新世界訳
エホバの証人の聖書

ホーム >> COLUMN >> 宗教はどこまで民主的になれるか



◆ エホバの証人のコラム ◆
#04 宗教はどこまで民主的になれるか



 宗教は権力です。しかもそれは、もっぱら思想面での政体であるという点を除けば、専政もしくは全体主義にほかなりません。
 宗教は民主政体ではあり得ません。たとえばキリスト教の場合、エホバの証人であろうと他の教派であろうと、イエス・キリストの神性を否定したりその贖いを認めない人がいれば、その人は異端者としてとがめられることになるでしょう。イエスが救い主かどうかを信者の投票によって決めるということも考えられません。
 教団は教えを決め、信者はそれに従います。信者にはその教えの範囲内においての自由が保障されますが、その範囲を超えるなら何らかのペナルティがあります。
 とはいえ、信者に全く民主的な権利がないというのも考えものです。宗教団体は普通、自らの権威と主導権を保ちつつ、民主的な要素もできるだけ増やそうとするものです。成熟した宗教団体であれば、「法のもとでの自由」を施行するにとどまらず、その「法」についても信者からのアプローチがあることを許すでしょう。

 エホバの証人の場合、輸血と臓器移植にその適用を見ることができます。
 エホバの証人の「統治体」が輸血忌避(輸血拒否)の教理を公表したのは1945年になります。それが正式な教理として確立されたのは1961年です。一方、エホバの証人の統治体が臓器移植忌避の教理を公表したのは1967年です。この教理は1980年に保留扱いとなりました。
 輸血忌避が正式な教理となり、臓器移植忌避が正式な教理とならなかった背景には、その教理に対する信者たちの反応が関係しています。輸血忌避の教えは信者たちからの強力な支持を得ることができましたが、臓器移植忌避の教えには反発がありました。こうして、輸血忌避の教理は強化されていき、臓器移植忌避の教理は弱められていきました。
 統治体は輸血と臓器移植に関して否定的な見解を示した後、いったんは信者たちの反応を見る期間を置き、その反応に応じて最終的な決定を下しています。こうしてエホバの証人の統治体は、その宗教的権威の維持と民主的要素とを両立しました。これは宗教が到達しうるひとつの理想的な状態ではないかと思います。
 エホバの証人以外の宗教団体が同じことをできたという話は聞いたことがありません。

 エホバの証人社会には教理上の上訴の仕組みが作られています。日本の場合、教理上の異論を持つ信者はまず会衆の長老にその意見を述べます。長老たちがその意見に対する答えを提出できないと、その内容を意見書にして、ものみの塔協会の支部に送ります。支部はその意見書を調べ、必要に応じて本部に送ります。
 本部のあるアメリカでは、信者は執筆委員会に直接電話をかけることができるようになっています。つまらない意見であっても重大な誤りの指摘であっても、信者はそれを執筆者たちに直接伝えることができます。このホットラインには毎日大量の問い合わせや意見が寄せられるそうです。

 宗教が完全に民主的であることはあり得ませんが、それでもこのような努力によって、ある程度までは民主的性質を維持することができます。特にエホバの証人のような、聖書本位で実践主義であるという宗教では、カルト化の問題を避けるためにも、このような努力は欠かせないと思います。