意味に訳出しています。これはフィリピ 2:6の項で取り上げていますので、そちらをご覧ください。続いて、ここのテーマである「さらに上の地位」、「すべてに勝る名」の解釈が問題になります。そして最後の部分、「イエスは主であると認めて神を讃える」のところでも解釈は分かれます。三位一体論者の場合、「イエスは神であるので、イエスは主であると認めることは、神を讃えることである」と考えます。一方、エホバの証人の場合、イエスと神とを別個の立場と理解していますので、「イエスは神から主の立場を授与されたので、人はイエスを主であると認めることによって間接的に神を讃える」と考えます。


 ここで、関係している聖句を考慮しましょう。そうすれば答えは自然と分かりますから。
 まず、ヘブライ 1:2-4です。

ヘブライ 1:2-4
新世界訳聖書(エホバの証人)
これらの日の終わりには,み子によってわたしたちに語られました。[神]は彼をすべてのものの相続者に定め,また彼を通して事物の諸体制を作られました。彼は[神の]栄光の反映,またその存在そのものの厳密な描出であり,その力の言葉によってすべてのものを支えておられます。そして,わたしたちの罪のための浄めを行なった後,高大な所におられる威光の右に座られました。こうして彼はみ使いたちよりも優れた名を受け継ぎ,それだけ彼らに勝る者となられました。

 ここでは、「あらゆる名に勝る名」という表現が「み使いたちよりも優れた名」という表現に置き換えられています。また、神が「高大な所におられる威光」という呼称で呼ばれており、イエスは「その右に座した」、つまり、神の次に偉大な存在となったと述べています。(ここの「右」という表現は、「第二の者」を意味する慣用句です。イエスは神の次に偉い者となったという意味です。ちなみに、「左」は「第三の者」です。) ここで、イエスの立場は、天使たちよりは上、神よりは下となります。

 続いて、ヘブライ 2:5-9です。

ヘブライ 2:5-9
新世界訳聖書(エホバの証人)
来たるべき,人の住む地,すなわちわたしたちが話しているものですが,[神]はそれをみ使いたちに服させることはされなかったのです。むしろ,ある証人があるところで証ししてこう述べています。「人間が何者なのでこれを思いに留め,また人の子が[何者なので]これを顧みられるのですか。あなたはこれをみ使いたちより少し低い者とされました。あなたはこれに栄光と誉れの冠を与え,み手の業の上に立ててこれをつかさどる者とされました。あなたはすべてのものを彼の足の下に服させました」。[神]はすべてのものを彼のもとに服させたのですから,彼に服さないものを何一つ残さなかったのです。しかし,わたしたちは今なお,すべてのものが彼に服しているのを見ていません。ただわたしたちは,み使いたちより少し低くされたイエスが,死の苦しみを忍んだゆえに栄光と誉れの冠を与えられたのを見ています。これは,神の過分のご親切のもとに,彼がすべての[人]のために死を味わうためでした。

 ここには追加の情報が含まれています。エホバは「すべてのものがイエス・キリストは主であると認める」ようにとイエスに主の地位を与えましたが、実際にはまだそうなっていないという情報です。

 続いて、コリント第一 15:24-28です。

コリント第一 15:24-28
新世界訳聖書(エホバの証人)
次いで終わりとなります。その時,彼は王国を自分の神また父に渡します。その時,彼はあらゆる政府,またあらゆる権威と力を無に帰せしめています。[神]がすべての敵を彼の足の下に置くまで,彼は王として支配しなければならないのです。最後の敵として,死が無に帰せしめられます。[神]は「すべてのものを彼の足の下に服させた」からです。しかし,『すべてのものが服させられた』と言うとき,すべてのものを彼に服させた方が含まれていないのは明白です。しかし,すべてのものが彼に服させられたその時には,み子自身も,すべてのものを自分に服させた方に自ら服し,こうして,神がだれに対してもすべてのものとなるようにするのです。

 ここにはさらに追加の情報があります。イエスは「すべてのものの主」となりましたが、その「すべてのもの」にエホバは含まれていない、という情報です。
 さらに、イエスがついに「すべてのものの主」となった時、イエス自身は神に服して、神が「だれに対してもすべてのもの」となる、つまり「イエスを含めたすべてのものの主」となるということが記されています。そしてこの時、死はなくなっています。
 この時の様子について、啓示(黙示録) 21:1-4はこう述べています。

啓示(黙示録) 21:1-4
新世界訳聖書(エホバの証人)
それからわたしは,新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去っており,海はもはやない。また,聖なる都市,新しいエルサレムが,天から,神のもとから下って来るのを,そして自分の夫のために飾った花嫁のように支度を整えたのを見た。それと共に,わたしはみ座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ! 神の天幕が人と共にあり,[神]は彼らと共に住み,彼らはその民となるであろう。そして神みずから彼らと共におられるであろう。また[神]は彼らの目からすべての涙をぬぐい去ってくださり,もはや死はなく,嘆きも叫びも苦痛ももはやない。以前のものは過ぎ去ったのである」。

 ここは聖書の最後の部分です。役割を終えたイエスがメシアを引退する時に訪れる至福の状態が、実に感動的な仕方で語られています。
 イエスはそれまで、人と神との間に立って救いの架け橋となっていましたが、それは同時に、人と神との間にイエスという障壁があることを意味していました。障壁がなくなった状態は、「神の家が人と共にあって神が人と共に住む」と表現するほどのものとなります。その時、人類のあらゆる苦しみは取り除かれ、もはやどのような悲しみもありません。まさに至福です。

 ここまで調べれば、もう結論は明らかではないでしょうか。


 こういうことです。

 聖書に頻繁に出てくる「すべて」という言い回しに誤読の問題があることは、聖書自身が認識するところでした。そこで、誤読がないようにと、聖書はコリント第一 15:24-28のところで但し書きを入れています。これが、聖書自身が支持する「すべて」という語の正しい読み方です。新世界訳聖書による「他の」という訳語の挿入は、聖書自身が示す正しい読み方を支持するものです。
 しかし、三位一体論者、特にファンダメンタリストの方々は、この但し書きを無視して、自分たちの言うところの「正しい聖書の読み方」を主張します。そして多くの場合、聖書を用いた話し合いを行っても、彼らは決して引き下がりません。こういった考え方は危険なものではないでしょうか。

 また、イエスが「すべてのものの主」であることは、神が「すべてのものに対してすべての主」となる日までの過渡的な状態として語られていることが分かります。神が常に神であり、その立場に変化がないのとは対照的に、イエスの立場は繰り返し変化してきました。聖書の中で、イエスの地位は上がったり下がったりしています。
 イエスの地位は、神に対して常に従属的であり、相対的です。そして、神はイエスに対して常に支配的であり、絶対的です。

ヤコブ 1:17
新世界訳聖書(エホバの証人)
あらゆる良い賜物,またあらゆる完全な贈り物は上から来ます。[天の]光の父から下って来るのです。そして[父]には影の回転による変化もありません。

 神の絶対者としての特質は光にたとえられています。神は自らが光の源であるので、「影の回転による変化」つまり相対的な立場というものを全く持ちません。一方のイエスは、自分についてこう述べています。

ヨハネ 5:19
新世界訳聖書(エホバの証人)
それゆえ,それに答えてイエスは彼らにさらにこう言われた。「きわめて真実にあなた方に言いますが,子は,自分からは何一つ行なうことができず,ただ父がしておられて,自分が目にする事柄を[行なえる]にすぎません。何であれその方のなさること,それを子もまた同じように行なうのです。

 神とイエスとの決定的な違いに注目するとき、エホバとイエスとを巧みにすり替え、イエスを神にしてしまう三位一体論に根本的な問題があることは明白となります。


 さて、ここで新世界訳聖書の現在の版を見てみましょう。

和文新世界訳聖書[1985年版](エホバの証人)
まさにこのゆえにも,神は彼をさらに上の地位に高め,[他の]あらゆる名に勝る名を進んでお与えになったのです。

 「他の」という訳語に角括弧がついていなかった問題が修正されています。古い版に角括弧がないのは、翻訳の際のちょっとしたミスのようです。


 岩村義男氏は「神のみ名は「エホバ」か」の本の中でフィリピ 2:9-10を引用したうえでこのように指摘しています。

フィリピ 2:9-10
和文新世界訳聖書[1985年版](エホバの証人)
まさにこのゆえにも,神は彼をさらに上の地位に高め,[他の]あらゆる名に勝る名を進んでお与えになったのです。それは,天にあるもの,地にあるもの,地の下にあるもののすべてのひざがイエスの名によってかがみ,

『新世界訳』は、[他の]を挿入して、自分たちの教理に合うように改ざんしています。「他の」というギリシャ語は本文にありません。……被造物すべてが主イエスにかがみ、祈るわけです。(一部省略)

 岩村氏は自分の主張を裏付けようとして11節を省略したようです。

フィリピ 2:11
和文新世界訳聖書[1985年版](エホバの証人)
すべての舌が,イエス・キリストは主であると公に認めて,父なる神に栄光を帰するためでした。

 ここでは、「かがむ([ひざを]曲げる)」に代わるものとして「栄光を帰す」という表現が用いられており、イエスの名による崇拝の対象がイエスではなくエホバであることを示しています。
 ここでは、崇拝はイエスとエホバの両者に向けられているという読み方も可能だと思います。しかし、岩村氏が主張するような「エホバではなくイエス」という解釈には無理があります。ヨハネ 14:14のところでも言わせていただきましたが、こういう本は諸教会にとって毒なのではないでしょうか。


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