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「それが一番わたしたちのためになります」
1999年11月13日更新

エホバの証人は、子供を教育することに関する聖書の教えを守ります。
そしてその中には、子供に対し「むち」を使うようにという教えが含まれています。
エホバの証人の親たちには、実際にこの聖句に基づいて子供のお尻をたたくという習慣があるため、外部の人々はエホバの証人の教育に対する姿勢を誤って理解し、エホバの証人の親たちを批判してきました。
中には、あたかもエホバの証人の間では子供の虐待が容認されているかのように語ったり、エホバの証人の世界では愛のない親が子供をなぶっていると言う人たちもいます。
たとえば、「文藝春秋」の1999年5月号に載せられた記事は、エホバの証人の親が子供のお尻をたたくことと、エホバの証人の親が子供を殴ること、首を絞めること、水の中に顔を沈めて苦しめるといったこととを全く区別することなく記述しました。
また、この記事は、エホバの証人の教理を曲げて、エホバの証人の親たちが懲らしめに関する聖書の教えを極端な仕方で理解しているかのようにも語っています。
このような記事を読むなら、エホバの証人の教育を疑問視する人たちがエホバの証人に対して強硬な反対意見を述べるとしても不思議ではありません。
以下に示す記事は、エホバの証人が、聖書の述べる「むち」とは何かについてどのような考え方を持っているかを示すものです。
この記事を読むなら、エホバの証人の教育に対する姿勢が全く健全な種類のものであることがはっきりと分かることでしょう。

「わたしたちは泣くかもしれないけど、それが一番わたしたちのためになります」
 懲らしめは多くの人にとって厄介な問題です。しかし、正しく与えられる懲らしめは、親の愛の肝要な部分です。ある少女はその点を認めました。そして、「ママへ、すてきなレディーへ」というカードを母親のために作りました。そのカードには、金色の太陽と、飛んでいる鳥と、赤い花の絵がクレヨンできれいにかいてありました。文面は次のようなものです。「これをママにあげます。わたしたちはみんなママが大好きだからです。このカードをおくって感謝の気持ちを伝えたいと思います。わたしたちがテストで悪い点をとったとき、ママはそれにサインします。悪い子になったときは、むちで打ちます。わたしたちは泣くかもしれないけど、それが一番わたしたちのためになることを知っています。……わたしが言いたいのは、ママのことが本当に大好きだということです。わたしのためにいろいろなことをしてくれて、本当にありがとう。大好きなママへ、キスをおくります。ミッシェル」。
 ミッシェルは、「むち棒を控える者はその子を憎んでいるのであり、子を愛する者は懲らしめをもって子を捜し求める」という、箴言 13章24節の言葉を認めています。権威を表わしているむち棒を使うということは、実際に打つことを含むことがあるとはいえ、そうではない場合が少なくありません。子供によって、また悪い行動の種類によって、必要な懲らしめも違ってきます。優しく叱るだけで十分なこともありますが、強情な態度に対してはもっと強い薬が必要かもしれません。「理解ある者にとって、一度の叱責は愚鈍な者を百回打つよりも深く入る」とあるとおりです。(箴言 17:10) 「僕[あるいは子供]は単なる言葉によって正されるわけではない。彼は理解しても、注意を払っていないからである」という言葉を当てはめることもできます。―箴言 29:19。
 聖書の中で使われる「懲らしめ」という言葉には、教育する、訓練する、罰する―行動を改めさせるために必要な場合は実際に打つことを含む―という意味があります。ヘブライ 12章11節は、懲らしめの目的をこう説明しています。「確かに、どんな懲らしめも当座は喜ばしいものに思えず、かえってつらいことに思えます。しかし後には、それによって訓練された人に、平和な実、すなわち義を生み出すのです」。親は懲らしめるときに厳しすぎないようにしなければなりません。「父たちよ、あなた方の子供をいらいらさせて気落ちさせることのないようにしなさい」とあるとおりです。(コロサイ 3:21) また、「むち棒と戒めは知恵を与える。しかし、したい放題にさせて置かれる少年はその母に恥をかかせる」とあるように、甘くなりすぎてもいけません。(箴言 29:15) 『好きなようにしなさい。いちいち親を煩わさないで』というのが甘すぎる態度です。一方、『正しいことをしなさい。あなたのことを心配しているのです』というのが懲らしめなのです。
 US・ニューズ・アンド・ワールド・リポート誌の1989年8月7日号はいみじくもこう述べています。「苛酷ではないが、はっきりとした制限を設け、それをしっかりと守る親に育てられた子供のほうが、良い成績をとり、人ともうまくいく可能性がずっと高いようだ」。さらにこの記事は、次のように結んでいます。「沢山の細かい技術ではなく、各家庭で愛と信頼と妥当な制限の型を定めることが非常に重要だということ、それがあらゆる科学的データから浮かび上がってくる最も印象的なテーマかもしれない。懲らしめの本当の目的は、……言うことを聞かない子供を罰することではなく、子供を教え導くこと、内面のコントロールを教え込むことにある」。

文藝春秋の記事に一言

エホバの証人の親たちは、子供の教育は、子供が間違いを理解し、懲らしめられている理由を理解できる範囲でのみ行われるべきであると考えています。

ですからエホバの証人の親たちは、子供が理解できないような複雑な理由で子供を懲らしめるようなことはしてきませんでした。
こういった考え方を背景にして、エホバの証人の親たちは、小さな子供たちに対しては特に行儀をよくするということを重点的に教えています。
行儀が悪いことがよくないことだということは、小さな子供たちにも理解できる事柄だからです。
しかし、エホバの証人の親たちはまず子供に口頭で何度か注意してからでなければ懲らしめを与えることはしません。
それは、エホバの証人の親はそうすべきだと教えられているからです。
それでも、エホバの証人に反抗する子供たちの中には、「自分は少しでも行儀を悪くすると即座にお尻をたたかれた」などと主張する人もいます。
また、エホバの証人を観察する外部の人たちの目には、このようなエホバの証人の親たちの態度が、どうでもよい些細なことまで問題にして懲らしめの対象にする、拘束的な態度と見えるということもあるかもしれません。
しかし、それはエホバの証人のことをそのように考える人もいるということにすぎません。
このような例は多くの場合、子供たちや外部の人たちがエホバの証人の親の考え方を知りさえすれば解決するはずのものです。
しかし、文藝春秋の記事はそれ以上に問題があります。
この記事に載せられている種々の実例には、エホバの証人自身の目から見て妥当と思える事例が全くといっていいほどありません。
それでいてこの記事は、エホバの証人を他のカルトと同一視し、「子供たちの体験は、属していた集団の性格はまるで異なるのに、驚くほど似通っていた」と述べています。
どうやらこの記事の筆者は、このような主張を裏付けるために、エホバの証人に関しては極端な事例を集める必要があったようです。
実のところ、このようなことはどの集団についても言えることです。
学校でのしつけの問題にせよ、一般家庭でのしつけの問題にせよ、特定宗教でのしつけの問題にせよ、虐待以外の何物でもない極端な事例ばかりを並べて比較するなら、なるほど、それらは驚くほど似ていることでしょう。
興味深いことに、こういう極端な内容に対して反証となる事実は、この問題となる記事自身に載せられています。
この記事はこのように述べています。
「調査に応じたのはエホバの証人に批判的になった人たちだ。今では「子供に申し訳ないことをした」と反省している。しかし、そうした人たちであっても、『愛の懲らしめ』は一般的な体罰に過ぎず、子供を虐待したという認識はまるでなかった」。
普通のエホバの証人の親なら、子供のお尻をたたくことに不憫さを感じることは当然のことですし、その一方で自分が子供を虐待しているという認識を持たないのも当然のことです。
エホバの証人の教育はそのようなものだからです。
エホバの証人の親たちは口をそろえて、「懲らしめはかわいそうなことだが、必要なことだ。しかし虐待はよくない」と言うことでしょう。
それらの親たちは、文藝春秋の記事が指摘するような、子供を殴るとか首を絞めるといった行為など、やろうと思ったことすらないはずです。
また、エホバの証人の親に育てられた子供たちの大多数は、大人になってからもその懲らしめ価値を認め、「それは虐待ではなかった」と証言しています。
この記事の最大の問題点は、エホバの証人のよく使う「愛ある懲らしめ」という言葉を、虐待を正当化するための建前の言葉として紹介していることです。
このような評価は、読者にエホバの証人の親たちの動機を疑わせ、「エホバの証人の親には子供に対する愛が全くない」とさえ結論させることでしょう。

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