新世界訳
エホバの証人の聖書

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◆ エホバの証人のコラム ◆
#11 現在的終末論



 聖書には、『ハルマゲドンが近づいた“終わりの時代”にイエスが“忠実で思慮深い奴隷”を選任して代理者とする』という預言の言葉があります。エホバの証人は、自分たちの教派こそが“忠実で思慮深い奴隷”であると唱えてきました。
 このようなことを主張しているのはエホバの証人だけです。他の教派は、エホバの証人のこのような態度を見て気分を悪くしています。この預言を特定の教派に当てはめることは自粛すべきとされているからです。

 しかし、聖書の言い回しに注目してください。



マタイ 24:45-47

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
主人が,召し使いたちに適切な時に食物を与えるため,彼らの上に任命した忠実で思慮深い奴隷はいったい誰でしょうか。主人が来て,そうしているところを見るなら,その奴隷は幸せです! はっきり言いますが,主人は自分の全ての持ち物を管理させるためにその奴隷を任命します。



 聖書は「忠実で思慮深い奴隷が現れるだろう」とは言いませんでした。「誰でしょうか」と尋ねています。
 質問されましたので、読み手は答えを考えなければなりません。これは放置することができない預言です。
 ところが、今のキリスト教を見ると、信者たちが「“忠実で思慮深い奴隷”は誰だろう」ということを調べたり探したりしているという話は全くありません。聖書が質問しているのに、だれも気にしません。

 もし、あなたが誠実なキリスト教徒で、質問に正しく応じて真剣に探したのにどうしても“忠実で思慮深い奴隷”が見つからないなら、どうすればよいでしょうか。このままでは、預言は間違っているということになりますし、あなたは路頭に迷ってしまいます。
 そうすると、どこかの教会が名乗り出て奴隷になるべきではないでしょうか。努力して資格を満たし、イエス・キリストに認めてもらうしかありません。聖書自身も、「イエスが到着して、そうしている教会を見るなら」その教会を任命すると言ってますから、そうするよりほかありません。

 そういうことを実際に考えたのはエホバの証人だけです。本来なら、任命をめぐる教派間の競争が起こっていいはずです。しかし、競走の走路を走っているのはエホバの証人だけで、他の教派は路肩から石を投げています。

 忠実で思慮深い奴隷であるとイエスに認められる教会はどういう教会でしょうか。それは、「そうしている」教会です。この「そうしている」の意味を正しく理解するには『構造』ということに注目する必要があります。(*この記述は2008年以前に公表されました。)



マタイ 24:36-25:13

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
[A1] その日と時刻については誰も知りません。天使たちも子も知らず,父だけが知っています。
[B1] 人の子の臨在の時はちょうどノアの時代のようになります。洪水前のその時代,ノアが箱船に入る日まで,人々は食べたり飲んだり,結婚したりしていました。そして,洪水が来て全ての人を流し去るまで注意しませんでした。人の子の臨在の時もそのようになります。
[B2] その時,2人の男性が畑にいて,一方は連れていかれ,他方は捨てられます。2人の女性がひき臼を回していて,一方は連れていかれ,他方は捨てられます。
[A2] それで,ずっと見張っていなさい。主がどの日に来るかを知らないからです。

[A3] しかし,1つのことを知っておきなさい。家の主人は,泥棒がどの夜警時に来るかを知っていたなら,目を覚ましていて,家に押し入らせはしなかったでしょう。ですから,あなたたちも,用意ができていることを示しなさい。人の子は予期しない時刻に来るからです。
[C1] 主人が,召し使いたちに適切な時に食物を与えるため,彼らの上に任命した忠実で思慮深い奴隷はいったい誰でしょうか。主人が来て,そうしているところを見るなら,その奴隷は幸せです! はっきり言いますが,主人は自分の全ての持ち物を管理させるためにその奴隷を任命します。
[D1] しかし,もしその奴隷が邪悪で,『主人は遅れている』と心の中で言い,仲間の奴隷たちをたたいて,酔っぱらいたちと共に食べたり飲んだりし始めるなら,その奴隷の主人は,奴隷が予期していない日,思ってもいない時刻に来て,最も厳しく彼を罰し,偽善者たちと一緒にならせます。奴隷はそこで泣き悲しんだり歯ぎしりしたりします。
[C2D2] その時,天の王国は,ランプを持って花婿を迎えに出た10人の乙女のようです。そのうち5人は愚かで,5人は思慮深い人でした。愚かな乙女たちはランプを持ちましたが,油を携えていかず,一方,思慮深い乙女たちは,ランプと共に,油を瓶に入れて持っていきました。花婿が遅れている間に,皆,眠くなって眠り込んでしまいました。真夜中に,『さあ,花婿だ! 迎えに出なさい』と叫ぶ声がしました。そこで,乙女は皆起きて,ランプを確認しました。愚かな乙女たちは思慮深い乙女たちに言いました。『油を分けてください。今にもランプが消えそうです』。思慮深い乙女たちは答えました。『みんなの分はなさそうです。それより,油を売る人たちの所に行って自分の分を買ってください』。その5人が買いに行っている間に花婿が来て,用意ができていた乙女たちは結婚の披露宴のために花婿と一緒に中に入り,戸が閉められました。その後,残りの乙女たちも来て,『旦那さま,旦那さま,開けてください』と言いました。花婿は答えました。『はっきり言いますが,あなたたちのことは知りません』。
[A4]ですから,ずっと見張っていなさい。あなたたちは,その日も時刻も知らないからです。



 主題は[A]です。文章は二つのブロックで構成され、最初のブロックは一般人を、次のブロックは教会と信者を扱っています。そのどちらでも、最初と最後に主題が配置されます。主題に包まれる形で、救われる人と救われない人との違い、そしてここでの論点である、忠実な教会と邪悪な教会の違いが示されます。

 このように記述を構造の観点から考察するとその意味がよく解ります。ハルマゲドンの生じる時はだれにも判らないので、クリスチャンはそれを常に待ち続けなければならない、と聖書は説いています。そこで、聖書の言う「そうしている」とは、ハルマゲドンを今日か明日かと毎日毎日待ち続けていることを意味しています。

 この、「ハルマゲドンがいつ来るか判らないから、ひとときも気を緩めることなく待ち続けよう」という聖書の考え方を、現代の神学では『現在的終末論』と呼びます。



◇ 「キリスト教組織神学事典」, 東京神学大学神学会編 (表記等修正)

 (現在的終末論は、)終末を歴史の終局においてではなく、むしろ現在において成立すると考える……それゆえにキリストにおいてその都度現在は終末となる。
 ……しかし現在的終末論は古代的思惟(しい)の素朴さをまとっていた終末論を現代に活かした点においてひとつの功績をもつとしても、それがはたして聖書的であるか、また聖書を正しく現代に活かしているかは別問題である。……終末の現在的性格を保持しながら、しかも未来への救済史的な展望をもちうるというところに妥当な立場があるというべきである。



 現在的終末論とは、信仰者が毎日を“終わりの時代”と考え、それを決して将来においたりしないという信仰のありかたです。
 まだ終わりの時代は来ていないのに、「今こそ終わりの時代であるに違いない」と考えます。昨日は何も起こらなかったのに懲りもせずに「今日こそはハルマゲドンの日に違いない」と考ます。そのような人は、まさしく今日に救いの日を置いているので、その信仰は現在的だと言えます。その人の心の中では、神の王国が日々到来し、キリストの救いが日々訪れています。

 しかし、もしこのような考え方を徹底すると、どうでしょうか。「“終わりの時代”や“ハルマゲドン”は架空の教えである」ということになります。神の王国は信仰者の心の中に存在し、それが救いであるということになります。こうして、終わりの時代は永遠に続き、いつまでたってもハルマゲドンは来ません。
 それに対するのが「未来的終末論」です。これは、将来の特定の時期に終末があると考える信仰のありかたです。
 もともと、現在的終末論は未来的終末論が発展して生まれたものです。聖書は、神の予定した特定の時に終わりの時代とハルマゲドンが訪れると教えます。しかし、その日がいつ来るかは判らないので、信者としては、もしかすると今日がその日かもしれないと思って常に備える必要に迫られます。このようですから、現在的終末論は未来的終末論に論拠を求め、主従の関係にあります。

 そうすると、未来的終末論は現在的終末論を成立させるための建前にすぎないのかということになりますが、どうでしょうか。なにしろ、キリスト教が成立してから現在に至るまで、現にハルマゲドンの時は訪れていませんから、これはやはり建前にすぎなかったという結論がでてくることになります。実際、現代の神学において現在的終末論と呼ばれているものの中には、建前である終末論から完全に卒業して、単に「キリストの信仰における現在の救い」を説くだけのものもあります。しかしそこまで言い切ってしまうと、聖書に書いてあることは嘘であると認めることになってしまいます。建前ではなく本音で聖書を信じている人にとって、このような結論は論外です。そこで、終末論を現実のものととらえたうえで、なおかつ現在的であることにキリスト教の正しい信仰をみいだせる、と言うことができます。
 正しい信仰を持つ人は、ハルマゲドンは未来のことであると信じます。それなのに、毎日、今日こそがその日だろうと決めつけます。期待したにもかかわらず昨日ハルマゲドンが来なかった問題は、今日こそはハルマゲドンが来るだろうと思い直すことによって解決されます。今日ハルマゲドンが来なければ、再び思い直して、明日こそはハルマゲドンが来るだろうと考えるまでです。すでに今は終わりの時代なのだからいつハルマゲドンが来てもおかしくない、と考えて疑いません。しかしやはり、ハルマゲドンは未来のことであると信じます。

 キリスト教の終末論信仰にはホットな面とクールな面があります。ハルマゲドンを待ち望むにあたっては、ホットでなければ信仰を持っていると言えませんし、クールでなければ理性があると言えません。なかなか悩ましいところです。

 このような考え方を受け入れるかどうかで、信仰の姿は大きく変わってきます。たとえば、真理のみことば伝道協会という団体が発行してる「カルト関連ニュース」はエホバの証人についてこのような報道をしています。



◇ 「ものみの塔の新たな偽預言が発覚」, カルト関連ニュース, 真理のみことば伝道協会 (表記等修正)

 二十一世紀を迎えた今、ものみの塔聖書冊子協会の二十世紀に関する「預言」が注目されています。組織は、次のように述べていました。
 「間もなく、二十世紀のうちに、……『エホバの大いなる日の戦い』が始まるでしょう」。
 「世界のすう勢や聖書預言の成就から見て、この世界の邪悪な体制が世紀の変わり目まで続く可能性は非常に少ないように思われます」。
 「使徒パウロは、キリスト教宣教者の活動の先鋒となりました。……この二〇世紀に完了するであろう業の基礎を据えていたのです」。

 このように、ものみの塔協会の歴史が長くなればなるほど、その偽預言のリストもまた、長くなる一方です。旧約聖書の時代、語ることが実現しなかった「預言者」に対する罰は、死刑でした。
 「ただし、わたしが告げよと命じていないことを、不遜にもわたしの名によって告げたり、あるいは、ほかの神々の名によって告げたりする預言者があるなら、その預言者は死ななければならない。あなたが心の中で、『私たちは、主が言われたのでないことばを、どうして見分けることができようか。』と言うような場合は、預言者が主の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは主が語られたことばではない。その預言者が不遜にもそれを語ったのである。彼を恐れてはならない」(申命記18章20~22節)。

 偽預言者の上に、このような厳しい罰が下ることになっていたのは、その人が周りの人間の生活に与える影響が、非常に大きいからです。人々は、「預言者」の言葉を信じるだけでなく、その言葉に自分の生活を合わせます。例えば、ものみの塔の一九七五年の預言の時のように、大学に行ったり、就職したり、家庭を持ったりする夢を捨てる若者が出て来ます。家や財産を売る人もいます。ですから、偽預言(語ったことが起こらない)という罪は、神の前では、とても重いのです。



 現在的終末論の考え方では、たとえば1980年とか1990年といった時期に、「20世紀の終わりまでにはハルマゲドンが来るだろう」と考えるとしても、それは別におかしなことではありません。しかし、現在的終末論を支持しない教派に言わせれば、エホバの証人は間違いなく偽預言者であるということになります。
 エホバの証人は「こういったものを『偽預言』と呼ぶのはおかしい」と考えます。たとえば、このようなことを言う人がいたとします。「人間というのは、いつ何があるか分からない。ある日突然事故にあって死んでしまうかもしれない。今日死ぬかもしれないし、明日死ぬかもしれない。だから、今日が自分の人生の最後の日だと思って、一日一日を一生懸命生きることが必要だ」。このようなことを言う人がいた場合、その人は「今日か明日に私は死ぬ」と預言しているのでしょうか。そうではないでしょう。それと同じように考えればいい、とエホバの証人は言います。
 さらにエホバの証人はこう言います。「あの団体は、同じ時期にハルマゲドンについて何を言っていただろうか。「20世紀中にハルマゲドンは来ません」とか、あるいはもっと大胆に「そもそもハルマゲドンなんか起こりません」とか言っていたのだろうか」。

 エホバの証人はキリスト教諸教会から“異端”だと言われます。エホバの証人も“キリスト教世界は背教している”と応じます。
 キリスト教史2000年のくびきではないか、と私は思います。

 別の例も見てみましょう。聖書の述べる「世代」の解釈の問題です。

 イエスの預言によると、終わりの時代は世界大戦で幕開けします。キリスト教成立後、非常に長い間、この預言にあてはまる出来事は起こりませんでした。しかし、1914年にはついに第一次世界大戦が勃発します。そこでエホバの証人は、予告された終わりの時代は1914年に始まったと考えるようになりました。エホバの証人がこの解釈を公表すると、諸教会は激怒しました。彼らはエホバの証人を激しく攻撃して、この人たちは頭がおかしい、こんなのは偽キリスト教だ、と言いました。エホバの証人は反論して、あなたたちはキリストの預言を信じないのですか、と応じましたが、状況は変わりませんでした。今でも、選択肢が一つしかないにもかかわらず、1914年が終わりの時代の始まりであるとしている教派はエホバの証人しかありません。
 そうすると今度は、イエスの預言した「世代」ということが問題になってきます。イエスによると、終わりの時代は、世界大戦の「世代」のうちにハルマゲドンで終結することになっています。これをどう考えるべきでしょうか。この課題に直面したのはエホバの証人だけです。エホバの証人以外のキリスト教会は、相変わらず、あの人たちは頭がおかしい、偽キリスト教だ、と言っています。

 レイモンド・フランズ氏は、「世代」預言の解釈の進展についてこう書いています。



◇ 「良心の危機 ― 「エホバの証人」組織中枢での葛藤」, レイモンド・フランズ (表記等修正)

 1940年代当時、「世代」というのは(1914年から)30年か40年程度の期間を指すものとされていた。したがって残された時間がいかに少ないかが主張された。
 ……ところが1950年代になると、この期間が過ぎ去ってしまった。そこでこれを引き延ばそうと、『ものみの塔』1952年9月1日号では世代期間の定義が変わり、この時初めて「世代」の示す期間は人の一生であるという定義になった。したがって30年や40年ではなく、70年、80年、あるいはそれ以上の期間となったのである。
 これで、出版物に公表した予言が成就するための時間がかなり稼げたように見えた。ところがさらに年月が経つにつれ、「1914年の世代」の定義をさらに変更する必要が生じてきた。以下の引用は『目ざめよ!』1968年10月8日号である。

「イエスは明らかに、「終わりの日」が始まった時に起こったことを理解するのに十分な年齢の人たちについて言っていたのです。……1914年に起こったことの重大さがわかる年齢を仮に15歳だとみても、「この世代」で一番若いその15歳は現在70歳になっています。……これにより、預言された終結までに残された年はそれほど多いはずがないということがわかります。」

 これが公にされたのは30年以上も前のことである。ここで強調されていたのは1914年の世代がもうすぐ終わりつつあること、したがってほとんど時間が残されていないことであった。1968年当時にエホバの証人の誰かが、あと30年は持つでしょうなどと言おうものなら、「態度が悪い」「信仰が弱い」とされていたことであろう。
 1975年が過ぎ去ると、強調点が変わった。今度は1914年の世代というのが普通考えるほど短くもなく、むしろかなり長いものであり得ることになったのである。
 かくして、『ものみの塔』1978年10月1日号では1914年の時点で「起こったことを理解」して目にした者たちではなく、この年に起こったことを「観察できた」者たちの話になっている。単に観察するのと理解するのとはずいぶん違う。したがって「この世代」にいる人の最低年齢を引き下げることができるわけである。

 ……私は統治体の仲間のメンバーにこう尋ねてみた。マタイ24章33,34節にあるイエスの言葉が向けられているのは結局1914年の段階で十代かそれ以下だった子供たちしかいないことになるが、これにどれほどの意味があるのだろうか。しかしはっきりした返答はなかった。

 ところがそれでも、協会の「この世代」の教義も1914年もそのままにしておくべきだというメンバーは多かった。ロイド・バリーの意見は次の通りだった。この1914年について統治体内で疑問がわくというのは驚きだ。ライマン・スウィングルの持ち出してきた1922年の『ものみの塔』(1925年にハルマゲドンが来るという説について断定的で執拗な書き方があった)の内容については、別に気にかけることはまったくなく、あれが当時の兄弟たちにとっての「現在の真理」だったのである。
 ……私はこう言った。今日「現在の真理」である教義がそのうち「過去の真理」になるのであれば、その「過去の真理」の代わりに出てくる「現在の真理」もそのうち「未来の真理」が出てくればなくなってしまい得ることになるのではないか。――私としては、こんな風に「真理」という言葉が使われるのでは真理の意味がなくなってしまうという気持ちだったのである。

 ……(1980年が過ぎて)さらに何年かが経過すると、……「1914年に生きていた人」というような表現になった。こうすれば無論赤ん坊でも含まれる。しかし1990年代に入り、さらに2000年に近づこうというのだから、この「理解の調整」も長く続くはずがなかった。1914年に生まれた人も2000年になれば90歳に近づくのである。

 ここで私にはっきり言えるのは、統治体内部で行なわれているこういう理屈付けはとにかく無茶だと感じられたということである。悲劇的でもある。



 彼はさらにこう書いています。



◇ 「良心の危機 ― 「エホバの証人」組織中枢での葛藤」, レイモンド・フランズ (表記等修正)

 確かに、年が経つに連れて1914年の教義とそれにまつわる主張の居心地は悪くなってくる。……21世紀に入り、さらに2014年を迎えれば、1914年はずいぶん古めかしい年代に見えることだろう。したがって、「1914年の世代」に関する教義を変更したところで、たゆまず進む時の流れの前には、どうしても一時しのぎにしかならないのである。
 どういう変更点が出てくるにせよ、神の導きによるものとして登場することに間違いはあるまい。捨て去られてしまう教義や規則については、「その当時の神のご意志」、はたまた天に支配するキリスト・イエスの「作戦」の一つであったとされ、目標のための手段だったとされるだろう。



 現在的終末論の考え方では、聖書の「世代」という言葉を考えるのに、最初から70年とか80年といった期間を想定するのは正しくありません。もっと現在に近づけて考えるべきです。そして、時が流れるにしたがってそれをシフトさせていくべきです。しかし、現在的終末論を否定する考え方では、それは無責任な偽預言であるということになります。
 エホバの証人の立場から見れば、レイモンド・フランズ氏の「21世紀に入り、さらに2014年を迎えれば」という発言はひどいものです。2014年までにハルマゲドンが来ることはないだろうと決めつけているからです。「過去についてはともかく、将来についてこのようなことを言ってしまっていいのか」ということになります。

 エホバの証人の出版物には、彼の主張について言及していると思われる記述があります。



◇ 「ものみの塔」誌1994年7月1日号, ものみの塔聖書冊子協会

 背教者たちは,事実をゆがめた,真実を一部しか伝えない,全くの偽りを語った文書を出版しています。……背教者たちは特定の事実を述べることもあるとはいえ,普通それらは,人をエホバの食卓から引き離す目的で,事実の前後関係を無視して述べられているのです。



◇ 「ものみの塔」誌1999年7月15日号, ものみの塔聖書冊子協会

 今日,真理からそれた者たちである背教者は,「忠実で思慮深い奴隷」を言葉によって打ちたたき,事実上,霊的な食物を与えてくれていた手にかみついています。中には,それとはなしに「わたしの主人は遅れている」と言っている,「よこしまな奴隷」のような人たちもいます。(マタイ 24:44-49。テモテ第二 4:14,15)それらの人はこの邪悪な事物の体制の終わりが近いことを否定し,霊的に油断なく見張っている奴隷級がエホバの民の間に緊急感を保たせていることを批判します。(イザヤ 1:3)そのような背教者たちは,うまく「ある人たちの信仰を覆し」,霊的な破船を引き起こしています。―テモテ第二 2:18。



 彼の名前は出ていませんが、彼や彼の仲間たちについて書いているように思います。

 すでに何度も指摘していることですが、レイモンド・フランズ氏はエホバの証人の統治体の一員だった人です。ですから、“忠実で思慮深い奴隷”についての正しい解釈をよく知っているはずです。聖書が“忠実で思慮深い奴隷”について預言したついでに“邪悪な奴隷”についても預言していることはよく解っているはずです。



マタイ 24:45-51

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
主人が,召し使いたちに適切な時に食物を与えるため,彼らの上に任命した忠実で思慮深い奴隷はいったい誰でしょうか。主人が来て,そうしているところを見るなら,その奴隷は幸せです! はっきり言いますが,主人は自分の全ての持ち物を管理させるためにその奴隷を任命します。しかし,もしその奴隷が邪悪で,『主人は遅れている』と心の中で言い,仲間の奴隷たちをたたいて,酔っぱらいたちと共に食べたり飲んだりし始めるなら,その奴隷の主人は,奴隷が予期していない日,思ってもいない時刻に来て,最も厳しく彼を罰し,偽善者たちと一緒にならせます。奴隷はそこで泣き悲しんだり歯ぎしりしたりします。



 ここで言われている「主人は遅れている」とは「ハルマゲドンはまだ来ない」という意味です。「酔っぱらい」は、ハルマゲドンを無視する人を指す暗喩です。
 聖書によると、「忠実で思慮深い奴隷」には造反者が現れることになっています。この者は、ハルマゲドンがいつまでたっても来ないことで仲間を攻撃し、不信仰の推進者となります。
 彼はそのことをよく解ったうえで、それでもあえて「邪悪な奴隷」の立場を取っているのだろう、と私は思います。