新世界訳
エホバの証人の聖書

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テサロニケ第一 3:11

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
では,わたしたちの神また父ご自身が,そしてわたしたちの主イエスが,わたしたちの道を都合よくあなた方のほうに向けてくださいますように。

◇ 新改訳聖書 [第三版] ◇ (ファンダメンタル)
どうか、私たちの父なる神であり、また私たちの主イエスである方ご自身が、私たちの道を開いて、あなたがたのところに行かせてくださいますように。



 まず初めに注目するのは「そして」のところです。
 この聖句では、新改訳聖書の訳文がかなり不自然です。神はイエスであるという意味の訳文になっています。これはどうしてでしょうか。



◇ 「新共同訳新約聖書略解」, 日本基督教団出版局

 動詞の三人称単数形に即して「神御自身、すなわち私たちの父と主イエスが」と訳す可能性もあるが、父なる神とイエスの二位一体や祈願の対象・相手としての同格がどの程度認められるか、問題が残る。



 ここで前もって知っておかなければならないのは、聖書のギリシャ語では“AとB”という表現が“AつまりB”の意味で用いられることがあるという点です。
 これはかなりの混乱の原因となります。たとえばこの句のように「神とイエス」という表現が聖書に出てきた場合、それを「神であるイエス」と読むことが可能になるからです。
 とはいえ、ギリシャ語の言語感覚というものがありますので、普通はそういうことにはなりません。考えてみてください。もしこのような読み替えが常に可能であるとしたら、聖書のギリシャ語は言語として成立するでしょうか。到底無理そうです。

 一方、現代のキリスト教には「三位一体」の教義があります。「三位一体」の教義は「キリスト(イエス)は神である」ということを教えていますので、聖書を翻訳する人が三位一体に傾倒していたりすると、少々無理があっても「神とイエス」を「神であるイエス」と訳してしまいたいという動機が働いたりします。
 そこで出てくるのが単数形の話です。この文、主語は複数ですが、動詞(「道を開く」)が単数です。このような文は、複数の人物(ここでは神とイエス)が同一の行動を共有することを示唆していますが、違う解釈をして、神とイエスは同一人物であることを示唆していると主張することも可能なのだそうです。

 しかしこれは相当に無理のある話のようです。複数に用いられる単数についても、やはりギリシャ語の感覚というものがあるからです。



使徒 16:31

◇ 新改訳聖書 [第三版] ◇ (ファンダメンタル)
ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と言った。

ガラテア 6:18

◇ 新改訳聖書 [第三版] ◇ (ファンダメンタル)
どうか、私たちの主イエス・キリストの恵みが、兄弟たちよ、あなたがたの霊とともにありますように。アーメン。



 使徒 16:31では「救われる」が単数です。だからといって、「あなた」と「あなたの家族」が同一人物だということにはなりません。
 ガラテア 6:18では「霊」が単数です。だからといって、「兄弟たち」は一人だけであるということにはなりません。

 結局、新改訳聖書もここの部分は修正してしまいました。



テサロニケ第一 3:11

◇ 新改訳聖書 [2017年版] ◇ (ファンダメンタル)
どうか、私たちの父である神ご自身、私たちの主イエスが、私たちの道を開いて、あなたがたのところに行かせてくださいますように。



 続いて注目するのは、「道を都合よく向ける」の部分です。
 ほとんどの聖書はこの部分を「道を開く」と訳していますが、新世界訳聖書はそのように訳していません。これはどうしてでしょうか。



◇ 「増補改訂新約ギリシヤ語辞典」, 岩隈直, “κατευθύνω”の項 (表記修正)

テサロニケ第一 3:11では、あるいは「われらの道をまっすぐに向ける、目的地に無事に導く」とも解される。



◇ 「新共同訳新約聖書注解」, 日本基督教団出版局

 《開いてくださいますように》の原語はカテウテュノー「まっすぐにする、導く」の希求法で、神が、テサロニケへ行く道に横たわっている障害物を取り除いてまっすぐにしてくれるようにということと、その道を案内して導いてくれるようにという二つの意味がこめられている。



 新世界訳聖書は、原語の言い回しによく留意して、そのニュアンスをより詳しく訳出しようと努力したようです。「障害物がなくなる」と「(曲がりくねっている道が)まっすぐになる」とが合わさって「都合よく向ける」になっています。

 ここでちょっと気になるのは、ほとんどの聖書で用いられている「開く」は適切かということです。辞書や解説書を見る限りでは、この語が示しているのは、閉ざされた道が開くことではなく、困難な道が容易な道になることであるように思えるからです。単純に語義に注目しても、これは「向ける」であって「開く」ではないようです。






 エホバの証人統一協会対策香川ネット正木弥氏は、この聖句についてこのように批評しています。



◇ 「ものみの塔の新世界訳聖書は改ざん聖書」, 正木弥 (表記修正)

 新世界訳で“都合よく”を挿入したのは書き過ぎでしょう。それよりも新世界訳で"そして"と訳したのは誤りです。なぜなら、ギリシャ語本文の述語動詞κατευθυναιが単数ですから。そのことは、王国行間逐語訳で"he straigthen"と訳しているのですから、ものみの塔は了解しているはずです。すると、"and"は「そして」ではなく「また」と訳すべきです。
 この誤訳は意図的で、ケアレス・ミスではありません。「また」とするほうが、父なる神と主イエスとが、同格、同一となり、単数で文法的には正しいのですが、ものみの塔・エホバの証人にとっては自分たちの教理に反する結果となります。そこで、この事実を弱め、父なる神と主イエスが別存在だと印象づけられるようにとの狙いで「そして」と訳したのです。みずからの教理のためには誤訳もいとわない、そういうやり方なのです。