エホバの証人の聖書

テサロニケ第二 1:12

新世界訳聖書(エホバの証人)
それは、わたしたちの神および主イエス・キリストの過分のご親切にしたがって、わたしたちの主イエスの名があなた方の中で栄光を受け、またあなた方も彼との結びつきのもとに[栄光を受ける]ためです。

新改訳聖書(ファンダメンタル)
それは、私たちの神であり主であるイエス・キリストの恵みによって、主イエスの御名があなた方の間であがめられ、あなた方も主にあって栄光を受けるためです。


 新改訳聖書で、「神であるキリスト」となっているところが、新世界訳聖書では「神およびキリスト」となっています。そのため、エホバの証人に反対する人たちは、「エホバの証人は聖書のこの句を改竄してしまった」と主張しています。
 新世界訳は改竄されているのでしょうか。

新共同訳聖書(カトリックとプロテスタント)
それは、わたしたちの神主イエス・キリストの恵みによって、わたしたちの主イエスの名があがめられ、あなたがたも主によって誉れを受けるようになるためです。

 新共同訳聖書の内容からすると、どうやら新世界訳聖書が改竄されているとは言えないようです。


 この聖句は、原典を見ると、文法的に二通りの読み方が可能なんだそうです。いわゆる『シャープの法則』が問題になっています。この点については、「グランヴィル・シャープの法則」をご覧ください。

 シャープの法則が関係している同じような問題はペテロ第二 1:1にもあります。

ペテロ第二 1:1
新世界訳聖書(エホバの証人)
イエス・キリストの奴隷また使徒であるシモン・ペテロから、わたしたちの神救い主イエス・キリストの義により、わたしたちと同じ特権としての信仰を得ている人々へ:
現代訳聖書(プロテスタント)
イエス・キリストに仕えている使徒シモン・ペテロから、私たちの神であり救い主であるイエス・キリストによって、私たちと同じ尊い信仰を与えられた方々へ。
口語訳聖書(プロテスタント)
イエス・キリストの僕また使徒であるシメオン・ペテロから、わたしたちの神救主イエス・キリストとの義によって、わたしたちと同じ尊い信仰を授かった人々へ。


 この聖句について、岩村義男氏は「神のみ名は「エホバ」か」の本の中でこのように指摘しています。

『新世界訳』はギリシャ語の kai を「および」とすることによって、あたかも二人に言及しているかのようです。ギリシャ語の文法の「グランビル・シャープの法則」を考慮してみましょう。「神」と「キリスト」の二つの名詞が同じ格で、定冠詞が一つしかついていない場合は、全く同一人物になるという文法ルールがあります。
さて、ギリシャ語キュリオス(主)は固有名詞のように無冠詞で用いられるため、kai を「と」と訳している聖書は確かにほかにも存在します。しかし、『新聖書注解』新約3(190頁)は、テトス2章13節のギリシャ語の kai について詳述しています。……
(表記修正)

 岩村氏が書いたものとしてはずいぶんと正直な文だと思います。新世界訳聖書と同じ訳し方をしている聖書があることを自分から指摘していますから。自分の都合に合わせてでたらめなことを言わなかったことは賞賛すべきではないかと思います。
 彼は新改訳聖書の読みを支持するにあたってテトス 2:13にかかわる議論を根拠としています。これも彼にしてはまともな主張であると思います。これについてはテトス 2:13の項目を参照してください。

 さて、このあとの部分を読むと、彼がまたもとの調子に戻っている様子を見ることができます。

(新約聖書について、)証人に、「神はだれですか」と尋ねますと、エホバと返答します。「主の主とはだれですか」と尋ねても、エホバと答えが返ってきます。「では神は何人いるでしょうか」と尋ねると、「もちろん一人」と答えます。次に、「では主は何人いるでしょうか」と尋ねてみてください。(表記修正)

 「“エホバ”復元問題」の記事の冒頭で説明していますが、新約聖書には二人の主がいます。しかし、岩村氏はそれはおかしいことだと考えています。主はイエス・キリスト一人しかいないというのが彼の主張ですが、そうであると証人たちを説得するため用いる質問には彼の異常な論理が如実に反映されています。反エホバ主義もここまで言うようになると末期症状ではないかと私は思います。


 「エホバの証人統一協会対策香川ネット」正木弥氏は、「ものみの塔の新世界訳聖書は改ざん聖書」において、やはりテトス 2:13と関連させながらこう述べています。

この二つの箇所はκαι(and)の訳し方の問題です。そもそもギリシャ語文法にはグランビル・シャープの法則があります。これは「二つの名詞が同じ格(主格とか目的格とかの格)であって、定冠詞が一つしかついてない場合は、二つのものではなく、一つのものを表している」というものです。具体的にいうと「the A and B」は「AとBと」ではなく「AにしてB」という意味です。この原則によって訳すと、上記第二テサロニケ1:12は、「私たちの神および主イエス・キリストの…」ではなく、「わたしたちの神にして主なるイエス・キリスト・・・」となります。また、上記テトス2:13は、これが二段階になって、Aであり、aにしてbのBを…という構造です。しかし、新世界訳(日本語・右)は「…希望と…神および救いキリスト・イエスの栄光ある顕現とを…」と訳し、文法原則を無視しています。これは、イエス・キリスト=神という図式になることが自分たちの教理の手前、都合が悪いのです。 なお、第一ペテロ1:3では「私たちの主イエス・キリストの神また父」と訳し、グランビル・シャープの法則に従っていますし、第二ペテロ1:11でも、また、黙示録12:17でもそうしています。つまり都合の悪くないところはそうしているのですから、上記の第二テサロニケ1:12とテトス1:13は意図的誤訳といえましょう。
なお、第二テサロニケ1:12の原語χαρινの意味は行為、愛顧、寵愛、恵み、恩恵などであって、感情のこもった言葉です。これを英文新世界訳ではundeserved kindness、和文新世界訳では"過分のご親切"と訳していますが、過分であろうとも"ご親切"といった情感のうすい言葉ではありません。新世界訳が多く用いる訳語ですが不適切な訳といえるでしょう。
(表記修正)

 詳細については「グランヴィル・シャープの法則」の記事を見ていただくとして、ここではその他の聖句を見てみましょう。

ペテロ第一 1:3
新世界訳聖書(エホバの証人)
わたしたちの主イエス・キリストの神また父がたたえられますように。[神]はその大いなる憐れみにより,イエス・キリストの死人の中からの復活を通して,生ける希望への新たな誕生をわたしたちに与えてくださったのです。

 ここはギリシャ語で、英語に直して“the God and father”という表現となっています。ここで「神」と「父」とが“the A nad B”の形になっていますので、三位一体論的なシャープの法則に従えば、ここは文法上必ず「神である父」と訳出しなければなりませんし、文法上必ず両者を同一の存在と理解しなければなりません。
 新世界訳聖書としてはこの結論に異議はないようです。しかし、それはシャープの法則が正しいと考えているからではなく、文法の話を別として「神」と「父」とが同一であることが自明だからです。また、和文新世界訳などは訳文をよく見ると「神である父」ではなく「神また父」としており、文法上の考え方について中立的な立場を取っている様子が見て取れます。
 この聖句では、まず文章全体を一般的なギリシャ語文法に照らして考えることができます。そうすると、神とキリストが区別されていることが見て取れます。そして、そのような文章の中にシャープの法則に関わる部分があります。ですから、ここでもともと信頼性のないシャープの法則を持ち出しても、シャープの法則の問題点が明らかになるだけです。

ペテロ第二 1:11
新世界訳聖書(エホバの証人)
事実,そうすることによって,わたしたちの主また救い主イエス・キリストの永遠の王国に入る[機会]が,あなた方に豊かに与えられるのです。

 ここは“the Lord of us and Savior Jesus Christ”となります。新世界訳の訳文はやはり中立的です。

黙示録(啓示) 12:17
新世界訳聖書(エホバの証人)
それで龍は女に向かって憤り,彼女の胤のうちの残っている者たち,すなわち,神のおきてを守り行ない,イエスについての証しの業を持つ者たちと戦うために出て行った。

 正木氏の文章では啓示 12:17となっていますが、これがどうもよく分かりません。たぶんほかの聖句と間違えているのだと思います。

 ギリシャ語カリスについての正木の指摘は検討に値すると思います。カリスに「親切」という訳語を充てることは別にかまわないと思いますが、この語には日本語で言う親切よりはるかに広い意味がありますので、翻訳者はそのニュアンスの訳出に努めなければなりません。新世界訳聖書においてもそのような努力はいろいろと払われていて、様々な訳出を見ることができます。
 注意が必要なのは、聖書においてカリスはしばしばキリストの贖いを明示する(もしくは暗示する)用語として用いられていることです。この聖句においてもそうであるようです。聖書翻訳の一般的なルールでは、カリスが贖いを指している場合には特定の訳語を充てるよう努めることになっています。英語では“grace(優美)”、日本語では「恵み」の使用が一般的です。しかし、新世界訳聖書の意見では、英語“grace”はそもそも訳語の意味が原語に合っていないので別の訳語に替えるべきです。それで考え出されたのが英訳語“undeserved kindness(受ける資格のない親切)”です。この訳語が選ばれた根拠について、「聖書に対する洞察」はこう述べています。

学者のR・C・トレンチは「新約聖書の同義語」と題する本の中で,カリスには「返礼を求めたり期待したりせずに無償で施される恵み[という意味が含まれて]いる。したがって,この言葉は人間に対する神の愛ある親切の完全かつ絶対的な無償性を説明するために……[キリスト教の著作に見られるように]新たな仕方で強調されるようになる素地を備えていた。例えば,アリストテレスは[カリス]を定義して,まさしくこの点を専ら強調している。すなわち,その恵みはお返しを期待せずに無償で施されるものであり,その唯一の動機は与える側の惜しみなく与える気持ちや気前のよさなのである」と述べています。(ロンドン,1961年,158ページ)ジョセフ・H・セアは自分の編さんした辞典の中で次のように述べています。「この言葉[カリス]には,受けるに値しなかったものを人に授ける親切という考えが含まれている。……新約の筆者たちは,神が不相応な者たちにさえ恵みを施し,罪人たちの違反を赦し,キリストによるとこしえの救いを受け入れるよう懇願する際に示されるあの親切に関連して[カリス]を際立った仕方で用いている」。(「新約聖書希英辞典」,1889年,666ページ)カリスはギリシャ語のカリスマという別の言葉と密接に関連しており,その言葉に関してウィリアム・バークレーの「新約聖書用語集」(1956年,29ページ)は次のように述べています。「無償の過分の賜物,労することもなく功績もない人に与えられたものというのがこの言葉[カリスマ]の基本的な考えである」。―コリ二 1:11,行間と比較。カリスが上記のような意味で,つまりエホバが施してくださる親切の場合のように,受けるに値しない者に施される親切を指して用いられる場合,英語の“undeserved kindness”(過分のご親切)という言葉はギリシャ語の表現に対応するうってつけの訳語です。―使徒 15:40; 18:27; ペテ一 4:10; 5:10,12。

 英訳語“undeserved kindness”の示すニュアンスは、従来の“grace”などと比べると、邦訳聖書で用いられている「恵み」のニュアンスに近いようです。
 この英訳語に合わせて和文新世界訳聖書が採用したのが「過分のご親切」という訳語です。この訳語は、“undeserved kindness”の意味合いを保ちながら、さらに異なるニュアンスも持っています。「過分の……」の言い回しは、平民が天皇に対して感謝を述べるような限られた場面でしばしば礼儀的に用いられるものです。このような言い方は与え手と受け手の間の身分の差を明らかにしますし、また、この語の使用により、受けるにあたっての受け手の感謝が慎み深く示されます。
 すこし話が脱線しますが、「過分のご親切」という表現は日本語としては変だと言う方がいます。新世界訳聖書にはおかしな日本語表現がたくさんあり、その代表例がこれだと言います。そういう人は日本語に疎いのだと思います。
 こうして、新しい訳語選択に至った過程を考えると、「過分のご親切」という訳語の選択にはそれなりの根拠があることが理解できます。しかし、この訳語がギリシャ語カリスに対する理想的な訳語であるかと問えば、そうではないように思います。新世界訳聖書の考え方はカリスの特定の意味に注目するものですから、別の意味合いに対しては疎くなるところがあります。これは日本語の「恵み」についても言えることで、カリスにはもっと別の訳語を充てるべきだと言われる方もいます。たとえば、正木氏が述べている「愛顧、寵愛」というような訳語です。
 これについての満足できる結論はないように思います。

 行き過ぎがないように一言加えておきたいと思います。ここで問題となるのはギリシャ語カリスの意味が広すぎることであって、その語の意味が深いことではありません。また、その語によって表されている神の愛が深いことであって、その語の意味が深いことではありません。時折、聖書に対する信仰が妄想の域に達した結果、聖書で用いられているギリシャ語の様々な語の意味の深さを力説される方がおられますが、そういうギリシャ語崇拝的な考え方には注意しなければなりません。仮にそういう思考の罠にはまらなかったとしても、あまりギリシャ語の細かいニュアンスにこだわり続けると、結果的にそうなってしまうということもあります。日本では詳訳聖書がそのよい例です。


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