新世界訳
エホバの証人の聖書

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◆ エホバの証人のコラム ◆
#10 聖書を正しく教える



 エホバの証人は、キリスト教の中でも特に「聖書の教えを正しく教える」ことにこだわっている宗派です。
 エホバの証人は、この熱心さゆえに多くの批判を浴びてきました。
 たとえばこう言われます。「この世の中にはキリスト教の宗派がいっぱいあるのに、エホバの証人は『自分たちだけが聖書の教えを正しく教えることができる』と思っているらしい。」

 みなさんは、「聖書の教えを正しく教える」とはどういうことだと思われるでしょうか。
 多くの人が考えるのは、教える知識の正確さということでしょう。聖書を学術的に研究して、知識を積み重ね、難しい内容の本をたくさん出して、それを解りやすく教科書にして、人々に教える、ということを考えると思います。
 エホバの証人は、そういうことも考えていますが、もっと別のことを考えています。それは、聖書の次の言葉に表されている考えです。



マタイ 28:19-20

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
それで,行って,全ての国の人々を弟子としなさい。父と子と聖なる力の名によってバプテスマを施し,私が命令した事柄全てを守るように教えなさい。私は体制の終結までいつの日もあなたたちと共にいるのです」。



 ここで聖書が言っているのは、「聖書を正しく教える」とはすなわち「聖書の命令をすべて守るように教える」ことであるということです。
 ですからこれは専門的な知識の話ではありません。聖書の厳密な研究を行ってたくさんの本を出版し、その知識を人に教えたとしても、それでは不十分です。

 エホバの証人は、自分たちのことを聖書学者であるとか神学者であるとか思っていません。彼らはこのように考えます。「カトリックやプロテスタントにはたくさんの神学者がいて、膨大な量の神学研究を行い、それを本にしている。自分たちの組織やその統治体はその足元にも及ばない。」
 そのため、エホバの証人の諸文書では、聖書についての専門的な知識を扱う場合に、他教派からの資料の転用が行われます。信者たちは、他教派の資料を見ると、納得し、安心します。専門知識に関する限り、エホバの証人の最高指導者である統治体さえも、信者からの信頼を得られていません。統治体は常々どこかで聖書の講話をしていますが、やはり他教派の資料を使います。ようするに、エホバの証人は専門知識については他教派頼りなのです。

 しかし、「聖書の命令をすべて守る」となると全く話は変わってきます。現在のキリスト教に、信者たちが「聖書の命令をすべて守る」ことで知られている宗派はどれほどあるでしょうか。その宗派が正しいキリスト教であるかどうかを判断する基準は信者の行動です。知識ではなく実践こそが基準です。それなのに、今の時代、エホバの証人と同じように“実践”ということを真剣に考えるキリスト教派はほとんどありません。この点に限ってはエホバの証人がリーダーシップを発揮します。

 エホバの証人はこのことを自慢するので、「あなたたちは高慢ではないか」とよく批判されます。高慢かもしれません。しかし、その前まず謙遜さあり、ではないでしょうか。聖書の命令をすべて実践しようとする人には、神とキリストに対する徹底した謙虚さが求められます。この謙虚さをもって努力し、聖書の命令をすべて実践できたときにはじめて、人は少しばかり高慢になって自分のことを誇れるのではないかと私は思います。

 エホバの証人の歴史が始まったころ、「創始者」とされるラッセルは、『新しいものでも,我々独自のものでもなく,主のものとして』ということを語りました。
 彼はこのように説明します。



◇ エホバの証人―神の王国をふれ告げる人々, ものみの塔聖書冊子協会 (表記修正)

 我々は,様々な分派や党派が何世紀にもわたり,自分たちの間で聖書の教理をばらばらにし,多かれ少なかれ人間の憶測や誤りを混ぜ合わせてきたことに気づいた。……業ではなく信仰による義認という重要な教理がルターによって,また最近では多くのクリスチャンによって明快に説明されていること,神の公正と力と知恵が長老派によって―明快に理解されてはいないものの―慎重に擁護されていること,メソジスト派は神の愛と同情心を認め,ほめたたえていること,アドベンティスト派は主の再来に関する貴重な教理を信奉していること,バプテスト派は実際のバプテスマを見失っているものの,とりわけ象徴的な意味でのバプテスマの教理を正しく理解していること,一部のユニバーサリストはかなり前から『革新』に関する幾らかの漠然とした考えを持っていたこと,などに我々は気づいた。したがって,大抵どの教派を見ても,創設者たちが真理を追い求めていたのは確かなようである。とはいえ,大敵対者が彼らに戦いをしかけ,完全に抹殺することのできなかった神の言葉を間違った仕方で分け与えたことは極めて明瞭である。
 ……我々の信奉する様々な教理が一見非常に新しく新鮮で他とは異なっているように思えるとしても,昔から何らかの形で奉じられていたのと同じである。そのような教理の例としては,神の選び,無償の恩寵,革新,義認,聖化,栄化,復活などが挙げられる。



 これをわかりやすく言い直すとこういうことです。いろいろなキリスト教の教派を入念に調べると、ある教派はここが正しいがここが間違っている、しかし別の教派はそこのところが正しい、ということが見えてきます。それで、いろいろな教派から正しいと思えるところを寄せ集めてそれを自分たちの信条にしよう、とラッセルは考えました。
 意外に思われるかもしれませんが、2000年ほどあるキリスト教の歴史の中で、このような発想に基づいた教派が誕生したのは、エホバの証人が初めてらしいです。

 さて、すでに述べた通り、エホバの証人の出版物には、カトリックやプロテスタントの神学書からの引用がたくさん載せられています。こんな具合です。



◇ 「ものみの塔」誌1999年2月1日号, ものみの塔聖書冊子協会

 今日,クリスチャン会衆の長老たちはエホバの模範に倣う必要があります。テモテ第二 4章2節に述べられているように,長老たちは,過ちを犯している人の片意地な行動がもたらす結果を率直に述べ,「戒め」,また「けん責」しなければならないことがあります。それと同時に長老たちは「説き勧め(る)」こともすべきです。ギリシャ語のパラカレオーには「励ます」という意味があります。「その訓戒は,厳しいものでも,論争的なものでも,批判的なものでもない。慰めという意味もあることからして,同様の考えを示唆している」と「新約聖書神学辞典」(英語)は述べています。



 エホバの証人のこの方針について、非常に面白いことを書かれた方がいます。このコラムでもすでに何度も紹介しているレイモンド・フランズ氏です。彼はエホバの証人の本部施設で執筆活動を行っていた時期についてこう振り返っています。



◇ 「良心の危機 ― 「エホバの証人」組織中枢での葛藤」, レイモンド・フランズ (表記等修正)

 協会副会長のフレッド・フランズは(エホバの証人の中では)一番の聖書学者として認められていて、私も何度となく質問に行った。すると驚いたことに、聖書の注釈書を見るように言われることが多かった。「アダム・クラークかクックにどう書いてあるか見てみたら」とか、あるいは旧約聖書に関することであれば「ソンチノの注釈を見てみたら」という具合である。
 ベテルの図書室にはそういった注釈書が山ほどあった。しかしそういったものは他の宗派の学者によるものなので私はあまり重要だと思っていなかったし、他の仲間たち同様、ためらいや疑いも感じた。執筆部門のベテラン、カール・クラインなどはずけずけとした言葉を使うことがあり、こういう注釈書を使うのは「大いなるバビロンのおっぱいを吸ってることになる」と言ったりした。協会の解釈では、大いなるバビロンというのは啓示(黙示録)に出てくる売春婦であり、偽りの宗教の世界帝国である。
 ……カール・クラインも、これをそれほど真面目に言っていたとは思えない。何しろ当人も注釈書を使っていたのだし、またフレッド・フランズが注釈書を使っていたこともよく知っていた。



 彼は、本部で執筆業務を行う時になってはじめて、この事実に気づいたようです。そして、そういったことを普通と考えている人たちの間にあってかなり苦悩したようです。
 彼は続けてこう書いています。



◇ 「良心の危機 ― 「エホバの証人」組織中枢での葛藤」, レイモンド・フランズ

 こういう注釈書の数々を見れば見るほど、聖書が神の霊感によるものだという堅い信念が読み取れることが多く、心を深く打たれるばかりだったのである。十八世紀の注釈書でも、書いてあることは極めて値打ちのあることであり、また正確でもあることを見るにつけ、その印象はなおさらだった。何年も経たないうちに「無効」になり、もう出されなくなってしまう自分たちの出版物と比べずにはおれなかった。
 ……そんな作業を通じて、我々の聖書に対する理解は思っていたほどではなかったこと、つまり自分たちが思ったほどの聖書学者でもなかったことがわかった。
 ……何よりも大きな違いを生んだのは、常に文脈に沿い、聖書そのものに聖句の意味を決めさせる必要を素直に認めたことである。……ベテルの図書室にある百年も二百年も前の注釈書がなぜ時を経ても値打ちを失わないのかも理解できた。きっちり原文に添っていく取り組み方をすれば、文脈の意味から離れたり、原文とはかけ離れた視野の狭い解釈をしたりはできないのである。



 これはまったくその通りだと私も思います。ただ、彼の場合、そのことに気づいた時が周囲と比べて極端に遅かったようです。どうしてこんなに遅れたのだろうかと思いますが、その理由はよく分かりません。
 もしこの話がほんとうだとしたら、ある意味彼は病気だったのではないかと私は思います。彼は統治体のメンバーだったのですから。

 実践ということをもう少し考えましょう。

 キリスト教世界には神学書を貪るように読んでいるという方がたくさんいます。中にはそれを書いているという方もいます。ところがです。それらの人たちがそのような高度な知識を習得した結果として聖書の教えをすべて守り行うようになった、などという話はまず聞きません。
 たとえば、聖書の中でイエスは、信徒が聖書伝道に出かけることを命令しています。具体的に、信者が二人一組になって家々を回りなさいということを指導しています。ほとんど唯一の例外であるエホバの証人を別にすれば、この命令を守っている人はいません。聖書の勉強に邁進している人たち、さらには聖書の教えを説いている教師たちさえ、この命令を守っていません。
 さらに言うと、キリスト教世界にあふれる大量の神学書は、キリスト教世界を動かしてヨーロッパで戦争が起こるのを食い止めたりしませんでしたし、キリスト教文化の根幹となって不道徳の広まりに対する抑止力となったりもしませんでした。
 どうしてこうなってしまうのでしょうか。それらの書物が、単に知識の正確さにこだわった書き方をしており、読み手に「何をすべきか」ということを教えていないからです。

 私などのように、いろいろなキリスト教文書を読みあさっていると、エホバの証人以外のキリスト教出版物に「神の命令」という概念が出てくることはまずない、ということに気づかされます。必然的に、「神の命令をすべて守りなさい」というような教えが説かれることもありません。その結果はどうでしょうか。今の教会は、聖書が「するように」と命じる事柄を行わず、「してはならない」と命じる事柄を自由に行っているように見えます。

 今、聖書の教えを信者に実践させるということはとても難しくなっています。エホバの証人の統治体は、他の教派からから拒絶され、反対者たちから叩かれ、世間からカルト呼ばわりされながらも、その務めをよく果たしていると私は思います。聖書の教えを守るよう信者に求めているせいで、「信者から自由を奪っている」とか「人権を侵害している」とか「子供たちを抑圧している」とか言われますが、それでも屈したりしません。今時、こんな人たちは他に見つからないと思います。
 こういったことが今のキリスト教にできていないから、エホバの証人は自分たちのことを自慢して、「エホバの証人だけが聖書の教えを正しく教えることができる」、「エホバの証人になった人だけが救われる」と言うのではないでしょうか。