エホバの証人のコラム

#4 宗教はどこまで民主的になれるか


 宗教は権力の一形態であり、しかもその形態は、それがもっぱら思想面での政体であるという点を除けば、専政もしくは全体主義に他なりません。
 宗教は民主政体ではあり得ません。たとえばキリスト教の場合、エホバの証人であろうと他の教派であろうと、イエス・キリストの神性を否定したりその贖いを認めない人がいれば、その人は異端者として除名されることになるでしょう。あるいは、イエスが救い主かどうかを信者の投票によって決めるキリスト教派はあり得ません。
 その教えは教団が決め、信者はそれに従うことが求められます。信者にはその教えの範囲内においての自由が保障されますが、その範囲を超えるなら何らかのペナルティがあります。
 とはいえ、信者に全く民主的な権利がないというのも考えものです。宗教団体は普通、自らの宗教的権威と思想面での主導権を保ちつつも、民主的な要素もできるだけ増やそうとするものです。成熟した宗教団体であれば、『法のもとでの自由』を施行するにとどまらず、その法についても信者からのアプローチがあることを許すことでしょう。

 エホバの証人の場合、輸血と臓器移植の事例にその適用を見ることができます。
 エホバの証人の統治体が輸血拒否の教理を公表したのは1945年になります。しかし、それが正式な教理として確立されたのは1961年です。1961年から、輸血拒否の教理を守らない信者は除名処分を受けることになりました。一方、エホバの証人の統治体が臓器移植拒否の教理を公表したのは1967年です。この教理は1980年に保留扱いとなりました。
 輸血拒否が正式な教理となり、臓器移植拒否が正式な教理とならなかった背景には、その教理に対する信者たちの反応が関係しています。エホバの証人社会において、輸血拒否の教えは信者たちの強い支持を得ましたが、臓器移植拒否の教えには反発がありました。こうして、輸血拒否の教理が信者たちの強力な支持を得つつ強化されていった一方で、臓器移植拒否の教理は弱められていきました。

 ここで、すこし神学上の解説を加えましょう。
 聖書には、「生き物を殺して肉は食べてもよいが、その血は食べてはならない」という教えがあります。エホバの証人はその教えをほぼ直接的に医療に当てはめる立場にあります。そうすると、単純に考えるなら「臓器移植はしてよいが輸血はしてはならない」ということになるでしょう。これが1967年までの教理の進展です。
 ところが、あとになってひとつの問題が提起されました。肉食についての聖書の規定が人間に適用されることはないという問題です。動物を殺して肉を食べても血を地面に注げば、人はその罪を問われることがありませんが、人間を殺して肉を食べた場合、たとえその血を地面に注いだとしてもその人は罪を問われます。そうすると、すでに肉食についての聖書の規定を輸血に適用しているエホバの証人の立場としては、「人間からの臓器移植は人肉を食べることと神学的に同等なので認められない」という結論は避けて通れないことになります。
 1967年の臓器移植を否定する統治体の決定の背後には、1961年に輸血拒否を正式なものとして以来、信者たちがその教理を強力に支持してきたという事情が絡んでいます。この支持があったからこそ、統治体は次のステップへと踏み込んでいったのですが、これが信者の反発を呼ぶことになりました。臓器移植拒否の教理の前提となっていた信頼関係が用をなさなかったことは、統治体にとってショックだったのではないでしょうか。私としては、これは悪質な裏切りなのではないか、と思ったりもします。
 この時、信者側から寄せられた教理上の異論は、ものみの塔出版物が「食物を供するために“提供者”が殺されるわけではないので、臓器の移植は人食いとは異なる、との論議」と述べるように、未熟なものが多かったようです。輸血や臓器移植に関する議論は、表向きは医療を扱うものであっても神学的には徹頭徹尾「食べること」に関するものです。彼らは「臓器移植で人は死なない」と指摘することにより、神学的には「人を殺すことなく手足だけを切り取って肉を食べた場合、殺したわけではないので人食いにはあたらない」という主張をしていることになります。統治体としてはとても困ったのではないかと思います。
 統治体は輸血拒否と臓器移植に関して否定的な見解を示した後、いったんは信者たちの反応を見る期間を置き、それから信者たちの反応に応じて決定を下しています。こうしてエホバの証人の統治体は、その宗教的権威の維持と民主的要素とを両立しました。これは宗教が到達しうるひとつの理想的な状態ではないかと思います。

 エホバの証人社会には教理上の上訴の仕組みが作られています。日本の場合、教理上の異論を持つ信者はまず会衆の長老にその意見を述べます。長老たちがそれを聞くべきものと認めると、その内容を意見書としてまとめ、長老と連名でものみの塔協会の支部に送ります。支部はその意見書を調べ、必要に応じて本部に送ります。
 本部のあるアメリカでは、信者は執筆委員会のメンバーに直接電話をかけることができるようになっています。つまらない意見であっても重大な誤りの指摘であっても、信者はそれを執筆者たちに直接伝えることができます。このホットラインには毎日大量の問い合わせや意見が寄せられるそうです。

 宗教が完全に民主的であることはあり得ませんが、それでもこのような努力によって、ある程度までは民主的性質を維持することができます。特にエホバの証人のような実践主義の宗教では、カルト化の問題を避けるためにも、このような努力は欠かせないと思います。


追記です。

 某、元エホバの証人系の掲示板で、上記内容についてこのようなやりとりがありました。

「エホ証の上訴システムについてかかれていましたが。ありえない内容でした。そんな会衆があれば見てみたい^^;実際には存在しないとおもう。」

「○○さんがおっしゃるようにこれはありえないですね。教理上の疑問はもった時点で背教者扱いされます。助言されて終わりです。」

「私の場合は、長老が私の疑問に対する納得のいく説明無しに僕をおろされました。」

 これについては、「わたしたちの王国宣教」1983年10月号に、長老が行う講話と実演の筋書きが掲載されています。この時から、協会への質問の手紙はなるべく長老を通してからしましょう、ということになっています。筋書きは一部こうなっています。

「索引を少し調べれば質問の答えが得られることが少なくないのに,協会の事務所の兄弟たちのもとには聖書についての質問を尋ねる手紙や電話がますます多く届いていることを聞いた,と長老は述べる。日本中の約8万人の伝道者が,それぞれ1年に一つだけの質問を書き送った場合に生じる問題を想像してみなさい。
 個人的に調べるとか,必要であれば夫,研究司会者または別の長老に尋ねるのは良いこと。一人の姉妹が,質問の答えを見つけるのに問題を抱えていると言う。群れの成員は,聖句が関係しているなら,聖書や書籍の末尾にある聖句,語句索引が役立つと述べる。
 群れの成員は……自分で答えを見つけられるのであれば協会の兄弟たちに不必要な質問をするのを控えたいと言う。家に出版物がなければ,会衆の図書棚を利用するように励ます。聴衆と共に「質問箱」を復習して結ぶ。」

 上記の「質問箱」はこうなっています。

「聖書に関する質問はいつ,またどのように協会に問い合わせるべきですか。
 毎年,協会の奉仕事務所は,様々な事柄に関する質問や,問題を扱う上での助言を求めた問い合わせをたくさんいただきます。手紙で来るものもあり,電話で尋ねられるものもあります。困った立場にある兄弟たちのお役に立てることをわたしたちはうれしく思います。しかし,このことは事務所の兄弟たちにとってかなりの仕事ともなっています。いただいている質問の多くは出版物の中で十分徹底的に扱われている事柄に関するものであり,提出された多くの問題も,土地の事情に通じている会衆の長老たちが扱うのが最善である場合が少なくありませんでした。
 それで,皆さんが質問をお持ちになる場合には,まず索引などを活用しながら協会の出版物を参照するか,会衆の長老たちのところへ質問を持ってゆくようにお勧めしたいと思います。さらに助言を必要とする問題があるなら,まず会衆の長老たちから助言を求めるのは良いことでしょう。この点で努力したのに必要な説明や助言が得られなかったなら,その時あなたは協会の事務所にその件を提出してくださって結構です。この事はできれば手紙で行ない,その中ですべての事実をはっきりと述べるべきです。非常に緊急な事態でもない限り,どうぞ電話を使うことはなさらないでください。」

 同じ内容は、それより以前の「ものみの塔」誌1976年10月日号にもあります。

「聖書に関係した質問があるとき
 あなたは聖書に関係した質問の答えを見つけだすのに困難を感じていますか。長老たちは,「ものみの塔出版物索引」の効果的な用い方を示すことができるでしょう。
 最初に長老の助けを求めるなら,ものみの塔協会に手紙を書いて答えを求める必要はまずありません。」

 また、最近では、「わたしたちの王国宣教」1992年12月号があります。これは、それより少し前にリリースされた、「エホバの証人―その名前の背後にある組織」というビデオに、アメリカでは信者からの質問を直接受け付けるホットラインが開設されていることが紹介されて、日本では方針が異なることを示す必要が生じたためです。

「聖書に関する質問をしたり個人的なアドバイスを受けたりするために協会に電話をかけてもよいでしょうか。
 集会の準備をしていて疑問が生じたり,個人的な問題に直面したりした時など,安易に協会に電話をかける代わりに,自分で聖書や協会の出版物,特に,便利な聖句索引や項目索引を載せた「ものみの塔出版物索引」を調べるのは有益です。
 こうして『隠された宝を求めた』としても依然として助けが必要な場合には,会衆の長老に近づいてください。長老たちは聖書に関する相当な知識を持ち,情報を探すことに関する経験も豊富です。長老たちはわたしたちやわたしたちの置かれている状況に通じているので,個人的な問題や決定に関してアドバイスが必要な場合には特に,適切で平衡の取れた助けを与えることができます。
 それでもなお協会から直接情報を得る必要があるなら,通常は手紙を送るほうがよいでしょう。この場合も,長老たちが助けになれます。手紙であれば,十分に調査し考え抜いたうえで返事をする時間がありますが,電話では通常それは不可能です。」

 ただ、引用にあるような、「長老に質問したら云々」という話は実際にあるのではないかと思いました。人によってはかなり深刻な問題ではないかと思います。私自身そういう状況に直面する可能性もあるわけですし。


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