JWPC - Jehovah's Witnesses Press Club
エホバの証人神学辞典
あ行
2004年9月1日更新

アーメン [ヘブライ語 聖書 キリスト教]

「そうなるように」または「確かに」を意味する聖書のヘブライ語。聖書においてこの語は誓いや祈りの際に復唱代わりに用いられ、同意を意味する。救い主であるイエス・キリストには「アーメンなる者」の称号が付されているが、この場合のように徹底した真実さや信頼性や忠実さを示すこともある。(黙示録 3:14)


[一般 聖書 キリスト教]

聖書において愛はきわめて重要な位置を占めている。「神は愛である」という言葉は神が完全に愛を体現する方であられることを示している。「あなた方はあなた方の天の父が完全であられるように完全でなければならない」と述べた時、イエス・キリストは神の愛の完全性について語っておられた。神の愛の完全性は、悪魔サタンのものである世をさえ愛し、その独り子イエス・キリストを遣わして命を捧げさせたことに示されている。それはパウロが「ところが神は、わたしたちがまだ罪人であった間にキリストがわたしたちのために死んでくださったことにおいてご自身の愛をわたしたちに示しておられる」と述べる通りである。それゆえに、「キリストの持たれる愛がわたしたちに迫る」と聖書が述べる時、ただイエス・キリスト愛の体現を述べているのではなくその神性の源である神の愛の体現を述べているのである。一方、人間の愛は神にはるかに及ばず、誤導されることもあれば利己心によって腐敗させられることもある。神は人が愛の点で自身に見倣う者となるべきことを説くにあたってその目に見える手本としてイエス・キリストをお示しになられた。イエスが「あなた方の敵を愛しつづけ、あなた方を迫害している者たちのために祈りつづけなさい」と命じたのは、まさに完全であり試練によって誤導されることも利己心によって腐敗することもない神の愛に人が近づいていくべきだからである。(ヨハネ第一 4:8, マタイ 5:43-48, ヨハネ 3:16, ローマ 5:8, コリント第二 5:14)
[宗教学]残念なことにある者たちは、エホバの証人の信仰のゆえに欠ける愛なるものを主張する。エホバの証人は世をサタン視して忌み嫌っており、それは非信者のいる家庭においても深刻な不和を生じさせるほどのものであるとさえ主張する者もいる。特にエホバの証人に対立する教派によって行われる組織的な宣伝の影響は大きく、これがエホバの証人の実践する愛についての大きな誤解の原因となっている。


哀歌 [書名 聖書 キリスト教]

聖書の「哀歌」。「エレミヤ哀歌」とも言うが、同じく聖書に収められている「エレミヤ書」とは別物である。


愛情 [一般 聖書 キリスト教]

聖書において愛と愛情はある程度区別される語である。「愛(アガパオー)」と「愛情(フィレオー)」の違いは、それが個人的なものであるか、自然に生じたものか、または情がこもっているかにある。愛は自分の愛せないような人にも示せるという点で卓越しているが、愛情は情をもって愛していなければ示せない。聖書は世に対する愛を説く一方で、信仰の仲間に対する愛情を説いている。(マタイ 5:44, ローマ 12:10)
[聖書翻訳] 和訳聖書では「愛」も「愛情」も共に「愛」と訳出されるのが伝統となっており、両者の区別がつかないが、新世界訳聖書にこの問題はない。


贖い (あがない) [聖書 キリスト教]

聖書においてはさまざまな形態の贖いが論じられているが、その基礎となる考えは「代価による買い戻し」であり、その最もすぐれた表明は神の独り子であるイエス・キリストのうちにある。聖書によると、アダムを通して罪が、そして罪を通して死が世に入ったため、人類は罪のもとに売られているが、キリストが「自分の魂を、多くの人と引き換える贖いとして与えた」ため、人は罪から自由にされて神の奴隷となり、その神聖さの終わりに永遠の命を得る。(ローマ 5:12, 7:14, マタイ 20:28, ローマ 6:22)
[神学] エホバの証人は贖いの代価がサタンに支払われたとする立場に立たず、神に捧げられたとする。また、贖いの対価としての平等性を重視し、イエス・キリストの神人二性一人格論も単性論も支持せず、イエス・キリストは本質的に罪のない人間であったと論じる。(テモテ第一 2:6, フィリピ 2:6-8)
[宗教学]エホバの証人という宗派はもともと、イエス・キリストの贖いをキリスト教の正当な信仰に基づいて擁護するために「ものみの塔」誌が刊行されたことに由来している。しかしキリスト教諸教派内には、キリスト教諸教派とエホバの証人とでは贖いを説明する方法が多少異なっていることを問題にして「エホバの証人は贖いを否定している」と主張する者もある。


[一般 聖書 キリスト教]

聖書における悪の意味は曖昧で、日本語の「悪い」という語と同様、ただ単によくない状況や悲惨な状況を表すこともあれば、道徳的に悪いことを表すこともある。クリスチャンは道徳的な悪は避けているべきであり、身に降りかかる悪は辛抱しなければならない。さらに聖書は、悪に対するものとして正しいことや善を挙げ、人が「正しいことも悪いことも見分ける」者となり「善をもって悪を征服してゆく」ことを説いている。(コロサイ 3:5, ローマ 12:17, ヘブライ 5:14, ローマ 12:21)


悪魔 [宗教 聖書 キリスト教]

聖書において「悪魔」という語はサタンを指す称号として用いられる。文法的には、「神エホバ」、「キリスト・イエス」などと同様、称号と名前を組み合わせて「悪魔サタン」と言う。聖書は世界が悪魔の支配下にあり、それゆえに世の救出が必要であることを説く。世界が悪魔のものであるという考えはしばしば人々を不快にさせるが、しかしながら、そもそも世が悪魔のものであるがゆえに「神は世を深く愛してご自分の独り子を遣わされた」のであり、これは神の愛を語るにあたって欠かせない聖書の概念である。つまり、ある人々が考えるようなこととは全く逆に神は悪魔のものである世を憎むどころか過分にも深く愛し、それゆえに救い主であるイエス・キリストを贖いとして遣わされたのである。こうして、神によって示された「キリストの持たれる愛がわたしたちに迫る」ゆえにクリスチャンは神の愛と等しい愛を世に対して示さなければならないのである。エホバの証人にとって、この世が悪魔のものであるということは自らが「世のものとはならない」ための戒めであると同時に愛の動機に基づいて人々を神に立ち返らせるための正当な根拠である。(ヨハネ第一 5:18-19, ヨハネ 3:16, コリント第二 5:14, ヨハネ 15:19)
[神学] エホバの証人は合理的神学の確立という立場に立ちつつも、悪魔サタンの実在性や人格性を否定することはない。


悪魔崇拝 [宗教]

日本ではあまりなじみのない表現であったが最近は徐々に知られるようになっている。悪霊崇拝の形態にはただの占いから殺人的な儀式まで様々なものがあるが、基本となるのは悪魔に対する信仰や畏敬で、クリスチャンが神の寵愛と保護を受けようとして正しいことを行うのに対し、悪魔崇拝者は悪魔に受け入れられようとして悪を行う。一般に悪魔崇拝者はエホバを敵視している。
[宗教学] アフリカのキリスト教諸教派はエホバの証人を悪魔崇拝の秘密結社であると考えている。


悪霊 [宗教 キリスト教]

悪魔の使いとなっている霊者(天使)たち。
[神学] 聖書は異教の崇拝を実際には「悪霊に犠牲を捧げるもの」であるとしており、エホバの証人は悪霊を崇拝するという罪を犯さないよう異教の儀式にほとんど参加しない。(申命記 32:17, コリント第一 10:20)


あざける者 [聖書 キリスト教]

聖書は一般的な意味におけるあざけりとは別に「終わりの日のあざけり」を予告している。あざける者たちは終末論を信奉することに疑問を差し挟み、「この約束されたキリストの臨在はどうなっているのか、わたしたちの父祖が死の眠りについた日からすべてのものは創造の初め以来と全く同じ状態を保っているではないか」と言うという。クリスチャンはハルマゲドンが来るまでこのあざけりに耐えなければならない。残念なことに、エホバの証人にとっての「あざける者たち」はしばしば対立キリスト教派のうちに見いだせる。(ペテロ第二 3:3-4, マタイ 24:48-49)


あしざまに言う者 [聖書 キリスト教]

聖書はさまざまな冒涜について述べるが、クリスチャンはこれを免れることができない。聖書によると、しばしば「あしざまに言う者」の特徴となっているのは無知で、これらの者は自分の知らないことや理解できないことに関して他の人を悪く言う傾向を示し、特に神に関わる神聖な事柄については全く理解ができないゆえにクリスチャンを激しくあざけるという。エホバの証人にとってあしざまに言う者とは、エホバの証人の信仰を愚かとみなして全く敬意を払おうとしない者を指す。エホバの証人は聖書の教えに従い、これらの冒涜者には「名誉を損なわれても懇願する」うやうやしい姿勢をもって対処しなければならない。(ペテロ第二 2:12, ユダ 10,8, コリント第一 4:11-13)


アダム [聖書 人名]

神が最初に創造した人間の名。アダムは自ら堕落して罪に至り、罪の結果である死を招来した。この罪により人類は罪と死のもとにおかれているが、聖書の希望はキリストによる贖いとそれによって回復される永遠の命である。(ローマ 5:12,14,21, 6:23)
[神学] エホバの証人はアダムが罪を十分に制御しうるほどの意志を持った者であったと考え、これを「完全な人間」の状態と呼ぶ。ゆえにアダムは過失により罪を犯したのではなく、誘惑に屈したのですらない。故意に罪を犯したのである。一方、現在の人間は「不完全な人間」であるゆえに「罪の奴隷」となっており、たとえ正しいことを行う真摯な決意を抱いたとしても罪を犯すことがある。(テモテ第一 2:14, ヨハネ 8:34)
[聖書翻訳] ヘブライ語においてアダムは「人」と同義語であるため、各翻訳ごとに扱いに違いが見られる。


新しい歌 [聖書 キリスト教]

聖書においてエホバを賛美するために歌われる象徴的な歌。この表現は、神を賛美するにあたってこれまでの歌は不十分であり新しい歌を作る必要があるという概念によっており、しばしば神の支配の新しい展開と関係する。


新しいエルサレム [聖書 キリスト教]

聖書の幻においてイエス・キリストと結婚する花嫁の呼称。「聖なる都市」また「子羊の花嫁」とも呼ばれ、その実体は天に召されたクリスチャンたちである。(黙示録(啓示) 21:2,9-10 コリント第二 11:2)
[神学] エホバの証人は「新しいエルサレム」と「上なるエルサレム(天のエルサレム)」を混同しない。前者が神を夫としてクリスチャン会衆を産み出すのに対し、後者はクリスチャン会衆そのものでありキリストを夫とするとする。また、クリスチャンであっても天に召されなかった者はこの立場を得ないとする。(ガラテア 4:26)


新しい契約 [聖書 キリスト教]

キリストの死によって発効した神とクリスチャンとの契約。神はモーセによりイスラエルとの間に律法契約を施行されたが、イスラエルは「それを昼も夜も小声で読まなければならない」また「あなたはそれを自分の子に教え込み、家で座るときも道を歩くときも寝るときも起きるときもそれについて話さねばならない」と命じられた。しかしメシア預言において神は「わたしが彼らの父祖たちの手を取ってエジプトから連れ出した日に彼らと結んだ契約のようなものではない新しい契約」の締結について語られ、「わたしは彼らの内にわたしの律法を置き、彼らの心の中にそれを書き記す。彼らはもはや各々その友を、各々その兄弟を教えて『エホバを知れ!』とは言わない」と述べられた。メシアであるイエス・キリストは自身の贖いこそがその新しい契約を発効させる者であることを明らかにされた。クリスチャンはこの契約のもとに置かれているゆえに律法契約から解き放たれて「新しい契約の奉仕者」となる。イエス・キリストはこの契約を発効させるだけでなく、この契約における神と人間との仲介者の役割を果たす。それゆえに仲介者であるイエス・キリストの働きをなくしては誰も神の救いにあずかることはできない。この契約の特色の一つは、律法契約において罪を清めるために行われていた様々な形式的手順がより優れた方法である霊の清めへと変化したことである。この契約がクリスチャンの罪を完全に贖うキリストの死に本質を負ったものであるゆえに、それにあずかるクリスチャンはすでに罪のない者、永遠の命を保証された者とみなされる。(ヨシュア 1:8, 申命記 6:6-7, 11:18-19, エレミヤ 31:31-34, コリント第二 3:6, ヘブライ 8:6, 9:15, 12:24, ローマ 6:23)
[神学] エホバの証人は新しい契約に副次的な契約が伴うと考え、これを「王国契約」と呼ぶ。新しい契約は神とクリスチャンとの契約であり、イエス・キリストは仲介者の役割を果たすが、王国契約はイエス・キリストとクリスチャンとの間に成立するものである。また、新しい契約はイエスの昇天後10日たったペンテコステの日に発効したと考える。しかし律法契約はユダヤ人のために「一週(7年)のあいだ」は効力を持ったとする。また、新しい契約は神の側から破棄されることがないという点では救いを完全に保証するものであるが、同時に人に奉仕者としての義務を課すものであり、救いを保証された当人がそれを破棄した場合にはその限りではないとしてその効力を制限する。(ルカ 22:29-30, 使徒 2:1-4, ダニエル 9:27, ヘブライ 6:4-6)


新しい人格 [聖書 キリスト教]

「水と霊とから再び生まれた者」であるクリスチャンは「新しい創造物」であり、「罪に関しては死に、キリストに関して生きる者」となるが、それを聖書は「古い人格(古い人)」を脱ぎ捨てて「新しい人格(新しい人)」を着けると表現する。しかしそのような変化は突如として生じるものではなく日々訪れるものであり、クリスチャンはそれによって絶えず「新たにされてゆく者」となる。こうして「内なる人」は日々新たにされ、これによってクリスチャンは「あらゆる重荷と容易にからみつく罪とを振り捨て後ろのものを忘れつつ前に向かって身を伸ばす走者」として前進する。(ヨハネ 3:5, コリント第二 5:17, ローマ 6:2,6,11, エフェソス 4:20-24, コリント第二 4:16, コロサイ 3:9-10, ヘブライ 12:1)


新しい創造物 [聖書 キリスト教]

霊的な復活を遂げ、新しい人格を着けた人。これらは「キリストと結ばれた者」であり、キリストと共に天の王国の復活にあずかる者となる。(コリント第二 5:17)
[神学] 聖書において「創造物」という表現が救いに関連して用いられている場合、その意味するところは創造物ではなく人類であるとエホバの証人は解釈する。([マルコ 16:15,] ローマ 8:19-22, コリント第二 5:17, コロサイ 1:23, ヘブライ 4:13)


新しい天と地 [聖書 キリスト教]

イエス・キリストによる千年王国の支配を経てついに達成される神による完全な支配形態。聖書の物語は新しい天と地の成立をもって大団円とし、終結する。その支配の下では病気も死も根絶され、人は神からの永遠の命の賜物を享受するという。新しい天と地の支配には先だってキリストの千年王国の支配が必要であり、キリストの千年王国に先立ってはハルマゲドンの裁きが必要である。(イザヤ 65:17, ペテロ第二 3:13, 黙示録 21:1,4, 啓示 20:4-10)
[神学] エホバの証人は聖書を失楽園から復楽園の壮大な物語であるとする。よって新しい天と地の支配はこの地球までも普及し、楽園は回復されると考える。


アドベンティスト [キリスト教]

キリスト教再臨主義者。エホバの証人の創始者であるラッセルは再臨主義者たちとよく交わっていた。
[宗教学] 日本の宗教学者には、キリスト教についての知識の不足から、エホバの証人は(アドベンティスト派からではなく)セブンスディ・アドベンティスト教会から派生したと誤解する者がいる。


アバ [アラム語 聖書 キリスト教]

「父」を意味するアラム語。聖書では同じく「父」を意味するギリシャ語と対にして用いられ、翻訳聖書では「アバ、父よ」と訳出される。聖霊に導かれるクリスチャンは「神の子」であるため、神への祈りの際その聖霊の導くところにしたがってこのように神に呼びかける。(マルコ 14:36, ローマ 8:15, ガラテア 4:6)
[神学] クリスチャンの信仰を持つすべての者がこの信仰の厳密な表明を行うわけではないとエホバの証人は考える。千年王国においてキリストと共に天から支配するのが「神の子」であるのに対し、その支配を受ける「全創造物」がいるためである。「神の子」の称号はイエスの養子縁組の立場を得る者の称号であり彼らは復活して天の使い(天使)となる。他の者たちは天に召されず人としての救いにあずかる。しかし神はすべての者の父であるから「神の子」であろうとなかろうと人が神を「父」と呼ぶのは正しいことである。(ローマ 8:14-23)


アバドン [ヘブライ語 聖書 キリスト教]

「滅び」を意味するヘブライ語を名に持つ神の使い。(黙示録(啓示) 9:11)
[神学] エホバの証人はアバドンは悪魔ではなくイエス・キリストであるとする立場に立つ。(黙示録 20:1-3)


油そそがれた者 [聖書 キリスト教 エホバの証人]

聖書において油のそそぎにはさまざまな意義があるが、特に注目されるのは王や祭司や預言者などが神から選ばれた者であることの証としての油そそぎである。その主たる者はイエス・キリストであり、適切にもメシアもしくはキリスト(油そそがれた者)と呼ばれる。クリスチャンは天に召されてイエス・キリストと共に千年王国の統治にあずかる者となるゆえにやはり油そそがれた者である。イエス・キリストの油そそぎは実際の油によらず聖霊によるものであった。クリスチャンの油そそぎも同様である。油そそがれた者のうち「終わりの日」まで生きている者は「彼女の胤のうちの残りの者」つまり「油注がれた残りの者」と呼ばれる。終わりの日に悪魔サタンは天から投げ落とされ、まだ残っているこれらの者たちとの闘いに身を投じ始める。(ルカ 4:18-19, 使徒 10:38, コリント第二 1:21, 黙示録(啓示) 20:4-6, ペテロ第一 2:9, 黙示録(啓示) 12:7-12,17)
[神学] エホバの証人は千年王国において支配する者と支配される者とが存在することを考慮し、クリスチャンであってもすべての者が油そそがれた者として天に召されるのではなく、むしろほとんどの信者は「大群衆」の立場にあずかって千年王国の支配を受けるとする。天への復活は「終わりの日」に始まるため、油注がれた残りの者は天の復活において先んじることができない。(黙示録(啓示) 7:9-10, ヨハネ 6:39-40,44, テサロニケ第一 4:15-17)


アブラハム [聖書 人名]

その比類なき信仰のゆえに神との契約をはじめて持った人物。それゆえに「信仰の父」と呼ばれる。モーセによって神から与えられた律法もこの契約のもとに与えられた。メシアであるイエス・キリストの到来もこの契約のもとに実現している。ユダヤ人は自分たちがアブラハムの子孫でありアブラハムの契約のもとに置かれる民族であることを誇りにしていたが、アブラハムの契約の成就としてイエス・キリストが到来すると、彼はイスラエルの偽善を見抜き、「自分がアブラハムの子供であるというのならアブラハムの業を行いなさい」さらに「あなた方は(業においては)あなた方の父悪魔からの者であって悪魔の欲望を遂げようと願っている」と述べて彼らを非難した。一方、アブラハムの子孫ではない者たちについては、アブラハムの示したような信仰を示すならアブラハムの子孫とみなされ、「(アブラハムに与えられた)約束に関連した相続人」となることができる。それゆえに「信仰を堅く守る者は忠実なアブラハムと共に祝福される者」であり、「アブラハムの祝福がイエス・キリストによって諸国民(イスラエル国民ではない人たち)に及び、約束された霊を自分の信仰によって受け」、ついに彼らは神に対して「アバ、父よ!」と叫ぶ者となる。こうして肉によらず霊によって誕生したのが「神のイスラエル」である。この国民の誕生により、肉のイスラエルであるイスラエル国民の優位性は神の前に消失することとなった。(ローマ 4:11-12, ガラテア 3:16-18, ヨハネ 8:39,44, ガラテア 3:29, ローマ 4:16, ガラテア 3:7-9,14, 4:6, 6:16)
[神学]アブラハムは信仰義認の神学の根拠となる人物である。エホバの証人は信仰義認を支持し、パリサイ派のごとき律法主義を排する。また「人の救いは業によらず(信仰ゆえに)過分のご親切による」と説く。しかし、イエスの語った「アブラハムの業」を否定するまでには至らず、「クリスチャンは業によらず過分のご親切によって神から義と認められるが、信仰は業によって実証されなければならない」とする。アブラハムの業を行う点で過去の義人たちとクリスチャンとの決定的な違いは、求められる業の性質にある。過去の義人たちは完成された聖書を持っておらず神のご意志を十分に理解していなかったがゆえに、彼らが神により義の証印を得たのはしばしば信仰を実証するひとつの大きな業によった。一方、神のご意志とご要求を知りそれに従うクリスチャンには「主の業においてなすべきこと」である神の要求を「常にいっぱいに」つまりあらゆる面においてかつ継続的に行うことが求められている。それは聖書の誉め称える義人たちの信仰に比べて地味でありながらもむしろより貴重なものである。(ローマ 4:1-5, 11:6, ヤコブ 2:14,17, コリント第一 15:58)
[宗教学]エホバの証人は信仰義認についてキリスト教世界から激しく非難されてきたが、それはエホバの証人の信仰をパリサイ的戒律主義と見るほどの偏見に基づいており、妥当なものではない。


アベル [聖書 人名]

最初の義人またエホバによる最初の証人となった人物。彼は信仰のうちに「価値ある犠牲」を神に捧げ、こうして神からの好意を受けた。しかしそれゆえに彼は自分の兄弟カインから憎まれ殺されることとなった。この死が義人の死でありまた迫害による殉教の死であったゆえに、神は「アベルの血がわたしに向かって地面から叫んでいる」と言う。(ヘブライ 11:4, 創世記 4:3-10)


アメリカ標準訳聖書 [聖書翻訳]

アメリカを代表する聖書翻訳の一つ。エホバの証人の法人団体であるものみの塔聖書冊子協会からも発行されている。


アモス [聖書 人名 書名]

聖書に出てくる預言者の一人。聖書のアモス書の筆者。


アラム語 [一般 聖書]

旧約聖書の言語であるヘブライ語と同じセム語族に属する言語であり、旧約聖書中にもしばしば見られる。


憐れみ [一般 聖書 キリスト教]

人の罪を快く許し、欠点を思いやり、弱者に施しをすること。これは善良な動機に裏打ちされたものであり、処罰を差し控える消極的行為ではなく、形式的な施しでもない。聖書は憐れみに黄金律を適用し、「憐れみを示す者は憐れみを受ける」また「憐れみを示さない者は憐れみを示されることなく裁きを受ける」と言う。聖書は「人が人を裁かない」ことを説くが、その根拠は憐れみによる許しと神の裁きの期待とに大別され、ゆえに憐れみは神の裁きの基準を超えないものであるべきである。その限りにおいて裁きは憐れみと等価となり、憐れみの黄金律が適用される。ゆえに聖書は「憐れみは裁きに打ち勝って歓喜する」と言う。(マタイ 5:7, 6:2-4,15, 18:33, ルカ 6:36, マタイ 7:1,2, ルカ 6:37, ローマ 2:1-11, ローマ 14:10, ヤコブ 2:13, 5:9)


哀れみ [一般 聖書 キリスト教]

聖書原語のギリシャ語において他者を思う感情の苦しみを腸のうめきになぞらえた表現。日本における「断腸の思い」の表現を思わせ、実際にしばしばその意味で用いられる。(マタイ 9:36, 14:14, 15:32, 18:27, 20:34, マルコ 1:41, 6:34, 8:2, 9:22, ルカ 7:13, 10:33, 15:20)


安息日 [聖書 ユダヤ教 キリスト教]

神は地における創造の業を6日間に渡って行われ7日目を神聖にして休まれた。このことにちなんでユダヤ人は7日ごとの「安息日」を守らなければならなかった。クリスチャンにとって重要なのはこの安息日の取り決めの持つ霊的な側面である。「安息日の主」であるイエス・キリストは「安息日にりっぱなことをするのは許されている」と述べられ、安息日に教えと癒しの務めにいそしまれた。キリスト教の成立は律法の効力を無効にし、安息日についても同様にした。一方、安息日の由来となった「神の休み」は現在も続いており、ある者たちはそれに入ることができるという。(創世記 2:2-3, 出エジプト 31:13-17, マタイ 12:12,8, コロサイ 2:16-3:4, ヘブライ 3:7-4:11)
[神学]エホバの証人は「神の休み」を信仰義認とほぼ同等とする。


イエス [聖書 キリスト教]

神の独り子。そしてメシア(キリスト)。イエスは創造の初子としてエホバの手によって生み出された。その後エホバは天地の創造を行われたが、実際にはエホバに代わってイエスがそれを行ったという。それゆえにイエスは「神の独り子」と呼ばれる。イエスは「神の栄光の反映またその存在そのものの厳密な描出」であり「その力の言葉によってすべてのものを支えておられる」神の代理者である。イエスは神に次いで高い地位にあったが、「神は世を深く愛してご自分の独り子を与え、だれでも彼に信仰を働かせる者が滅ぼされないで永遠の命を持てるようにされた」。この時イエスは「自分を無にして奴隷となり」、メシアまたキリストとして地上に降りられた。人の姿をしていても実際には神の子であるイエスの死は神にとって貴重な贖いの死であり、人の罪を無効にしてその者を救う効力が伴った。こうして、アダムによってすべての者は罪のもとに置かれていたが、イエスによって解放された。イエスは贖いとなられただけでなく「新しい契約」の仲介者ともなられ、こうしてキリスト教を成立された。やがてハルマゲドンの時にイエスは神の右に座する者として示され、千年王国の王として地のすべてのものを支配する。イエスは死後三日目に復活し、死人の中からの「初穂」となられたが、それだけでなく、人類からも死を根絶されるという。(黙示録(啓示) 3:14, 箴言 8:22-31, コロサイ 1:15-17, ヨハネ 3:18, ヘブライ 1:2-3, ヨハネ 3:16-17, フィリピ 2:6-8, マタイ 20:28, ローマ 5:15-19, 使徒 10:40, 2:32-35, 5:31, マルコ 16:62, ヘブライ 10:12-13, 黙示録(啓示) 20:4-6, コリント第一 15:20,26)
[神学]エホバの証人は合理的神学の立場からエホバに対するイエスの従属を認め、キリストの神性を認めつつも決して三位一体論を支持しない。また、人間であった時のイエスの神性については、人間としての心身能力の限界にキリストの人格と聖霊の力が加味された状態に限定されるものと考え、キリスト神人論を支持せず、どちらかというとキリストの人性を強調する。
[宗教学]伝統的キリスト教会は長きにわたり、「エホバの証人はイエス・キリストが救い主であることを否定する異端教派である」と主張してきた。その背景にはイエスの神性を巡る神学の隔たりが際限なく拡大解釈されてきたという事情があり、最近は改善されつつある。


怒り [一般 キリスト教]

怒りには正当なものも不当なものもある。また、正当なものであっても制御されないなら危険である。聖書は正当な理由もなく怒ることや怒りによって暴力等を正当化することを禁じる。クリスチャンは不当な怒りを精神の根底から除き去り、それを慈しみの心に置き換えなければならない。また、正当な怒りについてはそれを神に委ねなければならない。(エフェソス 4:26, ガラテア 5:19-21, エフェソス 4:31-32, ローマ 12:17-21)


異言 [聖書 キリスト教]

神の聖霊の強力な支配により、自らの意志によらずして神の言葉を語るようになること。聖霊がさまざまな言語で話すため、話し手は自分が何を話しているか分からず、聞き手に翻訳してもらう必要があった。聖書時代にはこの賜物が広く見られ、乱用されることもあったようである。聖書は聖霊による異言の賜物が廃れることを述べており、現在は見られなくなっている。異言の賜物は聖霊によるものであっても当人の益には全くならないため、クリスチャンは聖霊をもって一万の言葉を話すよりも、自分の理解によって五つの言葉を話すよう願わなければならない。(使徒 2:1-11, コリント第一 13:8, 14:23,27-28,13-19)
[神学]異言は神聖なものであり、また聖書に基づいて厳密に定義可能なものだが、多くの教会がこれをもてあそび、その意味も神聖さも損なってきた。正しい異言とは、(1)オカルト現象でも精神の錯乱でもなく聖霊による奇跡であり、(2)神の言葉をふれ告げるものであって、(3)翻訳可能なものである。
[宗教学]現代キリスト教教会の幾つかにおいて異言とされているものは実際には異言ではなく、しかも医学的に評価すれば精神錯乱であることも多い。


イザヤ [聖書 人名 書名]

聖書に出てくる預言者の一人。聖書のイザヤ書の筆者。


イスラエル [聖書 人名 国名]

アブラハムの孫ヤコブの別名。ヤコブの子孫はこの名前で呼ばれた。イスラエルはエホバがアブラハムに誓った契約を正当に相続する民族であり、メシアの系譜である。それゆえに神自らイスラエルを「神の民」とされた。やがて神はモーセを通して十戒と律法をイスラエルに公布され、アブラハムに対する契約を更新された。こうして結ばれた新たな契約は双務契約であって「祝福とのろい」のいずれをももたらすものであった。残念なことにイスラエルの歴史は神への反抗の歴史であった。そのようなイスラエルをエホバは祭司や預言者や裁き人(士師)を用いて辛抱強く導かれたが、あまり効果は上がらなかった。そこでエホバは、イスラエルはバビロンに征服されエルサレムも廃墟となるであろう、しかし70年の後にメシアの到来によって救出を見るであろうと予告された。その予告はすべて事実となったが、それでもイスラエルはその教訓をないがしろにして契約を履行しなかった。後にイスラエルがギリシャついでローマに支配されるようになると、バビロン捕囚にちなんで新たなメシアを待ち望む機運が高まった。そこに現れたのがイエス・キリストであるがユダヤ人(イスラエル)は彼を処刑してしまった。しかしイエスはモーセの時代から続いた契約を更新し、その契約にイスラエル以外の民族も加わることができるようにした。これがキリスト教の成立である。それゆえにキリスト教は霊によって新しく創造された「神のイスラエル」と呼ばれる。契約の更新を受け入れなかった生来のイスラエルは神の恵みを失い、神の保護を得ないまま歴史の流れに翻弄されて現在に至っている。(創世記 32:28, 35:10, 申命記 27:9, 11:26-28, ネヘミヤ 9:9-30, 列王第二 36:15-21, 使徒 3:13-15, ルカ 22:20, ガラテア 6:16, エフェソス 2:12-13, ヘブライ 8:9)
[信仰論]聖書に記されているイスラエルの歴史はクリスチャンにとって警告である。イスラエルは神を信じなくなったわけではないし、歴史を通してイスラエルの神はエホバであったが、それでもエホバはイスラエルを見捨ててしまわれた。それは彼らの信じ方に問題があるからである。神を信じるというのなら神の教えと命令をよく守るべきではないだろうか。イスラエルの歴史は、神を信じると言いつつも好き勝手なやり方で神を信奉する者たちを神が放置されることを明らかにしている。よりによってキリスト教はイスラエルの反抗を手本とし、神の愛を説きながら奴隷貿易を推進し、平和を説きながら戦争に従事してきた。救いを説きながら民衆を弾圧し、人々を殺していたのである。またキリスト教はあまりにも多くの宗派に分かれ、信徒の大半はただ自分の好みに合わせて教会を選んでいる。立派な教会建築に感激し、美しい賛美歌を喜んで歌い、それだけで救われた気分になっているという信徒も多い。聖書伝道への従事といった信仰者らしき行為はほとんど見られない。近年では聖書が禁じている行為の幾つかを教会が“解禁”する動きもある。それらはみなご都合主義である。いつからキリスト教は信仰を忘れ、自らを単なる“文化”へと格下げしてしまったのだろうか。こういったキリスト教信仰の退嬰に我慢できず、真に神のイスラエルであろうと決意した人々によって設立された教会が幾つか見られているが、エホバの証人はその中でも最大教派となっている。(マタイ 7:21, エレミヤ 23:39, マタイ 23:38, ローマ 2:3-11,21-24)
[宗教学]エホバの証人は他の教派には見られないほど厳密にイスラエルの信仰を分析する。そのような場合、まず前半においてイスラエルを評価し、後半においてキリスト教のあり方を論じるのが普通である。この考え方がエホバの証人を他のキリスト教派と大きく違わせるものとなっている。


イゼベル [聖書 人名]

イスラエルの王アハブの妻であったが、よこしまなバアル崇拝者であったため神の裁きを受けた。聖書はキリスト教の偽預言者のあるものを彼女になぞらえている。(黙示録(啓示) 2:20-23)


異端 [キリスト教]

聖書が「分派」と呼ぶもの。キリスト教の教えをゆがめてクリスチャンの一致を汚す者。(ペテロ第二 2:2)
[神学]エホバの証人はキリスト教諸教会において一般的な三位一体論を基準とした異端の定義に同意しない。
[宗教学]エホバの証人は「異端」という言葉を好まず「背教」もしくは「背教的」という表現を用いる。そのような表現を用いる場合でもどちらかというと立場ではなく思想を問題にする。


 [一般]

命は神からの賜物であり人にではなく神に属する。そのことは最初に神がエデンの園を備えた時にその中央に「命の木」が配されたことに示されている。最初の人間アダムは神に逆らって命の木への道筋を閉ざされ、こうして死に直面した。それに対して救い主となったのはイエス・キリストである。死んだ者に意識はなく眠っている状態にあるが、イエスはこれを終わりの日に復活させる。イエスが人類の罪を贖い、また死に打ち勝ったため、人類には永遠の命が与えられるという。聖書は神から見た命の状態を重視する。よって今生きている者でも神に信仰を働かせ心と生き方を変革するなら神から復活を遂げて新しい命に移ったとみなされる。(詩編 36:9, 創世記 2:9, 3:22-24, 伝道(コヘレト) 9:5-6, コリント第一 11:30, テサロニケ第一 4:14, ヨハネ 6:39-40, ローマ 3:23-24, エフェソス 1:7, ローマ 5:17, コリント第一 15:56, ヨハネ 3:16,36, ローマ 5:21, ヨハネ 3:3,5, コリント第二 5:17)


異邦人の時 [聖書 キリスト教 エホバの証人]

もしくは「諸国民の定められた時」。イエス・キリストはこの定められた期間が満了する時にエルサレムの回復があると予言した。ここでの「エルサレム」は天の王国のことを指している。(ルカ 21:24)
[神学]エホバの証人は、この預言がダニエルの「七つの時」の預言と密接に連携していると考える。その計算によって、諸国民の定められた時は西暦前607年に始まり、1914年に満了したとエホバの証人は信じる。(ダニエル 4章)


淫行 [聖書 キリスト教 エホバの証人]

結婚関係外の性行為のこと。類似の表現「姦淫」は既婚者が行う淫行を指す。聖書によると淫行の者は救われることがない。聖書の淫行には肉の淫行以外にもいくつかの意味がある。イエスは淫行を論じるにあたってその動機を問題にし「心の中での姦淫」を非難した。「大いなるバビロン」と「地の王たち」のサタン的な関係も淫行と呼ばれる。神やキリストに対する不忠節も淫行に例えられる。(コリント第一 6:9-10, マタイ 5:28, 黙示録(啓示) 17:1-2, エゼキエル 16:25-29, ヤコブ 4:4, コリント第二 11:2-3)
[神学]淫行には同性愛行為やペッティング行為が含まれるとエホバの証人は考える。一方マスターベーションはこれに含まれない。
[宗教学]エホバの証人の「油そそがれた者」には霊の淫行について徹底した見方をする傾向が見られ、肉の淫行に関する記述が霊的なものと解されることさえある。これが一般のエホバの証人の考え方や振る舞い方に大きな影響を与えている。
[聖書翻訳]日本の代表的な聖書翻訳は聖書の「淫行」を「不品行」もしくは「みだらな行い」と訳出してその意味をぼかしているが新世界訳聖書にその問題はない。


インマヌエル [聖書 キリスト教]

イエス・キリストの別名もしくは称号。(イザヤ 7:14, マタイ 1:23)


うそ [一般 聖書 キリスト教]

うそは偽りの一形態であり神によって憎まれる行為である。神の使いの一人は嘘を用いて人間を唆し、原罪をもたらしたため「偽りの父」と呼ばれるようになった。一方の神は真理の源であり偽ることができない。神は嘘を憎んでおり、嘘をつく者に対抗されるという。(ヨハネ 8:45, 民数記 23:19)
[宗教学]エホバの証人は嘘をつかないことをポリシーにしており、誇りにしている。


 [一般 聖書 キリスト教]

歌は聖書全体の10分の1ほどを占めており、神への賛美、信仰の表明、喜びや悲しみの表明、恋愛などに用いられている。また「地から買い取られた十四万四千人の者でなければだれもその歌を学び取ることができない新しい歌」など、特別な意味合いを持つものもある。(黙示録(啓示) 14:3)


 [一般 聖書 キリスト教]

聖書における海はもともと川や湖や海など水の集まるところすべてを指す。聖書預言において海はしばしば人間社会を指して用いられている。(創世記 1:20-22, 黙示録 17:1,15)


占い [宗教 聖書 キリスト教]

聖書はすべての占いを憎むべきものとして禁じている。(申命記 18:9-12)
[宗教学]エホバの証人は星占いなどの占いを一切行わず姓名判断など類似のものにも手を染めない。


うわさ [一般 聖書 キリスト教]

うわさは中傷に至ることがあるため聖書はうわさを中傷と同じように扱っていさめる。(テモテ第一 3:11, 5:13)
[宗教学]エホバの証人はうわさをむやみに広める者を背教者のように扱う。この世の中には様々な形態のうわさがあふれているがエホバの証人はいつもそられに警戒しなければならず、うわさをむやみに信じたり広めたりしてはならない。


運命 [宗教 キリスト教]

世の中の出来事はあらかじめ何かによって定められているという考えであり様々な形態のものがあるが、聖書は幾らかの言及はするもののその意味を定義しない。
[神学]エホバの証人はいかなる運命論をもはっきりと退ける態度を表明しているが、実際には選択的運命予定説/選択的運命予知論を支持しているので注意が必要である。つまり、聖書を調べるなら神はある時に予定を定められある時に定められなかったことが分かる。またある時に予知を行われある時に予知を行われなかったことも分かる。聖書の記述は予知と予定に関する厳密な法則など存在しないことを示しており、よって法則化された予知論/予定論はエホバの証人にとって無意味である。また、人間の持つ自由意志と判断力のゆえにもエホバの証人は予知論/予定論を退ける。確かに神の救いは予定されたことであるが、それは人類全般に及ぶ救いのことであって個人の救いのことではないので人は必ず自分の選択と行動によってその救いをとらえると考える。


戻る