情報部
情報部へのメール
Johnさん(1)
2000年8月14日更新

十字架が印刷されたシャツについて
Subject: 偶像崇拝の定義について
Date: Tue, 30 May 2000 00:46:02 +0900
From: < **** >
To: < **** >

こんにちは。
 はじめまして!
 John(仮名)といいます。
 最初に、このMailは全く同じ内容のものを、他のHomePageの掲示板へ掲載、及び、 他の方へ直接Mailを送らせてもらっています。
 それは、多くの方から情報を得たいと思ったからですので、ご了承ください。

私は現在18歳ですが、小学生のころ母親に連れられて、ものみの塔の集会や大会に幾度か参加させて頂きました。
 私は父親の反対もあって中学の頃からは、ものみの塔からは離れています。
 時々書籍を頂いて読むことはあるのですが、最近では集会および大会に参加することはほとんどなくなってしまいました。
 将来的に自分の意志をしっかりと持ってから、自分の意志でものみの塔の真理につくかどうかを決めたいと思っています。

題名にもある通り、偶像崇拝についてのものみの塔の定義をお聴きしたくて、Mailを書かせていただきましたが、御回答をいただければ光栄です。

<以下質問内容>

先日、母と二人で洋服を買いに行きました。
 そのとき私が欲したTシャツは、絞り染めのきれいな模様のものでした。
 その模様自体何の問題も無かったのですが、よく見るとその模様の上に十字架がプリントされていました。
 それに気づいた時点で、母はそのTシャツを買うことを嫌がり、私はそのTシャツをあきらめざるを得ませんでした。
 母の嫌がる理由としては、やはり十字架が印刷されているのが、偶像崇拝に当たるということでした。
 母の言いたいことはよく分かりますが、どうも納得がいきません。

(ここで、母が信者でないぼくに信仰を強制させたという問題は置いといて偶像について考えたいのですが)

今の世の中では、十字架というものは、過去の定義とは変わってきているのではないでしょうか?
 確かに、昔は十字架は崇拝の対象でしかなかったものですが、現在では、ファッションの一つとなっています。
 街では、十字架を身に付けた人を大勢見かけますが、彼らすべてが、十字架を崇拝しているわけではなく、ファッションとして身に付けています。

→→崇拝の意図がない場合でも、崇拝対象となり得るものは、
→→偶像崇拝に当たるのでしょうか?

たとえば、ヒンドゥー教などの宗教では動物が神であり、動物を崇拝します。
 もし、私たちが動物園に行けば、または、ペットを飼ったり、そのぬいぐるみを持っていれば、たちまち偶像崇拝となってしまうのでしょうか?

確かに、十字架が宗教道具でしかないという定義の下では崇拝ですが、十字架がファッションでもあるという定義の下では、それを崇拝と決め付けることはできない気がします。

<以上質問内容終わり>

長文および駄文となって読み苦しいかとは思いますが、読んで御回答を頂けたら、と思っています。

よろしくお願いします。

John < **** >


Subject: エホバの証人記者クラブより
Date: Thu, 08 Jun 2000 05:01:46 +0900
From: エホバの証人記者クラブ情報部 < **** >
To: < **** >

エホバの証人個人サイト「エホバの証人記者クラブ」運営者のとんぽっぽです。

ご質問ありがとうございます。

あなたがお聞きになっている点については、「目ざめよ!」誌、2000年1月8日号の、「一般的な習慣に対する平衡の取れた見方」の記事が参考になると思いました。

以下に内容を引用したいと思います。

(引用)

「行動様式なるものは、ある時代や場所では非とされ、別の時代や場所では人の務めとされるものである」。
 アイルランドの歴史家ウィリアム・レッキーはこのように述べて、人の変わりやすい性質を要約しています。このことは、幾世代も受け継がれてきた習慣や伝統についても言えるでしょう。実際、かつては毎日の生活で欠くことのできない部分とみなされていたものの、後に全く非とされるようになった慣行はいくつもあります。それは、殊さら意外なことではありません。クリスチャンの使徒パウロも述べたとおり、「この世のありさまは変わりつつある」からです。―コリント第一 7:31。
 そうです、人間社会は絶えず移り変わっています。それはしばしば、人の態度や社会的な習慣の大きな変化となって表われます。クリスチャンは「世のものではない」、つまり神から疎外された人間社会から離れている必要があります。とはいえ聖書は、クリスチャンを『世にいる』ものとしており、孤立主義者になるよう命じてはいません。ですから、種々の習慣について平衡の取れた見方を持つことが肝要です。―ヨハネ 17:11, 14-16。コリント第二 6:14-17。エフェソス 4:17-19。ペテロ第二 2:20。

○習慣とは何か
 習慣とは、社会生活に関連して特定の地域また階層の人々の間で一般的に行なわれる物事のことです。テーブルマナーや人と接する際のエチケットなどの習慣には、集団行動における人の振る舞いを規整する必要から生まれたものもあるでしょう。それによって、互いに礼儀正しく、敬意のこもった仕方で接することができます。そのような場合、社交場の礼儀は、人間関係の歯車を滑らかにするオイルに例えることができます。
 人々の習慣は、宗教の影響を色濃く受けてもきました。実際、古い迷信や聖書に基づかない宗教思想から生まれた習慣は少なくありません。たとえば、遺族に花を贈ることは、宗教上の迷信に由来している場合もあります。さらに、青い色はしばしば男の赤ちゃんと結び付けられることがあり、悪霊たちを追い払う色と考えられていました。マスカラはよこしまな目からの保護となり、口紅は悪霊が女性の口から入って取りつくのを防ぐために用いられました。あくびをするときに口を覆うといった何気ない習慣でさえ、大きく開いた口から人の魂が抜け出してしまうといった考えから来ているようです。しかし、長い年月の間に、宗教的な結び付きは薄れ、今日、これらの慣行や習慣に宗教的な意味合いは何もありません。

○クリスチャンが関心を抱く事柄
 ある習慣に従うかどうかを決めなければならない場合、クリスチャンは、聖書に言い表わされている神の見方はどうかという点におもに関心を払います。過去において神は、ある地域社会では容認されていたと思われるある種の慣行を非とされたことがあります。それには、子供のいけにえ、血の誤用、種々のみだらな性行為が含まれていました。(レビ記 17:13, 14; 18:1-30。申命記 18:10, 11) 同様に、今日一般的に見られる習慣の中にも、聖書の原則と明らかに相いれないものがあります。その中には、クリスマスやイースターといった宗教的な祝祭と関係するもの、また心霊術に関係した迷信的な慣行など、非聖書的な伝統があります。
 しかし、かつては問題のある慣行と結び付いていたにしても、今日ではおもに社交場の礼儀とみなされているようなものについてはどうでしょうか。例えば、指輪の交換やケーキを食べることも含め、結婚式の一般的な習慣の中には、もともと異教に由来していると思えるものも多くあります。それは、クリスチャンがそうした習慣に従ってはならないという意味でしょうか。クリスチャンは、地域社会の習慣を一つ一つ事細かに調べて、それがある場所またある時代に否定的な意味合いを持っていたかどうかを確認するよう要求されているのでしょうか。
 パウロは、「エホバの霊のあるところには自由があります」と指摘しています。(コリント第二 3:17。ヤコブ 1:25) 神は、わたしたちがこの自由を、利己的な要求を満たす誘いとしてではなく、自分の知覚力を訓練して正しいことも悪いことも見分けられるようになるために用いることを望んでおられます。(ガラテア 5:13。ヘブライ 5:14。ペテロ第一 2:16) ですから、エホバの証人は、聖書の原則に明らかに違反していない物事について厳格な規則を作ることはしません。むしろクリスチャンは、直面している状況を各自がよく考慮して、個人的に決定すべきです。

○他の人の益を求める
 これは、ある種の習慣が聖書の教えに直接反していないかぎり、それを行なうのはどんな場合にも差し支えないという意味でしょうか。いいえ、そうではありません。(ガラテア 5:13) パウロは、クリスチャンが、自分の益だけでなく、「多くの人の」益も求めるべきことを示しました。「すべての事を神の栄光のために(する)」べきであり、つまずきのもととなってはならないのです。(コリント第一 10:31-33) ですから、神の是認を得ようとする人は、次のように自問したいと思うでしょう。『他の人はこの習慣をどう見ているだろうか。地域の人々はそれに何か好ましくない意味を付しているだろうか。それに参加すれば、神の不興を受ける慣行や考えに同調していることを示すことになるだろうか』。―コリント第一 9:19, 23; 10:23, 24。
 一般的には当たり障りのないものでも、土地によっては聖書の原則に反する形で行なわれている場合もあります。例えば、ある特定の状況のもとで花を贈ることは、聖書の教えと相いれない特別の意味を帯びている場合があります。では、クリスチャンはおもにどんな点に関心を持つべきでしょうか。特定の習慣の由来について調べるべき理由もあるかもしれませんが、ある場合にさらに大切なのは、その習慣が今の時点において、またその人の生活している地域の人々にとってどんな意味があるかを考慮することです。もしある習慣が、一年の特定の時期や特定の状況のもとでは非聖書的であるとか、好ましくない意味合いがあるという場合は、クリスチャンは分別を働かせて、その時には行なわないようにするでしょう。
 パウロは、クリスチャンが正確な知識と十分な識別力に伴って愛を満ちあふれさせてゆくようにと祈りました。クリスチャンは、一般的な習慣に対する平衡の取れた見方を保つことによって、「より重要な事柄を見きわめるようになり、こうして……きずなく、他の人をつまずかせることなく」生活することができます。(フィリピ 1:9-10) そして同時に、「道理をわきまえていることがすべての人に知られるように」します。―フィリピ 4:5。

(以上)

この記事の内容は、もっぱら習慣について述べているとはいえ、あなたが質問している、Tシャツに関する事柄にもよく当てはまります。
このような場合、問うべきなのは、Tシャツに記された十字架の模様が、人々に何を連想させる可能性があるか、ということでしょう。

たしかに、あなたにとっては、十字架はデザインの一つであるかもしれません。
しかし、あなたがそのTシャツを着ているのを見て、すべての人がそう思うという状況が見られているでしょうか?
つまり、十字架というものが宗教的に見てどのようなものであるかは、この日本においてはすっかり忘れられ、それはただのデザインに過ぎなくなっているでしょうか?

そういうことはないでしょう。
今のところ、Tシャツに印刷された十字架は、ただのデザインではなく、宗教的なデザイン、キリスト教的なデザインとみなされます。
これは今後も変わらないことでしょう。

ですから、聖書の教えに照らした道理的な結論は、「それは着るべきではない」となります。

こういった考え方を理解する上で、聖書のコリント第一に記されている、偶像に捧げられた肉を食べることに関する記述は助けになります。

この点につきましては、「エホバの証人記者クラブ」情報部の非会員ページ内にある、「投票は解禁されたのか」の記事の中に解説が含まれていますので、ご参考にしてください。

http://jwpc.milkcafe.to/info/report01.html

先のメールにおいてあなたの示された考えは、必ずしも間違っているということはありません。
たしかに、わたしたちの営む慣行の中には、ある人々にとっては宗教的な意味合いがあるとしても、わたしたちにとっては無意味であるものがあります。
しかし、あなたが指摘されたような、ある地域に普及している宗教のために、たとえば動物を飼育するなどといったことが偶像礼拝とみなされる場合があるとすれば、すくなくともそのような見方をする人々のいるようなところでは、クリスチャンはそれらの人たちに対する愛に基づく判断をすべきです。

これは、クリスチャンだけに有用な指針というわけではありません。
わたしたちは皆、クリスチャンであるとか、ないとかに関わらず、自分の周囲にいる様々な人々のことを考えながら行動するものです。
ある人が気分を害すると分かっている事柄を、人は、その人の見ているところでは行わないものです。
ある人に対してよくない影響を与える行為についても同様です。

こういったことはごくごく一般的に行われていることではないでしょうか。
このことを考えるとき、わたしたちは、愛というものが、キリスト教の枠を越えて、普遍的なものであることを理解できます。

では、あなたにとって愛とはどのようなものでしょうか?

あなたにとって愛とは、あなたにとって身近な人たち、特に家族の良心を考慮することではないでしょうか。

あなたは必ずしもエホバの証人の教えに賛同しているわけではないかもしれませんが、愛に基づいて、エホバの証人である母親の良心を考慮に入れることには益があります。

そうすることは、あなたが自分の特定の趣味を我慢しなければならないということを意味することもあるでしょう。
しかし、あなたが実際にそのようにし、愛を実践していくなら、きっとあなたは人格的に成長して、だれからも慕われ、信頼される、安心の源となる人になることができるでしょう。

そして、そのようにして培った特質は、将来、あなたが大人になって、会社に就職したり、結婚して配偶者を持ったり、子供を持つようになったときに、必ず益になるでしょう。

ですから、Tシャツの件についても、世において広く提唱されているようなやり方で“自分の権利”を主張するよりも、より勝った愛の道を選ぶようにしてください。

そうするなら、この点について相談を受けたわたしとしてもうれしく思います。

ありがとうございました。

★エホバの証人記者クラブ★
★情報部★


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