JWPC - Jehovah's Witnesses Press Club
輸血拒否のための法的・技術的情報
未成年者の輸血拒否について
2001年5月1日更新

エホバの証人の行う宗教上の輸血拒否を含む未成年者の輸血拒否については、日本には法的文書はなく、ガイドラインの設定を巡る医師たちの議論があるだけです。
現在日本の医療界は、おおまかにして、15歳未満の小児については判断能力は不十分であると見なし、15歳以上であれば判断能力は十分であると見なしています。
とはいえ、医師や学者たちの中には意見の相違もあり、法的な根拠がない状況ではこの基準は決定的ではありません。
この問題について、「臨床医」1998年9月号は1291(71)ページにおいてこのように述べています。

「問題は小児の場合である。基本的に子供の人権は親から独立しており、子供が12歳(相当の能力)未満であればエホバの証人の親が輸血に反対しても子供の救命を優先すべきである。しかし、18歳がめやすと考える立場もあり、また両親で意見が分かれた場合など、法律家も含め日本全体でコンセンサスまでには至っていない」。

このように、現在の日本の医師たちは、成人していないエホバの証人の自己決定能力が十分と見なされない場合には、医師には親の主張を無視して輸血を強制すべき(法的というよりは)道義的義務があると考えています。
日本にはこの問題に関する法律がないため、法的に見てエホバの証人の親の未成年者に対する輸血拒否はどうかという問題についてはこのように言われています。

「子供の法定代理人は、子供の監護教育権限を有しているが、その権限は子供にとって最善の利益となる意思決定をしなければならないのに、それにもかかわらず輸血拒否という死の結果を招来するような治療方法を選択したとすれば、法定代理人は親権・監護権の濫用にあたると考え、医師は子供にとって最善の利益と言うべき生命維持のための措置(輸血)を行うべきものとする考え方もある」。(「インフォームドコンセントの基本と実際」, 岩永 剛・正岡 徹 編, 医薬ジャーナル社, p. 247)

しかしながら医師たちの間には、そもそも強制輸血の必要性は現場の医師であっても判別困難であると考える人たちもいます。

「しかし、医師には患者の親権者の権利濫用かどうかを判断すべき法的権限も権利も認められていないのであり、また法定代理人の行為が「子供の監護につき最善の利益となるかどうか」の判断を医師に要求するのは困難を強いるものであり、上記の見解は採用できないと考える」。(「インフォームドコンセントの基本と実際」, pp. 247-8)

また近年、諸外国においては、医師が裁判所に手続きを申請すれば患者の症例いかんに関わらず100パーセント輸血強制の命令が下されるという点が問題視されています。
日本においても問題となるのは、実際に輸血が必要でないような症例であるゆえに医師が子供の輸血を拒否するエホバの証人の親の意思を尊重しようとしているときに、他の親族を通して裁判所に強制輸血の手続きが踏まれるような場合です。
この場合、裁判所は現場の医師ほどには患者の状態を理解できないゆえに不必要な強制輸血の命令を出すかもしれず、そのような命令を突きつけられて現場の医師は当惑することになります。
現在、この問題については、医師は状況によりこのような命令を無視して構わないとされています。


輸血拒否をはじめとする、移植や遺伝子治療などの倫理上の問題に関しては、医師と宗教者との間には依然深い溝があります。
多くの医師にとって医療倫理とは生命の維持を中心としたものだからです。
たとえば医学界で生体移植が倫理問題になるのは、生体移植は患者の余命数年と引き替えにドナーの寿命を数十年縮めてしまうからです。
一方、宗教者はそれとは異なる見方で倫理を論じるため、「輸血はしてはならない」、「クローンを使った移植は認めない」といった具合に、彼らは生命維持の点から見れば有利な何らかの医療を否定するかもしれません。
かつて医師たちは、このような場合自分たちは患者の意向を無視して構わない、あるいは無視するのが当然であると考えてきました。
しかし状況は変化し、特定の医療を拒否する宗教者に対しては、その人が成人し十分な判断能力を備えている限り、当人の意思の方が尊重されて当然であると医師たちは考えるようになってきました。
これは、“最高の福祉”に関する医師たちの見方が変わったことを意味しています。
ある人が最高の福祉と考えているものが、また別の人にとってはそうでないということがあるのです。
こうして、最高の福祉とは何かという点に関するものの考え方が決して一つではないことを医師たちは認め、受け入れるようになりました。
しかし宗教者が親の立場にあり、その宗教的信条に基づいて子供に対する親権を行使し、こうして特定の医療を拒否した場合、「子供にとって最高の福祉は何か」というもう一つの問題が浮上します。
しかしながら、この問題は議論すれば結論が出るという問題ではありません。
というのは、子供にとって最善の福祉が何であったかは本来その子供が大人になってから自分で決めるべき事柄だからです。
ですからこの問題の焦点は、「子供にとって最善の福祉は何か」というよりは、「子供に代わって最善の福祉を判断する権利は親と医師のどちらにあるか」という点にあります。
子供に対するエホバの証人の輸血拒否は、このような状況を十分にふまえたものになっていますが、にもかかわらず、医師や宗教学者、マスコミの誤解も多いようです。
エホバの証人の親たちは、バプテスマを受けていない(成人のレベルに達していない)子供たちには、輸血拒否をむやみに強制しません。
成人したエホバの証人は、輸血を拒否する旨を宣言するカードを所持する一方で、成人レベルに達しておらず、信仰を表明できない子供たちには、「身元証明書」と題するカードを持たせており、その内容はこのようになっています。

「私たちは親として、自分たちの子供である [ 記名 ] の福祉に深い関心を抱いております。私たちはエホバの証人であり、確固とした宗教上の信条を抱いています。それゆえ、輸血を受け入れません。同種血の輸血には、肝炎、ヒト免疫不全ウイルス(HIV)などの健康上の危険が伴うことは広く知られています。私たちは事実をよく知った上で、これらの危険を避けるという決定を下しています。無血性の増量剤や、出血を抑え、赤血球の産出を高める医薬品は受け入れます。もし私たちの子供が事故に遭ったり、重い病気にかかったりしたなら、すぐ私たちに連絡していただきたいと思います。私たちは自分たちの宗教上の信条を尊重してくれる医師を知っており、それらの医師は、受け入れることのできる最新の無血性代替療法に関して、相談に乗ってくれます」。

この証明書の発行元であるものみの塔聖書冊子協会は、「アドバンス・ディレクティブ・ガイド」と題する文書において、この証明書についてこのように解説しています。

「このカードには、エホバの証人を親に持つバプテスマを受けていない未成年者の……ために親が道理にかなった範囲で無輸血による代替療法を選択していることが説明されています」。

ですから、この身元証明書は、エホバの証人の親が、法的に認められているインフォームド・コンセントの範囲内で、子供の輸血を拒否することを明らかにするものです。

また、エホバの証人の統治体は、「わたしたちの王国宣教」1992年9月号において、エホバの証人の親たちに対し、このように指導を行っています。

「医師は、輸血を施す許可がない限り、年若い子供や特に幼児を治療することを拒否するかもしれません。実際、子供を治療する際、どんな状況でも血を用いないという100%の保証を与えてくれる医師はごくまれです。医療上および法律上の理由のため、ほとんどの医師はそのような保証を与えることはできないと感じています。それにもかかわらず、血に関するわたしたちの意向を尊重する面でできる限りのことを行ないながら、エホバの証人の子供に治療を施すことを願う医師の数は増えているのです。こうした点を考えると、自分の子供のためにふさわしい医師を探している親が、エホバの証人によく協力してくれた前例があり、これまでにも他のエホバの証人のために同様の無血処置を施してきたものの、血を用いないという絶対的な保証を与えることは法律上許されないと感じている医師を見つけた場合は、どうしたらよいでしょうか。それでも、その医師は、今回も問題はないと思うと言っています。あなたはそれが最善の選択であると結論するかもしれません。こうした状況のもとでは、治療を進める許可を与えることができると決断することもできます。とはいえ、子供のための治療を許可するとはいっても、輸血を許可しているのではないという点をはっきり伝えてください。その点をはっきり伝えることは、あなたの決定が妥協とみなされることを避けるために、あなたが果たさなければならない責任なのです」。

エホバの証人は、自身の信仰を否定することはしませんが、もしもエホバの証人に協力的な医師が、それでも子供に輸血を施すなら、それはやむを得ないことだと考えています。

このようなエホバの証人の方針に対する誤解については、毎日新聞社の発行する、『Mainichi INTERACTIVE 編集部だより』2000年3月3日付けの記事に興味深い記述があります。

「しかし、駆け出し新聞記者時代に取材した事件を思うと、少し疑問も残る。……1985年、川崎市で発生した同様の事件ではどうすべきなのだろう。この時は10歳の男の子が交通事故にあい、両親の輸血拒否で手術を受けられないまま死亡した。
生死の間をさまよう少年の「自己決定権」をどう考えればいいのだろう。親権者である両親に生殺与奪の権利が与えられるのだろうか。
エホバの証人の本場である、米国でも同様な事件が数多くあったという。長年争われた結果、ある法的なフィクションが編み出された。裁判所に夜勤の裁判官が常駐、医師の請求で両親の親権を一時的に剥奪して、医師に親権を与える制度だ。医師が子供に必要と判断すれば、親権者として輸血できることになっているという。親たちは、法により子供の治療を選ぶ権利を奪われたのだから、抵抗のしようがない。神に背くことなく子供に最適な治療を受けさせることができることで教団側でも裁判所に従う慣例ができたという。
両親にとって、自分が死に直面した場合、宗教上の理由から輸血を拒否することはしかたがないが、子供まで自分の宗教のために死なせることには躊躇があったようだ。
日本でエホバの証人信者である子供に輸血が必要になった場合はどうなるのだろう。命を救う制度はあったろうか」。

このようにして、医師や学者やマスメディアはしばしば、『エホバの証人の親の輸血拒否から子供を保護する法制度』を国が制定することの必要性を説いてきました。
しかしながら、すでに見てきたとおり、日本にはまだそのような制度がないとしても、すでにエホバの証人側からのアプローチによって、妥協を可能とする実用的なルール作りがなされていると言えるでしょう。


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