新世界訳
エホバの証人の聖書

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ヨハネ第一 5:20

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
しかしわたしたちは,神のみ子が来て,真実な方について知ることができるよう,わたしたちに知的な能力を与えてくださったことを知っています。そしてわたしたちは,み子イエス・キリストによって,真実な方と結ばれています。この方こそまことの神であり,永遠の命です。

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
さらに,私たちが知っている通り,神の子が来て,私たちが真実な方について知ることができるように洞察力を与えてくださいました。そして私たちは,子であるイエス・キリストによって,真実な方と結び付いています。この方こそ真の神であり,永遠の命の源です。

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
しかし、神の子が来て、真実な方を知る力を私たちに与えてくださったことを知っています。私たちは、真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神であり、永遠の命です。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
わたしたちは知っています。神の子が来て、真実な方を知る力を与えてくださいました。わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です。

◇ 口語訳聖書 ◇ (プロテスタント)
さらに、神の子がきて、真実なかたを知る知力をわたしたちに授けて下さったことも、知っている。そして、わたしたちは、真実なかたにおり、御子イエス・キリストにおるのである。このかたは真実な神であり、永遠のいのちである。

◇ 新改訳聖書 [2017年版] ◇ (ファンダメンタル)
また、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことも、知っています。私たちは真実な方のうちに、その御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。

◇ 新改訳聖書 [第三版] ◇ (ファンダメンタル)
しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。



 ここで語られている「真実な方」とはエホバ神のことです。この句は、神の子であるイエスが地上に現れ、神についての理解を弟子たちに授けたということを語っていますが、後半部分で用いられている言い回しの訳出には相違があるようです。
 この部分で、「真実な方はすなわちイエスである」というような訳をしている翻訳があります。新改訳聖書第三版がそうです。しかし、前半部分で「神の子が来て神について説明した」と言っているのに、続けて「イエスは神です」という説明が出てくるのはかなりの矛盾です。
 新しい聖書翻訳ではこの問題を改める傾向が見られるようです、新共同訳聖書、聖書協会共同訳聖書、新改訳聖書2017年版は「その(神の)」という語の挿入によって問題を解決しています。一方、新世界訳聖書はまったく異なる訳し方をしています。

 ここのところ、聖書の原典では、解りやすいように英語に変換して表記すると“in A in B”となる言い回しが使われています。Aが神、Bがイエスです。そして、この“in”に相当するギリシャ語は“エン”です。
 ギリシャ語エンには三つの意味と用法があります。一つ目は、物理的な内在を意味する用法です。二つ目は、人間同士の深い関係を示す用法です。三つめは、手段を表す用法です。



○ ギリシャ語 ἐν の用法

内在の用法 (物理的用法)
関係の用法 (領域的用法)
手段の用法



 神と神の子と人間との関係を示すために用いられる場合、それは関係の用法です。ところが、聖書翻訳の世界では、これを内在の用法として訳出することが広く行われています。「御子は神の内にいる」とか「神は御子の内にいる」という具合です。
 なぜこういうことが行われているかというと、ひとことで言うと、誤解が定着してしまったからです。ある時期からキリスト教は、聖書の間違った読み方と翻訳とに基づいて、神とキリストは相互に内在している、人もまた神やキリストに内在するという教義を作ってきました。この教義は今でも諸教会内で強い影響力があります。いったんこういう状況になってしまうと、なかなか訂正ということはできないようで、それが現代の聖書に影響を与えているようです。

 日本において、この問題に対する解決を示したのが、エホバの証人による新世界訳聖書です。新世界訳聖書は関係の用法を適正に訳出しています。しかし、それに対するキリスト教会の反発は激しく、新世界訳聖書は聖書を改竄しているなどと言われることも多々ありました。
 ところが、そのような諸教会にとってショッキングなことが起こりました。日本聖書協会が、その新共同訳聖書において、新世界訳聖書の後追いをしたのです。新共同訳聖書は、新世界訳聖書ほどではないにしても、いろいろな箇所でギリシャ語エンの関係の用法を適正に訳出しました。
 聖書協会としては、聖書を翻訳するにあたってごくあたりまえのことをしたかったのだと思います。ところが、このことに対する諸教会の反発と攻撃はたいへんなもので、結局、聖書協会は次の翻訳である聖書協会共同訳で訳文を元に戻してしまいました。



ローマ 8:1

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
こういうわけで,キリスト・イエスと結ばれた者たちに対して有罪宣告はありません。

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
こういう訳で,キリスト・イエスと結ばれている人たちは有罪とされていません。

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
従って、今や、キリスト・イエスにある者は罪に定められることはありません。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。

◇ 口語訳聖書 ◇ (プロテスタント)
こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。

◇ 新改訳聖書 [2017年版] ◇ (ファンダメンタル)
こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。

◇ 新改訳聖書 [第三版] ◇ (ファンダメンタル)
こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。



 ギリシャ語エンについての解説は ヨハネ 6:56の項ヨハネ 17:21の項 にもありますので適宜参照してください。こちらには、内在の訳を正当化しようとする人たちの論法と、その結果生じる悪循環の指摘があります。相互内在については ヨハネ 7:29 のほうに指摘があります。

 予備的な知識を得たところで、話をもとに戻しましょう。
 問題となっている言い回しは“in A in B”です。同じ言い方が繰り返されていますので、これは直列に読むことも並列に読むこともできます。並列に読んだ場合、その意味合いは、「神と結ばれていることとキリストと結ばれていることとは同義である」というような意味になります。直列に読み、さらに“in B”を関係の用法と読んだ場合、その意味は「まずキリストと結ばれ、その結果神と結ばれる」というような意味になります。直列に読み、さらに“in B”を手段の用法と読んだ場合、「キリストによって、神と結ばれる」というような意味になります。
 この部分には前半の言い回しがありますので、「キリストによって、神と結ばれる」の読みがもっとも自然であるようです。






 この聖句については、「この方こそ」の部分で怪しい文法理論を展開する方がおられるそうです。



◇ 「ものみの塔」誌2004年10月15日号, ものみの塔聖書冊子協会

「真実の神,永遠の命」である方とはだれですか

 主イエス・キリストの父であるエホバこそ真実の神です。また,ご自分を愛する者にとこしえの命をお与えになるのも創造者であるエホバです。上の表題の問いかけに対して,聖書を読んでその内容を信じる人の多くは,そう答えることでしょう。実際,イエスご自身もこう述べました。「彼らが,唯一まことの神であるあなたと,あなたがお遣わしになったイエス・キリストについての知識を取り入れること,これが永遠の命を意味しています」。―ヨハネ 17:3。
 しかし教会員の中には,異なる理解をしている人が少なくありません。上の表題の引用句はヨハネ第一 5章20節から取られたもので,その聖句は一部こうなっています。「わたしたちは真実な方の内に,その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ,真実の神,永遠の命です」。―「新共同訳」(共同訳聖書実行委員会)。
 三位一体を信じる人たちは,「この方」に相当するギリシャ語のフートスという指示代名詞は直前の先行詞つまりイエス・キリストにかかると主張します。イエスが「真実の神,永遠の命」だというわけです。しかし,この解釈は聖書の他の部分と相いれません。権威ある学者の多くも,三位一体に基づくこの見方を受け入れていません。ケンブリッジ大学の学者B・F・ウェストコットは,「[代名詞のフートス]は,位置的に最も近い対象ではなく,使徒の思いの中で優勢な対象にかかるのが最も自然である」と書いています。つまり使徒ヨハネは,イエスの父のことを念頭に置いていたということです。ドイツの神学者エーリッヒ・ハウプトもこう述べています。「続く部分にある[フートス]が,直前の位置にある対象にかかるのか,……幾分離れた先行詞つまり神にかかるのか,見極めなければならない。……キリストの神性を示すことよりも,唯一まことの神について証しすることのほうが,偶像に関する最後の警告と調和するように思える」。
 ローマの法王庁立聖書研究所が出版した「新約聖書のギリシャ語文法解析」(英語)でさえこう述べています。「[フートス]: 18-20[節]を締めくくる部分として,異教と対照を成す,実在する真実の神を指しているのはほぼ間違いない(21節)」。
 フートスは一般に「これ」,もしくは「この者」,「この方」などと訳されますが,必ずしもその直前に置かれた対象を指すわけではありません。他の聖句がその点を例証しています。ヨハネ第二 7節で,ヨハネ第一と同じ筆者である使徒はこう述べています。「人を惑わす者が大勢世に出て来たからです。彼らは,イエス・キリストが肉となって来られたことを公に言い表そうとしません。こういう者[フートス]は人を惑わす者,反キリストです」。(新共同訳)この聖句でフートスが,最も近い先行詞つまりイエスを指すことはあり得ません。「こういう者」とは当然,イエスを否定した人たちを指します。そのような人たちは集団として,「惑わす者,反キリスト」なのです。
 使徒ヨハネによる福音書の中にはこうあります。「シモン・ペテロの兄弟アンデレは,ヨハネの語ることを聞いてイエスのあとに付いて行ったその二人のうちの一人であった。この人[フートス]はまず自分の兄弟シモンを見つけ(た)」。(ヨハネ 1:40,41)「この人」が,前の文で名前の挙げられている最後の人ではなく,アンデレを指しているのは明らかです。ヨハネ第一 2章22節でも,使徒ヨハネはギリシャ語で,同じ代名詞を同様の仕方で用いています。
 ルカも同じような形でこの代名詞を用いており,その一例として使徒 4章10,11節があります。「ナザレ人イエス・キリスト,つまりあなた方が杭につけた方,しかし神が死人の中からよみがえらせた方の名において,この方によって,この人がここ,あなた方の前に健やかな姿で立っているのだということを。この方[フートス]こそ,『あなた方建築者たちにより取るに足りないものとして扱われたのに隅の頭となった石』です」。「この方」という語が,フートスの直前で言及されている癒された人を指していないのは明らかです。11節の「この方」は当然ながらナザレ人イエス・キリストを指しており,クリスチャン会衆はイエスという「隅石」の上に据えられているのです。―エフェソス 2:20。ペテロ第一 2:4-8。
 使徒 7章18,19節も同じ点を例証しています。「別の王がエジプトの上に立ちましたが,その者はヨセフのことを知りませんでした。この者[フートス]はわたしたちの民族に対して政略を巡らし(ました)」。ユダヤ人を抑圧した「この者」とは,ヨセフではなく,エジプトの王ファラオでした。
 これらの記述は,ギリシャ語学者のダニエル・ウォーレスが指摘している次の点,すなわち,ギリシャ語の指示詞の場合,「文脈において最も近い先行詞が,著者の思いの中で最も近い先行詞であるとはかぎらない」という点を裏付けています。

「真実な方」

 使徒ヨハネが書いている「真実な方」とは,イエス・キリストの父であるエホバのことです。エホバこそ唯一真実な神であられ,創造者です。使徒パウロも,「わたしたちには父なるただひとりの神がおられ,この方からすべてのものが出て(いる)」と述べています。(コリント第一 8:6。イザヤ 42:8)ヨハネ第一 5章20節にある「真実な方」がエホバであると言えるもう一つの理由は,その方が真理の源であるからです。詩編作者はエホバのことを「真理の神」と呼んでいますが,それはエホバがご自分の行なうすべてのことにおいて忠実であり,偽ることができないからです。(詩編 31:5。出エジプト記 34:6。テトス 1:2)み子は天の父について,「あなたのみ言葉は真理です」と言いました。そして自分の教えについて,「わたしの教えはわたしのものではなく,わたしを遣わした方に属するものです」と述べています。―ヨハネ 7:16; 17:17。
 エホバは「永遠の命」でもあります。命の源であり,キリストを通して命を過分の贈り物として与えてくださる方です。(詩編 36:9。ローマ 6:23)使徒パウロは意味深いことに,神が「ご自分を切に求める者に報いてくださる」と述べています。(ヘブライ 11:6)神はみ子を死からよみがえらされることによって,み子に報いをお与えになりました。神は心をこめてご自分に仕える人に,永遠の命という報いをお与えになります。―使徒 26:23。コリント第二 1:9。
 では,どのような結論に達することができるでしょうか。エホバは紛れもなく,「真実の神,永遠の命」であられます。エホバだけが,ご自分の創造した者たちの全き崇拝を受けるにふさわしい方なのです。―啓示 4:11。






 エホバの証人統一協会対策香川ネットという反対組織の主宰者である自称宗教研究家正木弥氏が製作した「ものみの塔の新世界訳聖書は改ざん聖書」は、この聖句についてこのように批評しています。



◇ 「ものみの塔の新世界訳聖書は改ざん聖書」, 正木弥 (表記修正)

 この箇所では、新世界訳(英文)は逐語訳から大きく離れています。逐語訳はギリシャ語本文の意味を素直に表していますから、新世界約(英文)がギリシャ語本文から離れているということです。逐語訳で"in"とあるところを、新世界訳では"in union with"に変えていますが、この二つのことばは、当然、意味が違います。前者は、中に浸る、中にいる、という一体性を示そうとする語ですが、後者は、外的な連結性を示すものです。置き換えるべきでない言葉で置き換えているのです。
 また新世界訳(英文)で"by means of"の意味は原文のどこにあるのでしょうか。このように訳す根拠は全くありません。第三段の冒頭の語"this (one)"が、第二段の"the Son of him…"にかかっていくのでは、み子=まことの神 という図式になりますが、それは、ものみの塔・エホバの証人の教理に反して困るのです。それを避けるために、第二段の"the ture (one)"にかかるようにしたのが"by means of"の語であるわけです。
 要するに、ここでも、自分たちの教理を守るために、聖書のことばをいじくって、別の意味に変えたのです。聖書に教理を合わせるのではなく、教理に聖書を合わせる、それがものみの塔のやり方なのです。



 この方は、ギリシャ語エンには内在の用法しかないと主張し、関係の用法や手段の用法を無視しています。