新世界訳
エホバの証人の聖書

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ヘブライ 1:6

◇ 新世界訳参照資料付き聖書英語版 [1950年初版] (NW/Reference Bible) ◇ (エホバの証人)
But when he again brings his Firstborn into the inhabited earth, he says: “And let all God's angels worship him.”

◇ 新世界訳参照資料付き聖書英語版 [1984年版] (NW/Reference Bible) ◇ (エホバの証人)
But when he again brings his Firstborn into the inhabited earth, he says: “And let all God's angels do obeisance to him.”

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
しかし,その初子を人の住む地に再び導き入れる際にはこう言われるのです。「そして神のみ使いたちはみな彼に敬意をささげよ」。

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
神はご自分の初子を再び世界に遣わす際,こう言います。「神の天使たちは皆,彼に敬意を表しなさい」。

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
また、神はその長子を再び世界に送るにあたって、こう言われます。「神の天使たちは皆、彼を礼拝せよ。」

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
更にまた、神はその長子をこの世界に送るとき、「神の天使たちは皆、彼を礼拝せよ」と言われました。

◇ 口語訳聖書 ◇ (プロテスタント)
さらにまた、神は、その長子を世界に導き入れるに当って、「神の御使たちはことごとく、彼を拝すべきである」と言われた。

◇ 新改訳聖書 [2017年版] ◇ (ファンダメンタル)
そのうえ、この長子をこの世界に送られたとき、神はこう言われました。「神のすべての御使いよ、彼にひれ伏せ。」

◇ 新改訳聖書 [第三版] ◇ (ファンダメンタル)
さらに、長子をこの世界にお送りになるとき、こう言われました。「神の御使いはみな、彼を拝め。」



 この聖句では、新世界訳聖書の英語版の初版と後の版とに違いが見られます。天使たちがイエスの前で“平伏する”ことを語っているところで、もともと“worship(崇拝する)”という訳を採用していましたが、後に“obeisance(お辞儀して敬意を示す)”に修正されました。

 これは、ここで引用されている句がエホバに関する記述であることに起因しています。



◇ 「聖書に対する洞察」, 『敬意をささげる』の項, ものみの塔聖書冊子協会

 栄光を受けたイエス・キリストに敬意をささげる
 一方,キリスト・イエスはみ父により,神に次ぐ第2の地位に高められました。それは,「天にあるもの,地にあるもの,地の下にあるもののすべてのひざがイエスの名によってかがみ,すべての舌が,イエス・キリストは主であると公に認めて,父なる神に栄光を帰する」ためでした。(フィリ 2:9-11。ダニ 7:13,14,27と比較。)ヘブライ 1章6節はまた,み使いでさえ復活させられたイエス・キリストに敬意をささげることを示しています。多くの翻訳はこの聖句のプロスキュネオーを「崇拝する」と訳していますが,「身をかがめる」(聖ア; ヤング),『敬意を表する』(新英)などの表現で訳している翻訳もあります。どのような訳語が使われるにしても,ギリシャ語原語は変わらないわけですから,み使いがキリストにささげたものに関する理解は,聖書中の他の部分と調和していなければなりません。イエスご自身サタンに向かって,「あなたの神エホバをあなたは崇拝し[プロスキュネオーの変化形]なければならず,この方だけに神聖な奉仕をささげなければならない」と強く述べられました。(マタ 4:8-10; ルカ 4:7,8)同様に,み使いもヨハネに「神を崇拝しなさい」と言いましたが(啓 19:10; 22:9),この命令はイエスが復活し,高められた後に出されたもので,この点に関して事態は変わっていなかったことを示しています。確かに,使徒がヘブライ 1章6節で引用していると思われる詩編 97編は,エホバ神を『身をかがめる』対象として述べていますが,それでもこの聖句はキリスト・イエスに適用されました。(詩 97:1,7)しかし,同使徒はその前に,復活させられたキリストが「神の栄光の反映,またその存在そのものの厳密な描出」であることを明らかにしています。(ヘブ 1:1-3)したがって,わたしたちが「崇拝」であると理解しているものが,み使いたちからみ子に向けられているように思えるとしても,それは実際にはみ子を通してエホバ神に,すなわち「天と地と海と水のわき出るところとを造られた方」,主権者なる支配者に向けられているのです。(啓 14:7; 4:10,11; 7:11,12; 11:16,17。代一 29:20; 啓 5:13,14; 21:22と比較。)他方,「身をかがめる」,『敬意を表する』(「崇拝する」の代わりに)と訳す方法は,詩編 97編7節の原語のヘブライ語からも,ヘブライ 1章6節の原語のギリシャ語からも外れたものではありません。そのような翻訳はヒシュタハワーおよびプロスキュネオー両語の基本的な意味を伝えているからです。



詩編 97:7

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
彫刻像を崇拝する人,無価値な神々を誇る人は皆,恥をかく。 この方にひれ伏せ,全ての神々よ。



 この見解には古い学説に従っている部分があります。文書はセプトゥアギンタ(当時のギリシャ語訳聖書, 七十人訳とも言う)の詩編 97:7を引用元としていますが、今はセプトゥアギンタの申命記 32:43のほうが有力と思われています。



◇ 「ものみの塔」誌1991年4月15日号, ものみの塔聖書冊子協会

 (死海写本の)申命記の断片の中のヘブライ語本文には,32章43節の一部が含まれていて,その部分はセプトゥアギンタ訳に見られ,ヘブライ 1章6節では,「そして神のみ使いたちはみな彼に敬意をささげよ」と引用されています。この文がヘブライ語写本の中で発見されたのはこれが初めてのことで,これによりギリシャ語訳の基になったと思われる本文が明らかになりました。こうして学者たちは,クリスチャン・ギリシャ語聖書中に頻繁に引用されているセプトゥアギンタ訳の本文に対する新たな洞察を得ました。



申命記 32:43

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
国々よ,神の民と共に喜べ。神は,ご自分に仕える人の血の復讐をするからだ。敵対者に報復し,ご自分の民の土地のために贖罪を行う」。

◇ 秦剛平訳七十人訳ギリシア語聖書 ◇
諸天よ、おまえたちは、彼と一緒に喜ぶのだ そして神の子ら全員を、彼に跪拝〔きはい〕させるのだ。諸民族よ、おまえたちは、彼の民とともに喜ぶのだ。そして神のみ使いたち全員を、彼のために強くさせるのだ。



 このあたりはとりあえず置いておくとしましょう。

 ここで問題となるのは、イエスは崇拝の対象なのか、ということです。
 神々がエホバを崇拝することについて語った詩編 97:7が天使たちとイエスとに適用されているとなると、それは天使たちがイエスを崇拝するという意味になりそうです。しかし、ここで用いられているギリシャ語の表現は、基本的には「平伏する」ことを指す語ですので、対象が変化するのに合わせてその語義も変化したと考えることができます。聖書のギリシャ語の「平伏する」は必ずしも崇拝の意味を持ちません。それは「深くお辞儀する」と言うのと同じような意味で用いられます。
 上の引用にあるように、聖書自身はイエスを崇拝の対象とは考えていませんから、新世界訳聖書の後の版のような「敬意をささげる」という訳は無難な訳だということが言えそうです。

 一方で、新世界訳聖書を発行したエホバの証人には、このヘブライ 1:6を土台とした『相対的な崇拝』という教義があります。



◇ 「ものみの塔」誌1971年3月15日号, ものみの塔聖書冊子協会

読者からの質問

すべての天使がイエスを崇拝するよう命じられている,と述べるヘブル書 1章6節はどのように理解したらよいのでしょうか。―アメリカの読者より

 ヘブル書 1章6節(新)にはこうしるされています。「しかし,再びその初子を人の住む地に導き入れる時,彼は言われる。『そして神のすべての天使に彼を崇拝させなさい』」。ヘブル書の記述者はここで詩篇 97篇7節〔新〕から引用しているのですが,そこには(一部)こう書かれています。「もろもろの神よみな〔彼を〕ふしおがめ」。この記述者は明らかに七十人訳を引用しましたが,その訳によれば,こうしるされています。「汝ら彼の御使いたちよ,彼を崇拝せよ」― C・トムソン。
 これらの聖句は,サタン悪魔に語ったイエスの次の明白なことばと矛盾するかに見えるため,問題が生じてくるように思えます。「『あなたが崇拝しなければならないのは,あなたの神エホバであり,あなたが神聖な奉仕をささげなければならないのは,彼に対してだけである』と書かれている」― マタイ 4:10,新。
 ヘブル書 1章6節で,「崇拝(する)」と訳されているギリシア語は,プロスキューネオーで,同じ語が七十人訳の詩篇 97篇7節で,ヘブル語シャーハーの訳語としてやはり用いられています。それらヘブル語およびギリシア語のことばにはどんな意味がありますか。
 シャーハーの意味は,基本的には“身をかがめる”です。(箴言 12:25)そうした身をかがめる行為は,王や(サムエル前 24:8。サムエル後 24:20)預言者など(列王下 2:15),他の人に対する尊敬を示すためになされたようです。アブラハムは,カナン人ヘテの子たちに身をかがめて,彼らから埋葬のための地所を買おうとしました。(創世 23:7)ヤコブに与えられたイサクの祝福は,国々およびヤコブ自身の「兄弟たち」が彼に身をかがめることを要求するものでした。―創世 27:29。49:8とも比較してください。
 以上の例から明らかなように,このヘブル語それ自体は,必ずしも宗教的な意味を伴ってはおらず,崇拝を意味しているわけでもありません。とはいえ,多くの場合,真の神(出エジプト 24:1。詩 95:6)また,偽りの神々に関連して用いられています。―申命 4:19; 8:19。
 敬意を表わす行為として人間に身をかがめることは許されていましたが,エホバ以外のものを神として,その前に身をかがめることは神によって禁じられていました。(出エジプト 23:24; 34:14)同様に,宗教的な偶像,もしくは,創造された物はなんであれ,そうしたものに崇拝の行為として身をかがめることは,絶対に非とされていました。(出エジプト 20:4,5。レビ 26:1。申命 4:15-19)ゆえに,ヘブル語聖書の中で,エホバのしもべのある者が天使たちの前でひれ伏したとしるされている場合,その行為は,それらの天使を神の代表者と認めてそうしただけであって,天使を神とみなして拝したのではありません。―ヨシュア 5:13-15。創世 18:1-3。
 ギリシア語のプロスキューネオーは,被造物を拝すること,および神または神とされるものを崇拝することの両方の考えを伝える点で,ヘブル語のシャーハーに非常に近い意味を持つことばと言えます。プロスキューネオーには,ひれ伏す,あるいは身をかがめるという考えを生き生きと伝える,ヘブル語のシャーハーの場合のように,拝する動作がそれほど顕著に表わされていないとは言え,このギリシア語も最初はそうした考えを確かに持っていたとする辞書編集者もいます。
 ヘブル語の場合と同じく,プロスキューネオーが,単に深い敬意を表明しての拝する行為を意味するか,それとも,宗教上の崇拝を表わす拝する行為を意味するかを決定するには,文脈を考慮しなければなりません。神(ヨハネ 4:20-24。コリント前 14:25)もしくは,偽りの神とまたはその偶像(使行 7:43。黙示 9:20)が直接に言及されている場合の拝する行為は明らかに,人間に対して,習慣としてなされかつ受けいれられている行為の範疇を越えて,崇拝の分野にはいってきます。同様に,拝する行為の対象が述べられていない場合にも,それが神に向けられていることが理解されているのです。(ヨハネ 12:20。使行 8:27。ヘブル 11:21)一方,クリスチャンの足元に「来り拝せしめ」られる,「サタンの会」の者たちの行為は,明らかに崇拝ではありません。―黙示 3:9。
 人間の王を拝することが,マタイ伝 18章26節にしるされている,イエスの用いた例の中に出てきます。これもまた明らかに,「ユダヤ人の王として生れ給へる」幼子に対して,占星家がささげた,また,ヘロデがしたいと唱えた,さらには,刑柱にかけられる前のイエスに兵士たちが嘲笑的になした拝する行為と同種類のものでした。彼らがイエスを神として,あるいは神性を有する者としてみなさなかったことは明白です。―マタイ 2:2,8。マルコ 15:19。
 プロスキューネオーがイエスに対する人の行動を描写する箇所では,たいていの場合“崇拝(する)”という語を用いる翻訳者がいますが,証拠を調べてみると,この訳語にとらわれすぎてはならないことがわかります。拝する行為を促した情況は,過去の預言者や王たちに同じ行為を起こさせたそれとたいへん似ています。(マタイ 8:2; 9:18; 15:25; 20:20を次の聖句と比較してください。サムエル前 25:23,24。サムエル後 14:4-7。列王上 1:16。列王下 4:36,37)関係者の表現そのものから,イエスを神の代表者としてはっきり認めてはいても,彼らはイエスを神または神性を有する者としてではなく,「神の御子」,予告されていた「人の子」,神からの権威を付与されたメシヤとして拝したことがよくわかります。―マタイ 14:32,33; 28:5-10,16-18。ルカ 24:50-52。ヨハネ 9:35,38。
 初期の預言者,また天使たちも拝する行為を受け入れましたが,ペテロはコルネリオがそうするのをとどめました。そして,ヨハネの幻の中で天使(または天使たち)は,ヨハネがそうすることを二度とどめ,彼が「仲間のどれい」であることを指摘し,最後に,「神を崇拝」するよう勧めました。―使行 10:25,26。黙示 19:10,新; 22:8,9。
 明らかにキリストの到来は,神のしもべの他の者に対する行動規準に影響を与える,新しい関係をもたらしました。彼はご自分の弟子たちにこう教えました。「汝らの師は一人にして,汝等はみな兄弟なり。……汝らの導師はひとり,即ちキリストなり」。(マタイ 23:8-12)なぜなら,キリストにおいて預言的な表象やひな形が成就したからであり,天使がヨハネに告げたとおり,「イエスについて証をすることは,預言に霊感を与えるもの」なのです。(黙示 19:10,新)イエスはダビデの主,ソロモンより偉大な者,モーセよりも偉大な預言者でした。(ルカ 20:41-43。マタイ 12:42。使行 3:19-24)そうした人々になされた拝する行為は,キリストになされるべきものを予表していました。したがってコルネリオに重視されすぎないよう,ペテロが彼をとどめたのは,正当なことだったのです。
 またヨハネも,油そそがれたクリスチャンとして神により義と宣言され,あるいは認られたがゆえに,神の天的な子および神のみ子の王国の一員として召されており,彼と黙示録の天使(たち)との関係は,その昔,天使が現われたイスラエル人の場合とは異なっていました,使徒パウロがしるしたとおりだったのです。「なんぢら知らぬか,我らは御使を審くべき者なるを」。(コリント前 6:3)天使(たち)は,ヨハネが拝するのをとどめた時,この関係の変化を明らかに認識していました。
 一方,キリスト・イエスは,ご自分の父によって神に次ぐ位に高められました。それは,「天に在るもの,地に在るもの,地の下にあるもの,悉とくイエスの名によりて膝を屈め,かつもろもろの舌の『イエス・キリストは主なり』と言ひあらはして,栄光を父なる神に帰せん為」です。―ピリピ 2:9-11。ダニエル 7:13,14,27と比較してください。
 以上の点を全部考慮して,天使たちでさえ,復活したイエス・キリストに「崇拝」をささげたことを示しているヘブル書 1章6節をどう理解すべきですか。この聖句の英語の翻訳は多く,プロスキューネオーを「崇拝(する)」“worship”と訳出していますが,「の前に(頭を)下げる」“bow before”(聖書 ― アメリカ訳)また,「敬意を表わす」“pay homage”(新英語聖書)というような表現を使っている翻訳もあります。どんな英語のことばが使われようが,原語のギリシア語は変わりませんし,天使たちがキリストにささげるものがなんであるかは,他の聖句に一致して理解されねばなりません。
 「崇拝(する)」という訳語がより適当と思われる場合には,その「崇拝」が相対的なものにすぎないことを理解しておくべきです。イエスみずからサタンに向かって,こう強調されたからです。「あなたが崇拝[プロスキューネオーの語形]しなければならないのは,あなたの神エホバであり,あなたが神聖な奉仕をささげなければならないのは,彼に対してだけである」。(マタイ 4:8-10,ルカ 4:7,8,新)ヘブル書 1章6節で使徒の明らかに利用している詩篇 97篇が,「身をかがめる」対象としてのエホバ神に言及していることは真実ですが,それでもこの聖句はキリスト・イエスに適用されました。(詩 97:1,7)しかし使徒はその前に,復活したキリストが「[神の]栄光の反映であって,神の存在そのものの厳密な表象である」ことを明らかにしていました。(ヘブル 1:1-3,新)ゆえに,「崇拝」と理解されるものが,明らかに天使たちによってみ子に向けられているのであるなら,それは実際には彼を通して,エホバ神である至上の支配者,すなわち,「天と地と水の源泉とを造り給ひし者」に向けられていることになります。―黙示 14:7; 4:10,11; 7:11,12; 11:16,17。また,歴代上 29:20,黙示 5:13,14を比較しなさい。
 他方,「の前に頭を下げる」とか,「敬意を表わす」とかという訳(「崇拝(する)」の代わりに)は,詩篇 97篇7節のヘブル語やヘブル書 1章6節のギリシア語の原語と少しも矛盾しません。そうした翻訳は,シャーハーとプロスキューネオーの両語の基本的な意味を伝えているからです。



 このような場合のイエスに対する崇拝は、結果的にはエホバに対する崇拝である、ということのようです。

 ここで留意しておきたいのは、聖書には“エホバ神の役をする天使”という考えがあるということです。



出エジプト 3:1-6

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
さてモーセは,ミディアンの祭司であるエテロの羊の群れの牧者となった。彼はその娘婿であった。荒野の西側に群れを追っているうち,彼はついに[まことの]神の山,ホレブに来た。その時,エホバのみ使いが,いばらの茂みの中,火の炎のうちにあって彼に現われた。彼が見ていると,そこでは,いばらの茂みが火で燃えているのに,そのいばらの茂みは燃え尽きてしまわないのであった。そこでモーセは言った,「少し立ち寄って,なぜいばらの茂みが燃えてしまわないのか,この大いなる現象を調べてみよう」。エホバは,彼が調べようとして立ち寄ったのをご覧になり,神はすぐにそのいばらの茂みの中から彼に呼びかけて,「モーセ,モーセよ」と言われた。それで彼は言った,「はい,私はここにおります」。すると,こう言われた。「ここに近づいてはいけない。あなたの足からサンダルを脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる地だからである」。そしてさらにこう言われた。「わたしはあなたの父の神,アブラハムの神,イサクの神,ヤコブの神である」。その時モーセは自分の顔を覆い隠した。[まことの]神を見ることを恐れたためである。



 この記述では、エホバの役をする天使がモーセに現れてエホバを名乗ります。しかも、聖書自身がこの天使のことを「エホバ」扱いにしています。こういった記述はいくつもあり、それらが暗に示しているのは、人間たちがエホバを崇拝していると思っても、実際にはエホバの役をする天使を崇拝していることがあるということです。
 イエスは神の子であり、神の役をする者の代表格とされていますから、そのような崇拝を受けることになったとしてもまったく不思議はありません。

 一方で、新世界訳聖書の現在の版では「崇拝せよ」という訳はなくなっています。この翻訳のもととなった学説が古くなっていることが理由のようです。また、この聖句は反対者たちにより三位一体の教義に絡めて悪用されてきましたから、そのあたりの悪用を防ぐということもあるのだろうと思います。

 反対者の主張はどうでしょうか。聖書には、この相対的崇拝について述べていると思われる表現がいくつかありますが、反対者が三位一体の教義を掲げて主張するように「キリストは神である」ということが言いたいわけではないようです。



フィリピ 2:9-11

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
まさにこのゆえにも,神は彼をさらに上の地位に高め,[他の]あらゆる名に勝る名を進んでお与えになったのです。それは,天にあるもの,地にあるもの,地の下にあるもののすべてのひざがイエスの名によってかがみ,すべての舌が,イエス・キリストは主であると公に認めて,父なる神に栄光を帰するためでした。

コリント第一 15:25-28

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
[神]がすべての敵を彼の足の下に置くまで,彼は王として支配しなければならないのです。最後の敵として,死が無に帰せしめられます。[神]は「すべてのものを彼の足の下に服させた」からです。しかし,『すべてのものが服させられた』と言うとき,すべてのものを彼に服させた方が含まれていないのは明白です。しかし,すべてのものが彼に服させられたその時には,み子自身も,すべてのものを自分に服させた方に自ら服し,こうして,神がだれに対してもすべてのものとなるようにするのです。



 ヘブライ 1:6の翻訳においてもうひとつ気になるのは、「再び」という語をどのように理解し、訳出するかということです。
 「再び」を文のつなぎとみなしている訳では、「言う」が過去形に訳されていて、キリストの到来を未来ではなく過去に置いていることがうかがえます。



◇ 「ものみの塔」誌1983年5月15日号, ものみの塔聖書冊子協会

読者からの質問

ヘブライ1章6節の言葉はイエスの二度目の到来について述べたものでしょうか。

 この節を訳出するにあたって事実をぼかしている聖書翻訳もありますが,この節をキリストの二度目の到来について述べたものと理解してもよい理由は十分にあります。
 ヘブライ 1章の中で,使徒パウロはみ使いたちに対するイエスの優越性に注意を引きます。この点に関連して,5節と6節にはヘブライ語聖書からの引用句が三つ含まれており,パウロはそれらをイエスに当てはめています。ヘブライ 1章5,6節を読む際,「また」および「再び」という言葉に特に注意を向けてください。
 「たとえば,み使いたちのうちのだれに神[エホバ神]はかつてこう言われたでしょうか。『あなたはわたしの子。わたしは,今日あなたの父となった』。また,『わたしは彼の父となり,彼はわたしの子となるであろう』と。しかし,その初子を人の住む地に再び導き入れる際にはこう言われるのです。『そして神のみ使いたちはみな彼に敬意[あるいは崇拝]をささげよ』」― ヘブライ 1:5,6。
 5節の中でパウロはまず最初に神が詩編 2編7節で述べておられる事柄を引用しました。次いで「また」と書いて,二番目の引用句(サムエル第二 7:14)を挙げ,それをメシア,イエスに当てはめています。さて今度は,「再び」(ギリシャ語,パーリン)という語が現われる6節について考えてみましょう。
 6節の中で用いられている「再び」という語は,一連の引用文の三番目の句を導き出すだけのためのものでしょうか。例えば,このように書くことがあるかもしれません。『ジョンは彼女に手紙で連絡を取りました。また,電話で連絡を取り,そして再び,電報で連絡を取りました』。パウロが6節で「再び」という言葉を使ってギリシャ語セプトゥアギンタ訳から詩編 97編7節を引用したのは,ただそのような使い方にすぎなかったのでしょうか。
 聖書翻訳者の中にはヘブライ 1章6節をそのような仕方で訳出している人もいます。例えば,エルサレム聖書では,「また,その初子を世に導き入れる際」となっています。他の翻訳者たちもこの句を同様に訳出していますが,そうすることは「再び」という語をその自然の語順から取り出すことになってしまいます。ギリシャ語の字義訳は,「いつでもしかし再び彼が導き入れるその独り子(者)」になるからです。
 C・B・モール博士は文法的な面から見てこう注解しています。「この書簡における用法からすれば,パーリン[「再び」]の位置を入れ替えて,引用句の導入部とすることは許されない。……この語は,世に対する初子の二度目の導入 ― まだ先のこと ― に言及するものである」。同様に,B・F・ウェストコット博士はその著書「ヘブライ人への書簡」の中で,「再び」という言葉はそれに続く言葉に結び付くと理解するほうが自然であると述べています。同博士はさらに,人間としての到来であったイエスの最初の到来についてはパウロが既に(2節で)述べていることをも挙げています。そこでウェストコット博士は,「[6節の中で]この書簡の筆者が,メシアの業が完了されることになっていたその再来を特に指し示すべき十分の理由があった」と述べています。
 ですからヘブライ 1章6節は,栄光を受けたイエスが再び来られる,つまり人類の世に特別な注意を向けられる時を指し示すものと理解されるべきです。新世界訳およびアメリカ標準訳,さらにはR・ヤングの翻訳とJ・B・ロザハムの翻訳では,この節はそのように訳出されています。エドガー・J・グッドスピード博士の翻訳は,この聖句がキリストの二度目の到来に当てはまることをさらにはっきりと示しています。その翻訳はヘブライ 1章6節を次のように訳出しています。「しかし,ご自分の初子を世に連れ戻される時についてはこう述べておられます。『そして神のみ使いたちはみな彼の前に身をかがめよ』」。