新世界訳
エホバの証人の聖書

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テモテ第一 3:11

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
同様に,女たちもまじめで,人を中傷したりせず,習慣に節度を守り,すべての事に忠実であるべきです。

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
女性たちも,真面目で,中傷したりせず,節度をわきまえ,あらゆる点で忠実であるべきです。

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
同じように、奉仕者の妻たちも気品があり、人をそしらず、冷静で、あらゆる点で忠実な人でなければなりません。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
婦人の奉仕者たちも同じように品位のある人でなければなりません。中傷せず、節制し、あらゆる点で忠実な人でなければなりません。

◇ 口語訳聖書 ◇ (プロテスタント)
女たちも、同様に謹厳で、他人をそしらず、自らを制し、すべてのことに忠実でなければならない。

◇ 新改訳聖書 [2017年版] ◇ (ファンダメンタル)
この奉仕に就く女の人も同じように、品位があり、人を中傷する者でなく、自分を制し、すべてに忠実な人でなければなりません。

◇ 新改訳聖書 [第三版] ◇ (ファンダメンタル)
婦人執事も、威厳があり、悪口を言わず、自分を制し、すべてに忠実な人でなければなりません。



 この聖句では、「女たち」という言い回しをどのように理解して翻訳するかが課題になっているようです。



◇ 「新共同訳新約聖書略解」, 日本基督教団出版局 (表記修正)

 《婦人の奉仕者たち》と訳された言葉は、直訳すれば「女性たち」である。そのため、その意味について注解者たちの意見が分かれる。もし女性一般を指すものでないとすれば、女性執事か執事の妻である。



 このように意見が分かれるのは、この聖句の文脈が役職ということについて述べているように思えるからです。

 ここの記述を見てみると、まず「監督者」になる者の資格ということが論じられています。これは多くの教会で言うところの「牧師」、「司祭」、「長老」のことだと考えられています。
 続いて、「奉仕者」の資格ということが論じられています。そうすると、この「奉仕者」というのは役職なのだろうか、ということが問題になってきます。キリスト教の考え方では、キリスト教の信者はすべて奉仕者です。しかし一般的な解釈では、ここで言われている「奉仕者」は役職としての奉仕者であって信者全般を指しているのではないとされています。どうしてそういう考え方をするかというと、「年長者」という言葉にそのような用法があるからです。この語は年寄り全般を指す語ですが、聖書にはこれを役職として扱う用法があり、その場合、それは先に言ったところの「監督者」の意味になります。
 そこに、いまテーマとなっている「女たち」についての記述が現れますので、これはきっと役職としての女たちについて述べているだろう、という見解が生じることになります。ところが、この「女たち」をそのように解釈すると、女性が役職に就くことを認めない聖書の教えと矛盾してしまうことになってしまいます。現に、この文脈自体がその方針を述べていますので、この反論にはかなりの説得力があります。



テモテ第一 2:11-3:11

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
女性は全く従順に,静かに学ぶべきです。女性が教えたり男性に権威を振るったりすることを,私は許可しません。女性は静かにしているべきです。アダムが最初に造られ,その後にエバが造られたからです。また,アダムは欺かれませんでしたが,エバはすっかり欺かれて違反を犯しました。女性は,信仰と愛と清さを保ち,健全な考え方をしているなら,子供を産むことによって守られるでしょう。
次の言葉は真実です。監督になろうと努めている人は,立派な仕事を望んでいます。ですから,監督は,とがめられるところがなく,1人の妻の夫で,節度をわきまえ,健全な考え方をし,秩序正しく行動し,人をよくもてなし,教える資格がなければなりません。また,酩酊せず,暴力を振るわず,分別があり,争いを好まず,お金を愛さず,家庭を立派に治め,子供をよくしつけて従わせているべきです。(自分の家庭を治められないのであれば,神の会衆を世話することなどできるでしょうか。)クリスチャンになって間もない人であってはなりません。思い上がって,悪魔と同じように断罪されるようなことにならないためです。さらに,会衆外の人からも良い評判を得ているべきです。人々から非難され,悪魔のわなに陥る,ということがないようにするためです。
援助奉仕者も,真面目で,二枚舌を使わず,多量の酒を飲まず,貪欲に不当な利益を得ようとせず,やましいところのない良心を保って,神聖な秘密である信仰の道をしっかり歩んでいるべきです。
この人たちは,その仕事にふさわしいかどうか,まず試されなければなりません。非難されるところがなければ,奉仕者として仕えさせることができます。
女性たちも,真面目で,中傷したりせず,節度をわきまえ,あらゆる点で忠実であるべきです。



 しかし、キリスト教諸教会の現状を見ると、この聖句を根拠に女性に役職を与えている教会もあったりします。
 このような教会では、追加の根拠としてしばしばローマ 16:1が示されます。そこには女性が奉仕者の役職に就いた実例が記されているとされています。



ローマ 16:1

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
皆さんに,ケンクレアの会衆の奉仕者である,私たちの姉妹フォイベを紹介します。



 しかし、すでに述べたとおり、聖書の考え方ではクリスチャンはすべてが奉仕者ですから、聖書に女性の奉仕者が出てくることは何の根拠にもなりません。
 もしテモテの聖句の「女たち」が役職であるなら、こちらの聖句の「奉仕者」も役職であるかもしれない、というくらいのものです。「女たち」が役職であるのならなぜ「奉仕者」と言うのか、という問題もあります。ここは「ケンクレアの会衆の女であるフォイベ」じゃないのかということです。






 ではここで、この問題についての個人的見解を述べたいと思います。

 この問題を解決するための鍵となるのはこの聖句だと私は考えています。



ヨハネ第二 1

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
年長の者から,選ばれた女性とその子供たちへ。私はあなたたちを本当に愛しています。私だけでなく,真理を知った人たち皆が,あなたたちを愛しています。



 ヨハネは手紙を「選ばれた女性とその子供たち」に書き送りました。ここで問題となるのは、なぜヨハネは手紙の対象から男を除外したのかということです。
 この疑問をよく考察すると、ヨハネはここで、「選ばれた女性」を「一般信者」、「子供」を「未信者」の意味で用いているらしいという結論が出てきます。
 そうすると今度は、当時のキリスト教には一般信者の総称としての「女たち」という言い回しがあったのではないか、ということが考えられます。
 男性信者は役職に就くことにより一般信者ではなくなりますが、役職に就くことを禁じられている女性信者は全員が一般信者です。つまり「女たち」は一般信者の代表格であるということになります。聖書には、その代表例をもって全体の略称とするという言語感覚があります。たとえば、「割礼」は「律法」の代表的規則なので、「アモリ部族」は「カナン民族」の代表的部族なので、という具合です。
 原始キリスト教とその書物である聖書には「一般信者」という用語がありませんから、一般信者を呼ぶにあたっては「監督や奉仕者ではない男性たちと女性たち」という言い方をするしかないのですが、ところがそのような言い方は聖書に全く出てこなかったりします。そして、テモテへ書かれたパウロの手紙には、「女たち」が一般信者を意味しているかもしれないという事例が2つあります。そのひとつが、ここでテーマとなっているテモテ第一 3:11です。
 そうすると、ここでパウロは「監督者」と「奉仕者」を除く残り全ての信者について語っていたのだということになりそうです。

 では、なぜヨハネは自分の手紙の対象から男を省いてしまったのでしょうか。
 その答えを示しているのは、次の二つの聖句です。



テモテ第二 2:14-19, 23-26

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
これらのことをいつも人々に思い起こさせてください。言葉のことで争わないようにと,神の前で教えてください。そうした争いは聞く人たちに害を及ぼし,何のためにもなりません。自分を神に差し出して,良いと認められるように力を尽くしなさい。真理の言葉を正しく用いることができ,恥じることが何もない働き手になるのです。そして,聖なる事柄を汚す無駄話を退けなさい。そうした話により人々はますます神を敬わなくなり,彼らの言葉は壊疽のように広がっていきます。そういう人たちの中にヒメナオとフィレトがいます。この人たちは真理からそれていき,復活はすでに起きたと言って,ある人たちの信仰を損なっています。それでも,神が据えた強固な土台は揺らぐことがなく,次の言葉が刻まれています。「エホバはご自分のものである人たちを知っている」。「エホバの名を呼ぶ人は皆,不正を退けるべきである」。
さらに,愚かで無意味な議論を避けなさい。そうした議論は争いを生むからです。主の奴隷は争う必要はありません。必要なのは,誰にでも穏やかに接すること,教える資格があること,不当な扱いを受けても自分を抑えること,好意的でない人たちを温和な態度で教えることです。もしかしたら神は,その人たちが悔い改めて真理の正確な知識を得られるようにされるかもしれません。そしてその人たちは,悪魔に捕らわれて悪魔の望み通りに行動していたことに気付き,本心に立ち返って悪魔のわなから逃れるかもしれません。


ヨハネ第二 7-11

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
これらのことを書いているのは,人を欺く者が世の中に大勢現れているからです。彼らは,イエス・キリストが人間として来たことを認めません。人を欺く者であり,反キリストです。よく気を付けて,私たちが働いて生み出したものを失わないようにし,十分な報いを得られるようにしなさい。キリストの教えを踏み越え,その教えに従い続けない人は皆,神と結び付いていません。キリストの教えに従い続ける人は,父とも子とも結び付いています。キリストの教えに従わない人があなたたちの所に来たら,家に迎え入れてはなりませんし,あいさつの言葉を掛けてもなりません。あいさつの言葉を掛けるなら,その人の悪い行いに加わることになります。



 二つの聖句はどちらも背教者の取り扱いについて述べています。そして、テモテへの手紙に記されているのは「監督者」への指示です。
 聖書は、監督者に対しては、背教者の教えを退けるようにと教えつつも彼らとは話し合うべきであると指示しています。一方、ヨハネは背教者とは一切かかわらないようにと指示しています。これは一見して矛盾であるように思えますが、そうではありません。ヨハネが手紙の対象から男を省いたからです。そうすれば、指示の対象に監督者が含まれるということにはなりません。
 この矛盾を回避することがヨハネの目的です。そうすると必然的に、ここでヨハネの言った「選ばれた女性」は「一般信者」を指しているのだろうということになります。そこには「監督者」でも「奉仕者」でもない男性信者も含まれるのでしょう。

 テモテへ書かれたパウロの手紙の中の、「女たち」が一般信者を意味しているかもしれないもう一つの事例はこちらです。



テモテ第二 3:1-9

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
このことを知っておきなさい。終わりの時代は困難で危機的な時になります。人々は自分を愛し,お金を愛し,自慢ばかりし,傲慢で,神や人を冒瀆し,親に従わず,感謝せず,不忠実になります。自然な愛情を持たず,全く人に同意しようとせず,中傷し,自制心がなく,乱暴で,善いことを愛しません。人を裏切り,強情で,思い上がり,神ではなく快楽を愛し,信心深く見えても実際には神を敬っていません。こういう人たちから離れなさい。その中のある男性たちは,人々の家に入り込み,弱い女性たちをたぶらかします。その女性たちは多くの罪を負っていて,さまざまな欲望に流されており,常に学びながらも決して真理の正確な知識を得ることができません。ヤンネとヤンブレがモーセに反対したように,これらの人も真理に反対し続けます。彼らは考え方が完全に腐敗しており,クリスチャンの信条に従っていないので退けられています。彼らがこれ以上進むことはありません。ヤンネとヤンブレの場合と同じように,彼らの愚かさが皆に明らかになるからです。



 この聖句に出てくる「弱い女たち」についての記述が具体的にどういう状況を指しているのかはよくわかっていないとされています。特に、なぜここで男性が除外されているのかがわかっていません。しかし、この表現が「信仰の弱い一般信者」を指していると考えれば、問題は見事に解決します。
 しかも、そう考えるべきかなり強力な根拠が聖書にはあります。パウロが同じことをこのように言い替えているからです。



テサロニケ第二 2:3-12

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
誰にも,どんな方法によっても惑わされないようにしてください。まず背教が生じて,不法の者つまり滅びる者が明らかにされてからでなければ,その日は来ないからです。その者は,神と呼ばれているものや崇拝されているもの全てに逆らい,自分の方が上だと考え,ついには神殿の中に座って人々の前で神のように振る舞います。私が皆さんと一緒にいた時にこういうことを話していたのを,覚えていないでしょうか。皆さんは今,不法の者が定めの時まで明らかにされないよう,何が抑制力となっているかを知っています。不法のひそかな力はすでに働いていますが,それがひそかなのは,抑制力となっている者が除かれる時までのことです。その時になると不法の者が明らかにされますが,主イエスは口から出る力によってその者を除き去ります。自分の臨在が知れ渡る時にその者を滅ぼすのです。不法の者が存在するようになるのは,サタンの働きによります。不法の者はサタンの力によって,あらゆる強力な行い,偽りの奇跡,不思議なことを見せ,あらゆる不正な手段を用いて,滅びに向かう人々を欺きます。その人々が滅びるのは当然の報いです。救いをもたらす真理を愛そうとしなかったからです。そのため神は,彼らが欺きの影響を受けて偽りを信じるままにします。こうして彼らは皆,真理を信じないで不正を好んだために,断罪されます。



 こちらに「弱い女たち」というような言い回しはなく、代わりに「滅びに向かう人々」という言葉が用いられています。

 補足的な点として、ヨハネが手紙を書くにあたってテモテへの手紙を強く意識したということの証拠もあります。



テモテ第二 3:1-9

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
このことを知っておきなさい。終わりの時代は困難で危機的な時になります。人々は自分を愛し,お金を愛し,自慢ばかりし,傲慢で,神や人を冒瀆し,親に従わず,感謝せず,不忠実になります。自然な愛情を持たず,全く人に同意しようとせず,中傷し,自制心がなく,乱暴で,善いことを愛しません。人を裏切り,強情で,思い上がり,神ではなく快楽を愛し,信心深く見えても実際には神を敬っていません。こういう人たちから離れなさい。その中のある男性たちは,人々の家に入り込み,弱い女性たちをたぶらかします。その女性たちは多くの罪を負っていて,さまざまな欲望に流されており,常に学びながらも決して真理の正確な知識を得ることができません。ヤンネとヤンブレがモーセに反対したように,これらの人も真理に反対し続けます。彼らは考え方が完全に腐敗しており,クリスチャンの信条に従っていないので退けられています。彼らがこれ以上進むことはありません。ヤンネとヤンブレの場合と同じように,彼らの愚かさが皆に明らかになるからです。

ヨハネ第一 2:18

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
幼い子供たち,今は終わりの時期です。反キリストが来ることを皆さんが聞いていた通り,今や多くの反キリストが現れました。このことから,今が終わりの時期だと分かります。



 ヨハネの「今は終わりの時期です」という言葉は、テモテへの手紙への言及であると思われます。

 こういったことを総合的に分析すると、パウロの言った「女たち」が一般信者を指しているとする私の個人的見解はかなり説得力を持つものとなります。