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テサロニケ第二 1:12
◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
それは,わたしたちの神および主イエス・キリストの過分のご親切にしたがって,わたしたちの主イエスの名があなた方の中で栄光を受け,またあなた方も彼との結びつきのもとに[栄光を受ける]ためです。
◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
そのようにして,私たちの主イエスの名が皆さんの間でたたえられ,イエスと結ばれた皆さんもたたえられますように。それは,私たちの神と主イエス・キリストの惜しみない親切の表れです。
◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
それは、私たちの神と主イエス・キリストの恵みによって、私たちの主イエスの名があなたがたの間で崇められ、あなたがたも主にあって栄光を受けるようになるためです。
◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
それは、わたしたちの神と主イエス・キリストの恵みによって、わたしたちの主イエスの名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主によって誉れを受けるようになるためです。
◇ 口語訳聖書 ◇ (プロテスタント)
それは、わたしたちの神と主イエス・キリストとの恵みによって、わたしたちの主イエスの御名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主にあって栄光を受けるためである。
◇ 新改訳聖書 [2017年版] ◇ (ファンダメンタル)
それは、私たちの神であり主であるイエス・キリストの恵みによって、私たちの主イエスの名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主にあって栄光を受けるためです。
◇ 新改訳聖書 [第三版] ◇ (ファンダメンタル)
それは、私たちの神であり主であるイエス・キリストの恵みによって、主イエスの御名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主にあって栄光を受けるためです。
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この聖句では、新改訳聖書の訳文に他との相違が見られます。多くの聖書で「神とキリスト」となっているところが「神であるキリスト」となっています。これはどうしてでしょうか。
聖書の書かれたギリシャ語では、接続詞が等価ということを示唆することがあるそうです。わかりやすく英語で説明すると、“A and B”という言い方が「AとB」ではなく「AであるB」を意味することがあるということです。しかしこれはまれなことで、さらに文法論の観点から見た場合には何の規則性もありません。
しかし、文法上の規則はあると考える人たちもいます。そのような人たちはこのように主張します。“A and B”という言い回しは、その冒頭に冠詞がついて“the A and B”の形になった場合には、AとBの両者が同一であることを示唆する。この規則のことを「グランヴィル・シャープの法則」と言います。
この聖句ではシャープの法則にあてはまる言い回しが用いられていて、新改訳聖書はそのことを根拠に「神であるキリスト」という訳文を採用しました。現代のキリスト教には三位一体の教えがありますから、そう訳すほうが教会にとっては都合がいいというところがあります。
とはいえ、聖書のギリシャ語を扱う専門家たちのほとんどは、このような法則は実際には存在しないと考えています。
シャープの法則についての総合的な情報は「グランヴィル・シャープの法則」のほうにありますので参照してください。
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職業的反対者の岩村義男氏は「神のみ名は「エホバ」か」という本の中でこの聖句についてこのように主張しています。
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◇ 「神のみ名は「エホバ」か」, 岩村義男, いのちのことば社
『新世界訳』はギリシャ語の και を「および」とすることによって、あたかも二人に言及しているかのようです。ギリシャ語の文法の「グランビル・シャープの法則」を考慮してみましょう。「神」と「キリスト」の二つの名詞が同じ格で、定冠詞が一つしかついていない場合は、全く同一人物になるという文法ルールがあります。
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さらに彼は、ユダ 4を示しながら、このようなことも言っています。
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ユダ 4
◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
その理由は,聖書によりずっと以前からこの裁きに定められていたある人々が忍び込み,[その]不敬虔な者たちが,わたしたちの神の過分のご親切をみだらな行ないの口実に変え,わたしたちの唯一の所有者また主であるイエス・キリストに不実な者となっているからです。
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◇ 「神のみ名は「エホバ」か」, 岩村義男, いのちのことば社
証人に、「神はだれですか」と尋ねますと、エホバと返答します。「主の主とはだれですか」と尋ねても、エホバと答えが返ってきます。「では神は何人いるでしょうか」と尋ねると、「もちろん一人」と答えます。次に、「では主は何人いるでしょうか」と尋ねてみてください。
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聖書には二人の主がいます。神であるエホバと、キリストであるイエスです。そうすると、神は一人、主は二人ということになるのですが、岩村氏としてはそれはおかしいと思うようです。
エホバの証人統一協会対策香川ネットの正木弥氏が製作した「ものみの塔の新世界訳聖書は改ざん聖書」という文書はこの聖句についてこのように解説しています。
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◇ 「ものみの塔の新世界訳聖書は改ざん聖書」, 正木弥 (表記等修正)
この二つの箇所はκαι(and)の訳し方の問題です。そもそもギリシャ語文法にはグランビル・シャープの法則があります。これは「二つの名詞が同じ格(主格とか目的格とかの格)であって、定冠詞が一つしかついてない場合は、二つのものではなく、一つのものを表している」というものです。具体的にいうと「the A and B」は「AとBと」ではなく「AにしてB」という意味です。この原則によって訳すと、上記第二テサロニケ1:12は、「私たちの神および主イエス・キリストの…」ではなく、「わたしたちの神にして主なるイエス・キリスト・・・」となります。また、上記テトス2:13は、これが二段階になって、Aであり、aにしてbのBを…という構造です。しかし、新世界訳(日本語・右)は「…希望と…神および救いキリスト・イエスの栄光ある顕現とを…」と訳し、文法原則を無視しています。これは、イエス・キリスト=神という図式になることが自分たちの教理の手前、都合が悪いのです。 なお、第一ペテロ1:3では「私たちの主イエス・キリストの神また父」と訳し、グランビル・シャープの法則に従っていますし、第二ペテロ1:11でも、また、黙示録12:17でもそうしています。つまり都合の悪くないところはそうしているのですから、上記の第二テサロニケ1:12とテトス2:13は意図的誤訳といえましょう。
なお、第二テサロニケ1:12の原語χαρινの意味は行為、愛顧、寵愛、恵み、恩恵などであって、感情のこもった言葉です。これを英文新世界訳ではundeserved kindness、和文新世界訳では"過分のご親切"と訳していますが、過分であろうとも"ご親切"といった情感のうすい言葉ではありません。新世界訳が多く用いる訳語ですが不適切な訳といえるでしょう。
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シャープの法則についてはすでに見ているとおりですが、ここで気になるのは「過分のご親切」についての指摘です。これはどうなのでしょうか。
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◇ 「聖書に対する洞察」, 『親切』の項, ものみの塔聖書冊子協会
学者のR・C・トレンチは「新約聖書の同義語」と題する本の中で,カリスには「返礼を求めたり期待したりせずに無償で施される恵み[という意味が含まれて]いる。したがって,この言葉は人間に対する神の愛ある親切の完全かつ絶対的な無償性を説明するために……[キリスト教の著作に見られるように]新たな仕方で強調されるようになる素地を備えていた。例えば,アリストテレスは[カリス]を定義して,まさしくこの点を専ら強調している。すなわち,その恵みはお返しを期待せずに無償で施されるものであり,その唯一の動機は与える側の惜しみなく与える気持ちや気前のよさなのである」と述べています。(ロンドン,1961年,158ページ)ジョセフ・H・セアは自分の編さんした辞典の中で次のように述べています。「この言葉[カリス]には,受けるに値しなかったものを人に授ける親切という考えが含まれている。……新約の筆者たちは,神が不相応な者たちにさえ恵みを施し,罪人たちの違反を赦し,キリストによるとこしえの救いを受け入れるよう懇願する際に示されるあの親切に関連して[カリス]を際立った仕方で用いている」。(「新約聖書希英辞典」,1889年,666ページ)カリスはギリシャ語のカリスマという別の言葉と密接に関連しており,その言葉に関してウィリアム・バークレーの「新約聖書用語集」(1956年,29ページ)は次のように述べています。「無償の過分の賜物,労することもなく功績もない人に与えられたものというのがこの言葉[カリスマ]の基本的な考えである」。―コリ二 1:11,行間と比較。
カリスが上記のような意味で,つまりエホバが施してくださる親切の場合のように,受けるに値しない者に施される親切を指して用いられる場合,英語の“undeserved kindness”(過分のご親切)という言葉はギリシャ語の表現に対応するうってつけの訳語です。―使徒 15:40; 18:27; ペテ一 4:10; 5:10,12。
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「過分のご親切」という訳は、聖書原典の示すニュアンスをかなり厳密に示したもののようです。
「過分の……」という言い回しは、たとえば平民が天皇に対して感謝を述べるような、限られた場面で礼儀的に用いられます。このような言い回しは与え手と受け手の間の身分の差を明らかにし、受け手の感謝を慎み深く示すものです。これは神とキリストから与えられた恵みを語るのにふさわしい表現だと言えるでしょう。ただ、このような表現を一般市民が聞いたり使ったりすることはなく、このような言い回しはすでに知られなくなっています。新世界訳聖書の最新の版では、誰でも理解できる「惜しみない親切」へと訳語が変更されています。
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