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「「懲らしめのむち棒」―それは時代後れですか」
2000年10月1日更新

 近年、子供のお尻をたたく教育のやり方は、社会からの様々な抵抗を受けるようになっています。
 今や、この世の中には、「子供をたたくとはすなわち虐待することである」ので、「子供をたたくのは愛のない証拠である」などといった考え方をする人たちが増えています。
 では、事実はどうでしょうか。
 子供をたたいても虐待にならない方法は存在するのでしょうか。
 それは確かに存在します。
 この記事は、そのようなことを知らない親たちに、そういった方法を教えるために書かれたものです。
 この記事をお読みになられるなら、エホバの証人が体罰と虐待についてどのような見方をしているかが分かるでしょう。

「「懲らしめのむち棒」―それは時代後れですか」
「愚かさが少年の心につながれている。懲らしめのむち棒がそれを彼から遠くに引き離す」―箴言 22:15。
「体罰はいかなるものであれ感情的な虐待であり、認められるべきではない」―匿名の親たち。

 聖書に「懲らしめのむち棒」のことが出ているということで、激しい論争が生じています。毎年、親の身体的な虐待の直接的な結果として死亡している子供たちが多数いることからすれば、それも理解できないことではありません。こうした論争が起きているのは恐らく、1冊の聖書注釈書が聖書で認められている体罰を単なる「文化に左右された見解」として片づけているためであると思われます。

 しかし、聖書に霊感を与えたのは、文化に由来する見解ではなく、神です。(テモテ第二 3:16)「懲らしめのむち棒」に関して聖書が述べている事柄は道理にかなったものでしょうか。「むち棒」という言葉を文脈に沿って調べるのは大切なことです。例えば、ジグソーパズルの個々の断片はほとんど意味をなさず、それらをはめ込んでみて初めて、全体がどんな絵であるかが分かります。同様に、「むち棒」はパズルの一片にすぎません。全体像を知るには、懲らしめと関係のある聖書の他の原則に「むち棒」をはめ込んでみなければならないのです。
平衡の取れた見方
 聖書は体罰だけを認めているのでしょうか。次の助言を考慮してください。

 ●「あなた方の子供たちを決して憤激させてはなりません」。

 ●「あなた方の子供を矯正しすぎてはなりません。さもないと、彼らをすっかり落胆させてしまうことになります」。

 『これは聖書の助言よりもずっと道理にかなっている』と言う人がいるかもしれません。しかし、これはほかならぬ聖書の助言であり、エフェソス 6章4節(新エルサレム聖書)とコロサイ 3章21節(フィリップス訳)に記されているものなのです。

 そうです、聖書の見方は道理にかなっているのです。体罰は必ずしも最も効果的な教え方とは言えないということが認められています。箴言 8章33節では、「懲らしめに聴き従(え)」とあり、『懲らしめを感じ取るように』とは述べられていません。また箴言 17章10節では、「理解ある者にとって、一度の叱責は愚鈍な者を百回打つよりも深く入る」と指摘されています。さらに申命記 11章19節では、何気ない機会を活用して子供のうちに道徳観を教え込むことによって訓育し、予防策を講じるように勧めています。ですから、懲らしめに関する聖書の見方は平衡が取れているのです。
「むち棒」についてはどうか
 それにしても、聖書は確かに懲らしめの「むち棒」について言及しています。(箴言 13:24; 22:15; 23:13,14; 29:15)これをどのように理解できるでしょうか。
 「むち棒」という語は、ヘブライ語のシェーベトを訳したものです。ヘブライ人にとってシェーベトとは、羊飼いが用いるような棒または杖を意味していました。その場合に、権威のむち棒は厳しく残虐な行為ではなく、愛ある導きを連想させます。―詩編 23:4。
 シェーベトは権威を表わすものとして、聖書の中でしばしば象徴的に用いられています。(サムエル第二 7:14。イザヤ 14:5)親の権威に言及する際、「むち棒」は体罰のことだけを述べているわけではありません。それはあらゆる形の懲らしめを包含しており、大抵の場合、体罰である必要はないのです。そして身体的な懲らしめが与えられるとすれば、それは普通その他の方法では成功しないことが分かったためです。箴言 22章15節は、愚かさが、身体的な懲らしめを受ける者の心に「つながれている」(「つなぎ留められている」,新エルサレム聖書。「深く根ざしている」,新英訳聖書)と述べています。単なる子供じみた軽率な行動以上のことが関係しているのです。
懲らしめをどのように与えるべきか
 聖書の中で懲らしめは、怒りや残忍な行為ではなく、常に愛や温和さと結びつけられています。巧みな助言者なら、「すべての人に対して穏やかで、……苦境のもとでも自分を制し、好意的でない人たちを温和な態度で諭す」はずです。―テモテ第二 2:24,25。
 したがって、懲らしめとは親のための感情のはけ口ではありません。むしろ、それは教え諭す手段の一つなのです。そのようなものとして、懲らしめは過ちを犯した子供を教えるものであるべきです。腹立ちまぎれに身体的な懲らしめを与えるなら、間違った教訓を与えることになります。それは親の必要を満たしますが、子供のそれを満たしません。
 加えて、効果的な懲らしめには限度というものがあります。「わたしはあなたを適度に打ち懲らさなければならない」とエホバはエレミヤ 46章28節でご自分の民に語られました。身体的な懲らしめを与えるとき、このことを覚えておくのは特に大切です。幼児をたたいたり揺すったりするなら、脳の損傷や死という結果にさえ至ることがあるのです。 教え正すという懲らしめの所期の目的を踏み越えるなら、児童虐待に至りかねません。

[脚注]

「苦しみを乗り越える: 児童虐待を受けたことのある大人たちのための、そして彼らに関する本」と題する本は、次のように警告しています。「お尻をたたくことは、けがをさせるほどの力で手加減することなく与えられる場合、児童虐待となり得る。たたくための道具を用いたり、握り拳でお尻をたたいたり、非常に幼い子供をたたいたり、傷つきやすい部分(顔、頭、おなか、背中、陰部)をたたいたりすると、体罰が児童虐待になる可能性は大きくなると考えられる」。
「父権」(ヘンリー・ビラー博士、デニス・メレディス博士共著)と題する本は次のように述べています。「体罰を効果的なものとするには、それをごく穏やかに与えさえすればよい。自分が愛している人、そして自分を愛してくれていることが子供に分かっている人からそうした罰が与えられるなら、それによって受ける感情面の衝撃は非常に強く、子供は自分のした行為について考えさせられるであろう」。
聖書は虐待を勧めてはいない
 エホバはご自分の民を正される前に、「恐れてはならない……わたしはあなたと共にいるからである」と言われました。(エレミヤ 46:28)懲らしめを与えても、見捨てられたという気持ちを子供に抱かせてはなりません。むしろ、親が、愛情深く支えてくれる励まし手として『自分と共に』いてくれるということを子供が感じるようにすべきです。身体的な懲らしめが必要だと思われる場合、子供はその理由を理解していなければなりません。箴言 29章15節には、「むち棒と戒めは知恵を与える」とあります。
 今日、親の権威の「むち棒」を誤用している人が多いのは嘆かわしいことです。だからといって、聖書の平衡の取れた原則に欠点があるわけではありません。(申命記 32:5と比較してください。)「むち棒」という言葉を文脈に沿って考慮するなら、それが子供たちを教えるものであって虐待するものではないことを理解できます。他の事柄におけるのと同様、聖書は「教え、戒め、物事を正し、義にそって訓育するのに有益」であることが分かるのです。―テモテ第二 3:16。

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