新世界訳
エホバの証人の聖書

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ヘブライ 9:27

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
そして,人がただ一度かぎり死に,そののち裁き[を受けること]が定め置かれているように,

◇ 新改訳聖書 [第三版] ◇ (ファンダメンタル)
そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、



 新改訳聖書において単に「一度」となっているところ、新世界訳聖書では「ただ一度かぎり」となっているため、新世界訳聖書を攻撃する人がいます。



◇ 「ものみの塔の新世界訳聖書は改ざん聖書」, 正木弥 (表記修正)

 逐語訳と新世界訳(英文)とを比較すると、後者には"for all time"がつけ加えられていることがわかります。新世界訳を見れば、「人がただ一度"かぎり"死に…」とあり。この"かぎり"の部分がそれです。全く唐突ですね。なぜ、このことばにこだわったのか、よくわかりません。第二の死を否定したかったのでしょうか。どういう理由があるにせよ、勝手につけ足すのは、聖書に対する重大犯罪です。



 この聖句を他の聖書で読んでみると、同じような訳文は特に珍しくないことに気づかされます。



ヘブライ 9:27

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、

◇ 口語訳聖書 ◇ (プロテスタント)
そして、一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっているように、



 ここのところをギリシャ語本文で見てると、「一度目」もしくは「一回限り」を意味する副詞が用いられています。さらに、アオリスト動詞が使用されています。アオリスト動詞はギリシャ語に特有のもので、たった一度限りの行為を指す時に用いられます。



◇ 「新約聖書ギリシア語辞典」, 玉川直重, “ἅπαξ”の項 (表記修正)

(1) 一度, one time. (2) 一度だけ, once for all.



 いま述べたように、この副詞は、「一度目」という意味で、つまり二度目がありますよというようなニュアンスで用いられることがあり、一方で、「一回限り」、つまり二度目はありませんよという意味で用いられることもあります。そのため、この語の意味はどっちなのかが問題になることがあるようです。

 この句を文法的に見ると、アオリスト動詞の使用が「一回限り」の読みを後押ししているようですが、そのように読んでしまうと、正木氏が指摘しているように、聖書の述べる「第二の死」との矛盾が生じてしまうことになります。
 「第二の死」は二度目の死を指す言葉です。啓示の書(黙示録)にはいわゆる“最後の審判”についての記述がありますが、そこでは、死んだ人たちが審判を受けるために一度生き返ります。彼らは裁判にかけられ、有罪とされると処刑されます。これが第二の死です。第二の死については 伝道(コヘレト) 9:5の項ローマ 8:29の項 にも説明がありますので参照してください。
 そうすると、正木氏によるような指摘は実にもっともだということになります。これは矛盾です。

 しかしこれは、聖書自身が矛盾するように思える表現を用いているという問題であるようにも見えます。この聖句は最後の審判について言及している聖句ですから、第二の死を否定しようとしているわけではありません。それでもこういう言い方を用いているのですから、この句は「最後の審判の前に限れば人は一度だけ死ぬ」ということを言っているようにも思えます。
 そうすると、この聖句の翻訳にあたってどちらのニュアンスを取るかは翻訳者の考え方次第ということになるでしょう。この言い回しが最後の審判での死を除外していると思うなら「一回限り」を採用し、除外しているわけでないと思うなら「一度目」を採用することになります。

 文脈はこの判断を難しくしているようです。文脈を含めて見るとこの副詞は3回用いられていて、同じ意味での繰り返しであるように思えます。



ヘブライ 9:25-28

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
それはまた,大祭司が自分のではない血を携えて年ごとに聖なる場所へ入るように,何度もご自身をささげるためでもありません。そうでなければ,世の基が置かれて以来何度も苦しみを受けなければならなかったでしょう。しかし今,ご自分の犠牲によって罪を取りのけるため,事物の諸体制の終結のときに,ただ一度かぎりご自身を現わされたのです。そして,人がただ一度かぎり死に,そののち裁き[を受けること]が定め置かれているように,キリストもまた,多くの人の罪を負うため,ただ一度かぎりささげられました。そして,彼が二度目に現われるのは罪のことを離れてであり,それは,[自分の]救いを求めて切に彼を待ち望む者たちに対してです。

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
それは,何度も自分を捧げるためではありません。大祭司が自分の血ではない血を携えて毎年聖なる場所に入るのとは違います。そうでなければ,キリストは世が始まった時から何度も苦しまなければならなかったでしょう。しかし今,体制の終結の時に,自分を犠牲として捧げて罪を取り除くために一度限り現れてくださいました。人は一度限り死に,その後に裁きを受けることになっています。それで,キリストも,多くの人の罪を負うために一度限り自分を捧げました。そして,2度目に現れるのは罪を取り除くためではありません。キリストに救われることを一心に待ち望んでいる人たちに現れるのです。

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
それも、毎年自分のものでない血を携えて聖所に入る大祭司とは違い、キリストは、ご自身を何度も献げるようなことはありません。もしそうだとすれば、天地創造の時から、度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりに、ご自身をいけにえとして献げて罪を取り除くために、ただ一度現れてくださいました。そして、人間には、ただ一度死ぬことと、その後裁きを受けることが定まっているように、キリストもまた、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、救いをもたらすために、ご自分を待ち望んでいる人々に現れてくださるのです。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
また、キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、度々御自身をお献げになるためではありません。もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。

◇ 口語訳聖書 ◇ (プロテスタント)
大祭司は、年ごとに、自分以外のものの血をたずさえて聖所にはいるが、キリストは、そのように、たびたびご自身をささげられるのではなかった。もしそうだとすれば、世の初めから、たびたび苦難を受けねばならなかったであろう。しかし事実、ご自身をいけにえとしてささげて罪を取り除くために、世の終りに、一度だけ現れたのである。そして、一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっているように、キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた後、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救を与えられるのである。

◇ 新改訳聖書 [2017年版] ◇ (ファンダメンタル)
それも、年ごとに自分の血でない血を携えて聖所に入る大祭司とは違い、キリストはご自分を何度も献げるようなことはなさいません。もし同じだとしたら、世界の基が据えられたときから、何度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかし今、キリストはただ一度だけ、世々の終わりに、ご自分をいけにえとして罪を取り除くために現れてくださいました。そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。

◇ 新改訳聖書 [第三版] ◇ (ファンダメンタル)
それも、年ごとに自分の血でない血を携えて聖所に入る大祭司とは違って、キリストは、ご自分を幾度もささげることはなさいません。もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。



 ここで気になるのは「二度目に現れる」という表現があることです。これは「ただ一度かぎりご自身を現わされた」に対して「二度目」を述べています。一方で、この「ただ一度かぎりご自身を現わされた」は「何度も苦しみを受ける」ことの否定として用いられ、さらにそれを言い換えて「ただ一度かぎり死ぬ」と表現されています。そして、人が「ただ一度かぎり死ぬ」ことは、キリストが「ただ一度かぎり死ぬ」ことと類似であると説明しています。
 このように、聖書自身が矛盾した言い回しを用いていて混乱が生じていますので、これをどう扱うかは悩ましいところです。