エホバの証人のコラム

#3 宗教と権力と責任の所在


 言うまでもなく、宗教は権威の一種です。宗教には権力が伴います。宗教が権力を行使すると、必ず問題が生じるものです。問題が生じるということは被害が生じるということです。被害が生じるのであれば、それは責任問題にもつながります。
 こうして、宗教における権威と責任をどう扱うべきかという命題が生じます。
 この問題に対する取り組みの一つに、宗教の組織化があります。これはコラム#2にて取り上げましたが、さらに考慮しなければならないたくさんの要素の一つに、“教理また倫理上の判断”があります。

 幾つかの事例について考えてみましょう。
 どこかの宗教団体において、教義上の判断を必要とする難しい問題が持ち上がったとします。その宗教において権威と見なされている人たちが集まって意見を集約した結果、「あれはやってはならない」とか、「これをするべきである」という判断が行われます。信者たちはその教えを守るよう求められます。しかし、しばらくすると「あれはどうも間違いだったらしい」ということが言われるようになり、やがてその判断は撤回されます。すると、さまざまな不便を忍びつつその教えをまじめに守ってきた信者たちが腹を立てます。「これまでの苦労は何だったんだ」と言うかもしれませんし、「責任者は責任をとれ」と叫ぶかもしれません。
 どこかの宗教団体が、現代医療のあるものを制限する教えを説いたとしましょう。すると、その教えのために障害を負ったり、寿命を縮めたり、命を失ったりする信者が現れます。宗教が説く倫理は医療技術の進展に伴って徐々に緩和するのが常ですので、こうしてかつては認められなかった医療が認められるようになると、今度はそのことが問題になります。「もっと早くあの治療が受けられたら彼の体はもっと健康になっていただろう」とか、「彼の命は助かっていただろう」と言われることになります。

 さて、このようなときに宗教組織の権威者たちはどれほどの責任を負うべきでしょうか。
 「権威者には十分の責任を負わせるべきだ」という意見の一方には、「責任を負わせると正しい判断ができなくなるのではないか」という懸念があります。たとえば、ある形態の医療を否定することがその宗教にとって正しい倫理である可能性がある場合、責任の所在がそのことを審議する指導者たちにあると、彼らの議論に支障が生じます。その宗教における正しい議論はゆがめられ、本来なら否定されるべき医療が肯定されたりします。信者と権威との関係が正常であれば、信者たちは権威者たちに対し、私情を廃してでも教義上の正しい議論と正しい判断を行うよう求めるものです。責任回避が動機で指導者たちの議論がゆがむようであれば、信者たちとしてはたまったものではないでしょう。
 解決策として、権威と責任の分離が行われることになります。指導者たちはその責務に伴う責任を免除され、責任を気にかけることなく自由に議論を行います。責任にかかわるような問題が生じたときには、彼らを別にした教団組織、宗教社会、信者個人が一致協力してそれを負担します。

 この考え方ですが、裁判制度などにもある程度似たものが見られます。本来なら責務に伴って生じるはずの責任を問うと、だれも責務を果たせなくなるので、ある程度大きな責務からは責任を免除しようという発想です。裁判制度は時に間違った判断と大きな被害を生じさせ得るものですが、それでも裁判官が責任を負うことはありません。宗教においても同様に、時に間違った判断をし、被害を生じさせるとしても、指導者は教義上の判断について責任を免除されるのが普通です。

 エホバの証人の場合、特に輸血拒否の教理が問題となります。
 反対者たちに言わせれば、これまで輸血拒否の教えのせいで多くの信者が死んでいったにもかかわらず、エホバの証人の統治体はその教えの間違いを認めようとはせず、謝罪すらもしていません。彼らは、「信者を死なせておいて謝罪もしないとは、宗教の指導者たる者のやることだろうか」と言います。
 エホバの証人社会内に輸血拒否に関して統治体の責任を問う動きはありません。反対者たちに言わせれば、これはエホバの証人が統治体の絶対的権力の下に置かれ、「自分の頭で考えることを許されていない」ことの証拠です。彼らによると、信者たちにとって“何が正しいか”は、統治体が何を正しいと言うかによって決まります。いったん統治体が「これが正しい」と判断を下せば、信者たちは全くそれに逆らうことができず、その責任を追及することも許されません。
 それに対してエホバの証人は、「そういう考え方をする人はエホバの証人にならなければいいのではないですか」とか、「エホバの証人をやめてしまえばいいのではないですか」と言います。エホバの証人は自分の宗教をわきまえているので、そういう反対論を受け入れたりしません。これもまた、反対者たちに言わせれば、「マインドコントロールによって信者たちが考える能力を失っている」ことの証拠です。

 一方にあるのは、エホバの証人の統治体は責任を免除されている、という考え方、もう一方にあるのは、エホバの証人の統治体は責任から逃避している、という考え方です。ややこしいこととは思われないでしょうか。


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