新世界訳
エホバの証人の聖書

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◆ エホバの証人のコラム ◆
#03 宗教と権力と責任の所在



 宗教は「権威」の一種です。そして権威には「権力」が伴います。
 宗教が権力を行使すると、どこかで必ず問題が生じるものです。
 もし権力により被害が生じるなら、それは権力者の責任問題に発展します。

 この命題に対する取り組みの一つに、宗教の組織化があります。宗教が組織化するなら、責任は自ずと分散するものです。これはコラム#2にて取り上げましたが、さらに考慮したい要素があります。それは「教義」ということです。

 権威としての宗教は「教義」というものを定め、その遵守を信者たちに要求します。教義の中には、信者たちに損失を被らせるものもあるでしょう。特に問題となるのは、医療にかかわる教義です。

 幾つかの事例を想定してみましょう。

 どこかの宗教団体において、生活上の難しい問題が持ち上がります。それは、子供のしつけと虐待の境界をどう定めるかということかもしれませんし、性的マイノリティ(性的少数者)にどのように接するかということかもしれません。
 そうすると、その宗教において権威と見なされている人たちが集まって協議を行い、「あれはやってはならない」とか「これをするべきである」という判断が行われることになります。しかし時代の移り変わりによって世の中の価値観が変わっていくと、宗教もその影響を受け、ついにその判断は撤回されてしまいます。
 すると、制約のある教義をさまざまな不便を忍びつつまじめに守ってきた信者たちは不愉快に思います。「これまでの苦労は何だったんだ」と言うかもしれませんし、「責任者は責任をとれ」と叫ぶかもしれません。

 どこかの宗教団体が、現代医療のあるものを制限する教えを説いたとしましょう。それは臓器移植に関することかもしれませんし、クローン技術に関することかもしれません。すると、その教えのために障害を負ったり、寿命を縮めたり、命を失ったりする信者が現れることになります。
 そうすると、信者たちの間から「命を返せ」とか「補償を行え」という声があがることになります。しかも、宗教が説く医療倫理は時代の変化に伴って徐々に緩和していくものですから、こうしてかつては認められなかった医療が認められるようになると、その声は大きくなります。

 さて、このようなときに宗教の権威者たちはどれほどの責任を負うべきでしょうか。

 多くの宗教には「このような責任が存在すると宗教は成り立たなくなる」という認識があります。責任を気にかけるあまり、指導者たちが正しい教えを説かなくなるのです。
 もし、ある形態の医療を否定することこそがその宗教にとって正しい決定であるとしましょう。しかし、責任というものがあると、指導者たちは自分を守ろうとして逆の決定をするかもしれません。
 信者と権威との関係が正常なら、信者たちは指導者たちに対し、私情を廃してでも教義上の正しい議論と正しい判断を行うよう求めるものです。責任を回避しようとすることによって指導者たちの議論がゆがむなら、信者たちとしてはたまったものでないでしょう。

 そこで、解決策として、権威と責任の分離が行われることになります。指導者たちはその責務に伴う責任を免除され、責任を気にかけることなく自由に議論と決定を行います。責任にかかわるような問題が生じたときには、彼らを別にした宗教社会、信者個人が一致協力してそれを負担します。

 この考え方ですが、裁判制度などにもある程度似たものが見られます。責務に伴って生じる責任を問うと、だれも責務を果たせなくなるので、ある程度大きな責務からは責任を免除してしまおうという発想です。裁判制度は時に間違った判断と被害を生じさせるものですが、それでも裁判官が責任を負うことはありません。

 エホバの証人の場合、この種の問題はたくさんあります。彼らが原始キリスト教の復興を目指しているからです。どのような宗教も軒並み形骸化するこの時代に、エホバの証人はその逆の道を進んできました。
 たとえば、兵役拒否者を銃殺する国ではエホバの証人の若者たちがたくさん処刑されてきました。血についての聖書の教えに従い、輸血を受けずに死んでしまう信者もいます。

 輸血拒否については、反対者からの非難の声があります。
 反対者たちに言わせれば、これまで輸血拒否の教えのせいで多くの信者が死んでいったにもかかわらず、エホバの証人の指導者たちはその教えの間違いを認めようとはせず、謝罪もしていません。彼らは、「信者を死なせておいて謝罪もしないとは、宗教の指導者のやることだろうか」と言います。一方、エホバの証人社会内に教団や指導者の責任を問う動きはありません。
 反対者たちに言わせれば、これは信者が「自分で考えることを許されていない」ことの証拠です。いったん指導者が判断を下せば、信者たちは全くそれに逆らうことができず、その責任を追及することもできないということです。「これはマインドコントロールだ」と反対者たちは言います。
 対してエホバの証人は、「そういう考え方をする人はエホバの証人にならなければいいのではないですか」とか、「エホバの証人をやめてしまえばいいのではないですか」と答えます。エホバの証人は自分の宗教をわきまえていますので、そういう反対論を受け入れたりはしません。

 もちろん、宗教組織とその指導者が責任を免除されることによる問題も明らかになっています。
 たとえばある宗教は次々と問題を起こすことで知られていますが、教団はその都度「責任は信徒個人にある」と主張してことを済ませています。これはルールを悪用した卑劣な振る舞いだと考えられています。そのような悪弊などない健康な宗教においても、内部では多くの問題が放置されているようです。そして、この種の問題の多くには解決策がみつかりません。これは、宗教が責任を免除されるにあたっての免除の領域が広すぎることを示唆しているのかもしれません。

 一方で、近頃の大多数の宗教には、この種の命題自体が消滅する傾向が見られています。それは宗教の世俗化が進んでいるからです。十分に世俗化した宗教においては、その宗教固有の価値観による問題というものは発生しなくなるのです。問題が生じないなら、責任を気にする必要もありません。