エホバの証人のコラム

#11 現在的終末論


 聖書には、ハルマゲドンが近づいた“終わりの日”にイエスが“忠実で思慮深い奴隷”を選び出して、イエスの代理者とされるという預言の言葉があります。エホバの証人は自分たちの教派こそがその“忠実で思慮深い奴隷”であると唱えてきました。
 これは他のキリスト教派からの激しい反発を引き起こしてきました。要するに、「自分たちは他のキリスト教とは違って特別だ」ということをエホバの証人は言っているのですから、反発するのも当然です。
 エホバの証人の出版物には、しばしば「唯一の経路」という表現がでてきます。真理と救いの唯一の経路はイエス・キリストで、その地上における部分が忠実で思慮深い奴隷だと説明されます。たとえばこのような言い方です。

『確かに,この「奴隷」,つまり霊によって油そそがれた会衆は,「終わりの時」に地上で神の王国を代表する唯一の是認された経路です。』

 キリスト教世界の人々は、エホバの証人のこのような態度を鼻持ちならないものと考えています。「エホバの証人は高慢ではないか」とか「いったい何の権利があってそのような立場を主張するのか」と異議を唱えます。そもそも、キリスト教に大小様々な宗派がある中で、「この教派こそが“忠実で思慮深い奴隷である”」などと唱えているのはエホバの証人だけです。そのこと自体が問題だと思われます。

 しかし、聖書がそのことを預言した時の言い回しに少し注目が必要です。

『主人が,時に応じてその召使いたちに食物を与えさせるため,彼らの上に任命した,忠実で思慮深い奴隷はいったいだれでしょうか。主人が到着して,そうしているところを見るならば,その奴隷は幸いです。あなた方に真実に言いますが,主人は彼を任命して自分のすべての持ち物をつかさどらせるでしょう。』

 ここで聖書は、「終わりの日には忠実で思慮深い奴隷が現れるだろう」とか「選ばれるだろう」とダイレクトに言ったりはしませんでした。「忠実で思慮深い奴隷はだれでしょうか」と言っています。これは、質問の形式という珍しい形式で語られた預言です。聖書にこういう預言はめったにありません。
 これは、キリスト教の信者となった人にとって課題です。たとえばあなたが信者になった場合、聖書が「忠実で思慮深い奴隷はだれでしょうか」と質問しているのですから、あなたはその奴隷である人もしくは教会を捜さなければなりません。そして、その教会が見つかるとするなら、あなたはその教会に属さなければなりません。もし、今自分の属している教会が奴隷ではなく他の教会が奴隷であるというのでは話になりませんから、そういうときには宗派替えをすることが必要です。
 ところが、今のキリスト教を見てみると、信者たちがみな「“忠実で思慮深い奴隷”は誰だろう」ということを真剣に考えて調べたり探したりしている、という話は全くありません。聖書が質問をしているのに、だれも気にしていません。

 もし、真剣に探したのにどうしても“忠実で思慮深い奴隷”が見つからないということがあるとすれば、どうでしょうか。それはとても困ったことではないでしょうか。聖書が、終わりの日には奴隷が現れるということを預言しているのに、その通りにならないとすると、聖書は間違っているということになりますし、信者であるあなたは路頭に迷うことになります。
 そういうときには、自分が、あるいは自分の教会がその奴隷になるべきではないでしょうか。奴隷になるために必要な努力を払って、その資格にかなう者となった結果、イエス・キリストがその教会を奴隷として認めてくださる、ということを追い求めるしかありません。聖書自身も、「イエスが到着して,そうしている教会を見るなら」その教会を奴隷にすると言っていますから、そうするよりほかありません。
 ところが、そういうことを実際に考えたのはエホバの証人という教派だけです。本来なら、たくさんの教派がそのようなことを考えているために教派間の競争がおこり、それぞれの教派が“忠実で思慮深い奴隷”となるべく邁進しているという状況があっていいはずです。しかし、奴隷であることを目指す競走の走路を走っているのはエホバの証人だけで、他の教派は路肩から(声援をかけるのではなく)石を投げているという具合です。

 ところで、忠実で思慮深い奴隷であるとイエスに認められる教会とはどういう教会なのでしょうか。忠実で思慮深い奴隷になるために教会はどういう教会になるべきなのでしょうか。そもそもこの基準が分からなければ、探しようがありませんし、努力のしようもありません。それは、聖書の預言の述べるところの「そうしている」状態にある教会です。この「そうしている」とはどうしていることなのかを知るには、この預言の文脈を調べる必要があります。すこしこれを見てみましょう。
 この預言の言葉はこのようにして始まります。

A その日と時刻についてはだれも知りません。天のみ使いたちも子も知らず,ただ父だけが知っておられます。
B 人の子の臨在はちょうどノアの日のようだからです。洪水前のそれらの日,ノアが箱船に入る日まで,人々は食べたり飲んだり,めとったり嫁いだりしていました。そして,洪水が来て彼らすべてを流し去るまで注意しませんでしたが,人の子の臨在の時もそのようになるのです。
B' その時二人の男が野にいるでしょう。一方は連れて行かれ,他方は捨てられるのです。二人の女が手臼をひいているでしょう。一方は連れて行かれ,他方は捨てられるのです。
A それゆえ,ずっと見張っていなさい。あなた方は,自分たちの主がどの日に来るかを知らないからです。

 わかりやすいようにしるしをつけましたが、この文はシンメトリ(対称)の構造を持っており、A-B-B'-Aとなります。主題はAでBが発展です。Bにおいては、過去の事例と将来の予告とが比較されます。
 続いて、聖書は漸増(発展)の構造を持ちます。これにより文意はより強調されます。

A しかし,一つのことを知っておきなさい。家あるじは,盗人がどの見張り時に来るかを知っていたなら,目を覚ましていて,自分の家に押し入られるようなことを許さなかったでしょう。このゆえに,あなた方も用意のできていることを示しなさい。あなた方の思わぬ時刻に人の子は来るからです。
B1 主人が,時に応じてその召使いたちに食物を与えさせるため,彼らの上に任命した,忠実で思慮深い奴隷はいったいだれでしょうか。主人が到着して,そうしているところを見るならば,その奴隷は幸いです。あなた方に真実に言いますが,主人は彼を任命して自分のすべての持ち物をつかさどらせるでしょう。
B1' しかし,もしそのよこしまな奴隷が,心の中で,『わたしの主人は遅れている』と言い,仲間の奴隷たちをたたき始め,のんだくれたちと共に食べたり飲んだりするようなことがあるならば,その奴隷の主人は,彼の予期していない日,彼の知らない時刻に来て,最も厳しく彼を罰し,その受け分を偽善者たちと共にならせるでしょう。そこで彼は泣き悲しんだり歯ぎしりしたりするのです。
B2とB2' その時,天の王国は,自分のともしびを持って花婿を迎えに出た十人の処女のようになります。そのうち五人は愚かで,五人は思慮深い者でした。愚かな者たちは自分のともしびを持ちましたが,油を携えていかず,一方,思慮深い者たちは,自分のともしびと共に,油を入れ物に入れて持って行きました。花婿が遅れている間に,彼女たちはみな頭を垂れて眠り込んでしまいました。真夜中に,『さあ,花婿だ! 迎えに出なさい』という叫び声が上がりました。そこで,それらの処女はみな起きて,自分のともしびを整えました。愚かな者たちは思慮深い者たちに言いました,『あなた方の油を分けてください。わたしたちのともしびはいまにも消えそうですから』。思慮深い者たちはこう答えました。『わたしたちとあなた方に足りるほどはないかもしれません。むしろ,油を売る者たちのところに行って,自分のために買いなさい』。彼女たちが買いに行っている間に花婿が到着し,用意のできていた処女たちは,婚宴のため彼と共に中に入りました。それから戸が閉められたのです。後に,残りの処女たちも来て,『だんな様,だんな様,開けてください』と言いました。彼は答えて言いました,『あなた方に真実を言いますが,わたしはあなた方を知りません』。
A それゆえ,ずっと見張っていなさい。あなた方は,その日もその時刻も知らないからです。

 こうしてこの記述を構造の観点から考察するとその意味がよく分かります。この文は三段階の発展的構造と二つの対称的構造を持ち、一つの主題を扱っています。(実は、この構造はさらに続いているのですが、それはもう省略します。) つまり、イエスの臨在の生じる時はだれにも分からないので、クリスチャンはそれを常に待ち続けなければならない、それで、いつなのか分からないものを辛抱して待ち続けることができる人が忠実で思慮深い人で、それができない人やそれを馬鹿にする人が愚かな人であるという意味です。ですから、聖書の言う「そうしている」とは、イエスの臨在を今日か明日かと毎日毎日待ち続けていることを意味しています。

 この、「臨在がいつ来るのかは分からないのだから、ひとときも気を緩めることなくいつも見張っていなければならない」という聖書の考え方を、現代の神学では『現在的終末論』と呼びます。
 この、現在的終末論とはどういうものかについて、キリスト教組織神学事典はこう説明しています。

『(現在的終末論は、)終末を歴史の終局においてではなく、むしろ現在において成立すると考える……それゆえにキリストにおいてその都度現在は終末となる。しかし現在的終末論は古代的思惟(しい)の素朴さをまとっていた終末論を現代に活かした点においてひとつの功績をもつとしても、それがはたして聖書的であるか、また聖書を正しく現代に活かしているかは別問題である。……終末の現在的性格を保持しながら、しかも未来への救済的な展望をもちうるというところに妥当な立場があるというべきである。』(表記等修正)

 現在的終末論とは、信仰者が毎日を「終わりの日」と考え、それを決して将来においたりはしないという信仰のあり方です。
 実際に終わりの日が来ているわけではなくても、キリストに信仰を働かせる者が「自分の生きている自分の時代こそが終わりの日であるに違いない」と考えていたり、昨日は何も起こらなかったに懲りもせずに「今日こそはハルマゲドンの日であるに違いない」などと考えているなら、どうでしょうか。そのような信者は、近い将来ではなくまさに今日に救いの日を置いているので、その信仰は現在的終末論だと言えます。そのような信者の心の中ではキリストの救いが日々訪れているので、その人の心の中には神の王国が日々到来していることになります。
 しかし、この理論を推し進めると、「結局のところ、終わりの日という概念は仮想のものであり、ハルマゲドンも現実のものではないのではないか」という疑問がでてきます。つまり、神の王国とはキリストに信仰を働かせる個々の人の心の中に存在するのであって、その心の状態こそがキリスト教における救いであるということになります。こうして、終わりの日は永遠に続き、いつまでたってもハルマゲドンは来ません。
 それに対するのが「未来的終末論」です。これは、将来の特定の時期に終末があると考える信仰のあり方です。
 もともと、現在的終末論は未来的終末論の発展として生じたものです。聖書は、神の予定した特定の時に終わりの日とハルマゲドンとが訪れると教えます。しかし、その日がいつ来るのかは分かっていないので、信者としては、その日がいつ来ても悔いが残らないように、とにかく今日こそがその日かもしれないと思って、その日にハルマゲドンが来たら救われるであろう信仰の生活をしなければなりません。そのうち本当にハルマゲドンがやってきて、その信者は救われるだろうという考え方です。このようですから、現在的終末論は未来的終末論に論拠を求めており、この両者は主従の関係にあります。
 そこで、未来的終末論は現在的終末論を成立させるための建前にすぎないのかということを考えなければならないことになりますが、なにしろ、キリスト教が成立してから2000年近くたった現在に至るまで、現実にハルマゲドンの時は訪れていませんから、これはやはり建前にすぎなかったという結論がでてくることになります。実際、現代の神学において現在的終末論と呼ばれているものの中には、建前である終末論から完全に卒業して、単に「キリストの信仰における現在の救い」を説くだけのものもあります。しかしそこまで言い切ってしまうと、同時にそれは、聖書が嘘をついているということが証明されたと言っているのと同じになります。建前ではなく本音で神を信じ、本音で聖書の預言を信じている人にとって、このような結論は論外です。そこで、あくまで終末論を現実のもの(未来的なもの)ととらえたうえで、なおかつ現在的であることにキリスト教の正しい信仰をみいだせると言うことができます。
 そのようなキリスト教の正しい信仰を持つ人は、ハルマゲドンはあくまで未来のことであると信じています。しかし、当面のこととして、まさに今こそが終わりの日であるということを信じています。期待したにもかかわらず昨日ハルマゲドンが来なかった問題は、今日こそはハルマゲドンが来るだろうと思い直すことによって解決されます。今日ハルマゲドンが来なければ、再び思い直して、明日そこはハルマゲドンが来るだろうと考えるまでです。なにしろ、すでに今は終わりの日なのですから、いつハルマゲドンが来てもおかしくないと思うわけです。
 キリスト教の終末論信仰にはホットな面とクールな面とがあります。ハルマゲドンを待ち望むにあたっては、ホットでなければ真の信仰を持っていると言えませんし、クールでなければ理性があると言えません。そこらへんがなかなか悩ましいところです。

 このような考え方を受け入れるか受け入れないかで、キリスト教の信仰のあり方は大きく変わってきます。たとえば、真理のみことば伝道協会という団体が発行してる「カルト関連ニュース」はエホバの証人についてこのような報道をしています。

■ものみの塔の新たな偽預言が発覚

 二十一世紀を迎えた今、ものみの塔聖書冊子協会の二十世紀に関する「預言」が注目されています。組織は、次のように述べていました。
 「間もなく、二十世紀のうちに、エルサレムの現代的象徴であるキリスト教界に対して、『エホバの大いなる日の戦い』が始まるでしょう」(『国民は私がエホバであることを知るであろう−−−どのように?』、1971年発行、216頁、英文)。
 「世界のすう勢や聖書預言の成就から見て、この世界の邪悪な体制が世紀の変わり目まで続く可能性は非常に少ないように思われますが、たとえそれまで続いたとしても、第一次世界大戦の世代は依然として残っていることでしょう。しかし、その数が減少していることは、『事物の体制の終結』が急速にその終わりに向かっていることを示すもう一つの兆候です」(『ものみの塔』誌、1981年1月15日号、31頁)。
 「そのしるしが成就しはじめた年である一九一四年の『世代』は『これらのすべての事が起こるまで、決して過ぎ去らない』ともイエスに言われました。(マタイ二四・三四)その『世代』の人々の中には、今世紀の終わりまで生き残る人が幾らかいることでしょう。しかし、多くの兆候は、『終わり』がそれよりもずっと間近に迫っていることを示しています」(『ものみの塔』誌、1984年6月1日号、18〜19頁)。
 「フランスに住むキャロルは『すばらしい希望を』抱いていて、近い将来に、『わたしたちが住んでいる世界とは全く違う、すばらしい世界が来る』と見ています。同じ国の十五歳の若者サミュエルも完全な変化が訪れることを信じています。『西暦二〇〇〇年には世界が美しい楽園に変わっているところを思い浮かべることができます。でも、今の世界も、今の世界の支配者たちも、生きてその日を見ることはないと思います。・・・・・・私たちは事物の体制の終わりの時に住んでいます』」(『目ざめよ!』誌、1986年11月8日号、7〜8頁)。(注:この言葉は、一人のエホバの証人の若者の言葉として引用されていますが、組織の方針に合わない言葉であるなら、読者に紹介されるはずなどありません。)
 「使徒パウロは、キリスト教宣教者の活動の先鋒となりました。そして同時に、この二〇世紀に完了するであろう業の基礎を据えていたのです」(『ものみの塔』誌、1989年1月1日号、12頁)。(注:製本された『一九八九年ものみの塔』[英文]には、この言葉は次のように訂正されています。「そして同時に、私たちの時代に完了するであろう業の基礎を据えていたのです。」言うまでもなく、訂正されたことを示す注意書きなど、ありません。なお、どういう訳か、製本された日本語版の雑誌は、訂正されていません。)
 このように、ものみの塔協会の歴史が長くなればなるほど、その偽預言のリストもまた、長くなる一方です。旧約聖書の時代、語ることが実現しなかった「預言者」に対する罰は、死刑でした。
 「ただし、わたしが告げよと命じていないことを、不遜にもわたしの名によって告げたり、あるいは、ほかの神々の名によって告げたりする預言者があるなら、その預言者は死ななければならない。あなたが心の中で、『私たちは、主が言われたのでないことばを、どうして見分けることができようか。』と言うような場合は、預言者が主の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは主が語られたことばではない。その預言者が不遜にもそれを語ったのである。彼を恐れてはならない」(申命記18章20〜22節)。
 偽預言者の上に、このような厳しい罰が下ることになっていたのは、その人が周りの人間の生活に与える影響が、非常に大きいからです。人々は、「預言者」の言葉を信じるだけでなく、その言葉に自分の生活を合わせます。例えば、ものみの塔の一九七五年の預言の時のように、大学に行ったり、就職したり、家庭を持ったりする夢を捨てる若者が出て来ます。家や財産を売る人もいます。ですから、偽預言(語ったことが起こらない)という罪は、神の前では、とても重いのです。
 聖書に付き従うクリスチャンは、罪を犯した時に、その罪を悔い改めます。悔い改めとは、まず、正直に罪を告白することです。偽預言者の場合、「私は偽預言者です」ということを、公に言い表すことが必要になります。しかし、悔い改めはそれだけで終わる訳ではありません。更に、悔い改めとは、罪をきっぱりとやめることです。ですから、語ったことが実現しない人がいた場合、「私は二度と預言しない」という固い決意が求められる訳です。
 心から悔い改める者に対して、聖書は神の赦しや聖めと共に、罪に勝利する力を約束しています(使徒2・38)。しかし、また、心を頑なにして、悔い改めようとしない者には、救いの道が閉ざされることを警告しているのです(ヘブル3・7〜11)。
 ものみの塔聖書冊子協会は百年間、偽預言の罪を繰り返して来ましたが、一度も、悔い改めていません。公に「私たちは偽預言者です」と告白したこともなければ、「偽預言の罪を憎み、その罪を捨てます。私たちはもはや預言したりしません」と発表したこともありません。だからこそ、何度も、同じ過ちを繰り返し、組織のメンバーに多大な被害を与えて来たのです。その罪は、決して小さくはないのです。

 現在的終末論の考え方では、たとえば1980年とか1990年といった時期に「20世紀の終わりまでにはハルマゲドンが来るだろう」と考えるとしても、それはべつにおかしなことではありません。むしろ当然です。聖書の教えに照らして、ハルマゲドンが来るのは何十年も先であるなどと考えるべきではないからです。実際にいつハルマゲドンが来るかにかかわりなく、ハルマゲドンの時は非常に近いと信じるべきです。しかし、現代キリスト教の中にはそもそも終末論自体を支持していないような教派も多くあります。そういう教派に言わせれば、エホバの証人は間違いなくカルトであり偽預言者であるということになります。
 そのようなわけでエホバの証人は多くのキリスト教派から『偽預言者』呼ばわりされているのですが、エホバの証人の感覚では「こういったものを『偽預言』と呼ぶのはおかしい」ということになります。たとえば、このようなことを言う人がいたとします。「人間というのは、いつ何があるか分からない。ある日突然事故にあって死んでしまうかもしれない。今日死ぬかもしれないし、明日死ぬかもしれない。だから、今日が自分の人生の最後の日だと思って、一日一日を一生懸命生きることが必要だ」。このようなことを言う人がいた場合、その人は「今日か明日に私は死ぬ」と預言しているのでしょうか。そうではないでしょう。それと同じように考えればいい、というのが現在的終末論の考え方です。
 逆にエホバの証人のほうから見れば、「真理のみことば伝道協会は、自分たちがこれを言っていたちょうど同じ時期に、ハルマゲドンについて何を言っていたのだろうか」ということになります。「20世紀中にはハルマゲドンは来ません」とか、あるいはもっと大胆に「そもそもハルマゲドンなんか来ません」とか言っていたのでしょうか。そうだとすれば、この団体はキリストが来られることを否定する異端者であるということになります。
 エホバの証人はキリスト教の諸教会からあからさまに“異端”よばわりされています。一方のエホバの証人も、“キリスト教世界は背教している”と応じます。互いが相手を異端呼ばわりしているのですが、そこにはこのような事情があったりします。

 キリスト教史2000年のくびきではないか、と私は思います。

 別の例も見てみましょう。聖書の述べる「世代」の解釈の問題です。
 少し概要を説明します。聖書には、「ハルマゲドンの日時は誰も知らずただ神だけが知っておられる」という言葉があります。しかし聖書は「終わりの日の「世代」のうちにハルマゲドンは来るだろう」ということも述べていますので、「日時までは分からないとしてもだいたいの時期は分かるのではないか」という推測がありました。
 すでに一連のコラムで何度も紹介しているレイモンド・フランズは、「世代」預言の解釈の進展についてこう述べています。

 1940年代当時、「世代」というのは(1914年から)30年か40年程度の期間を指すものとされていた。したがって残された時間がいかに少ないかが主張された。
 ところが1950年代になると、この期間が過ぎ去ってしまった。そこでこれを引き延ばそうと、『ものみの塔』1952年9月1日号542-543ページでは世代期間の定義が変わり、この時初めて「世代」の示す期間は人の一生であるという定義になった。したがって30年や40年ではなく、70年、80年、あるいはそれ以上の期間となったのである。
 これで、出版物に公表した予言が成就するための時間がかなり稼げたように見えた。ところがさらに年月がたつにつれ、「1914年の世代」の定義をさらに変更する必要が生じてきた。以下の引用は『目ざめよ!』1968年10月8日号13-14ページである。
「イエスは明らかに、「終わりの日」が始まった時に起こったことを理解するのに十分な年齢の人たちについて言っていたのです。……1914年に起こったことの重大さがわかる年齢を仮に15歳だとみても、「この世代」で一番若いその15歳は現在70歳になっています。……これにより、預言された終結までに残された年はそれほど多いはずがないということがわかります。」
 これが公にされたのは30年以上も前のことである。ここで強調されていたのは1914年の世代がもうすぐ終わりつつあること、したがってほとんど時間が残されていないことであった。1968年当時にエホバの証人の誰かが、あと30年は持つでしょうなどと言おうものなら、「態度が悪い」、「信仰が弱い」とされていたことであろう。
 1975年が過ぎ去ると、強調点が変わった。今度は1914年の世代というのが普通考えるほど短くもなく、むしろかなり長いものであり得ることになったのである。
 かくして、『ものみの塔』1978年10月1日号(日本語版は1979年1月1日号)では1914年の時点で「起こったことを理解」して目にした者たちではなく、この年に起こったことを「観察できた」者たちの話になっている。単に観察するのと理解するのとはずいぶん違う。したがって「この世代」にいる人の最低年齢を引き下げることができるわけである。
 ……私は統治体の仲間のメンバーにこう尋ねてみた。マタイ24章33,34節にあるイエスの言葉が向けられているのは結局1914年の段階で十代かそれ以下だった子供たちしかいないことになるが、これにどれほどの意味があるのだろうか。しかしはっきりした返答はなかった。
 ところがそれでも、協会の「この世代」の教義も1914年もそのままにしておくべきだというメンバーは多かった。ロイド・バリーの意見は次の通りだった。この1914年について統治体内で疑問がわくというのは驚きだ。ライマン・スウィングルの持ち出してきた1922年の『ものみの塔』(1925年にハルマゲドンが来るという説について断定的で執拗な書き方をしていた)の内容については、別に気にかけることはまったくなく、あれが当時の兄弟たちにとっての「現在の真理」だったのである。
 ……私はこう言った。今日「現在の真理」である教義がそのうち「過去の真理」になるのであれば、その「過去の真理」の代わりに出てくる「現在の真理」もそのうち「未来の真理」が出てくればなくなってしまい得ることになるのではないか。――私としては、こんな風に「真理」という言葉が使われるのでは真理の意味がなくなってしまうという気持ちだったのである。
 ……(1980年が過ぎて)さらに何年かが経過すると、代わって「1914年に生きていた人」というような表現になった。こうすれば無論赤ん坊でも含まれる。しかし1990年代に入り、さらに2000年に近づこうというのだから、この「理解の調整」も長く続くはずがなかった。1914年に生まれた人も2000年になれば90歳に近づくのである。
 ここで私にはっきり言えるのは、統治体内部で行なわれているこういう理屈付けはとにかく無茶だと感じられたということである。悲劇的でもある。

(表記等修正)

 彼はさらに別のところでこう言っています。

 確かに、年が経つに連れて1914年の教義とそれにまつわる主張の居心地は悪くなってくる。21世紀に入り、さらに2014年を迎えれば、1914年はずいぶん古めかしい年代に見えることだろう。したがって、「1914年の世代」に関する教義を変更したところで、たゆまず進む時の流れの前には、どうしても一時しのぎにしかならないのである。
 どういう変更点が出てくるにせよ、神の導きによるものとして登場することに間違いはあるまい。捨て去られてしまう教義や規則については、「その当時の神のご意志」、はたまた天に支配するキリスト・イエスの「作戦」の一つであったとされ、目標のための手段だったとされるだろう。
 結局、いかなる変更があろうと、その考え、その出版物、その行ないすべてを支配する基本的な前提はかたくなに守られる。すなわち、神は何らかの組織を通じて人間に接しているに違いない、そのはずだ、そして王たるイエス・キリストはその組織としてものみの塔協会を選んだ、という大前提である。これがあるため、もののわかった人でも多くが問題の本質をつかめずにいる。

(表記等修正)

 現在的終末論の考え方では、聖書の「世代」という言葉を考えるのに、最初から70年とか80年といった期間を想定するのは正しいことではありません。もっと、今自分たちが生きている時代に近づけて考えるべきです。そして、時が流れるにしたがってそれをシフトさせていくべきです。しかし、現在的終末論を否定する考え方では、それは無責任な偽預言であるということになります。
 エホバの証人の側から見れば、レイモンド・フランズ氏の「21世紀に入り、さらに2014年を迎えれば」などという発言はひどいものです。2014年までにハルマゲドンが来ることはないだろうと踏んでいるからです。「過去についてはともかく、将来についてこのようなことを言ってしまっていいのか」、ということになります。そのようなわけで、レイモンド・フランズ氏が言うところの「ものみの塔の価値観に束縛されていない人の正常な考え方」は、一方で「キリスト教の信仰を否定する背教的な考え方」と解されることになります。
 世代の話はどうなってしまったのか、と思われることもおられることでしょう。結局1995年になって、エホバの証人の統治体は「世代」を人の人生の期間とする聖書解釈を捨ててしまいました。(詳しくはマタイ 24:34の項を見てください。) レイモンド・フランズ氏はこのことをあらかじめ“預言”していましたので、みごと彼に軍配が上がったという格好です。しかし、ここでも現在的終末論が考え方を分けます。というのも、エホバの証人による現在の解釈がどうであれ、「世代」を人間の一世代だとする解釈はこの預言の第一解釈だからです。このこと自体は今後も変わりません。ですから、この解釈が間違いであることは、実際に終わりの日が始まってから一世代が何事もなく過ぎ去ることによって初めて証明されるはずです。現在的終末論の考え方では、その証明の時が来るまで第一の解釈を捨てて第二の解釈を採用したりすべきではありません。エホバの証人が第一の解釈を捨てたのは、1914年からその日を待ち続けて、ついに第一の解釈が間違っていることが証明される時に達したからです。1995年になってようやく、エホバの証人はなんら良心のとがめなく第一の解釈を捨てることができるようになったのですが、一方のレイモンド・フランズ氏は、そのずっと前からそうなるものと決め込んでいました。確かに彼の主張は正しいことが証明されましたが、エホバの証人の側から見れば「結果的に正しければそれでいいのか」ということになります。

 以前の記事で引用したところに続き、彼はここでも、エホバの証人の重要な概念をわざと無視するような話し方をしています。現在的終末論という重要な要素を無視して、なにもかも置き換えながら説明すると、世代についての話はこうなりますという感じです。
 これに対してエホバの証人の統治体は猛反発しています。ものみの塔出版物上でこのように書いています。

 背教者たちは,事実をゆがめた,真実を一部しか伝えない,全くの偽りを語った文書を出版しています。背教者たちは特定の事実を述べることもあるとはいえ,普通それらは,人をエホバの食卓から引き離す目的で,事実の前後関係を無視して述べられているのです。彼らの書いた物はどれも,ただ非難・中傷するだけです。人を築き上げるような点は何一つありません。

 また、このように述べています。

 今日,真理からそれた者たちである背教者は,「忠実で思慮深い奴隷」を言葉によって打ちたたき,事実上,霊的な食物を与えてくれていた手にかみついています。中には,それとはなしに「わたしの主人は遅れている」と言っている,「よこしまな奴隷」のような人たちもいます。(マタイ 24:44‐49。テモテ第二 4:14,15)それらの人はこの邪悪な事物の体制の終わりが近いことを否定し,霊的に油断なく見張っている奴隷級がエホバの民の間に緊急感を保たせていることを批判します。(イザヤ 1:3)そのような背教者たちは,うまく「ある人たちの信仰を覆し」,霊的な破船を引き起こしています。―テモテ第二 2:18。

 記事に彼の名前は出ていませんが、彼や彼の仲間たちについて書いているものと思います。

 すでに何度も指摘していることですが、レイモンド・フランズ氏はエホバの証人の統治体の一員だった人です。ですから、「忠実で思慮深い奴隷」が誰であるかについての正しい解釈をよく知っているはずです。それに、聖書が「忠実で思慮深い奴隷」について預言したついでに「よこしまな奴隷」についても預言していることもよくわかっているはずです。彼はそのことをよくわかったうえでそれでもあえて「よこしまな奴隷」の立場を取っているのではないか、と私は思います。
 聖書の終末預言が二つの立場という構図で成り立っており、その片方が「忠実で思慮深い奴隷」である以上、その奴隷であることを主張するエホバの証人には、どうしても「よこしまな奴隷」役になる人材が必要です。聖書によると、「よこしまな奴隷」は「忠実で思慮深い奴隷」の中から出る必要があります。さらに、いつまでたってもハルマゲドンが来ないことでかつての仲間を攻撃しなければなりません。そこまで事が進まないことには、「聖書の預言の言葉は確かにその通りであった」とは言えませんし、そう言えないようだと、「エホバの証人こそが「忠実で思慮深い奴隷」である」という主張も揺らいできます。ところが、エホバの証人の統治体からレイモンド・フランズ氏のような人が実際に現れてくれて、たくさんの支持者を獲得して立派な対抗勢力を作ってくれましたので、今やエホバの証人は胸を張って「聖書に書かれているまさにその通りになりました」と言えるようになりました。
 なんというかとんでもない話だとは思いますが、彼には「ほんとうにありがとうございました」と頭を下げなければならないような状態になっていると思います。そして、そういうとんでもない状態が達成されてそれからやっとハルマゲドンが来る、というのが聖書の終末論の教えです。

 「とんでもない」と書きましたが、これをご覧の皆さんもそう思われるのではないでしょうか……。


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