エホバの証人のコラム

#10 聖書を正しく教える


 エホバの証人は、キリスト教のたくさんある宗派の中でも特に、「聖書の教えを正しく教える」ということにこだわっている宗派です。エホバの証人ほど聖書の教えに忠実なキリスト教派はあまりないと思います。
 でも、このような努力に対してはいろいろな批判もあります。よくある意見に、「『エホバの証人だけが聖書の教えを正しく教えることができる』とか『エホバの証人になった人だけが救われる』などと主張するのはうぬぼれではないか」というものがあります。「エホバの証人だけが……」などという言い方は極端で、あまり使うべき表現ではないと思いますが、証人たちの中には実際にそういう表現を用いる方が大勢いますし、エホバの証人の出版物にそういう表現が載せられることもあります。
 こういったエホバの証人の主張に対する人々の反応は厳しいものです。「この世の中にキリスト教の宗派はいっぱいあるのに、エホバの証人だけが聖書の教えを正しく教えることができるなどということがどうしてあり得るのか」と言われます。「あんたたちはなにか勘違いしているのではないか」とか「うぬぼれるのもいい加減にしろ」などと言われます。そこで、なぜエホバの証人がこういうことを言うのかということを紹介したいと思います。

 みなさんは、「聖書の教えを正しく教える」とはどういうことだと思われるでしょうか。いろいろな意見があると思います。多くの人が考えるのは、教える知識の正確さということではないでしょうか。聖書を学術的に研究して、知識を積み重ね、難しい内容の本をたくさん出して、それを教科書にして、ということを考えられるのではないかと思います。
 エホバの証人は、そういうことも考えていますが、もっと別のことを考えています。それは、聖書の次の言葉に表されている考えです。

『行って,すべての国の人々を弟子とし,父と子と聖霊との名において彼らにバプテスマを施し,わたしがあなた方に命令した事柄すべてを守り行なうように教えなさい。』

 ここで聖書が言っているのは、聖書を正しく教えるとはすなわち聖書の命令をすべて守るように教えることであるということです。ですから、これは単に知識の問題ではありません。厳密な聖書の研究を行って、たくさんの本を出版し、正確な知識の積み重ねを行って、それを人に教えたとしても、それでは不十分です。
 これが単純に知識の問題であれば、エホバの証人には全く分がないと思います。カトリックやプロテスタントにはたくさんの神学者がいて、膨大な量の神学的研究を行い、それを本にしています。エホバの証人はまるでかないません。しかし、「聖書の命令をすべて守り行う」ということになると全く話は変わってきます。今のキリスト教世界に、信者たちが「聖書の命令をすべて守り行う」ことで知られているという宗派はどれほどあるでしょうか。
 キリスト教の一つの宗派があって、その宗派が真のキリスト教であるかどうかを判断する正しい基準は信者の行動です。その宗派がどれほど神学の研究をしているとか、どれほど本を出しているかとか、そういうことではなく、信者がその教えをちゃんと実践しているかが基準となります。エホバの証人は、知識の積み重ねはそこそこにして、教えの実践の方に努力を払ってきました。一方、今の時代、エホバの証人と同じように実践ということを真剣に考えるキリスト教派はほとんどありません。そこで、「エホバの証人だけが聖書の教えを正しく教えることができる」というような極端な言い方ができてしまいます。
 「エホバの証人は高慢ではないか」とよく批判されます。高慢かもしれません。しかし、このことが高慢であったとしても、その前まず謙遜さありき、ではないでしょうか。聖書の命令をすべて守り行おうとする人には、神やキリストに対する徹底した謙遜さが求められます。そうでもなければ、聖書の命令をすべて守ることなどできません。その謙遜さをもって努力し、聖書の命令をすべて守り行ったときにはじめて、人は少しばかり高慢になって自分のことを誇れるのではないかと私は思ったりします。もちろん、こういったことはそこそこに抑えておくべきですが。

 エホバの証人は、聖書の研究という点では割と手抜きの教派だと思います。エホバの証人の歴史が始まったころ、初代会長のラッセルはこのようなことを語っています。

『新しいものでも,我々独自のものでもなく,主のものとして』

 これがどういう意味かということですが、彼はこのように語っています。

『我々は,様々な分派や党派が何世紀にもわたり,自分たちの間で聖書の教理をばらばらにし,多かれ少なかれ人間の憶測や誤りを混ぜ合わせてきたことに気づいた。……業ではなく信仰による義認という重要な教理がルターによって,また最近では多くのクリスチャンによって明快に説明されていること,神の公正と力と知恵が長老派によって―明快に理解されてはいないものの―慎重に擁護されていること,メソジスト派は神の愛と同情心を認め,ほめたたえていること,アドベンティスト派は主の再来に関する貴重な教理を信奉していること,バプテスト派は実際のバプテスマを見失っているものの,とりわけ象徴的な意味でのバプテスマの教理を正しく理解していること,一部のユニバーサリストはかなり前から『革新』に関する幾らかの漠然とした考えを持っていたこと,などに我々は気づいた。したがって,大抵どの教派を見ても,創設者たちが真理を追い求めていたのは確かなようである。とはいえ,大敵対者が彼らに戦いをしかけ,完全に抹殺することのできなかった神の言葉を間違った仕方で分け与えたことは極めて明瞭である。』

 わかりやすく言うと、こういうことです。いろいろなキリスト教の教派を入念に調べると、ある教派はここが正しいがここが間違っていて、別の教派はそこが正しい、ということが見えてきます。それで、いろいろな教派から、正しいと思えるところを寄せ集めて、それを自分たちの信条にしよう、とラッセルは考えました。さらに彼はこう語っています。

『我々の信奉する様々な教理が一見非常に新しく新鮮で他とは異なっているように思えるとしても,昔から何らかの形で奉じられていたのと同じである。そのような教理の例としては,神の選び,無償の恩寵,革新,義認,聖化,栄化,復活などが挙げられる。』

 このような方針は今でもよく守られていて、エホバの証人の決まり事になっています。エホバの証人の出版物には、カトリックやプロテスタントの神学書からの引用がたくさん載せられています。エホバの証人は独自の神学研究はめったに行わず、必要に応じて柔軟に他の教派から研究結果を借りてくるのが普通です。たとえばこんな具合です。

『今日,クリスチャン会衆の長老たちはエホバの模範に倣う必要があります。テモテ第二 4章2節に述べられているように,長老たちは,過ちを犯している人の片意地な行動がもたらす結果を率直に述べ,「戒め」,また「けん責」しなければならないことがあります。それと同時に長老たちは「説き勧め(る)」こともすべきです。ギリシャ語のパラカレオーには「励ます」という意味があります。「その訓戒は,厳しいものでも,論争的なものでも,批判的なものでもない。慰めという意味もあることからして,同様の考えを示唆している」と「新約聖書神学辞典」(英語)は述べています。』

 エホバの証人は「聖書に対する洞察」という立派な聖書辞典を出しているのですが、それでも他の教派の聖書辞典を用います。聖書も、「新世界訳聖書」を出していますが、他の教派の聖書も用います。こういったところ、エホバの証人はとても柔軟です。そして、他から借用するときには、ただ知識を借用するのではなく、教えの実践に注意が向けられます。エホバの証人にとって、ここが非常に重要なポイントです。

 このことについて、非常に面白いことを書かれた方がいます。このコラムでもすでに何度も紹介しているレイモンド・フランズ氏です。彼はエホバの証人の本部施設で執筆活動を行っていた時期についてこう振り返っています。

『協会副会長のフレッド・フランズは一番の聖書学者として認められていて、私も何度となく質問に行った。すると驚いたことに、聖書の注釈書を見るように言われることが多かった。「アダム・クラークかクックにどう書いてあるか見てみたら」とか、あるいは旧約聖書に関することであれば「ソンチノの注釈を見てみたら」という具合である。
 ベテルの図書室にはそういった注釈書が山ほどあった。しかしそういったものは他の宗派の学者によるものなので私はあまり重要だと思っていなかったし、他の仲間たち同様、ためらいや疑いも感じた。執筆部門のベテラン、カール・クラインなどはずけずけとした言葉を使うことがあり、こういう注釈書を使うのは「大いなるバビロンのおっぱいを吸っていることになる」と言ったりした。協会の解釈では、大いなるバビロンというのは啓示(黙示録)に出てくる売春婦であり、偽りの宗教の世界帝国である。
 カール・クラインも、これをそれほど真面目に言っていたとは思えない。何しろ当人も注釈書を使っていたのだし、またフレッド・フランズが注釈書を使っていたこともよく知っていた。』

 彼は、本部で執筆業務を行う時になってはじめて、この事実に気づいたようです。そして、そういったことを普通と考えている人たちの間にあってかなり苦悩したようです。彼は続けてこう書いています。

『こういう注釈書の数々を見れば見るほど、聖書が神の霊感によるものだという堅い信念が読み取れることが多く、心を深く打たれるばかりだったのである。18世紀の注釈書でも、書いてあることは極めて値打ちのあることであり、また正確でもあることを見るにつけ、その印象はなおさらだった。何年も経たないうちに「無効」になり、もう出されなくなってしまう自分たちの出版物と比べずにはおれなかった。
 そんな作業を通じて、我々の聖書に対する理解は思ったほどではなかったこと、つまり自分たちが思ったほどの聖書学者でもなかったことがわかった。
 何よりも大きな違いを生んだのは、常に文脈に沿い、聖書そのものに聖句の意味を決めさせる必要を素直に認めたことである。ベテルの図書室にある百年も二百年も前の注釈書がなぜ時を経ても値打ちを失わないのかも理解できた。きっちり原文に添っていく取り組み方をすれば、文脈の意味から離れたり、原文とはかけ離れた視野の狭い解釈をしたりはできないのである。』

 これはまったくその通りだと私も思います。ただ、彼の場合、そのことに気づいた時が他の証人と比べて極端に遅かったようです。どうしてこんなに遅れたのだろうかと思いますが、その理由はよく分かりません。
 このあと、彼自身が述べているように、彼は何年もの研究を経て、聖書原典とその文脈にしっかりと従った聖書解釈こそが正しい聖書解釈だと確信するようになります。

 私がコラム #9「キリスト教と戒律主義」で紹介したように、彼はエホバの証人特有の「原則の適用」という概念を否定していますが、その背後にはこのような事情があったということのようです。彼が否定するもののもう一つに、現在的終末主義の応用としてエホバの証人がやってきた聖書預言の年代計算が挙げられます。この二つを除外して、「聖書に書かれているその通り」ということにこだわったなら、その解釈が極めて正確なものになるのは当然のことのように私は思います。それでよしということなら、エホバの証人のようなキリスト教派は必要ないと言えるでしょう。
 このような確信を持つに至った彼としては、仲間の証人たちが他教派の出版物について「こういったものにほんとうの価値はない」とか「真理を記した本ではない」などと言うのがどうしても理解できなかったそうです。
 もしこの話が本当だとしたら、ある意味、彼は病気だったのではないかと私は思います。というのも、彼はエホバの証人の統治体のメンバーだったのですから。
 ちなみに、私も他教派の神学書をたくさん持っていますが、それらについて同じようなことを言います。それだけでなく、私自身が執筆者であるこのウェブサイトについても、同じことをくどくどと言っています。
 私がやっていることは実にくだらないことです。ここに来る現役証人の中には私のことを「知識ばかりひけらかして高慢なことではないか」と思う人もたくさんいるのではないでしょうか。私もよくそう思います。
 私たちエホバの証人がこのようなことを言う時、その背後には、ひとつに先に私が述べたような基準があります。キリスト教世界には聖書辞典や神学書の類を貪るように読んでいる人がたくさんおり、中にはそれを書いているという人もいますが、あいにく、それらの人たちがそのような高度な知識を習得した結果として聖書の教えをすべて守り行うようになった、などという話はまず聞きません。聖書伝道に出かけるというような、基本的なことができていないということがほとんどです。それらの本はキリスト教世界を動かしてヨーロッパで戦争が起こるのを食い止めたりはしませんでしたし、キリスト教文化の根幹となって不道徳の広まりに対する阻止力となったりもしませんでした。それらの書物が、単に知識の正確さにこだわった書き方をしており、読み手に「何をすべきか」ということを教えていないからです。
 私などのように、いろいろなキリスト教文書を読みあさっていると、エホバの証人以外のキリスト教出版物に「神の命令」という概念が出てくることはまずないということに気づかされます。「これこれは神の命令なのでしなければならないことです」とか「神の命令をすべて守りなさい」といったことはまず語られません。その結果、教会に通っている信者たちはするべきことの基礎もなっていないという状態です。
 単に「するべきこと」というだけにとどまりません。聖書の命令をすべて守るということには、当然、するように求められていることをすることだけでなく、しないように求められていることをしないことも含まれます。そのやってはならないことを、今のキリスト教は自由に行っているのではないでしょうか。
 もしキリスト教の諸教会がこういったことを真面目に信者たちに教えていたら、「キリスト教」という言葉の意味するところは今の意味とは大きく異なるものになっていたはずです。
 ところが、今の時代、それを信者に教えるということはとても難しくなり、容易ならざる決意が必要になりました。エホバの証人の統治体は、他のキリスト教から拒絶され、レイモンド・フランズ氏のような反対者たちからひどく叩かれ、世間からカルト宗教呼ばわりされながらも、その務めをよく果たしていると思います。聖書の命令を守るよう信者に求めているために、「信者の権利を侵害している」とか、「子供たちを虐待している」とか言われますが、それでも屈したりしません。今時、こんな人たちは他に見つからないと思います。
 こういったことが今のキリスト教にできていないからこそ、エホバの証人が自分たちのことを自慢して、「エホバの証人だけが聖書の教えを正しく教えることができる」とか「エホバの証人になった人だけが救われる」などと言うのではないでしょうか。

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