エホバの証人の聖書

テトス 2:13

新世界訳聖書(エホバの証人)「そしてわたしたちは、幸福な希望と、偉大な神およびわたしたちの救い主キリスト・イエスの栄光ある顕現とを待っているのです。」

新共同訳聖書(カトリックとプロテスタント)「また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。」


 新共同訳聖書で、「神であるキリスト」となっているところが、新世界訳聖書では「神およびキリスト」となっています。
 そのため、エホバの証人に反対する人たちは、「新世界訳聖書のこの聖句は改竄されている」と主張しています。
 新世界訳は改竄されているのでしょうか。

 この点については、「ものみの塔」誌1981年8月15日号に説明が記されています。

 それによりますと、なにも新世界訳聖書のみが、この聖句を「神およびキリスト」と訳しているのではないそうです。
 この記事は、『新アメリカ聖書,真正新約聖書,エルサレム聖書(脚注)およびJ・B・フィリップス,ジェームズ・モファット,チャールズ・K・ウイリアムズの各翻訳聖書をご覧ください』と述べています。
 それらの翻訳を手に入れれば、新世界訳聖書と同じ訳文が見られると思います。


 さらに、日本語の聖書の場合、フランシスコ会聖書研究所訳聖書(カトリック)の脚注がこんなことを言っています。

『「神であり……キリスト」は、「神と救い主イエズス・キリスト」とも訳せる。このように訳すと、神とイエズスとは別個のペルソナとなる。しかしながら、教父たちや現代の大多数の学者は、「偉大なる神」と「救い主」は、イエズス・キリストの二つの称号であるとしている。なぜなら、「現れ」という語は、神のために用いられることはなく、もっぱらキリストにのみ用いられているからである。』

 フランシスコ会では、この「偉大なる神」という表現は、あくまでイエスの称号であって、神ご自身を指しているのではないと解釈しているようです。


 なぜフランシスコ会がこのような立場をとっているか、と思われる方も多いと思います。
 その理由は、「新カトリック百科事典」から推測することができます。

『聖書注釈者と聖書神学者の側には,よほどの限定条件でもつけないかぎり,新約聖書の三位一体論を口にすべきではないという認識がある。また,そのような認識を持つローマ・カトリック教徒は増える一方である。さらには,教義史学者や組織神学者の側にも,これと非常に似通った認識がある。すなわち,絶対的な三位一体論を口にする人は,キリスト教の草創期から4世紀の最後の四半期へと,すでに視点を移しているという認識である。その時期になって初めて,『三つの位格におけるひとりの神』という,三位一体の明確な教義と呼べるものがクリスチャンの生活と思想に完全に同化した。』(「ものみの塔」誌 1991年11月1日号より)

 こういった認識の結果、『ギリシャ語聖書の中に“イエスは神”と読めるところがあるとしても、その“神”は称号であろう』という結論が出てきたようです。


 この聖句は、原典を見ると、文法的に二通りの読み方が可能なんだそうです。
 いわゆる『シャープの法則』が問題になっています。
 この点については、「グランヴィル・シャープの法則」をご覧ください。

 ところで、聖書辞典などを調べてみると、この聖句を根拠に三位一体論を擁護しているものが多くあります。
 しかし、ちゃんとした聖書事典や解説書であれば、「この聖句に関する学者たちの意見の対立は激しい」などということを、率直に指摘しているものです。
 この聖句に関する問題を見抜くのは容易です。
 聖書辞典からこの聖句に関する説明を幾つも集めれば、説明がバラバラで、互いに食い違っていることが分かります。
 この聖句に関しては、正直であるとは言えない聖書解釈があちこちに見られるというのが現状です。
 このような問題の背景には、三位一体論者たちの「聖書から三位一体を証明したい」という願望が強く関係しているように思います。

フレーム表示へ