新世界訳
エホバの証人の聖書

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テトス 2:13

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
そしてわたしたちは,幸福な希望と,偉大な神およびわたしたちの救い主キリスト・イエスの栄光ある顕現とを待っているのです。

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
そして,幸福な希望が実現し,偉大な神と救い主イエス・キリストが栄光に輝いて現れるのを待っています。

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
また、幸いなる希望、すなわち大いなる神であり、私たちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。

◇ 口語訳聖書 ◇ (プロテスタント)
祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神、わたしたちの救主キリスト・イエスの栄光の出現を待ち望むようにと、教えている。

◇ 新改訳聖書 [2017年版] ◇ (ファンダメンタル)
祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるイエス・キリストの、栄光ある現れを待ち望むように教えています。

◇ 新改訳聖書 [第三版] ◇ (ファンダメンタル)
祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現れを待ち望むようにと教えさとしたからです。



 この聖句では、「偉大な神」と「わたしたちの救い主キリスト・イエス」との関係をどう理解するかが問題になるようです。
 聖書の専門家たちは、ここで用いられている言い回しは「神であるキリスト」とも「神とキリスト」とも読めると言っています。新世界訳聖書は「神とキリスト」を選択していますが、ほとんどの聖書は「神であるキリスト」のほうを選択しています。口語訳聖書はどちらの意味を採ることもなく中立的な訳文を採用しています。

 この聖句に絡んでしばしば「グランヴィル・シャープの法則」という文法理論が唱えられます。この法則によると、この表現は“the A and the B”ではなく“the A and B”の構文となっているため、それは「神であるキリスト」の意味であるとされます。しかし、グランヴィル・シャープの法則はあまり参考になりません。このことについては、「グランヴィル・シャープの法則」のほうにまとめがありますので参照してください。
 グランヴィル・シャープの法則は、ファンダメンタル、盲目的に三位一体論を信奉する人たち、エホバの証人の職業的反対者たちによって、あたかも正しい文法規則であるかのように説明されることがありますので注意が必要でしょう。

 この聖句の意味と訳出について、新世界訳参照資料付き聖書の付録はこのように説明しています。



◇ 新世界訳参照資料付き聖書, 付録, 「偉大な神およびわたしたちの救い主キリスト・イエスの」 (表記修正)

 ここでは二つの名詞が καί (カイ,「および」)で結ばれており,最初の名詞の前には定冠詞 τοῦ (トゥー)が付いているのに対して,二番目の名詞の前には定冠詞がありません。同様の構文がペテロ第二 1:1,2にも見られますが,2節では神とキリストのあいだの違いが明確にされています。このことは異なった二者が καί で結ばれている時,前者に定冠詞が付いているなら,後者に定冠詞を繰り返し付ける必要のないことを示しています。ギリシャ語本文中のこうした構文の例は使徒 13:50; 15:22; エフェソス 5:5; テサロニケ第二 1:12; テモテ第一 5:21; 6:13; テモテ第二 4:1に見られます。この構文は七十人訳にも見られます。(箴言 24:21の脚注参照)「新約ギリシャ語イディオム・ブック」(An Idiom Book of New Testament Greek,C・F・D・ムール著,英国,ケンブリッジ,1971年,109ページ)によると,『偉大な神,およびわたしたちの救い主であるイエス・キリストという考えは……[定冠詞が]繰り返されていなくても, κοινή [コイネー]ギリシャ語において可能』です。
 テトス 2:13に関する詳細な研究が「第四福音書の原作者と批評論文」(The Authorship of the Fourth Gospel and Other Critical Essays,エズラ・アボット著,ボストン,1888年,439-457ページ)の中で行なわれています。その452ページで次のような注解がなされています。「新約聖書から例を取ってみることにしよう。マタイ 21:12に,イエスが,『神殿で売り買いしている者たちすべてを追い出した』, τοὺς πωλοῦντας καὶ ἀγοράζοντας [トゥース ポールーンタス カイ アゴラゾンタス]ことが記されている。ここで,売っている者と買っている者が同一の人物として示されているなどとは道理の上から考えられない。マルコでは, ἀγοράζοντας の前に τούς が挿入されていて,両者が区別されている。ここでは,両者の区別が読者の知力で間違いなく判別できるようにされている。我々が取り上げている例の場合[テトス 2:13], σωτῆρος [ソーテーロス]の前の冠詞が省かれていることは,わたしにとって少しも問題ではない。その理由は ἡμῶν [ヘーモーン]を加えることによって σωτῆρος [ソーテーロス]が十分に特定されている(ウイナーの説)からではない。というのは,神もキリストもしばしば『わたしたちの救い主』と呼ばれており, ἡ δόξα τοῦ μεγάλου θεοῦ καὶ σωτῆρος ἡμῶν [ヘー ドクサ トゥー メガルー テウー カイ ソーテーロス ヘーモーン]だけであれば,ごく当然のこととして,単一の主体,すなわちみ父である神に適用されると理解されよう。しかしながら, σωτῆρος ἡμῶν [ソーテーロス ヘーモーン]に Ἰησοῦ Χριστοῦ [イエースー クリストゥー]が加えられていることにより事情は全く異なってくる。それによって, σωτῆρος ἡμῶν は,パウロの通常の言葉遣いに従って,彼が ὁ θεός [ホ テオス]と呼ぶ方とは区別される人物もしくは存在者に限定されることになる。そのため,あいまいさを避けるための定冠詞を繰り返して付ける必要はなかったのである。同様に,テサロニケ第二 1:12の場合も, κατὰ τὴν χάριν τοῦ θεοῦ ἡμῶν καὶ κυρίου [カタ テーン カリン トゥー テウー ヘーモーン カイ キュリウー]という表現は単一の主体に適用されると考えるのが自然であり,二人の別個の主体が意図されているのであれば, κυρίου の前に冠詞が必要とされるであろう。しかし, κυρίου [キュリウー]に Ἰησοῦ Χριστοῦ [イエースー クリストゥー]が付け加えられるだけで,冠詞を挿入することなしに,二人の別個の主体に適用されることになる」。
 ですから,テトス 2:13では,エホバ神とイエス・キリストという二人の方のことが言及されています。聖書全巻を通じて,エホバとイエスを同一の存在とみなすことはできません。



 多くの方にとってこの内容は難しいと思います。
 この文書の要点は二つあります。1つ目は、グランヴィル・シャープの法則は間違っているのでこの聖句の翻訳に適用できない、2つ目は、聖書は神とイエスを区別しているので「神であるキリスト」の訳はあり得ない、です。

 エホバの証人の出版物はさらにこのようなことを指摘しています。



◇ 「ものみの塔」誌1981年8月15日号, ものみの塔聖書冊子協会

読者からの質問
● ある訳の聖書がテトス 2章13節を訳出するに当たって,それがただ一人の方,イエスにだけ言及しているように訳し,イエスを神また救い主と呼んでいるのはなぜですか。

 新世界訳はテトス 2章13節をこう訳出しています。「そしてわたしたちは,幸福な希望と,偉大な神およびわたしたちの救い主キリスト・イエスの栄光ある顕現とを待っているのです」。 ところが,聖書翻訳家の多くは,この節の中程を訳すに当たって,それがただ一人の方イエスを意味しているかのように訳出しています。例えば,アメリカ訳では,「……わたしたちの偉大な神かつ救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現われ」となっています。このような翻訳家たちは,大抵,こうした訳はギリシャ語文法のある「規則」に従うものであると主張します。しかし,このような翻訳に走る傾向の背後には三位一体の教理も関係しています。
 このギリシャ語の語句の字義訳は,「栄光 の[定冠詞]偉大な 神 および 救い主 の わたしたち キリスト イエス」となります。(アルフレッド・マーシャル博士の「新約聖書希英行間逐語訳」)これを見ると,「および」という接続詞でつながれた二つの名詞(神,救い主)の前に一つの冠詞が置かれていることが分かります。
 1世紀以上も前,グランビル・シャープは,そのような構文に当てはまる「規則」とされるものを編み出しました。それによると,二つ目の名詞(救い主)の前に冠詞が繰り返し用いられていないので,二つの名詞は同一の人物もしくは対象に言及するものであると言うのです。そのように考えてゆくと,「偉大な神」も「救い主」も共にイエスに関する記述ということになり,『偉大な神かつわたしたちの救い主であられるイエス・キリストの』ということを意味しているかのようになります。
 イエスが神であることを信じようとする人々は,時として正確なギリシャ語文法に従えば上記のような立場を取らざるを得ないといった印象を与えようとします。しかし,実際にはそのようなことはありません。事実,テトスへの手紙の中で当てはめられているこの「規則」の正当性は学者たちの間でかなりの論議を呼んでいます。
 例えば,ヘンリー・アルフォード博士(ギリシャ語新約聖書第3巻)は,「彼らが訳したような[意味]があるかもしれないということにはだれも異論はない」と述べる一方,『その言葉が実際に意味しているところ』を定めることの方がむしろ必要であると言葉を加えています。そして,それは文法的な規則で定めることのできる問題ではありません。
 「新約聖書ギリシャ語の文法」(モールトン-ターナー,1963年)はテトス 2章13節に関してこう述べています。「これらの語が別個のものとして考慮されることを明確にするために,必ずしも冠[詞]を繰り返し用いる必要があったわけではない」。では,“シャープの規則”についてはどんなことが言えますか。ナイジェル・ターナー博士は,「残念ながら,この時期のギリシャ語に関して,このような規則が本当に決定的なものであったかどうかは定かではない」ことを認めています。(「新約聖書の文法的考察」,1965年)ここで用いられているギリシャ語の構文についてアレクサンダー・ブットマン教授はこう指摘しています。「世俗文学に関しても新約[聖書]に関しても,例外のない厳密な規則を導き出すことは決してできないであろう……」―「新約聖書ギリシャ語文法」。
 「解説者のギリシャ語新約聖書」の中で,N・J・D・ホワイト博士はこう述べています。「文法的な論議……は貧弱すぎて大きな説得力を持つものではない。特に,これらの手紙の中で冠詞が全般的に用いられていないことだけでなく,その前[テモテ第一 1:1; 4:10の『救い主』]にも冠詞が省略されていることを考えに入れると特にそう言える」。パウロは他の箇所で「救い主なる神」という表現を用いているが,その際イエスのことを意味していたのでないことははっきりしている,とアルフォード博士は力説しています。なぜなら「み父とみ子は極めて明確に区別されている」からです。(テモテ第一 1:1; 2:3-5)これはイエスが創造されたみ子であり,み父と同等ではないという聖書の全般的な教えと調和します。―ヨハネ 14:28。コリント第一 11:3。
 それで,ホワイト博士はこう結論しています。『それゆえ全体として,わたしたちはこの箇所を,偉大な神およびわたしたちの救い主イエス・キリストの栄光の現われと訳出する方がよいと判断する』。数多くの現代語訳も同様の立場を取っています。それらの翻訳家たちは本文あるいは脚注の中で,テトス 2章13節は,それぞれ栄光を持たれる別個のお二方,「偉大な神」すなわちエホバとそのみ子,「わたしたちの救い主キリスト・イエス」について述べているものとして訳出しています。(ルカ 9:26。テモテ第二 1:10)新アメリカ聖書,真正新約聖書,エルサレム聖書(脚注)およびJ・B・フィリップス,ジェームズ・モファット,チャールズ・K・ウイリアムズの各翻訳聖書をご覧ください。



 似たような注解は「新共同訳新約聖書注解」にも見られます。



◇ 「新共同訳新約聖書注解」, 日本基督教団出版局 (表記等修正)

 13節の翻訳については意見が二つに分かれている。すなわち①《偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れ》は②「偉大なる神の栄光とわたしたちの救い主であるイエス・キリストとの現れ」とも訳すことができる。文章の表現自体から見ると、《わたしたちの救い主》には冠詞が付されていないので①の訳のほうが自然であるが、新約聖書のどこにおいてもイエスは、《偉大な神》とは呼ばれておらず、牧会書簡の著者はキリストがむしろ神に従属していることを暗示しているので(テモテ第一 1:1, 2:5-6, 3:16, 6:13-16, テモテ第二 1:2, テトス 1:4参照)、内容的には②の訳の可能性のほうが大きい。



 「新共同訳新約聖書注解」はグランヴィル・シャープの法則を支持しているようです。しかし、これがほとんど役に立たない法則であることを認識してもいるようで、内容を考えるほうが重要だということを述べています。

 結局のところ、論点は「キリストは神か」ということです。
 現代のキリスト教では「三位一体」の教えが説かれています。この教えは「キリストは神である」ということを定義しています。ですから、「神であるキリスト」の訳は現代のキリスト教の教えによく適合することになります。しかし、三位一体の教えはキリスト教が成立してから数百年たってから成立したものです。聖書が書かれた原始キリスト教の時代にそのような教えはありませんでしたから、「この時代にまだなかった三位一体の教えを聖書に刷り込んでしまうような翻訳をするのはよくない」ということが言えます。



◇ 「ものみの塔」誌1973年6月1日号, ものみの塔聖書冊子協会

 あなたは聖書が神について述べていることを知りたいと思われますか。神は三位から成っていて,そのすべてが等しく無限で,永遠で,全能で…あるなどと教えるかわりに,聖書ははっきりと,『我らの神エホバはただひとりのエホバなり』と述べています。(申命 6:4)お望みなら捜してみてもよいのですが,ヘブル語聖書あるいはクリスチャン・ギリシア語聖書のどちらにしても,神は三位で成っていて,他の二者と永遠性や全能性を共有していると述べていることばは一つもありません。新カトリック百科事典さえ次のように認めています。「聖三位一体の教理は旧約[聖書]の中では教えられていない。…聖三位一体の奥義は旧約の選民には啓示されなかった」。「厳しい条件を付さずに新約聖書の三位一体論についてうんぬんすべきではない」。事実,この権威となる事典は,「三位にして唯一の神」というこの教義の成立年代を西暦4世紀の最後の四半期として,こう述べています。「使徒直弟子教父の間には,こうした思考法もしくは観点にわずかでも近づくような事がらとされるものは一つもない」― 第14巻,306,295,299ページ。



◇ 「ものみの塔」誌1991年11月1日号, ものみの塔聖書冊子協会

 新カトリック百科事典も,三位一体の起源について同じようなことを述べています。
 「聖書注釈者と聖書神学者の側には,よほどの限定条件でもつけないかぎり,新約聖書の三位一体論を口にすべきではないという認識がある。また,そのような認識を持つローマ・カトリック教徒は増える一方である。さらには,教義史学者や組織神学者の側にも,これと非常に似通った認識がある。すなわち,絶対的な三位一体論を口にする人は,キリスト教の草創期から4世紀の最後の四半期へと,すでに視点を移しているという認識である。その時期になって初めて,『三つの位格におけるひとりの神』という,三位一体の明確な教義と呼べるものがクリスチャンの生活と思想に完全に同化した。……「この信条そのものは,草創期当時の意識を反映するものではなく,300年にわたる教理上の進展の産物であった」。



 ところが、たいへんややこしい話ですが、上のようなことをよく承知したうえで、それでもここを「神であるキリスト」と読むべきとする主張があるようです。



◇ フランシスコ会聖書研究所訳聖書, テトス 2:13, 脚注

 「神であり……キリスト」は、「神と救い主イエス・キリスト」とも訳せる。このように訳すと、神とイエスとは別個のペルソナとなる。しかしながら、教父たちや現代の大多数の学者は、「偉大なる神」と「救い主」は、イエス・キリストの二つの称号であるとしている。なぜなら、「現れ」という語は、神のために用いられることはなく、もっぱらキリストにのみ用いられているからである。



◇ THE INTERPRETER'S BIBLE (表記等修正)

 初期のクリスチャンは、何か不自然に感じたりすることなしに、あるいは、神の子キリストを父なる神と置き換える意図などなしに、キリストのことを「偉大な神」と呼ぶことができた。



 ここで留意しなければならないのは、聖書には神でない者を「神」と呼ぶ表現法があるということです。特にメシア預言の中にはこのような言葉があります。



イザヤ 9:6

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
私たちのために子が生まれた。私たちに男子が与えられた。彼は肩に統治の責任を負い,素晴らしい助言者,力強い神,永遠の父,平和の統治者と呼ばれる。



 ここではメシアつまりイエスが「力強い神」という称号で呼ばれていますが、だからといってメシアは神であるということにはなりません。表現の仕方が大げさなだけです。
 そのようなわけで、こういった解説は、「偉大な神」という表現はキリストに与えられた大げさな称号の一つに過ぎず、よってこのことを根拠に「キリストは神である」と考える必要はない、この聖句は三位一体の教えとは関係がない、ということを言っているようです。
 そういうことなら、「神であるキリスト」の訳を採用したとしても、三位一体の教えを聖書に挿入したことにはなりません。翻訳された聖書に「神であるキリスト」の採用が多く見られるのは、この理屈があるからのようです。

 この聖句の意味を考えるにあたって、文脈のテトス 1:4は特に参考になるようです。



テトス 1:4

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
共にあずかる信仰によって真実の子であるテトスへ: 父なる神とわたしたちの救い主キリスト・イエスから,過分のご親切と平和がありますように。

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
同じ信仰を持つ,心から愛するテトスへ。父である神と,救い主であるキリスト・イエスから,あなたに惜しみない親切が示され,平和が与えられますように。

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
信仰を共にするまことの子テトスへ。父なる神と私たちの救い主キリスト・イエスから、恵みと平和がありますように。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
信仰を共にするまことの子テトスへ。父である神とわたしたちの救い主キリスト・イエスからの恵みと平和とがあるように。

◇ 口語訳聖書 ◇ (プロテスタント)
信仰を同じうするわたしの真実の子テトスへ。父なる神とわたしたちの救主キリスト・イエスから、恵みと平安とが、あなたにあるように。

◇ 新改訳聖書 [2017年版] ◇ (ファンダメンタル)
同じ信仰による、真のわが子テトスへ。父なる神と、私たちの救い主キリスト・イエスから、恵みと平安がありますように。

◇ 新改訳聖書 [第三版] ◇ (ファンダメンタル)
同じ信仰による真実のわが子テトスへ。父なる神および私たちの救い主なるキリスト・イエスから、恵みと平安がありますように。



 こちらの言い回しを原典で見てみると、グランヴィル・シャープの法則によって同一と認められる構文にはなっていないため、これを「神であるキリスト」と読むのはかなり困難です。
 テトス 2:13の「偉大な神」はテトス 1:4の「父なる神」の言い替えであるように見えます。「父なる神」は間違いなく神を指す言葉ですので、「偉大な神」をキリストの称号と読むのも難しそうです。