エホバの証人の聖書

ヘブライ 1:6

新世界訳聖書(エホバの証人)
しかし、その初子を人の住む地に再び導き入れる際にはこう言われるのです。「そして神のみ使いたちはみな彼に敬意をささげよ」。

新共同訳聖書(カトリックとプロテスタント)
更にまた、神はその長子をこの世界に送るとき、「神の天使たちは皆、彼を礼拝せよ」と言われました。

新改訳聖書(ファンダメンタル)
さらに、長子をこの世界にお送りになるとき、こう言われました。「神の御使いはみな、彼を拝め。


 新共同訳聖書で「礼拝せよ」、新改訳聖書で「拝め」となっているところが、新世界訳聖書では「敬意をささげよ」となっています。そのため、エホバの証人に反対する人たちは、「新世界訳聖書のこの聖句は改竄されている」と主張しています。
 新世界訳は改竄されているのでしょうか。

 ここで、「敬意をささげる」とか「礼拝する」とか訳されているギリシャ語プロスキュネオーは、文脈により、「ひれ伏する」、「崇拝する」、「敬意をささげる」などと訳せる語だそうです。

 その対象が人である啓示(黙示録) 3:9の場合を見てみましょう。

啓示(黙示録) 3:9
新世界訳聖書(エホバの証人)
見よ、わたしは、ユダヤ人であると言いながら[実は]そうではなく、偽りを語る、サタンの会堂の者たちを与える―見よ、わたしは彼らを来させてあなたの足もとに敬意をささげさせ、わたしがあなたを愛したことを悟らせる。
新共同訳聖書(カトリックとプロテスタント)
見よ、サタンの集いに属して、自分はユダヤ人であると言う者たちには、こうしよう。実は、彼らはユダヤ人ではなく、偽っているのだ。見よ、彼らがあなたの足もとに来てひれ伏すようにし、わたしがあなたを愛していることを彼らに知らせよう。

 今度は、対象が神である啓示(黙示録) 4:10の場合を見てみましょう。

啓示(黙示録) 4:10
新世界訳聖書(エホバの証人)
二十四人の長老は,み座に座っておられる方の前にひれ伏し,限りなく永久に生きておられる方を崇拝する。そして自分たちの冠をみ座の前に投げ出して,こう言う。
新共同訳聖書(カトリックとプロテスタント)
二十四人の長老は、玉座に着いておられる方の前にひれ伏して、世々限りなく生きておられる方を礼拝し、自分たちの冠を玉座の前に投げ出して言った。

 このように、ギリシャ語のプロスキュネオーは、その対象がだれであるかによって、意味が変わります。そこで、対象がイエスである場合に問題が生じます。イエスに対するプロスキュネオーの行為は、「崇拝」になるのか、それとも、違うのかという問題です。
 新世界訳聖書と新共同訳聖書の訳し方の違いは、三位一体論に対する両者の認識の違いの表れであると言えるでしょう。

 プロスキュネオー全般については、「ものみの塔」誌1992年1月15日号はこのように述べています。

『幾つかの翻訳ではプロスキュネオーを,「敬意を……払え」(新英訳聖書),「敬意をささげよ」(新世界訳),「前で身をかがめよ」(アメリカ訳)と訳しています。』

 新世界訳聖書は新英訳聖書に近いようです。


 この聖句は、三位一体論者が三位一体論の証明としてよく用いる、切り札となる聖句です。三位一体論者は、この聖句が、恐らく聖書の詩編 97:7か、申命記 32:43の七十人訳(ギリシャ語セプトゥアギンタ)からの引用であることに注目します。

詩編 97:7
新世界訳聖書(エホバの証人)
彫刻した像に仕える者はみな恥をかくがよい。無価値な神々を誇りにしている者たちは。この方に身をかがめよ,すべての神々よ。
新共同訳聖書(カトリックとプロテスタント)
すべて、偶像に仕える者、むなしい神々を誇りとする者は恥を受ける。神々はすべて、主に向かってひれ伏す。

 ここのところは、参照資料付き新世界訳聖書の脚注ではこうなっています。

「神々」。ヘ語,エローヒーム; 七十訳,シリ訳,ウル訳,「その使いたち」。

申命記 32:43
新世界訳聖書(エホバの証人)
諸国民よ、[神]の民と共に喜べ。[神]はその僕ための血の復しゅうをされるからである。ご自分の敵対者たちに報復し、ご自分の民の地のために贖罪を行なわれるのである」。
新共同訳聖書(カトリックとプロテスタント)
国々よ、主の民に喜びの声をあげよ。主はその僕らの血に報復し、苦しめる者に報復して、その民の土地を贖われる。

 ここのところは、参照資料付き新世界訳聖書の脚注ではこうなっています。

「天よ,[神]と共に喜べ。神のすべての使いたちは[神]を崇拝せよ。諸国民よ,[神]の民と共に喜べ。神のすべての子らは[神]にあって自らを強くせよ」,七十訳バグスター。ヘブ 1:6; 死海文書クム4申qと比較。

 この句はいずれもエホバ神に関するものです。これがヘブライの聖句ではイエスに適用されているので、これを根拠に「イエスはエホバである」と三位一体論者は主張します。
 これに対して、「聖書に対する洞察」はこう答えています。

どのような訳語が使われるにしても,ギリシャ語原語は変わらないわけですから,み使いがキリストにささげたものに関する理解は,聖書中の他の部分と調和していなければなりません。
……わたしたちが「崇拝」であると理解しているものが,み使いたちからみ子に向けられているように思えるとしても,それは実際にはみ子を通してエホバ神に,すなわち「天と地と海と水のわき出るところとを造られた方」,主権者なる支配者に向けられているのです。
……他方,「身をかがめる」,『敬意を表する』(「崇拝する」の代わりに)と訳す方法は,詩編 97編7節の原語のヘブライ語からも,ヘブライ 1章6節の原語のギリシャ語からも外れたものではありません。そのような翻訳はヘブライ語ヒシュタハワーおよびギリシャ語プロスキュネオー両語の基本的な意味を伝えているからです。
(一部追記)

 「ものみの塔」誌1992年1月15日号はこう説明しています。

「崇拝する」という訳を好む人がいるとしても,そのような崇拝は相対的なものです。
……み使いが神のみ子にささげる「崇拝」はなんであれ相対的なもので,イエスを通してエホバに向けられているのです。


 ちなみに、英文新世界訳聖書の古い版は、ヘブライ 1:6の問題の箇所を「崇拝(worship)」と訳しています。

英文新世界訳聖書(NW,NWT)1950年版(エホバの証人)
But when he again brings his Firstborn into the inhabited earth, he says: “And let all God's angels worship him.”
英文新世界訳聖書(NW,NWT)1984年版(エホバの証人)
But when he again brings his Firstborn into the inhabited earth, he says: “And let all God's angels do obeisance to him.”


 この聖句に関連した話ですが、マタイ 4:8-11について、岩村義男氏は「神のみ名は「エホバ」か」の本の中でこのように指摘しています。

マタイ 4:10-11
新世界訳聖書(エホバの証人)
また,悪魔は彼をとりわけ高い山に連れて行き,世のすべての王国とその栄光とを見せて,こう言った。「もしあなたがひれ伏してわたしに崇拝の行為をするならば,わたしはこれらのすべてをあなたに上げましょう」。その時,イエスは彼に言われた,「サタンよ,離れ去れ!『あなたの神エホバをあなたは崇拝しなければならず,この方だけに神聖な奉仕をささげなければならない』と書いてあるのです」。その時,悪魔は彼を離れた。すると,見よ,み使いたちが来て彼に仕えはじめた。

『聖書から論じる』(ものみの塔協会発行)の57頁では、「崇拝する」(ギリシャ語プロスキュネオー、英語 worship)は、「心と思いの特殊な態度を伴う神だけに向けられる」崇拝だと主張します。しかし文脈の9節で、サタンはイエスを誘惑する際、「ひれ伏して」という崇拝の行為をするように迫っています。つまり単に「ひれ伏す」だけでサタンは満足するわけです。さらに、11節で、「み使いたちが来て彼に仕えはじめた」とありますように、み使いたちはイエスに仕えています。証人はイエスを崇拝することは適切でないと言いますが、聖書に基づいているのでしょうか。では、ヘブライ 1章6節で、み使いたちがイエスを崇拝している場面を注目してください。『王国行間逐語訳』は、「崇拝する」(英語 worship)を用いています。『新世界訳』英文(1950,1960,1961,1970年版)は、ここにworshipを用いていました。しかし最新の『新世界訳』では、「敬意をささげる」(英語 obeisance - 1971,1981,1984年版)に改ざんしています。もしイエスが神でないなら、どうして人間から崇拝された(プロスキュネオー)のでしょうか。(マタイ 2:2,8,11, 14:33, 15:25, 20:20, 28:9, 17, マルコ 5:6, 15:19, ルカ 24:52, ヨハネ 9:38)人間であるペテロやパウロやヨハネは崇拝される(プロスキュネオー)のを拒んだのです。(使徒 10:25-26, 14:11-18, 啓示 19:10)(表記修正)

 ここで岩村氏が引用している「聖書から論じる」(エホバの証人)を見ると、このように書かれています。

神だけに向けられなければならないのは,心と思いの特殊な態度を伴うプロスキュネオーであるということを理解しなければなりません。

 この資料は、プロスキュネオーはその対象によって意味が変わるということを、ダビデ王に敬意をささげたナタンについて言及したセプトゥアギンタ訳の列王第一 1:23を挙げながら簡潔に説明しています。崇拝的でないプロスキュネオーがあるということです。そして、マタイ 4:10-11では、サタンに向けられるプロスキュネオーの性質は崇拝的であった、つまり神にだけ向けられるべき性質のプロスキュネオーであった、と説明しています。岩村氏はここで、プロスキュネオーの意味合いは広いので「ひれ伏す」とか「仕える」という表現もその語と同列に置くことができるという、それ自体は間違いでない知識を持ち出しています。少し補足しますと、特に「ひれ伏す」というギリシャ語の表現は聖書においてプロスキュネオーと対になって用いられることが多く、両者は実質的に同義語であると考えることができます。ただ、プロスキュネオーの同義語として用いられる種々の語はプロスキュネオーと同じ意味合いを持つゆえに崇拝的である場合も崇拝的でない場合もあるということはあまり考えていないようです。彼の主張は、プロスキュネオーの意味するところは常に崇拝的であるとする考えに依存しており、そこらへんにずれの原因があるように思います。

 さて、彼が「ペテロやパウロやヨハネは」と述べたくだり、ヨハネのところで引用されている啓示 19:10はこうなっています。

啓示 19:10
新世界訳聖書(エホバの証人)
そこでわたしは,彼の足もとにひれ伏して彼を崇拝しようとした。しかし彼はわたしに言う,「気をつけなさい! そうしてはなりません! わたしは,あなた,また,イエスについての証しの業を持つあなたの兄弟たちの仲間の奴隷にすぎません。神を崇拝しなさい。イエスについて証しすることが預言に霊感を与えるものなのです」。

 みたところ、ヨハネがみ使いにひれ伏したところであるようです。


 さて、ここでもう一度、ヘブライ 1:6を見てみましょう。

新世界訳聖書(エホバの証人)
しかし、その初子を人の住む地に再び導き入れる際にはこう言われるのです。「そして神のみ使いたちはみな彼に敬意をささげよ」。
新共同訳聖書(カトリックとプロテスタント)
更にまた、神はその長子をこの世界に送るとき、「神の天使たちは皆、彼を礼拝せよ」と言われました。

 「再び」を意味するギリシャ語をどう読むかによって文の意味が変わってしまいます。
 この問題について「ものみの塔」誌1983年5月15日号は、新共同訳聖書のような訳仕方は間違いであるとして、こう説明しています。

C・B・モール博士は文法的な面から見てこう注解しています。「この書簡における用法からすれば,パーリン[「再び」]の位置を入れ替えて,引用句の導入部とすることは許されない。……この語は,世に対する初子の二度目の導入―まだ先のこと―に言及するものである」。同様に,B・F・ウェストコット博士はその著書「ヘブライ人への書簡」の中で,「再び」という言葉はそれに続く言葉に結び付くと理解するほうが自然であると述べています。同博士はさらに,人間としての到来であったイエスの最初の到来についてはパウロが既に(2節で)述べていることをも挙げています。そこでウェストコット博士は,「[6節の中で]この書簡の筆者が,メシアの業が完了されることになっていたその再来を特に指し示すべき十分の理由があった」と述べています。
ですからヘブライ 1章6節は,栄光を受けたイエスが再び来られる,つまり人類の世に特別な注意を向けられる時を指し示すものと理解されるべきです。


 ところで、新共同訳聖書は、新世界訳聖書が「崇拝する」という訳語を用いている聖句の多くで、「礼拝」という訳語を用いています。儀式的なイメージがある不正確な訳語を新共同訳聖書が採用したのは、やはり、それが教会向けに調整された翻訳だからでしょう。
 礼拝について、「新キリスト教辞典」はこんなことを言っています。

『聖書的な礼拝の中心的な概念は、神の恵みの契約に基づいて、民が共に集まって行う公同的礼拝にある。
……新約聖書に諸要素の言及はあるが、その完全な編成順序の指示は見られない。しかし、教会とは、一緒に礼拝するために集まる神の民のことであるから、彼らの間には一つの礼拝様式が必要であり、公認の諸要素が公同の礼拝として構成されるためには式文化されなければならない。それらは礼拝の神学と伝統に基づいて、編集構成されるべきである。』

 こういった記述は、現代キリスト教の「礼拝」が、聖書のプロスキュネオーとは基本的に別のものであることを示しています。
 プロスキュネオーには「礼拝」の意味合いもありますが、どちらかといえば「式文化されなければならない」というような考えとは無関係に用いられているのですから、誤解を避けるために、用語はもっと慎重に使い分けたほうがいいように私は思います。


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