新世界訳
エホバの証人の聖書

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ヨハネ第一 5:7-8

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
証言をするものは3つあります。聖なる力と水と血であり,その3つは一致しています。

◇ 詳訳聖書 ◇ (ファンダメンタル)
そしてあかしをするものは〈聖〉霊です。〈聖〉霊は真理であるからです。それで、あかしをするものが天に三つあります。み父とみことばと聖霊、この三つは一つです。また地に三つのあかしがあります。み霊と水と血です。これら三つのものは一致しています〈調和しています、これらのあかしは合致しています〉。



 ここで問題となっているのは、聖書に書き加えが行われていることです。
 キリスト教ではある時期から「三位一体(さんみいったい)」という教えが信じられるようになってきました。しかし、キリスト教の聖典である聖書はそのような教えを持っておらず、三位一体論の支持者たちは聖書からこの教えを説明しようとしたときに大きな問題に直面することになりました。



○ 三位一体の定義

父なる神がおられ、子なる神がおられ、聖霊なる神がおられる。
しかし、三人の神がおられるのではなく、ただおひとりの神がおられるのである。



 三位一体論者はこの問題を解決しようとして、この教えに合うように聖書を読み替えたり、時には書き換えたりすることもしました。そして、この聖句では書き加えが行われました。
 ここで用いられている「みことば」は、イエスのことを指す呼称です。つまりこの挿入句は、神と子と聖霊は“一体”であると述べています。



◇ 新世界訳参照資料付き聖書, ヨハネ第一 5:7, 脚注

「三つあるのです」の後,シナ写,アレ写,バチ写,ウル訳,シリ訳ヘ,ペは,後代のギリシャ語諸写本およびウル訳クに付け加えられた語句を省いている。その付け加えられた語句は以下のとおり:「天には,父,言葉,そして聖霊; そして,これら三つは一つである。(8)また,証しをするものが地に三つある」。



◇ 新世界訳参照資料付き聖書, 付録, 6ロ, 「証しをするものは三つ」

「証しをするものは三つあるのです。霊と水と血であり,その三つは一致しています」― ヨハネ第一 5:7,8。

 この翻訳は,C・ティッシェンドルフ(第8版,1872年); ウェストコットとホート(1881年),アウグスチヌス・メルク(第9版,1964年); ホセ・マリア・ボーベル(第5版,1968年); UBS; ネストレ-アーラントによるギリシャ語本文と一致しています。
 小文字写本,No.61(16世紀)およびNo.629(ラテン語およびギリシャ語,14-15世紀)とウル訳クは,「三つあるのです」の後に,次の言葉を加えています。「天には,父,言葉,そして聖霊; そして,これら三つは一つである。(8)また,証しをするものが地に三つある」。しかし,シナ写,アレ写,バチ写,ウル訳,シリ訳ヘ,ペはこれらの言葉を省いています。



◇ 「聖書に対する洞察」, 『霊』の項, ものみの塔聖書冊子協会

 聖霊は人格的存在であり,“神”の一部であるという教えは,西暦4世紀になって初めて教会の公式の教義となりました。初期の教会の“教父たち”はそのような教え方をしませんでした。西暦2世紀の殉教者ユスティヌスは,聖霊は『影響力,もしくは神の活動の一形態』であると教えました。同様に,ヒッポリュトスも聖霊を性格を有するものとはみなしませんでした。聖書それ自体は,神の聖霊が人格的存在ではなく,神がご自分の目的を成し遂げ,ご意志を実行する手だてとしての活動する力であることを示す点で一致しています。
 ……古い翻訳に見られるヨハネ第一 5章7節の「天において……御父,御言葉,御霊……この三つは一つなり」(欽定)という言葉は,実際には元の本文に付け加えられた偽筆の句であることに注目できます。カトリックの翻訳であるエルサレム聖書の脚注は,これらの言葉は「初期のギリシャ語写本,もしくは初期の翻訳のいずれにも,またウルガタ[訳]そのものの最良の写本にもない」と述べています。「ギリシャ語新約聖書の本文に関する注解」という本の中で(1975年,716-718ページ),著者ブルース・メツガーはその偽筆の章句の歴史を詳細にたどっています。同書によれば,その章句はまず最初に,「リーベル・アポロゲーティクス」と題する4世紀の論文に見いだされており,西暦6世紀から聖書の古ラテン語とウルガタ訳の写本に現われ始めています。カトリックとプロテスタント双方の現代の翻訳は全体として,偽筆であるというその性格を認めているゆえに,この句を本文の主文には含めていません。―改標,新英,新ア。



 後代の挿入であることがはっきりしていますので、現在はほとんどの聖書からこの部分は省かれています。
 ただ、ごくまれにですが、これを省こうとしない聖書もあるようです。それは、過去に行われた聖書の改竄を追認する行為ですので、かなり問題だと思います。