新世界訳
エホバの証人の聖書

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ペテロ第一 1:11

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
彼らは,自分のうちにあるが,キリストに臨む苦しみとそれに続く栄光についてあらかじめ証しをしていた時,それがキリストに関して特にどの時期あるいはどんな[時節]を示しているかを絶えず調べました。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
預言者たちは、自分たちの内におられるキリストの霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光についてあらかじめ証しされた際、それがだれを、あるいは、どの時期を指すのか調べたのです。



 この聖句には、古代の預言者たちの内にある霊が誰の霊であるかの違いがあります。どうしてこのような違いが生じるのでしょうか。



◇ EMPHATIC DIAGLOTT, ペテロ第一 1:11 脚注 (表記修正)

バチカン写本 ― (「キリスト」は)存在しない



◇ 岩隈直訳聖書, ペテロ第一 1:11 脚注

Χριστοῦ のない写本があり、Windisch も「クリーストスの」に疑問符をつけている。



 新世界訳聖書はバチカン写本に基づいて訳文を組み立てているようです。バチカン写本には「キリストの」という語がありません。

 聖書の世界観からすると、旧約の時代の預言者たちにキリストの霊が宿るという言い回しは不自然であるようです。預言者に宿るのはエホバの霊です。また、キリストについて証しをするのもエホバの霊です。新世界訳聖書は神学的に妥当な選択をしているようです。

 一方、新世界訳聖書以外の多数の翻訳には「キリストの」があります。これは、「キリストの」がある写本のほうが多数を占めていることに加えて、現在のキリスト教では広く受け入れられている三位一体論にとって都合がいいという事情があるようです。
 神学上の法則に従うなら、ここは本来「神が」となるべきところです。それが「キリストが」となっているのですから、三位一体論を支持する人は、ここから「キリストは神である」ということを説明できるでしょう。

 この句の場合、「キリストの霊」の文を採用するとしても、三位一体論には従わず、これを「キリストのことを証しする神の霊」の意味に読むのが無難であるようです。似たような話は使徒 24:24啓示(黙示録) 1:9の項にも見られます。

 もう一つの相違点は文法の解釈の相違から生じているようです。



◇ 岩隈直訳聖書, ペテロ第一 1:11 脚注

τίνακαιρὸν と結合しないで「だれをまたどんな時を」と解する人もある。






 ウエブサイト「エホバの証人への福音」に掲載された「新世界訳聖書の改ざん問題」という資料はこの聖句の問題についてこう指摘しています。



◇ 「新世界訳聖書の改ざん問題」, 「エホバの証人への福音」

 原文では「自分の内にあるキリストの御霊」(the spirit of Christ in them)となっているが、新世界訳聖書では「キリストの」が削除され、「自分の内にある霊」となってしまっている。さらに、「キリスト」を削除することにより、その「霊」が何の霊なのかが文脈上分かりづらくなってしまっているので、二重の問題がある。
この聖句でペテロは、旧約時代の預言者に預言を語らせた「エホバの霊」と、「キリストの霊」とを、完全に同一視している。つまり、ペテロは「エホバ」と「キリスト」を同一視していたことになる。しかしそれでは、「エホバ」と「キリスト」を別の存在と考えるものみの塔の教えとは調和しない。そこで、神の子の聖なる御名「キリスト」を削除してしまった。



 ここで三位一体論者にとって重要なのは、この句の「キリストの霊」は本来「神の霊」であるべきだ、ということです。まずそう考えなければ、「キリストは神」という論法は成立しません。つまり、三位一体論者も、ここは本来「神の霊」であるべきということを認めていることになります。
 基本的な認識が同じでも、三位一体論を支持しているかどうかで聖句の解釈が大きく変わってしまうということのようです。

 「キリスト」はイエスの称号であって御名ではありません。