エホバの証人のコラム

#8 キリスト教と進化論


 宗教には「宗教と科学」という永遠のテーマがあります。その主要な論点と言えるのが進化論です。
 キリスト教は創造論を支持しています。この宇宙も、地球も、地球上の生き物も、神によって造られたと考えます。しかし、一方の科学者は進化論を提唱するようになりました。しかも、進化論は徐々に強化され、今では証明されたものと考えられています。
 キリスト教には天動説の教訓があります。科学の進歩により真理が明らかになったのに宗教がそれを否定し、科学者を迫害するということがありました。これがいかに愚かなことだったかはよく理解されるようになっています。教会が多くの間違いを理解するようになったのも、ひとえに科学の進歩のおかげです。
 1996年には、カトリックのローマ法王が進化論を認める声明を出して世間を驚かせました。その後、多くのキリスト教会がその立場に倣っています。でも、少し注意が必要です。進化を認めていると公言する教会のほとんどは、「神は進化という手段を用いて創造の御業を行われた」と教会員を教える方針を立てたにすぎません。つまるところ、「進化論を認める」ことを表明している教会の中に、100パーセント進化論を認めているところはないということです。肝心なところは創造論でしっかりガードしています。その教会に通う人たちは、ほかの教会と同じように「神様のお創りになられました美しいものに感謝しましょう!」といった教えを受けています。
 キリスト教が神の存在を否定することはあり得ません。創造論を否定することもありません。とはいえ、科学的に証明された事柄に逆らっても意味がありません。事実と反することを信じるのは愚かですし、恥です。そこで、「神は進化によって創造された」という解決策が出てくることになります。
 これは究極の解決策です。ひとつに、今後、進化論が何を証明しようとも、そのつど教会は「神はその方法で私たちを創造されたのです」と言って済ませることができます。さらに、信徒たちに「神様が世界を造った」と教えつつ、世間に向かっては「わたしたちの教会は進化を支持しています」と言うことができます。
 これとは全く異なる解決策を考えた人たちもいます。根本主義(ファンダメンタリズム)の人たちがそうです。彼らは、神はたった6日で世界を創造されたと信じています。誰かが、地球には人類以前の何十億年もの地層があることや、何百億光年も離れた星から光が届いていることを指摘すると、彼らはこう答えます。「それは、造られた時点ですでにそうなっていたのだ」。彼らに言わせれば、地球上に何十億年もの地層があるのは、実際に何十億年も地層が積もっていったからではなく、“何十億年分もの地層のある地球”を神が造ったからです。何百億光年も離れたところから星の光が届くのは、宇宙に何百億年もの寿命があるからではなく、“数百億年の歴史つきの宇宙”を神が造ったからです。つまるところ、神は“途中から始まる世界”を造ったというわけです。
 これも究極の解決策です。今後、進化論が何を発見しようとも、そのつど教会は「神はその状態で世界を創造されたのです!」と言って済ませることができます。もっとも、先の場合とは異なり、この理論で世間に媚びを売ることはできません。実際、彼らは「私たちは進化論を支持しています」などとは言わず、あくまで創造論を支持していると公言します。

 エホバの証人の場合ですが、エホバの証人は進化論を認めないことを公言しています。そのため、他のキリスト教派に比べて「遅れている」と思われることがあります。「最近はどのキリスト教会も進化論を認める立場に転向しているのに」などと言われます。「これでは、これまで科学が積み上げてきた知識をすべて否定することになる」と言われることもあります。とはいえ、進化を認めるキリスト教派にも進化を認めないキリスト教派にもいろいろと変則的なところがあります。そういった事情を調べないと、エホバの証人を含めたいろいろなキリスト教派についてたいへんな誤解をすることになります。

 進化論を提案したことで有名なダーウィンですが、彼はガラパゴス諸島でフィンチの組織的な観察を行い、進化論のヒントを得たと言われています。エホバの証人の場合、ガラパゴス諸島でフィンチに生じた進化を否定する理由はどこにもありません。ただ、それを「進化」と呼ばないというだけのことです。エホバの証人の間には、生物学者たちは「進化」という言葉を使いすぎている、という認識があります。このような進化を見るのにガラパゴス諸島にまで行ってフィンチを観察する必要はありません。近くのペットショップに行ってイヌとかネコとかハムスターとか金魚とかを見れば、同じことが観察されます。エホバの証人に言わせれば、このようなことは「進化」と呼ぶには値しません。
 「目ざめよ!」誌1994年2月22日号にはクジルカについての記事があります。クジルカとはクジラとイルカの交配種のことです。記事に載ったクジルカはタイセイヨウハンドウイルカのメスとオキゴンドウのオスから生まれました。普通、クジルカは生殖不能となりますが、記事になったクジルカは子供を産んで人々を驚かせました。つまり、新しい種が誕生したことになります。このクジルカについて記事はこう述べています。

『世間は,神がご自分の創造物の中に組み込まれた多様性の驚くべき可能性を示す光景を,また一つ垣間見たわけです。』

 後に、「目ざめよ!」誌1995年5月22日号はこの記事について触れ、こう述べています。

『「神がご自分の創造物の中に組み込まれた多様性の驚くべき可能性」があるからこそ,合いの子が存在するのです。それで本誌の記事は,神に当然の誉れを帰しているのです。』

 このような調子です。進化を否定すると言いつつも、エホバの証人もエホバの証人なりの解決策を持っているということです。そのようなわけで、生物学者が「進化」と呼ぶ現象のほとんどは、エホバの証人にとって問題とはなりません。そういうことはあって当然とエホバの証人は考えます。

 聖書の方に目を向けると、神は6日間で世界を造ったと書かれています。しかし、エホバの証人はこれが文字どおりの6日間であったとは考えません。そこで、地球や宇宙の年齢が長いことはあまり問題になりません。また、聖書の述べる人類史は6000年ほどですが、エホバの証人はこれを、人類史における文字の出現のタイミングとほぼ重なるということで受け入れています。つまり、学者たちによって1万年前や10万年前の人類とされているものは、エホバの証人の基準では人間ではないことになります。エホバの証人の見方では、石器を用いるようになったものの文字を書くことはできなかったクロマニヨン人は、せいぜい人の姿をしたサルということになるでしょう。

 最近ものみの塔聖書冊子協会が発行してエホバの証人の間で評価の高い本に、「エホバに近づきなさい」というものがあります。この本はこのように書いています。

『エホバの創造する力は、わたしたちの住みかである地球においても明らかに示されています。……この天の川銀河の多くの部分も、生命をはぐくむようにはできていないようです。この銀河の中心部には恒星がひしめいており、放射線量が多く、恒星どうしの異常接近が頻繁に生じています。銀河系の外縁部では、生命に不可欠な元素の多くが足りません。わたしたちの太陽系は、そうした両極端の間の理想的な位置にあります。』

 このように、最新の宇宙論が進化について述べている事柄がそのまま用いられていたりします。この表現から、エホバの証人が、神による地球や生き物の創造を非科学的な無からの創造とは考えていないということがわかります。適切な素材と環境があってはじめて神は創造の業を行えるという考えです。つまり、神は物理の法則に従い、既成の素材を加工するという科学的な方法によって創造を行ったことになります。

 一方、現在の進化論には、基礎的な知識や理論に想像を加えるというところがあって、エホバの証人は、想像で補われている部分、別の言い方をすると進化論の穴である部分を見極めて、そういったところは認めないという立場を取っています。
 たとえば、「目ざめよ!」誌2002年6月8日号には、「科学と宗教は融合できるか」と題する意欲的な特集が掲載されています。その中には、「宇宙と生命はどのようにして生じたか」という記事があり、このように指摘しています。

『生命の起源に関して進化論を唱えるたいていの人が頼る考えには、ある種の“教理”に対する信仰のようなものが求められます。事実と学説とが混ざり合っているのです。……たとえ何十億年かけても、生命体として機能できる細胞の形成に必要な複雑な分子が偶然に形成されるのは、数学的に見て不可能であることがすでに明らかにされているのです。』

 少し補足します。
 進化論の重要なテーマに生命発生の瞬間の解明があります。ここで、確率の問題を考えなければなりません。生命はタンパク質から、タンパク質はアミノ酸からできます。問題は、この宇宙全体がアミノ酸であったとしても、宇宙には一個の細胞もできないだろうという計算があることです。ほかにもいろいろ事情があって、進んだ生物学者たちは、生命発生を偶然の所産にするのは難しいと考えるようになっているようです。生命発生の過程は偶然ではなく必然の連鎖であったはずだと考える学者の数は増えており、それらの学者たちは、「生命の発生はこの宇宙の誕生時にすでに決定的なものとなっていた」などと語ります。そこで、その必然なるものを模索するということが行われています。
 その一例を挙げて見ましょう。ある学説では、細胞膜は海の波打ち際でできたと考えられています。海の中のアミノ酸は波打ち際に打ち上げられて密度が高くなり、波の力で液泡になります。これが細胞膜になったという考え方です。これで、生命発生に必要なひとつの要素について一応の説明ができたことになります。
 こういった説明を聞いて「なるほど」と思うか、「ばかばかしい」と思うかが分かれ目です。
 こういった記事は、エホバの証人が進化論の現状をある程度見極めてものを言っていることを示しています。

 このようですから、エホバの証人が進化論について言うことは、進化論の発展に伴って変化していきます。ひとつの事例として、左手型のアミノ酸の問題について挙げたいと思います。
 1985年にものみの塔聖書冊子協会が発行した「生命―どのようにして存在するようになったか―進化か、それとも創造か」と題する本は、この問題についてこう指摘しています。

『進化論がぶつかる別の手ごわい問題があります。アミノ酸は100種類以上ありますが,生物体のタンパク質のために必要なのは,そのうちの20種類だけであることを思い出してください。さらに,アミノ酸には二つの型があります。すなわち,ある分子は“右手型”であり,他の分子は“左手型”です。理論上の有機物スープで考えられているようにこれらが無作為に形成されるとすれば,半分は右手型,残りの半分は左手型になるでしょう。生体内でどちらか一方の型が特に好まれる理由は知られていません。ところが,生物体のタンパク質を構成するために用いられている20種類のアミノ酸は,すべて左手型なのです。
無作為になされているのに,要求されている特定の型のものだけがそのスープの中で結合するのはどうしてでしょうか。物理学者J・D・バーナルはこう認めています。「その説明は……依然として,生命の構造的な面で最も説明しにくい点の一つであることを認めなければならない」。バーナルはこう結論しました。「我々はそれを決して説明できないかもしれない」。』

 これは、13年後の1998年に発行された「あなたのことを気づかう創造者がおられますか」の本ではこのように記述されています。

『ご存じのとおり,手袋には右手型と左手型とがあります。アミノ酸の分子についても同じようなことが言えます。知られているおよそ100種のアミノ酸のうち,タンパク質に用いられるのは20種だけで,すべて左手型です。前生物的スープとして想定されるものを模して科学者が研究室でアミノ酸を作ると,右手型の分子と左手型の分子が同数ずつできます。「このような50対50の分布」は「左手型のアミノ酸のみに依存している生物界の特徴ではない」と,ニューヨーク・タイムズ紙は伝えています。生物体がなぜ左手型のアミノ酸だけで成り立っているかは「大きななぞ」となっています。いん石の中に発見されるアミノ酸も,「左手型がずっと多くなって」います。ジェフリー・L・バーダ博士は,生命の起源に関する難問と取り組んできましたが,「地球外の何らかの影響が,生体アミノ酸の利き手の決定に何かの役割を果たしているのかもしれない」と述べています。』

 ここでは、宇宙から飛んできた隕石についての情報が加えられて、「説明できないかもしれない」という表現が「地球外の何らかの影響が役割を果たしているのかもしれない」という表現に訂正されています。このように、進化論に進展があると、エホバの証人の出版物の表現も変わります。

 ちなみに、この本が出たあとの最新の研究では、右手型アミノ酸は、中性子星から出る中性子線にあたると左手型より早く崩壊することがあるようです。宇宙空間をさまよいながらそうして生き残った左手型アミノ酸が大気圏外から地球に降り注いでいるという説もあります。エホバの証人出版物の表現もまた変わるかもしません。
 さて、ここでエホバの証人の間で笑い話となっている話を紹介したいと思います。
 昔、どこかの学校のテストで進化論についての問題が出て、エホバの証人の子供が、答案用紙に「進化論は間違いです」と書いたことがあったそうです。この話、エホバの証人の間ではあちこちに出回っています。
 この話は笑い話ですので、「そんな馬鹿なことはするもんじゃない」という教訓的なオチがついています。学校というのは授業として進化論を教えるところなので、学校に通っている限り、エホバの証人の生徒であっても進化論を学校の教えとして受け入れるべきだ、もし学校のテストで、「ヒトは何から進化しましたか」と問われれば、だれであろうと、何を信じていうと、「ヒトはサルから進化しました」と回答すべきであるというのがエホバの証人の一致した見解です。たとえば、「進化論についてあなた自身はどう思いますか」という具合に個人の見解を語るよう求められた場合なら話は別ですが、そうでない場合、少なくともエホバの証人の子供はこのような閉鎖的な態度を取らない、ということになっています。
 ところが、この話、すこし困ったことになっています。この話は学校関係者や宗教学者たちの間にも広く出回っていて、しかも、オチがなくなっているのです。
 「エホバの証人の子供たちの中には、答案用紙に「進化論は間違いです」などと書く子がいるらしい」。
 と、これだけです。笑い話が笑い話ではなくなっています。
 それだけでなく、この話は幾つかの本でも紹介されています。内容はだいたい同じで、たいていは、「エホバの証人は非科学的で反社会的で閉鎖的な宗教で、たとえばこれこれこのような話がある」という書き方になっています。私は新聞でもこの記述を見たことがありますが、かなりひどい書き方になっていました。笑えませんし、気分が悪くなります。
 学校の先生方や、宗教の専門家の方々にこういう話が広まっていることがとても気になります。こういう状況を見て私は思うのですが、教育問題の専門家とか宗教問題の専門家とかいった人たちのところには、エホバの証人に関する非常識な話がむやみに集まる傾向があるのではないでしょうか。それに、こういった立場にある人たちのほとんどは、エホバの証人のことをファンダメンタリスト教派のひとつと勘違いしているようです。

 現代の進歩したキリスト教派にとって、「キリスト教と進化論」のテーマとは、もともと両立しないように思える二つ価値観の共存を意味しています。これは非常に難しいテーマであり、挑戦となります。とはいえ、この課題に果敢に挑んで乗り越えていく教派でなければ、この科学の時代に生き残ることはできないでしょう。

 それに最近は、「学校で宗教をどのように教えるか」ということが言われるようになっています。それで、進化論に加えて創造論を教える時にどういう教え方をするか、ということも議論されていますが、エホバの証人の考え方は、「進化論で語られている同じ事実に対して、このようなアプローチもあるんですよ」などと言って紹介できたりして、なかなか良いものではないかと思いますが、いかがなものでしょうか。


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