新世界訳
エホバの証人の聖書

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コロサイ 1:16-17

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
なぜなら、[他の]すべてのものは、天においても地においても、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ政府であれ権威であれ、彼によって創造されたからです。[他の]すべてのものは彼を通して、また彼のために創造されているのです。また、彼は[他の]すべてのものより前からあり、[他の]すべてのものは彼によって存在するようになりました。」

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。

◇ 新改訳聖書 [第三版] ◇ (ファンダメンタル)
なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。



 キリスト教世界はエホバの証人のことを“キリスト教の異端”であると考え、その新世界訳聖書を“改竄された偽物の聖書”であると評価しています。その主張によると、エホバの証人はキリスト教から逸脱した自前のゆがんだ教義に合わせるために身勝手にも聖書を改竄しています。
 諸教会は新世界訳聖書の改竄箇所の一覧を公表してエホバの証人とその聖書の異端性を訴えてきました。その中で、最大級の問題だとされているのがこの句です。何が問題なのでしょうか。聖書原典にある「すべてのもの」という語を「[他の]すべてのもの」と訳出していることが問題です。
 キリスト教世界はこの聖句のことでエホバの証人を痛烈に非難してきました。キリスト教世界はこのように言います。聖書というものはキリスト教の聖典であり、神の言葉なのですから、聖書を翻訳するに際して訳語を付け加えることは禁止されています。その禁止されたことをやっているのはエホバの証人だけです。このようなことは決して許すことができません。

 エホバの証人は聖書を改竄してしまったのでしょうか。
 この問題を正しく理解するためにまず、実は聖書には同様の聖句がたくさんあるんだ、ということを見ていきましょう。

 まずはヘブライ 11:32です。



ヘブライ 11:32

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
そして,このうえ何を言いましょうか。さらにギデオン,バラク,サムソン,エフタ,ダビデ,またサムエルや[ほかの]預言者たちについて語ってゆくなら,時間が足りなくなるでしょう。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、また預言者たちのことを語るなら、時間が足りないでしょう。



 新世界訳聖書には、新共同訳聖書にはない「[ほかの]」という語があります。こういった訳文は新世界訳だけに見られるのでしょうか。



ヘブライ 11:32

◇ リビングバイブル [新版] ◇ (ファンダメンタル)
これ以上、何をつけ加える必要があるでしょう。 ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、またダビデ、サムエル、そのほかの多くの預言者の信仰について話し始めたら、いくら時間があっても足りません。



 見ると、リビングバイブルも新世界訳聖書と同じように訳しています。

 続いて、詩編 84:10です。



詩編 84:10 (共同訳系聖書では 84:11)

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
あなたの中庭における一日は,[ほかの場所における]千[日]にも勝るからです。 わたしは邪悪の天幕の中で動き回るよりは, わたしの神の家の敷居の所に立つことを選びました。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。主に逆らう者の天幕で長らえるよりは わたしの神の家の門口に立っているのを選びます。



 新世界訳聖書には、新共同訳聖書にはない「[ほかの場所における]」という語があります。こういった訳文は新世界訳だけに見られるのでしょうか。



詩編 84:10 (共同訳系聖書では 84:11)

◇ 口語訳聖書 ◇ (プロテスタント)
あなたの大庭にいる一日は、よそにいる千日にもまさるのです。わたしは悪の天幕にいるよりは、むしろ、わが神の家の門守となることを願います。



 今度は、口語訳聖書が新世界訳聖書と同じ意見です。

 今度はエゼキエル 29:15です。



エゼキエル 29:15

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
それは[ほかの]王国よりも低くなり,もはや[ほかの]諸国民の上に自らを高めることはない。わたしは彼らを非常に少なくして,[ほかの]諸国民を従わせることができないようにする。

◇ 口語訳聖書 ◇ (プロテスタント)
これはもろもろの国よりも卑しくなり、再びもろもろの国民の上に出ることができない。わたしは彼らを小さくするゆえ、再びもろもろの国民を治めることはない。



 新世界訳聖書には、口語訳聖書にはない「[ほかの]」という語があります。こういった訳文は新世界訳だけに見られるのでしょうか。



エゼキエル 29:15

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
それは他の王国よりも低く、もはや彼らが他の国々の上に立つことはない。彼らが他の国々を踏みつけることがないように、わたしは彼らを小さくする。



 この句では新共同訳聖書が新世界訳聖書と同じです。

 さらに、ローマ 2:1です。



ローマ 2:1

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
それゆえ,人よ,あなたがだれであるにしても,[ほかの者を]裁くなら,言い訳はできません。他の人を裁くその事柄において,あなたは自らを罪に定めているからです。それは,裁くあなたが同じことを行なっているからです。

◇ 口語訳聖書 ◇ (プロテスタント)
だから、ああ、すべて人をさばく者よ。あなたには弁解の余地がない。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めている。さばくあなたも、同じことを行っているからである。



 新世界訳聖書には、口語訳聖書にはない「[ほかの者を]」という語があります。こういった訳文は新世界訳だけに見られるのでしょうか。



ローマ 2:1

◇ 新改訳聖書 [第三版] ◇ (ファンダメンタル)
ですから、すべて人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行っているからです。



 この句では新改訳聖書聖書が新世界訳聖書と同じです。

 今列挙したような句は聖書にもっとたくさんあります。挙げていけばきりがないというほどです。聖書の訳文に対する「ほかの」あるいは同様の表現の付け加えということはどの聖書翻訳においても普通に行われているということのようです。
 そうするとどのようなことが言えるでしょうか。キリスト教世界はコロサイ 1:16-17のことで新世界訳聖書を非難していますが、その非難は的外れであるということになりそうです。

 では、翻訳された聖書においてはどうしてこのような付け加えが行われているのでしょうか。



◇ ギリシア語新約語法, 蛭沼寿雄 (表記修正)

 このような「その他の」の省略は、「ギリシア語特有」といわれる。ところが、ヘブライ語でも「その他の」はしばしば省略される。



 日本語を含め、だいたいどの言語でも、「ほかの」という表現は抜けてしまうことがあります。しかし、ギリシャ語はほかの言語と違って特別なのだそうです。聖書のギリシャ語ではほかの言語では考えられないくらい頻繁に「ほかの」が省略されます。ですから、聖書をギリシャ語で読む人は、うっかりそのニュアンスを見落とさないように神経をとがらせなければなりません。
 それで、翻訳された聖書においては、読者にそのような負担を強いないよう、訳文に適宜「ほかの」という表現を付加することが行われています。

 聖書のギリシャ語においてはどのような場合にこのような省略が生じるのでしょうか。構文が“AとグループB”である場合、あるいはこれに類似した場合に省略が生じるようです。この省略のルールには支配的なところがあるようです。つまり、聖書に“AとグループB”という表現があった場合、その意味は「Aを含むB」ではなく「Aを含まないB」になってしまうということのようです。

 この「ほかの」の省略ということが語られるとき、その例として挙げられる定番の句がいくつかあるようです。その一つを見てみましょう。



使徒 5:29

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
それに答えてペテロと[ほかの]使徒たちは言った,「わたしたちは,[自分たちの]支配者として人間より神に従わねばなりません。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
ペトロとほかの使徒たちは答えた。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。

◇ 新改訳聖書 [第三版] ◇ (ファンダメンタル)
ペテロをはじめ使徒たちは答えて言った。「人に従うより、神に従うべきです。

◇ 口語訳聖書 ◇ (プロテスタント)
これに対して、ペテロをはじめ使徒たちは言った、「人間に従うよりは、神に従うべきである。



 ここで気になるのは新改訳聖書と口語訳聖書の訳文です。これらの聖書では、翻訳者がうっかりをし、つい日本語の感覚で文意を考えて訳文を作ってしまったということが想像できます。

 では、論題のコロサイ 1:16-17に戻りましょう。
 聖書のギリシャ語には、ここまで見てきた文法則の支配的な影響を強く受けるという語があります。それは、「すべて」を意味するギリシャ語“パース”です。たとえば聖書に“AとすべてのB”という構文があった場合、それは“AとグループB”という表現のバリエーションなのですから、結果として、その意味は必ず「Aを含まないB」となるようです。
 コロサイ 1:16-17は構文が“AとすべてのB”となっているわけではありませんが、同じことが言えるようです。もっともこの句の場合、文法論を持ち出さなくても単に文意を考えればその意味は明らかです。聖句はイエスがすべてのものを創造したと述べています。これは、この母ジカがこれらの子ジカたちを産みました、と言った場合と同じです。このような時に行為者が受動者のグループに含まれるということは考えられません。



◇ 「ものみの塔」誌1988年6月1日号, ものみの塔聖書冊子協会

 それら「彼によって」創造されたものにイエス自身は含まれていませんでした。






 さて、ここまで論じてきた内容は、コロサイ 1:16-17の問題についての簡単なほうの説明です。この句については、これとは別に難しいほうの説明というものがあります。今度はこれを見てみましょう。



◇ 「目ざめよ!」誌1979年7月8日号, ものみの塔聖書冊子協会 (表記修正)

 とはいえ,「万物はみな御子にあって造られた」のであれば,どうしてイエスが創造物であると言えるのですか。時折聖書は,例外を認める形で「みな」という言葉を用いています。例えば,コリント第一 15章27節(口語訳)はこう記しています。「ところが,万物を[イエス・キリストに]従わせたと言われる時,万物を従わせたかた[神]がそれに含まれていないことは,明らかである」。さらに聖書は,「ひとりの人」アダムによって,「死が全人類にはいり込んだ」という説明を加えています。(ローマ 5:12,口語訳)(アダム以前にはアダムに死をもたらし得る人間はだれもいませんでしたから)死が「はいり込んだ」「全人類」の中にアダムは含まれていませんが,それでもなお,アダムは人間でした。同様に,イエスは彼を通して存在するようになった「すべてのもの」には含まれていませんが,それでもなおイエスは創造された方であり,神の一番最初の創造物です。パンタ(パースの変化形)というギリシャ語は,コリント第一 15章24節や6章18節のような文脈の中では,「他のすべて」という意味になります。(アメリカ訳,モファット訳,コモン・バイブルをご覧ください。)ですから,新世界訳では次のように記されています。「他のすべてのものは彼を通して創造されているのです……彼は他のすべてのものより前からありました」― コロサイ 1:16,17。



 この説明は多くの方には難しいと思います。そこで私は、この難しい説明の簡単な解説と難しい解説とを用意しました。

 ではまずは、難しい説明の簡単なほうの解説です。

 このコロサイ 1:16-17については、ここまで解説したのとほぼ同じことが、文脈を参照することによっても言えるようです。
 では、一つ前の句を含めた、コロサイ 1:15-17を見てみましょう。



コロサイ 1:15-17

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
彼は見えない神の像であって,全創造物の初子です。なぜなら,[他の]すべてのものは,天においても地においても,見えるものも見えないものも,王座であれ主権であれ政府であれ権威であれ,彼によって創造されたからです。[他の]すべてのものは彼を通して,また彼のために創造されているのです。また,彼は[他の]すべてのものより前からあり,[他の]すべてのものは彼によって存在するようになりました。



 聖書のギリシャ語はなにかと省略ということが見られる言語です。コロサイ 1:15に注目すると、16-17節のところでもう一つの省略があることに気づかされます。聖書のギリシャ語の感覚では、15節で「全創造物の」と言った後に16節以降で「すべてのものは」と続くこの言い方は、「すべてのもの」のところで「創造物」が省略されてしまっていることを示唆します。文意を適切に補うとどうなるでしょうか。この文は、“イエスは全創造物の初子であり全創造物の創造者です”ということを述べています。このような文は、聖書のギリシャ語の感覚では、ギリシャ語パースの例外を除外する用法というものがありますから、何もおかしくありませんが、日本語などほとんどの言語の感覚では、理解することができない矛盾した文です。
 この矛盾を避けるために、翻訳された聖書においては、訳文に「ほかの」を加えることができるでしょう。
 ここで、聖書は“全創造物”と呼ばれる二つのグループを述べています。一つは15節で述べられている、本当の意味での“全創造物”です。このグループにイエスは含まれています。もう一つは、16節以降で述べられている“全創造物”で、ギリシャ語パースの例外を除外する用法にしたがってイエスが除外されています。
 この、「ギリシャ語パースの例外を除外する用法」ということについては、「ギリシャ語パースと救いの概念」のほうに詳しく書いていますので参照ください。

 以上は、難しい説明の簡単なほうの解説です。続いて、難しい説明の難しいほうの解説に進みましょう。

 ここで問題となっているのは『認知』ということです。この認知とは何のことでしょうか。ここで言うところの『認知』とは、文で扱われているものの文によっては述べられていない事柄です。
 次のような場面を考えてみましょう。あなたと私は駅前で待ち合わせをしているところです。あなたは私にこう言います。今日はとてもいい天気ですね。この表現には、場所の情報がないという割とどうでもよい欠陥があります。あなたが駅前の天気について述べていることは自明のように思えますが、明言されていないので、絶対にそうだと言い切ることはできません。物好きな私はなんとなく考えてこう主張します。もしかしてもしかするとこの人は今日の火星の天気について述べているかもしれない。この問題は、先の表現に「ここは」という言葉を加えることで解決できます。今日ここはとてもいい天気ですね、という言い方です。しかし、ちょっと考えてください。駅前で人と会った時にわざわざこんな言い方をする人がどこにいるでしょうか。あなたはそんな言い方をしようと思いますか。そういうことはないはずです。言葉というものには、自明であることは省略するということについての暗黙の法則があるものです。日本語の感覚では、今日ここはとてもいい天気ですね、というような言い方はまずありません。とはいえあなたは、困り者の私のためにあえてそういう言い方をすることにします。すると私はすかさずこう答えます。するとあなたはさっきまでどこにいたのですか。この時、付け加えられた「ここは」という表現は、それ自体はここがここであることを述べているにすぎませんが、述べている以上のことをほのめかすという役割を果たします。では、あなたはどこか遠くからこの駅前にやってきたのでしょうか。そうかもしれませんし、そうでないかもしれません。文はそのようなことをほのめかしていますが、そうだと言い切ることはできません。このように、言葉の意味には認知という隠された要素があります。

 認知について理解したところで、今度は「ひろし君とクラスのみんな」という表現について考えてみましょう。このように述べた時、ひろし君はクラスの一員なのでしょうか。少なくとも日本語には、そうだと考える傾向があるようです。しかし、実際には違うかもしれません。このような時、曖昧さを回避するため、この表現に「ほかの」という言葉を加えることができます。「ひろし君とクラスのほかのみんな」という言い方をするなら、ひろし君がクラスの一員であるということがはっきりします。しかしちょっと待ってください。そうだと言い切ることはできるでしょうか。よく疑えば、それはできないということに気づかされます。もし、ひろし君がよその学校からこの学校に遊びに来ているのであれば、ひろし君とクラスのほかのみんな、と言ったとしても、ひろし君がクラスの一員であるということにはなりません。とはいえ、「ほかの」の追加はこのような可能性を低くします。ふつう、このような表現を聞くなら、ひろし君はクラスの一員であると考えてよいでしょう。そしてこの時、この表現は暗に「クラスのみんな」というグループが二つあることを述べていることになります。一つは、ひろし君を含むクラスのみんな、もう一つは、ひろし君を含まないクラスのみんなです。

 聖書には、実際にこのようなややこしいことを考えて書かれたと思われる記述があります。ガラテア 1:19です。これを先に挙げた使徒 5:29と並べて見てみましょう。



使徒 5:29

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
それに答えてペテロと[ほかの]使徒たちは言った,「わたしたちは,[自分たちの]支配者として人間より神に従わねばなりません。

ガラテア 1:19

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
しかしわたしは使徒のうちほかのだれにも会わず,ただ主の兄弟ヤコブに[会った]だけです。



 ここを原典で見てみると、使徒 5:29に「ほかの」という表現はありませんが、ガラテア 1:19にはあります。この違いはどこから生じるのでしょうか。
 ここでの問題点はヤコブが使徒であるかということです。ペテロは使徒です。そのことに疑いはありません。一方のヤコブは、使徒ではないが使徒として扱われたという特殊な立場にあった人です。もしガラテア 1:19で「ほかの」という言葉の挿入がなければ、ヤコブが使徒として扱われているということが否定されるという格好になってしまいます。認知ということが関係していますから、使徒 5:29に「ほかの」の挿入の必要はなく、ガラテア 1:19には必要でしょう。こうして、使徒 5:29とガラテア 1:19はそれぞれ、“使徒たち”の二つのグループについて述べています。

 この、「ほかの」という語が認知をほのめかすということは、新世界訳聖書のコロサイ 1:16-17の訳文にも当てはまります。聖書ギリシャ語の性質上、この句からは「ほかの」が省略されていると考えなければならないようです。そして、省略されている「ほかの」を復元して訳文を組み立てた以上、その訳文がどのような認知を暗示するのかということを考えなければなりません。コロサイ 1:16-17における「ほかの」の語の挿入は、“全創造物”というグループが二つあることをほのめかし、こうして、イエスを“全創造物”の一員にします。

 しかし、ここで注意しておかなければならない点があります。今ここで述べているような暗示は絶対ではないということです。コロサイ 1:16-17における「ほかの」の語の挿入は“全創造物”というグループが二つあることを暗示していますが、これはそうだと言い切れるのでしょうか。
 この問題を解決するには、この文の背景にある認知を示す情報をどこかから取得する必要があります。もっとも、この聖句の場合それは簡単です。答えは1つ前の、コロサイ 1:15にあります。また、これと同じことを述べている句に啓示(黙示録) 3:14があります。さらに、聖書はイエスのことを神の創造の「初子」また「独り子」と呼んでいます。



コロサイ 1:15-17

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
彼は見えない神の像であって,全創造物の初子です。なぜなら,[他の]すべてのものは,天においても地においても,見えるものも見えないものも,王座であれ主権であれ政府であれ権威であれ,彼によって創造されたからです。[他の]すべてのものは彼を通して,また彼のために創造されているのです。また,彼は[他の]すべてのものより前からあり,[他の]すべてのものは彼によって存在するようになりました。

啓示(黙示録) 3:14

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
「また,ラオデキアにある会衆の使いにこう書き送りなさい。アーメンなる者,忠実で真実な証人,神による創造の初めである者がこのように言う。

ヘブライ 1:6

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
しかし,その初子を人の住む地に再び導き入れる際にはこう言われるのです。「そして神のみ使いたちはみな彼に敬意をささげよ」。

ヨハネ 3:16

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
「というのは,神は世を深く愛してご自分の独り子を与え,だれでも彼に信仰を働かせる者が滅ぼされないで,永遠の命を持てるようにされたからです。



 これらの聖句が示しているのは、神による創造は2段階だということです。まず、神がイエスを創造し、創造されたイエスが残りのすべてのものを創造します。このとき神はイエス以外の何物も創造していないので、イエスを「初子」また「独り子」と呼ぶことが可能になります。そうすると、結局のところイエスは全創造物に含まれているということになり、コロサイ 1:16-17で述べられているのは“全創造物”の2番目のグループであるということになります。

 以上は、難しい説明の難しいほうの解説です。

 多くの方にとって、この難しい説明は不要だと思います。言語学上の専門的な理論はしばしば難解です。特に認知言語学はそうで、これを述べる人は、普通の人々から変人か病人かと思われたりするものです。私も、「ギリシャ語パースと救いの概念」という文書を書いたせいで、そう言われたりしています。
 コロサイ 1:16-17の新世界訳聖書の訳文とその解説は、新世界訳聖書の訳業にあたった翻訳者たちが言語学者として優秀であることを示す点では優れていると思います。世の中には聖書の訳本がいろいろとありますが、それらの翻訳者たちのほとんどはこのレベルに達していないでしょう。聖書翻訳者たちにはこういったことを理解して習熟する必要があると思いますが、一般の方々は、聖書を読む際にはこまめに文脈と関連聖句を参照して文意の理解に努めればそれでよいと思います。

 コロサイ 1:16-17を巡る神学上の論争についてはコロサイ 1:15の項をご覧ください。






 コロサイ 1:16-17についてエホバの証人が述べていることは、反対者たちの間にいくらかの混乱を生じさせているようです。訳文への「ほかの」の挿入はコロサイ 1:16-17で述べられていないところの“全創造物”にイエスが含まれるということを暗示していますが、このあたりの理論づけが理解できないという方は多いようです。これについて見かけ上は間違っていない解説を述べる器用な人もいますが、彼らもたいていはコロサイ 1:15を無視したり隠ぺいしたりしながらそれを述べるので、聞き手また読者に誤解が広まってしまうようです。

 また、2013年には新世界訳聖書の改訂英語版が発表されましたが、改訂版では訳文への訳語の挿入を明示する角括弧の使用が取りやめとなったため、キリスト教世界を中心に、新世界訳聖書の改竄についての懸念が広がる事態となっています。



コロサイ 1:16-17

◇ 新世界訳参照資料付き聖書英語版 (NW/Reference Bible) ◇ (エホバの証人)
because by means of him all [other] things were created in the heavens and upon the earth, the things visible and the things invisible, no matter whether they are thrones or lordships or governments or authorities. All [other] things have been created through him and for him. Also, he is before all [other] things and by means of him all [other] things were made to exist,

◇ 新世界訳聖書改訂英語版 (NWT) ◇ (エホバの証人)
because by means of him all other things were created in the heavens and on the earth, the things visible and the things invisible, whether they are thrones or lordships or governments or authorities. All other things have been created through him and for him. Also, he is before all other things, and by means of him all other things were made to exist,



◇ 「『新世界訳』の改訂版」, 真理のみことば伝道協会 (表記修正)

 近いうちに、エホバの証人の『新世界訳』の改定された日本語版が出るとの噂が流れています。……恐らく、英語版と同じ訂正が加えられるでしょう。……大きな変更は、角かっこの使い方です。今までの『新世界訳』では、文の意味を分かりやすくするために聖書の本文にない言葉を加えた場合、その言葉を角かっこで囲んでいましたが、改訂版では、それがなくなっています。例えば、コロサイ書1章16―17節において、ものみの塔は、キリストが被造物に含まれることを示すために、4度も「他の」という言葉を書き加えていますが、改訂版には、もはや角かっこがなく、まるで原文がそうなっているかのような形になっています。注意書きもありません。『新世界訳』の改訂版によって、更に多くの人々が惑わされることを心配します。