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輸血拒否のための法的・技術的情報
エホバの証人はなぜ輸血を拒否するのか
2003年8月1日更新

(1) 教理の概要
 キリスト教の聖典である聖書は、神が人間に配慮を示して、憐れみ深くも正邪の点での譲歩をさえ行われることを示しています。その代表となるのは離婚を容認する律法で、神の子とされるイエス・キリストも聖書の中でそれが譲歩であることを認めています。
 そのような譲歩には、他にも一夫多妻に関するものなどがありますが、その多くは聖書自身により修正されたり撤回されたりしています。
 そのような中で、現在でも神の譲歩が続いている教えの中に、肉食に関するものがあります。

 聖書の神は、人が動物の肉を食べることを容認し、聖書の中でこのように述べています。

「生きている動く生き物はすべてあなた方のための食物としてよい。緑の草木の場合のように,わたしはそれを皆あなた方に確かに与える」。(聖書の創世記 9章3節)

 ただし、この譲歩には条件がついていました。続く記述はこうなっています。

「ただし,その魂つまりその血を伴う肉を食べてはならない」。(同4節)

 ここで聖書は、「肉を食べるのはいいが、肉と共に血を食べてはならない」とし、血を命の代償とする考え方を示しています。
 生き物の肉を食べるということは、その生き物を殺すこと、もしくはすでに死んでいる生き物を辱めることを意味しています。それは罪深いことであり、もともとは許されることではなかったというのが聖書の教えです。
 しかし憐れみ深い神は譲歩を示し、人間が利便のために生き物を殺して食べることを許しました。その時神は、本来の命に代わってその血を命と見なすことによって、その譲歩を成立させると共に、その譲歩にくさびをつけました。
 人間は、肉を食べるために生き物の命をあやめることがあったとしても、「神が命と見なしているもの」つまり血に敬意を払うことによって、擬似的にその罪を回避することになります。しかし、もし肉と共に血を食べるようなことがあれば、その者は命の尊厳を侵したことになり、神の激しい憤りと裁きを身に招くことになります。
 人は血を神聖視することによって動物殺しの罪からの許しを得るというのが聖書の教えです。

 この教えは、イエス・キリストの死後しばらく後に、使徒たちや年長の弟子たちによる最初の「使徒会議」において追認されました。(聖書の使徒 15章)
 この会議は、今後のキリスト教のあり方を示すために一定の方向性を示すのみのものでしたが、その限られた内容に血の規定が含まれていることは興味深いことです。キリスト教は戒律主義をよしとする宗教ではありませんが、全く戒律がないというわけでもありません。「血を食べてはならない」という神の命令は、キリスト教においては数少ない戒律の一つであり、そもそも戒律主義的でないキリスト教において戒律とされたという点において重みがあります。
 人間は今でも動物の肉を食べます。エホバの証人はこの使徒会議の決定が現在も有効であると考えます。

 エホバの証人の輸血拒否の教えは、このキリスト教独特の「命の代償としての血」という考えを発祥としています。
 聖書の思想において、血を食べないことには「命の尊厳への敬意」という概念が多分に含まれていますが、エホバの証人は、この概念を現代の医療倫理にも拡張して適用すべきではないかと考えました。その結果、否定されたのが輸血医療です。

(2) 運用の現状
 エホバの証人は輸血医療を拒否する信条を有していますが、実際にはすべての輸血を拒否しているわけではありません。

 もともと「肉と共に血を食べてはならない」という神の命令はジレンマを生じさせていました。血を一切伴わない肉というものはないからです。肉から血を完全に除去することは技術的に不可能ですので、この律法は人々の良心を試みるものとなりました。
 もちろん神は、「肉を食べてよい」と言いつつその言葉を無効にしようとしたのではありません。ですから、「結局のところ肉は食べることができない」と考える必要はありません。神は憐れみ深くも、人が血抜き処理を真摯に行うのであれば、いくらかの血が肉に残されたとしてもそれを見逃しました。これも神の譲歩です。

 聖書には、急いで食事をとろうとした者が、時間のかかる血抜き処理を軽く済ませて調理を行った事例が記されています。(サムエル記第一 14章32節から34節) 血抜き処理の行為自体は形式的また儀式的なものですが、それは命の尊厳に対する敬意を神の前で証明する行為であるため、人は真剣かつ慎重にそれを行わなければなりません。
 聖書は後に、骨髄を食べることについても譲歩を示しました。聖書を信奉するイスラエル人は、真摯に血抜き処理を行った動物から取った骨髄であれば、それは食べてよいと考えましたが、神はその考え方を追認しました。これも神の譲歩です。(イザヤ書 25章6節)

 そこで、エホバの証人としては、肉食と血に関する聖書の規定を根拠に輸血を拒否するとしても、「すべての輸血を拒否する」というルールは作れないと考えました。
 輸血拒否も、それ自体は形式的また儀式的な行為です。しかし、それによって命の尊厳に対する敬意が示されるのですから、人は慎重にまた真剣にそれを行うべきだとエホバの証人は考えます。しかしだからといって、現代医療が血を用いて行うあらゆる医療をことごとく拒否する必要はないとも考えます。

 エホバの証人の教理として輸血拒否が説かれた初期の段階において、問題となった要素は二つくらいしかありませんでした。当時は成分輸血や血液製剤といったものがまだなかったため、考慮すべき要素は輸血(全血輸血)と血漿由来のワクチンのみでした。エホバの証人の指導者組織である『統治体』は、輸血は認めずワクチンについては譲歩する態度を示しました。
 その後、医療技術の進歩と共に、血は様々な仕方で用いられるようになりました。血液製剤、成分輸血、臍帯血輸血、骨髄移植、こういった新たな手法は、エホバの証人社会において「どこまでが拒否すべき輸血で、どこからが神の譲歩なのか」という教理上の命題を生じさせてきました。
 エホバの証人の統治体がこの問題に強く介入した時期もありましたが、ジレンマも多くありました。現在までに、統治体はなるべく手を引いて判断は信者個人に任せるということでこの議論は決着を見ています。現在明確に禁じられている輸血は、血液の、白血球・赤血球・血小板・血漿の四要素の、分画されていないものの貯血輸血です。それ以外の輸血は信者の判断に委ねられます。
 たとえば、赤血球からヘモグロビンを抽出して酸素供給のために投入する技術(人工血液)が開発されていますが、その善し悪しは信者の判断に任されています。あるいは、アルブミンやグロブリン(抗体)は血漿の成分ですが、やはり信者の判断に任されます。骨髄移植、臍帯血輸血、非貯血の自己血輸血も同様です。そのため、どのように輸血を拒否するかはエホバの証人であっても一様ではありません。信者たちは、統治体による一定の制限を受けつつも、それぞれが自分で判断して輸血を拒否します。

 どのように輸血を拒否するとしても、それが「命の尊厳への敬意」を命題にしていること、その背景には人間が生き物を殺して食べているという事実があることをエホバの証人は忘れません。そうでないなら、それは単なる儀式・形式、のみならず迷信ということになってしまうでしょう。それは真剣かつ慎重に行うべきものであり、エホバの証人の多くはできる限り輸血を回避しようとします。
 また、キリスト教の信仰は儀式主義でも戒律主義でもないことにエホバの証人は留意します。「血を食べてはならない」という神の命令は聖書の戒律ですが、その戒律の実行者は、それを「命の尊厳に対する敬意」という視点をもって理解また実践し、その戒律を単なる戒律にしてしまわないよう努めなければならないとエホバの証人は考えます。
 その適用である輸血拒否についても同様です。エホバの証人は輸血拒否の教えを単なる禁止事項におとしめたりしないよう注意し、その形式的行為の中に命の尊厳を見いだす点で常に新鮮でなければなりません。

(3) 他教派の動向
 エホバの証人が聖書の教えに基づいて輸血を拒否するのに対し、他の教派はどのような立場を示しているでしょうか。
 キリスト教諸教派のほとんどは、それを無視するか静観するかの立場を取っており、一部には輸血拒否に反論する動きも見られています。日本において、輸血を拒否するキリスト教派はエホバの証人だけのようです。
 ではなぜ、エホバの証人という一教派だけが輸血拒否の教理を持っているのでしょうか。

 その理由のひとつは、血に関する聖書の命令の明瞭さにあるようです。
 「聖書と医療倫理」ということを考える際、「肉と共に血を食べてはならない」という聖書の命令は、そのテーマに関係するほとんど唯一で決定的な要素です。(聖書には非常に多くの記述がありますが、医療倫理に関する直接的な記述は一つもなく、さらに、医療倫理に適用可能な教えもそれほどはありません。) そして、ひとたびこの命令を医療倫理の根拠と見なすなら、その結論は容易に導かれます。
 そのあまりの明瞭さのゆえに、この論題は避けられてきたようです。現代キリスト教における医療倫理の議論は、エホバの証人の場合を除けば常に血の論題を避ける形で進展してきました。キリスト教諸教派は、臓器移植やクローン応用技術といった、聖書からは何ら典拠となる言葉を導き得ず、よって神学上の義務も生じさせない分野において無難な議論を行っています。

 もう一つの理由として挙げられるのは、肉と共に血を食べるヨーロッパの食文化です。
 昔から、ヨーロッパでは血を食べることが盛んに行われてきました。たとえば、ヨーロッパにおいて伝統的とされるある料理では、豚のミンチ肉を炒める際、肉がバラバラにならないようつなぎとして豚の血を肉に混ぜます。このような料理は、事実上教会において推奨されてきました。
 この間違いを指摘し、反対を唱えたのが、宗教改革者として名高いルターです。彼はこう述べています。

「今もし我々が使徒会議に従う教会を持ちたいのであれば、……我々は、王子も、領主も、自治都市の市民も、農民も、今後は血で調理したガチョウ、雄ジカや雌ジカ、豚などを食べてはならないと教えかつ主張しなければならない。……また、自治都市の市民と農民は、赤いソーセージと血入りのソーセージを特に避けなければならない」。

 しかし、宗教改革にかけるルターの熱心さも、ヨーロッパの食文化を変えるほどのものではありませんでした。ヨーロッパでは現在でも、キリスト教諸教派の信徒たちが肉と共に血を食しており、そのことが容認されているため、「血を食べてはならない」とする聖書の命令を取り上げること自体が諸教会にとって困難となっています。

 もう一つの理由として挙げられるは、キリスト教諸教派に広く見られる“エホバの証人嫌い”です。
 多くのキリスト教会はエホバの証人を異端視する立場に立ち、エホバの証人に対してはキリスト教の一教派としての正当な地位を与えるべきではないと主張しています。諸教会のこのスタンスはエホバの証人に対する人々の誤解と偏見の温床となってきました。その結果、「エホバの証人が輸血を拒否するのは聖書を曲解するからだ」といった短絡的な見解が広まりやすくなっています。
 この嫌悪感には、日本においてエホバの証人がキリスト教の最大勢力であるという事情が絡んでいます。キリスト教諸教派はエホバの証人に対し、極度の偏見に基づいて「実際にはキリスト教ではない偽のキリスト教派がキリスト教を名乗って日々伝道活動にいそしんでいるのにはぞっとする」と不満を述べてきました。エホバの証人の勢力が大きいために、「確かキリスト教って輸血を拒否するんでしたよね」などと勘違いする人も多く、諸教会はエホバの証人のことを非常に迷惑な存在だと考えています。

 もう一つの理由はカルト問題です。
 キリスト教の各教派がカルト問題にめざとくあるべきなのは言うまでもありませんが、カルトに対する警戒は時に神学上の健全な議論を押しのけてしまうようです。
 最近になって、キリスト教諸教派はエホバの証人をカルトとして非難する新たな手法を採用し、「エホバの証人は信者にマインドコントロールを行い家庭を崩壊させるきわめて危険なカルト団体である」と述べるようになっています。このような時、輸血拒否の信条はエホバの証人が危険な宗教であることの決定的な証拠であるとされます。

(4) 反対論
 エホバの証人の輸血拒否の教理は神学的に確かなものですが、それでも一部ファンダメンタリズム教派から膨大な量の神学的反論が提出されています。
 その内容はまともなものではありませんが、エホバの証人の輸血拒否に対抗するにあたって他に有用なものが見当たらないという理由で、キリスト教諸教派において使い回されているというのが現状です。

 その代表的な例を見てみましょう。
 聖書には、いわゆる「汚れた動物」について、「あなたは神が清めたものを汚れていると呼んではならない」という言葉があります。(使徒 11章9節) そのため、「それ自体が汚れている食物は何もなく、人がある物を汚れていると考える場合にのみ、その人にとってそれは汚れたもである」また「神の創造物はみな良いものであって、感謝して受けるなら退けるべきものは何一つない」と言われます。(ローマ人への手紙 14章14節またテモテへの第一の手紙 4章4節) このように、聖書は「汚れた食物」という考えを容認しない姿勢を示しています。このことは「肉と共に血を食べてはならない」という聖書の命令が撤回されたことの根拠になると主張されます。
 しかし、聖書が「肉と共に血を食べてはならない」と命じるのは、血が汚れているからではなく神聖であるからであり、このことについては「あなたは神が清めたものを汚れていると呼んではならない」と聖書にある通りです。

 こういう種の神学的反論はきわめて異端的であり、正統的なキリスト教の信仰をゆがめる危険なものであるとエホバの証人は考えます。また、このようなエセ神学であっても一般人は信じてしまうので非常に迷惑だとも考えます。

 また、幾つかの反宗教的団体からも反論が提出されています。
 彼らの反論は「エホバの証人はカルトである」という概念を基礎としており、「教団が信者に輸血を拒否させると信者たちが適切な医療を受けることができなくなる恐れがある」とか「輸血を拒否して死んだ信者もいる」とか「エホバの証人の信条を持つ親が子供の輸血医療を拒否した場合にはどうなるのか」といった、輸血拒否の実践に伴って生じる諸問題の指摘が中心となっています。

 また、反対者の一部には「エホバの証人の輸血全面解禁」を予測する動きもあります。しかし、輸血拒否の教えが撤回されるような見込みは現実には全くなく、種々の予測も当たらないため、このような見方は下火になりつつあります。


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